おまけページ

民俗学系統の元ネタなど。

マヨヒガ

山中に忽然と現れる不思議な家。豪華な屋敷であり、しかし人の気配はまったくない。その中の事物を持ち帰ると裕福になるという。
いわゆる山中異界。ゲームでは、これに隠れ里のイメージも被らせた。

小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿いて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカド(*1)に出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまりに美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツ(*2)の中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガという。マヨヒガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんが為にかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。

柳田国男『遠野物語』六三より

*1 このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
*2 ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。

黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)

黄泉の国の火で煮炊きした食べ物を食すること。これにより異界に取り込まれ、元の世界には帰れなくなる。
アエノコト(田の神と家の主人らが膳を共にする祭。石川県)などに見られるように、同じ火で作った食物を共に食べるということは、共同体に組み入れられることを意味し、古くからある重要な祭礼である。
また、ギリシア神話のペルセフォネーも冥界のザクロを食べたため、地上と冥界で一年の半分ずつ住むこととなる。世界中に見られる根元的な神話である。

書庫の文章はそのほとんどが古事記より引用してある。
伽具土(火の神)を生んだために焼け死んでしまった妹(妻)イザナミをイザナギが迎えにいくが、すでにイザナミは黄泉戸喫してしまった後だった。

黒御鬘(クロミカヅラ)、櫛、桃の実

イザナミは何とか帰れないものか黄泉神と相談をしに入り、イザナギをしばし待たせる。しかしなかなか出てこないので、イザナギは「中を覗いてはいけない」という禁を破ってしまう。その時、彼が見たものは腐りウジが湧いた妻の死体だった。慌てて逃げるイザナギ。イザナミは「禁を犯し、自分に恥をかかせた」と激怒して、黄泉醜女(鬼女)に彼の後を追わせる。
イザナギが頭につけていたカヅラを投げるとそれがぶどうの木となり、黄泉醜女はそれをむさぼり食い、彼女らの足はしばし止まった。
次に櫛を投げるとそれがタケノコとなり、黄泉醜女はそれをむさぼり食い、彼女らの足はしばし止まった。
そして黄泉平坂にさしかかった時、桃の実を投げると黄泉醜女は追い払われた。

ゲーム中ではカズラの帯、櫛、桃の実の三種である。実際には上記のようにカズラは頭につけるものであるが、装備の関係上帯にさせてもらった。まあ帯・衣・褌・履を投げたというヴァリエーションもあるし。

厠神(カワヤガミ)

古くから祀られる家の神である。
厠には生と死、生命力と不浄が均衡する場所ゆえ、境界としての結界が存在する。
昔話では「三枚のおふだ」がもっとも分かりやすい例だろう。
鬼女に捉えられた坊主は厠にお札を貼ることで逃げ出し、追いかけてきた鬼女から逃れるために寺の厠へ避難する。

竈神(カマドガミ)

竈は家の中でももっとも重要な位置にあるため、竈神もまた重要な家の神である。
性質的には家の神は共通するものがあり、不具であると伝えられることが多い。敬うと保護厚く、粗略に扱うと祟る恐ろしい神である。
また、竈は穴であり、これは異界へと通じる出入り口となる(厠や井戸も同様である)。穴は古墳(墓)への入口、産道などと重ねて解釈される。

鼠浄土(ネズミジョウド)

地の下に鼠の住む国があり、おにぎりを転がすことで爺さんがそこに迷い込む……という筋書きは「おむすびころりん」という名前で良く知られていることと思われる。
これもまた、穴を通じて異界とつながる例であろう。鼠はネであり、根の国に通じているがため、地下に配置されたと思われる。

名前

名こそがその人間を司り、性質を顕わすものであり、他人に名を知られることにより支配されてしまう、というのは世界中に共通 して流布される伝承である。これを逆に活用して、魔物に狙われやすい子供のうちは「糞丸」など卑蔑なる言葉を用いて名とし、それらから身を守る習慣もアジアを中心としてよく見られる。
今回使用した「ユウメ」「ヘイタロウ」という名は、大好きな劇団・少年王者舘の芝居に共通して使われる名前からお借りした。前者は大抵「夕目」と書くが、これはまあユメなんだろう(字からすると夏でもあるかもしれない)。後者は稲生物怪録の主役から引いてあるので、孫引きになる(正確にはタルホの作品から引いてあり、タルホもまたたぶん平田篤胤から引いてあり、平田もまた……という感じなので玄孫引きくらい?)。

祖霊と仏

柳田の研究の中核を成すと思われる祖霊信仰論は、人間は死んだ後に極楽浄土などという自ら住んだ土地と切り離された場所に連れていかれることなく、住まいの近くの山へと登り、そこでしばらく留まった後(その人個人を知る者がいなくなり、個人と認識されなくなった後に)、祖霊と融合していわゆる「ご先祖様」として子々孫々を見守っていくのが日本人の本来の祖先信仰であった、というものである。
対して仏教は、解脱して仏となるまでは六道輪廻し、修行を続けるというものである。昨今誤解されがちだが、輪廻転生は死んでもまた未来に会えるというロマンチックなものでもなければ、草木や動物に優しくなれるという道徳的なものでもない、この世に生まれ続けるという苦行の継続なのである。
前者は全への統合が行われるのに対し、後者は永遠の個がそこにある。どちらを救いと考えるかは意見が分かれるところであろうが、近頃は個であることが絶対に良いとしすぎる気もしないでもない。

あと細かいネタ(座敷童子、狐の地蔵、逆さ杉など)もありますが、興味のある方は各自お調べくださると色々面白いと思います。

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