Writer:Oumi

過去録

連続更新記録更新中

さすがに十数年暖めていたうえに、ほぼ制約を考えないで書いてるだけあって早い。一ヶ月毎日更新は図らずも達成か。
手元では現在四話が終わって、五話の構成上の飛び石(物語上の重要な点だけ先に配置した)を終えたところ。
五話で全員の背景説明はほぼ終了して、導入部終了ですな。こんな感じか。
一話→集合
二話→目的説明
三話→シード(アピア・セピア)
四話→ミュア(シード)
五話→ニッカ(アピア・セピア)

しかし楽しいがこればっかりやってる訳にもいかんのです。
ゲーム途中作りだし。
それにしても、一年以上前の作品なのに、いまだマヨヒガのためにサイトのアクセス数が偏っているのが妙におかしい。分かるけど。そしてプレイしてくれている皆さん・紹介してくれている皆さんに感謝。

2005年10月7日(金)

世界と断片と物語

そういや昔書きかけた宗教についての雑感とか途中だよ。
「宗教は感情に起因する」との話に深く納得した身としては、理性で宗教の無知蒙昧さを撃退すべきだ、との言説はもう見当はずれに聞こえるよなー、とかは書いたか。
んでもって、やっぱり宗教って世界を物語る機構なんだよなあ、と自明のことを再び考えてみたり。
岩波講座「宗教と科学」の中で「ビッグバンの発見により、神が世界を作った可能性が再び見出された」というようなことが書いてあり、ちょっと感動した。確かに一つところから世界が発生したという考え方で、一つところが神であったと解釈しても問題はありますまい。これは非常に一神教的な発想だ。で、ちょっと調べてみたら、ビックバン否定論はやはりその辺りをまず突くのだった。面白い。
世界は物語の断片で出来ている。

以前書いた五十嵐大介「はなしっぱなし」のずるさ、というのもそこで、有体に言ってしまえば「物語の断片が面白いのは当然だよ」という。もちろん、幻視の一片を視覚化できる技量は賞賛した上で。
断片に触れた者はその者がもっとも心地良い「その先」を夢想できる。予告やあらすじが一番面白いって奴。
しかし世界の1/3ぐらいの人間が「ありえないもの」を見ながら生きているって、どこで読んだんだろうか。その割合はうさんくさいが、そういう人がいることは確かで、自分はそんな人たちの世界を指をくわえて見ているしかないのだけど、そういった「キラキラした世界」を見て、そして他人にも見せてくれる人が、現実にはどうも生きにくそうな雰囲気なのは何故だろう。
あれ? 世界キラキラしてないの? そう見えてるんじゃないの? それはあくまで理想の世界なの?
とかそういう戸惑いを抱く。
色々機能不全の部分が多いためか、世界がそんなに生き難いとは感じない自分はひたすら鈍感なんだろう。適当に生きている。

基本的に自分の書いたものにあれこれ触るのは野暮かな、と一応思っているが、Southwardだけはちょっと別でここでよく触れているのは、人に読ませるというより自分の中の整理だからだろうな。自分というか、中学生の頃の自分というか。書きやすいのも「断片的でいいや」と開き直ってるからだろう。つまりこれについて書いていることは基本的には独り言なのか。
この頃の自分に何が必要だったのか、同時期に実際に書いていたソード・ワールドの小説シリーズと付け合せると、要素が重複しているのでよく分かって笑える。
どういう必要だったのかはとんと分からないが、死を受け入れようとあがく少年/死の遠さに漠然とした恐怖を抱く少年の対比がどうも入用だったらしい。その要素の中に自殺という手段がすっぽり抜けているのが、今も昔も世間からのギャップを感じる。死は内から来るものではなく、外から容赦なく与えられるものでしかないのだろう。後者が母を喪失しているのも象徴的か。母は生であり死であるんだな。月並み。
とか考えていくと、ミュアがフィスーゼになれるかどうかが今後の問題なのか?とかに行き当たってまた笑った。

よし、独り言一旦終了。
でもまだアンディー・メンテについてとか書きたいのでまた後日。

2005年10月14日(金)

独り言或いは宗教のお話完結編

結局前の更新でも結論というか、書きたかったことに到達してないので、過程を書くのを止めてさっさと書いてしまおう。

私たちを取り巻く環境はぎりぎりのところでバランスをとって私たちを生かしている訳で、そこに何らかの意志を読み取ろうとするとそれが神になる。それ以前に、「バランスをとって生かす」と言ってる時点で、環境を擬人化して語っているんだけど。実際は私たちがそのような環境に適応しているだけか? いやいや。
ともかくも、世界を擬人化すると神になる。
じゃあどうして擬人化する必要があるのか。やっぱり愛するためなんじゃないだろうか。

