深窓の君

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 しわしわの肌はどす黒く濁った色をしていたし、背中に生えるコウモリの羽根はよれよれで所々破れてひきつれていたし、眼はやぶ睨みで黄色く光っていたし、猿のような体の背中は丸められてみすぼらしかった。その癖、出世欲だけは一人前で、しかしそれもひどく卑小なものに留まっていて、いつも上にどうやって取り入るかということに汲々とする日々を過ごしていた。
 魔物の世界も存外辛いものだ。彼のようにろくろく力もない者は、いかにして力ある者に保護してもらって少しでも有利な立場に自分を置くか、それだけが生き残るただ一つの道となる。そして、彼はそれすらおぼつかなかった。
 その日も命じられた食材を調達できずに叱責され、彼はとぼとぼと三日月が浮かぶ夜空を飛んでいた。何とかこの失敗を埋め合わさなければ、そのうち愛想を尽かされ追い出されてしまうだろう。そうなると、これで五度目の放逐となる。食うものも食えず、元の仲間に見つからないようにこそこそと逃げ隠れ、もし見つかったのなら腹いせに好き勝手にいびり倒される。追い出された後の惨めな生活を思い出し、彼は身震いした。もうあんな思いはこりごりだ。
 彼女と目が合ったのは、そう考えて立ち竦んだためだった。
 彼は最初は驚き逃げようとしたが、相手が人間だと知ると次には観察して関心と感心を抱いていた。
 こちらを不審げに見つめる彼女は、どうやら塔の窓から月を眺めていたところらしかった。人間の娘だ。銀糸のように細く、緩やかに巻いた肩口までの髪が白い卵型の顔を包んでいる。はしばみの目は奥の方で燃えるようにちらついた光を放っており、強い印象を受けざるをえなかった。あまり人間の美醜に敏感でない彼が見ても、その美しさは一目瞭然なのだ。
 チャンスだ。
 彼の頭は、途端に姑息な計算を始めだした。
 時刻は夜半、娘がいるところはそれなりに大きい館ではあったが、守備兵などの姿は見あたらない。ということは相手は何の力も持たない小娘一人だけだ。このままひっさらい、献上品として差し出せば、この美貌ならばそれなりの取り計らいが期待できるのではないか。
 彼は決断して動き出した。こういう場合の定番の魅了の術などは使えなかったので、単に牙と爪を剥き出して襲い、恐怖にすくませるだけの作戦だったが、それでも小娘に対しては充分すぎるはずだ。
 ……充分すぎるはずだったのだ。
 ぐんぐんと彼の視界の中で塔の窓と娘の顔が大きくなっていく。するとどんどん娘の眉根が寄り、不機嫌そうな顔になっていくのが分かる。どうして恐怖に歪まないんだろう、と彼が不思議に感じた時にはもう遅かった。
 娘に届くと思った瞬間、不意に目の前に火花が散り、視界が真っ黒になる。次いで側頭部を衝撃が襲う。痛みは少し後になって訪れた。左頬が熱く、右の頭が鈍く脈打っている。
 そして、彼が自分の身に何が起こったかを理解したのは、よろよろと顔を上げた時だった。
「無礼者!」
 怒り心頭に達したといわんばかりの娘の真っ赤な顔がそこにあり、その絹の手袋に包まれた右手は振り上げられたままの形で宙に固まっていた。
 彼は横っ面を張り飛ばされ、窓枠にしたたかに頭を打ちつけたのである。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 しかし、そんな彼にだって、少しばかりのプライドぐらいは存在する。まさか人間の小娘をさらおうとしたら返り討ちに遭って、すごすごと帰ってきたなどという話が出来るはずもない。さらに彼にはそういう話を「馬鹿だなあ」と笑い飛ばしてくれる友達もいなかった。結果、晴らされない鬱憤を抱えたために、彼は昼間どうしても眠れずに苛々と過ごす羽目になる。
