その本を求めよ

 1

「図書館には素敵な秘密があるべきだ」
 奴のその宣言を聞いた途端、俺は二つの失敗を犯したことを悟らざるを得なかった。
「大げさだろ、こんな図書館に」
「大多数の人間が、睡眠とレポートのタネ本探しにしか訪れることはない、こんな図書館でもだ」
 一つは、そのろくでもないメモを見つけた瞬間に捨ててしまわなかったこと。
 もう一つは、よりによってそれをムロなんかに見せたことだった。
「やめてくれよ。レポートやばいんだから」
 俺は必死にそう訴えたけれど、その程度の抵抗で、目をきらきらさせたムロの勢いに勝てるはずもない。もっと悪いのは、俺だってちょっとは気になっていることだった。分かっている。これがテスト前に部屋を掃除したくてたまらなくなる、あのろくでもない逃避現象と同じだってことは。
 まずいまずい。この気持ちに去年は負けて、散々な成績をもらったんだ。
 俺は本を衝立にして、そこに顔を埋めた。正面の席に陣取っている、ムロの眼鏡越しの刺すような視線から逃げるために。無視だ。レポートに集中しろ。
 けれど、やっぱり目は本の文字を上滑る。頭の中を巡るのは、古い哲学者がこねくり回した理論ではなくて、メモに書かれていた不思議な指示のことばかりだった。
【皇帝に聞き、次の本を探せ nlpftvpr hblftvm】
 俺はムロの様子をそっと窺う。すると、奴は待ち構えていたとばかりに、いつも読んでいる赤い本から顔を上げてニタリと笑った。
「で、その本に挟まってたのか、それ」
 よく考えれば、こんなメモを見つけてしまったのもムロのせいだ。レポートについて相談したら、この本が参考になるんじゃないかと教えてくれたのは奴だったんだから。
 俺はレポートを落とすことを覚悟した。

 2

【皇帝に聞き、次の本を探せ nlpftvpr hblftvm】
 俺とムロはそのメモを真ん中に頭をつき合わせる。本に挟まれていた謎めいた紙片。
「お、何となく分かってきた。なるほど」
 やがて、ムロがそう言い出した。
「くそっ、キーボードの日本語入力……じゃないな、単語にならない。どこかのマイナー言語でもこんな表記にはならないよな。大体、皇帝って誰のことだよ」
「ヒントその一。これ書いた奴、結構親切、ちょっとひねくれモノ」
「そんなんで分かるか」
「ヒントその二。暗号の基礎知識」
「知らねーよ、そんなの」
「おいおい、ここをどこだと思ってんだよ。調べろ調べろ」
 言われるままに端末を叩いて、暗号の入門書を探し出す。書架から本を持ってきてめくると、あっさりとそれは見つかった。
「シーザー式暗号、これか」
 なるほど、皇帝って訳だ。確かに分かってしまえば単純な話である……と思ったものの、解読の段階でまたつっかかってしまう。いくら文字をずらして読んでみても、まともな単語が出てこない。俺が苦労しているのに、ムロは澄ました顔でいつもの小説に目を落としている。同じ本ばかり読んでよく飽きないと思うのだが、奴の持論は「一つの人生には一冊の素敵な本さえあれば充分」だそうだ。
 奴はすっかり分かっている様子だけど、ここまで判明しているのだから、さらにヒントをもらうのは悔しい。
 レポート用紙を真っ黒に埋め尽くした時、ようやく俺はこのカラクリに突き当たった。
 そうか、折り返しだ。
 そこに気づけば、後は簡単だった。あっさりと一つの単語が導き出される。
 端末を再び叩くと、そのものずばりのタイトルでの検索結果が俺の目前に現れた。