愛する、といえば、諸々の創作物の中でひどい目にあった人物が「こんなひどいことをした神など許せない、もう信じない」とよく叫んだりするが、どうして神がひどいことをしないという前提で話をしてるんだろうか、とたまに思う。しかしまあ、つまりは「信じる」は「愛する」にほど近いことなんだろう。「自分は愛したのに愛し返してくれないからひどい」と。
それにしてもキリスト教はすごいとも思う。何しろ神とは愛である、というのはやっぱりとても魅力的なのだ。これだけ信者が少ない日本においても、神様は人間を無条件に愛してくれるもの、との一般通念が拡がっている。
愛という概念の発明。

人は大抵人を愛する。
世界を愛しようという試み。
もしくは世界に愛されていたいという望み。
戒律とかモラルとか、そっちの方に流されがちだけど、根本はそこだと思うのですよ。

(そして厄介なことに、愛と憎しみは紙一重)

そんな感じで。

2005年10月16日(日)

来週辺りには追いつくか

ちょっとさぼってたら間が詰められた。明日で五話終了。
追いついたら宣言通り一週間に一回二回の更新になるか、十枚とか二十枚程度の短編の手持ちがあったりするのでそちらを更新してみるか。
そんな感じです。

前にも書いた通り、断片でもいいからとにかく物語を進めるのを優先しようとしてみている。もっと断片にしたい気もする。どんどん装飾部分が削げ落ちる。
元々濃厚な描写が書けない。登場人物の容姿とかもうちょっと描いた方がいいかな、と思ってみたりもするが、なんといいますか、若き日の至りで奴らの髪の毛の設定とかアニメ色。緑とか水色。それはそれで一応理屈つけてるけど、文章で描写するって少し恥ずかしい。かといって全員黒とか茶とか金にはできない。困った困った。

架空の世界の物語には地図が絶対に必要だ、という主張には首肯するし、小説の横についているように用意してあるが、改めてこの世界に向き合ってみると、すごい閉塞感のある場所だということに気づいてトホホな気分になる昨今だったりした。事典の項目つけてて、「周り全部魔物って何だ」と自分に突っ込む。

断片の話を書き散らしたいので、次の更新はビックリマンとか蓬莱とかGPMとかアンディー・メンテとかその辺の話。

2005年10月19日(水)

ワンダと巨像中

昨日届いてワンダ中。五体目まで達成。
しかし3Dアクションは視点レバーに全然慣れてなくて、辛いです。見たい方向にさっと向けられない悲しさよ。
最初の巨像で何度死んだことか。
二体目からはヒット&アウェイしつつ、何とか死ぬことなく倒せてますが……五体目でやられた。最初に避け損ねて。慣れれば簡単だけど。

しかし、明らかに最後に●●になるだろうという演出ですが、さてどうなるんだろう。
ハリガネムシみたいでちょっとグロい。

当然だけど、今のところICOほどドキドキはしないかな。面白いけど。でかいけど。でかいでかでかい、でかすぎるとか言いながらプレイ中。
やっぱり「手をつなぐ」ってのはすごい発想だと思う。

2005年10月29日(土)

ワンダと巨像クリア

やってたら、小説の更新忘れた。あと今週末は更新お休みします。どうせ追いつく頃ですし。
この感じだと、一章20話前後だろうか。

ワンダはアクション慣れてない身としては時折辛かった……。探索時間も含め、一体一時間くらいかかりました。
馬から飛び乗りなんてできないよ! とか。あそこで何時間かかったか。

(以下ネタバレ反転)
ラストはまあそうだろなといった展開。死者をよみがえらせるという目的自体がハッピーエンドを導くはずもなく。
予想ラストは、ワンダが巨像になってあの一行をパンチ一発蹴散らし、うわあ、こりゃだめだ、となったところで少女復活。中から綺麗なワンダを引っ張り出して、最終決戦かと。
実際の切ない感じも好きだけど。吸い込まれるところで限界までねばるのが切ない。

うーん、やっぱりICOほど心は震えないな、仕方がないけど。ICOは特典のCM映像を見ただけでいまだに笑えるほど震えてしまったり。
ワンダでも、ハリガネムシ(もしくはタタリ神)シーンは何度やっても慣れずに胸が痛む(物理的な意味で)けど。

2005年10月30日(日)

Akiary v.0.51