 考えることは、あの女にどうやって復讐を果たしてやろうかということばかりだった。むごたらしく殺してやろうか、それとも死ぬより恥ずかしい目に遭わせてやろうか、やはりさらって残酷だという噂の魔王の幹部の一人に差し出してやろうか……。
 頭の中では滅法威勢の良い彼だったので、昨晩殴られたショックで何もせずにふらふらと逃げてきたことはすっかり忘れていた。とにかく自分に都合の良い展開だけを思い浮かべ、延々繰り返したあげくに、やはり見返してやるには初志貫徹ということで、さらってやるのが一番だと彼は結論する。
 今夜こそあの小娘は泣き叫び、自分に助けを乞うに違いないのだ。
 だが、もちろんそんなことは起こらなかった。
 窓のところまでは行ったものの、娘の鋭い視線に射抜かれ、彼はそれだけでたじたじとなってしまったのである。
 しかしいくら何でもこのまま引き下がる訳にはいかない。先ほどまでの戦意の大部分をそがれながらも、彼は娘に恐る恐る話し掛けた。
「どうも、今宵も月が綺麗なこって」
 その語調は情けないことこの上なく、娘の表情も微塵も揺るがない。二人の間に沈黙が落ちた。
 やっぱり止めときゃ良かったんだ、と半分泣きそうな気持ちに彼がなった時、ようやく娘は口を開く。
「何のご用?」
 それは一本芯が通った、凛とした声だった。そこに隠しようもなくみなぎる彼女の意思の強さに、一層彼は怯み、尻尾を巻く。何の力もない小娘なのにどうにも気圧される。
「えーと、貴女をさらいにですね……」
 すでに逃げる気まんまんだった彼だが、とりあえず言うだけ言ってみる。それに対する回答は強烈だった。娘は思い切り、馬鹿にするように息を吐き出したのである。
「は! 貴方が! そんなにびくびくおどおどしている貴方が!」
 激しい眼光が、今度は冷笑を伴ってまた彼に向けられる。
「馬鹿にしないでほしいわ」
 娘が発散する怒りの感情が、形となって見えるかのようだった。今度こそ彼はその場から慌てて退散した。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 人間の小娘にすらあなどられるどうしようもない小物である。
「よお、何かりかりしてんだよ」
 だから帰り道で後ろからこう話しかけられた時、いくら苛々していたとはいえ、うっかり怒鳴り返したのは大失敗だった。
「てめえには関係ねぇ!」
 それが誰の声だったか、思い当たった時にはもう遅かった。一度口に出した言葉は、戻ってはくれないのである。
 恐る恐る振り向くと、そこには憤りに醜く歪んだ顔があった。深紫の体躯に彼より二回りほども大きな肉体、見覚えがありすぎるその姿は、彼のいわば上司にあたる者だ。
 魔物は自分の力量が即外見に顕れる。だから他人から見てもその階級差は明かだし、はったりもほとんど通用しない。上司の前で彼は無力だった。
「ずいぶん偉そうになったなあ、おめーはよ」
「い、いえ……」
 冷や汗を大量に流しながら、彼はなんとか逃げ道を探そうとするが、それは無駄な努力にすぎない。もし背を向けて一目散に遁走しても、あっさり捕まってしまうだろうことは分かっている。今はおとなしく相手の言うなりに萎れているしかないのだ。いくら結末が分かりきっていても。
「昨日の失敗で少しは反省して謹慎でもしてると思えば、こんなところでふらふら遊び歩いてやがる。自覚ってもんが足りねーんじゃねーか?」
「はい……」
「不満そうな面してやがるな。文句があったら遠慮なく言っていいんだぞ。俺は寛大だからな」
「とんでもございません」
「……何だと? そりゃあ俺が寛大じゃないって意味か?」
「い、いえ……!」
 そう、展開は分かっていたのだ。散々罵倒され、殴り飛ばされ、ようやく解放された時にはもう夜明けが近づいていた。ぼろぼろになった彼に唾を吐きかけ、「いい加減我慢も限界だぞ」と言い捨てて、上司は去っていった。彼はどうにかこうにか自分の寝床に帰りつき、痛む体を無理矢理その中に押し込んだ。今日もまた眠れそうにない。
 このままでは遅かれ早かれ追い出されてしまうだろう。自分に残された道はやはり一つしかないのだ。彼は悶々とした悩みを抱いて暗がりに丸まっていた。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 生きるためにもなりふり構っていられないちっぽけな存在である。何とか上の方に取り入らなければ彼の生き残る道はない。だから、背水の陣で彼は三度目の挑戦を試みた。
「また貴方なの」
 じろりと険のある目つきで彼女は睨んできたが、最初のように殴られはしないので彼は少し安心した。彼が側まで近づいていっても、憂鬱そうな顔で窓枠に肘をついたまま動かない。
「今日は貴方に関わっている気分じゃないの。さっさと何処かへ行ってくださらない?」
 しかし今日だけはここで引くわけにはいかないのである。ぐっと腹に力を入れ、彼は彼女を睨みつけた。意識して声にどすを効かせる。
「一緒に来てもらおうか」
 それに返ってきたのは視線だけだったが、そこにはっきりと含まれる侮蔑で彼女の返事は充分伺いしれた。さらに一つため息をつかれ、視線すら遠くに流されてしまう。彼はまったく相手にされてなかった。
「えーと、あのですね……」
「何度も申し上げたと思いますけれど」
 しつこく話しかける彼にまた視線を戻し、彼女は強い調子で言い捨てる。
「自分の姿を鏡で見てから、ものを言ってほしいものね。さあ、そこから去ってちょうだい!」
「そう言われましても、こちらにも事情というもんが」
「知ったことじゃないわ!」
 にべもない反応に、彼はもうどうしようもない。かといってやはり諦める訳にもいかないので、窓の周りをうろうろするばかりだ。しかしそうすることが余計に彼女の神経を逆なでするのもよく分かる。悪循環だった。
「何かこう譲歩条件とか……」
「ないわよ」
「何か欲しいものとか……」
「貴方、私を馬鹿にしてるのね?」
「そういう訳では……」
 もはやどうして良いのか分からず、彼の思考は半分混乱状態だ。帰りたいという思いと、何がどうしても献上しないとという思いが混じり合ってぐるぐると回っている。
 こうなったら突撃してみようかいやしかしそれをやってしまったらおしまいだけれどこのままでは、そうやって彼が激しく悩み始めた時に転機は訪れた。
「一体さっきから何やってるんだぃ?」
 昨晩と良く似た状況で後ろからかけられた声に、今度は彼は怒鳴り返したりしなかった。ただ混乱した頭のままで振り返った。
「お前さんの様子を見張っとけって言われてねぇ」
 そこに浮かぶのは上司のお気に入りの一人で、こすっからく点数稼ぎをしている奴だった。今回も彼の監視を自分から名乗り出たに違いなく、いやらしく目を細めて彼と彼女を見比べる表情は今にも舌なめずりをしそうなものだった。
「こいつはなかなか、お前さんも手柄じゃねぇの」
 にたぁ、と笑って奴は彼をねめつけた。
「まさか独り占めしようなんて考えはぁ……」
「とんでもないです。もちろん献上するつもりですとも」
 続けてどうぞどうぞ、と言いかけて彼はその動きを止める。
 そうしてしまうと、彼女を見つけた手柄はあの上司のものにすりかえられてしまうことは明らかなのだ。それではやはり彼の立場は変わらず危ういままだ。下手をすると、手柄だけいただいて彼はこのまま放り出されてしまうかもしれない。
 彼の頭の中で、早く譲るべきだという考えと、自分が何としても献上しないといけないという考えと、やっぱり帰ってしまいたいという考えが、今度は三つ巴で争い始めた。もはや彼は完全な混乱状態に陥っていた。
「じゃあ、ありがたくいただいていくねぇ」
 そして、その声とちらりと視界の端に映った彼女のひどく不機嫌そうな顔とが引き金になった。
「うるせえ! さわんな! そりゃあ俺の獲物だ!」
 突然彼は怒鳴り散らし、呆気にとられるごますりに思いきり体当たりを食らわせた。相手に反撃をする隙も与えず、そのまま地上へと引きずり下ろす。ぐんぐんと彼の視界の中で地面が広がっていった。
 そして、返り血を浴びて窓のところまで戻ってきた彼に対して、彼女は眉を少しひそめてみせた。
「お仲間を殺してしまって良いの?」
「……魔物はそういうもんだ」
 実際、諍いにおいては殺られた方が間抜けなのだという事は暗黙の了解ではある。
 しかし、それは自分にとってはあまり適用されないだろうことも、彼は分かっていた。上手い理由をつけなければ、上司達の報復は免れない。何しろ、奴はとりいることだけにかけては一流で、覚えはめでたかったのだから。
 いや、殺したというだけならまだいい。問題はこの行為が上司への反逆ととられた場合だ。
 自分も殺される。ようやく彼はそこまで思い当たって、背筋が冷える思いを抱いた。抑えようもなく全身が震えてくる。血の匂いに酔ったような先ほどまでの興奮は一気に吹き飛んでしまっていた。
 いくら生まれて初めての勝利とはいえ、ちっとも嬉しくなかった。さっさと引き渡せば、たとえ追い出されても命だけは何とか拾えただろうに、頭に血が昇ってとんでもないことをしでかしてしまった。
「ふーん」
 そんな気持ちを知ってかしらずか、彼女は蒼白な彼の顔を覗き込んでじろじろと見回した。
「で、どうやってさらう気なの?」
 彼は焦っていたこともあってとっさに言われた意味が分からず、ぽかんとした表情を見せたので、彼女の気に障ったらしい。次には馬鹿にしたように胸を張って言い放たれた。
「その貧弱な体で、私を支えて飛べる訳?」
 そんなことすら今まで考えてもみなかった彼はますますぽかんとする。言われてみれば、確かに彼と彼女の体のバランスは悪かった。下手に吊り下げて運んでも、軟着陸するだけかもしれない。
 彼の間抜け面を眺め、彼女は大きく深くため息をついた。
「まあいいわ。まずは死体をどこかに捨ててきて、池でも見つけて、その汚い体を洗ってらっしゃい」
 そして大上段から指示を下す。要領を得ない顔の彼に向かって、畳み掛けるように言ったのだ。
「あまりに可哀相だから、貴方に戦い方の基本というものを教えてさしあげるわ。どうせ殺した奴の仲間に報復を受けかねないんでしょう?」
 彼女はそこでふんと鼻を鳴らした。
「がたがた震えちゃって、見ているこちらの方が恥ずかしくなってくるのよ」

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 人間の小娘にすら同情されるどうしようもない魔物である。さらにその援助の申し出すらつっぱねられない情けなさであった。
 もっとも彼は、隙あらば彼女をさらうために塔に残るのだと考えていた。彼女を差し出せば、裏切るつもりはないという彼の言い分をきっと上司だって聞いてくれるだろうからだ。
 しかし問題なことに彼女に隙はなかった。部屋には入れてもらったのだが、うっかり彼が近寄るとたちまち平手がとんでくる。一度など短剣で喉を突き刺されるところだった。これでは彼には手も足も出せない。
「貴方みたいに一人も味方がいない場合の戦い方ってののコツは一つね」
 こうして、結局彼は彼女の講義を受ける羽目になった。彼女からほどよく離れて膝を抱えて床に座り込み、本を片手に喋る彼女の話を聞くのだ。何だか理不尽な目にあっているような何かが間違っているような気もするのだが、気を散らしていると本を投げつけられるので仕方がない。
「つまりはさっさと先手を打つこと。相手を一人ずつ片づけること。これしかないわ」
「そんなこと言われましても、奴らはこっちよりずっと強いですし……」
「弱気はすべての敵よ! 死んでもいいなら、ここからさっさとお去りになったらいかが!?」
 一事が万事この調子なのである。
 仕方なく彼はすごすごと引っ込み、彼女の講義を聞き続ける。そのうち朝がきたが、彼は怖くて自分の寝床には戻れなかった。そんな彼の姿を見て、彼女はため息をつく。
「分かったわよ。昼の間はそこの戸棚の中に入ってらっしゃい。出てきたら殺すわよ」
 角の小さな戸棚に押し込まれ、外から鍵をかけられる。いったい自分は何をしているのかと彼はなんだか泣きたくなった。いつあの取り入り野郎が帰ってこないことに不審を抱かれるだろうか。いつ自分は発見されるだろうか。その時、どんな目に遭わされるんだろうか。
 考え出すとあまりにも洒落にならない状況で、怖くて怖くてやはり彼はその日も次の日もその次の日もろくに眠れなかった。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 しかし、睡眠不足と精神的圧迫でさらに追い詰められた彼は、いまやほとんど見ただけで噛みつかれそうな殺気を放っていた。だから、ようやく彼をその寝床で見つけて事を問いただそうとした上司達が気圧されたのも仕方がないことだった。
 彼には不退転の覚悟があり、彼らはそこまでの反逆とは思ってもみなかった。これが何より大きかった。
 上司達が怯んだ瞬間、彼は目を血走らせてかの深紫の体躯に飛びかかった。息つかせる暇も与えず、後ろ手に隠していた小ぶりの剣で一気にその胸を刺し貫く。そして、それを力いっぱいひねりあげ、引き抜いた。
 魔物の中でも位の高い者ならば、これぐらいではびくともしないだろう。けれども、彼の上司のような下っ端を従えているだけの者にとっては充分に致命傷だった。
 彼の目の前で上司の大きな体がどう、と地に倒れ、どくどくと体液が地面に流れ出していく。彼は剣を握り締めたまま、その光景をしばらく見つめていた。そしておもむろにまた剣を振り上げ、首筋に一撃を食らわす。貧弱な剣では途中までしか食い込まなかったが、効果は充分だった。
 背中越しに感じる気配でさえ、取り巻きがすっかり引いているのが感じとれる。あちらにしてみれば、今の状態の彼はあまりに理解しがたいものと化しているに違いない。
 自分でもむちゃくちゃだとは思うが、彼女が言うとおりに結局いつかはやらなくてはいけないことでもあった。いくら彼でも、このままみじめったらしく、へらへらと生きていくことが幸せだとは考えていなかった。もうこうなったら殺すか殺されるかの二択なのだ。
 振り向き、取り巻きを睨みつける。明らかに取り巻き達は弱腰で、彼が一歩近づくとおろおろとお互いの様子をうかがいはじめた。ここで奴らに考える隙を与えたら彼の負けである。実際の彼は小さく弱くなんの力もないのだから。これは一つの賭けだ。
 そして、彼はその賭けに勝った。
 取り巻き達はそのまま遁走に入ったのだ。あたふたと彼の前から逃げ出す彼らの姿は滑稽で、そしてなぜだか悲しかった。
 やがて静かになった森の中で、彼は一つ息を吐くと夜空を見上げる。
 そこには冷たく細い月がかかっていた。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 その彼は初めて得られた大勝利に浮かれていた。昨晩はあの後すぐひどい疲労に襲われて、倒れこむようにして寝床にもぐりこんだのである。辺りにたちこめる血の匂いもまったく気にならないくらいだった。そして、夕焼けと共に起き出してきた時、そこに変わらず転がる死体を見てようやくあれが夢ではなかったことに気づいたのだ。
 自分のこれからに不安がないといえば嘘になるが、達成感や爽快感の方がそれを上回っていた。前途が突然開けたような心持ちで、なんだかすべてがうまくいきそうな気分に彼はなっていた。
 つまりは、自分を散々殴りまくってくれた、あの人間の小娘に思い知らすことも。
 しかし、そうは上手くいくものではない。
「貴方、勘違いしてるんじゃなくって?」
 彼が襲いかかろうとした途端、飛んできたものは平手とつれない罵倒であった。
「私がしたのは単なる施しよ。これっぽっちのことで貴方が私をどうにかするですって? 冗談じゃないわ!」
 ちょっと気が大きくなっただけの彼が彼女の気迫に敵うはずもなく、一喝されると部屋の隅であうあうと恐れ入るばかり。その姿を見て、彼女は呆れたようなため息をつく。
「まったく情けないったら! 一度関わってしまったからには仕方がないわ、その腐った根性を叩きなおさないと気がすまないのよね!」
 そうしてまた彼女の特別授業が始まり、彼は釈然としないながらも神妙にそれを聞くこととなった。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物である。
 そんな彼でもやはり意地ぐらい張ったりする。いつか見返してやるぞとばかりに今宵も塔に赴いては、彼女にはたき倒されてすごすごと退散していた。
 少しずつ彼の地位は上がり、少しずつ彼の体躯も大きく人に近くなりつつあったのだが、彼女はその程度のことは歯牙にもかけなかった。いつも柳眉を逆立てて、人を馬鹿にしないでと怒鳴りつけるばかり。
 じゃあいつになったらいいんだ、とじりじりする彼が聞くと、彼女はどこか悪戯めいた笑みを浮かべて、そうね、魔王にでもなったら考えてあげてもいいわ、と無理難題を押しつけてくる。
 そんな無茶な、と反論すると今度はやっぱり殴られた。そんな気概もなしに人にちょっかいをかけてくるとは何事だ、と。仕方なく彼は尻尾を巻いて帰ることになる。
 もう彼女の力程度では殴られても痛くも痒くもないということに、彼はずっと気づかなかった。
 やがて少しずつ彼は多忙になり、また敵も多くなり、塔に通う日にちはだんだんと間が空くようになっていった。

 そして。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物だった。
 その面影はもはや何処にも残っていない。
 肌は傷だらけではあったが瑞々しく滑らかで、漆黒の羽根は鉄のように光沢を持って背中に広げられ、眼光は力に満ち溢れて鋭く、堂々とした体躯は周りに群がるどんな魔物よりも強靭そうだった。
 今、彼は数十もの魔物を引きつれて、一路彼女の元へと向かっていた。色々ごたごたしていて訪れるのは三ヶ月ぶりであったが、しかしこれで彼女を見返すことができる。
 彼は若い魔王にのし上がっていた。大勢の配下を従え、魔物を統べる座を今や奪い取っていた。これで彼女に何一つ文句は言わせない。この姿を見たら、彼女ははたしてなんと言うだろうか。
 懐かしいいつもの塔の姿が、彼の眼前に近づいてきていた。彼はお供を塔を取り囲むように配置すると、もったいぶって背を反らし、ふんぞり返って一人窓へと近づいていく。
 しかし、そこに彼女の姿は見当たらなかった。
 拍子抜けしながらも、まああまりに間が空いてしまったのだから仕方ないと、彼は窓から首を入れて中を覗き込んでみる。そこに彼が見たものは信じられない光景だった。
 薄暗い部屋の中で、彼女は寝床に臥せっていた。顔色は恐ろしいほど蒼白く、生気が感じられない。気配を察したのか、目線が窓の方に流され、彼女は彼の姿を見つけて微笑んだ。その弱々しさに彼はひどく衝撃を受ける。あんなにも激しくくすぶっていた瞳の奥の炎さえ、今ではまるで立ち消えてしまいそうだった。
「遅いわ」
 呆然と立ち尽くす彼に、しかし語調だけは高圧的に彼女は言い放った。
「いつも貴方はぐずなのよ」
 彼は窓をくぐり抜け、よろよろと彼女の側に寄った。その頬はこけ、手足は骨が浮きあがるほど痩せ、それでも彼の目に映る彼女は美しかった。
 彼女は彼をしばらく無言で見つめていたが、やがてふいと目をそらし、呟くように聞く。
「で、何のご用?」
「……約束を……魔王になったから……」
 まだ動揺が収まらない彼は、おどおどとそう言うことしか出来なかった。これではいつものように追い返されてしまうのではないかとの考えが頭をよぎる。
 しかし、彼女は殴ってもこなかったし、枕も投げつけてこなかった。
「仕方がないから、許してあげる」
 軽い笑みを唇に浮かべ、彼の方へと手を伸ばしてきたのである。慌てて彼が手を取ると、辛そうな震えがそこから伝わってきた。
 彼女に促され、彼はその体を抱え上げる。いつかこうするために鍛えてきたはずの彼だったが、想定していたものと比べてあまりにも軽い感触に、拍子抜けしたような気分を覚える。これだったら、初めて会った時にすら奪い去るのは簡単だったろうにと、何故だか後悔も感じていた。
「さて、どこへ連れていってくれるの?」
 窓辺に立つ彼に、彼女は問い掛ける。
「えーと……どこがいい?」
「まったく、さらう相手に選択させる馬鹿がどこにいるのよ」
「じゃ、じゃあとりあえずこの辺りを一回り……」
「いいわ、散歩ね」
 彼は部下を待機させ、彼女を伴って夜空へ飛び出していった。初秋の冷たい空気が二人の間を通りすぎていく。
「外に出るのは随分久しぶり……」
 彼の腕の中で、彼女はぽつりと呟く。二人の足元には黒々とした森が広がり、細く切り取ったような月がすぐ近くで輝いていた。
「空を飛べるのはやはりすごいわ。こんな光景初めて見るもの」
 彼女は随分と素直で、いつになくはしゃいでいるようだった。けれども言葉と言葉の間にひゅうひゅうという息遣いが混じるのが、彼はとても気がかりだった。それを相変わらず敏感に嗅ぎつけて、彼女は彼の顔を見上げる。
「何を変な顔をしているの? 気にしないことよ、元々分かっていたことなのだから」
 彼女の指先や足先は蒼黒く変色しており、少しも動こうとしない。そういえば彼女はいつも手袋をしていたと彼は思い出す。
「だから貴方に……」
 しかし彼女はそれ以上言葉を継がなかった。彼女の息の音と、吹き抜ける風の音と、どこか遠くで鳴く魔鳥の声だけが彼の耳に届いた。
 不意に下からちらちらと光が差す。眼下に湖が現れ、月の光に反射していた。彼女はそれに目を留め、彼に命令する。
「ああ、良く喋ったから喉が乾いたわ。水が飲みたいの。早く降りてちょうだい」
 もちろん彼が逆らえるはずもない。はいはいと頷いて、ほとりへと降り立つ。次にさっさと水を汲んできてと命令され、彼女を大きく平らな岩の上に横たえると、急いで湖へと走っていく。
 そして水を汲み上げた時、彼はふと目が覚めるような衝撃を受けた。湖面に映りこむシルエットはもうあの時の弱く惨めな自分ではない。もちろんそれはわかっていたことだったのだが、初めて彼は本当にそうなのだと自覚した。
 彼はゆっくりと振り向く。
 いつの間にか彼女のかすかな息遣いさえ聞こえなくなっていた。黒灰の岩にだらりと垂れ下がった白い手がやけに浮き上がって見えた。よろよろと彼は歩み寄り、彼女の顔を覗きこむ。軽く閉じられた瞳と口はもう動く気配を見せようとはしなかった。
 彼はその時ようやく気づいた。彼女が自分にとってどれだけ大切な存在だったのかを。それなのに、こんな時に呼びかけるための彼女の名すら知らなかったことを。
 手に溜めていた水が徐々に洩れ始め、地面に落ちて黒い染みを作っていく。手のひらに一滴も残らなくなっても、彼はそこに立ち尽くしていた。

 彼はちっぽけで哀れで醜い化け物だった。
 その面影はもはや何処にも残っていない。
 そして、その変貌の理由を知っているのは、もはやこの世に彼ただ一人なのだった。