 3

 問題は、一種類であって一冊ではなかったことだった。地上と地下と、この図書館内だけでも二冊あったのだ。しかも他の読書室にもある。
「全部当たったら?」
 ムロはあっさりとそう言ってくれた。そして、やっぱりそれしか手はなかった。俺とムロは端末に表示された番号を頼りに、まず三階の書架へと向かう。誰かが読んでいることもなく本は無事にそこにあったが、めくっても何も出てこない、ただの本だった。
「正解、の紙ぐらいないとおかしいよなあ」
「確かに」
 俺の言葉にムロも頷いて賛成する。これではない。解読失敗か、それとも……。
「もう一冊は地下だったな」
「地下? 地下ってどこよ? 入れんの?」
 図書館の出入口は地上二階だ。それより下のことなんて考えたこともない。そんな俺に、ムロは呆れた顔を向けた。
「何だ、行ったことないのかよ。それでよくこの学校にいるよ、まったく」
「お前のように図書館在住じゃないからな」
 地下書庫への階段は出入口の傍にあった。踊り場には間接照明が設置してあって、いかにも地下へ続くといった風情だ。俺は少しびびっていたが、ムロは慣れているらしくさっさと降りていく。到着した所は受付で、荷物を預けて学生証を見せないと通れない。
「ダンジョンに挑むのに荷物なしかよ」
「ダンジョンってのは地下牢か、迷宮か?」
「怪物がいる方に決まってんだろ」
 通行証をもらい、さらに下ると自動扉。そして、その先は本当に迷宮だった。同じようなスチール書庫が隙間なく並んでいる。下手に踏み込むと、出口さえ見失いそうだ。
 俺はここでもムロの後についていって、書架にたどり着く。目的の本を開くと、一枚の紙がひらひらと舞い落ちた。
【次の本のヒント。1.著者はロシア人……】

 4

 そこから、俺たちとメモ入り本のいたちごっこが始まったのだった。
 探し当てた次の本にも、次の次の本にも、メモが挟まっていて、そしてそこに書いてあるのは俺たちの健闘を称える文章ではなく、新しい出題だった。
 それはラテン語で書かれていたりした。
 それは数学の問題の形をとっていたりした。
 それはクロスワードパズルになっていたりもした。
 俺とムロは、それらの難敵に敢然と立ち向かっていった。端末を叩き、書架を巡り、地上四階から地下二階まで、至るところを歩き回った。
 俺たちの前に生化学の本が現れた。
 俺たちの前にアラビア語の手引書が現れた。
 俺たちの前にヨーロッパ小国の画家の画集が現れた。
 俺たちの前に聞いたこともない著者の本、興味を持ったこともない分野の本が現れた。
 ムロに勧められて作ったリストは順調に数を増やしていき、俺が買ったコピーカードは順調に度数を減らしていく。メモはコピーを取って、元の本に挟んだままにしておいた。他の奴も気づいてるかもしれないだろう、とムロは言う。楽しみを奪っちゃいけないさ。
 俺は楽しんでたんだろうか。単なる意地だったように思う。ムロは楽しんでいた。あいつは元々こういうことが大好きだった。
「これ、何だと思う?」
 出会いの言葉からしてこれだったのだから。ゼミの発表のネタを嫌々探していた俺は、突然知らない奴が目の前に差し出してきた色鮮やかで珍妙な絵に、呆気に取られた。
「えーと……なんか南の島の神様だろ、これ」
「猫だよ」
 変な奴だと思ったが、何となく図書館に来る度に向かいの席に座るようになり、挨拶するようになった。
 ムロはそういう奴だったのだ。

 5

 ようやく俺がそれを言い出した時、俺たちは変体がなで書かれたメモを辞典と首っ引きで解読していた。窓から差し込んで机に踊る夏の日差しは、街路樹の葉を通過した後でも充分眩しい。少し早めの蝉が遠く鳴いていた。
「なあ、ムロ。……これってさ、意味なくないか?」
 案の定、奴は眼鏡の奥の目を鋭くする。
「何でさ」
「だってよ、誰かの暇潰しにいつまでもつき合ってる訳にはいかないだろ」
 メモを見つけてから、一週間が経っていた。ますますリストは長くなり、ますますテストは近づいてきていた。
「止めるのか?」
「やり方を変えるんだよ」
 憮然としたムロの問いに首を横に振って答えると、幾分空気が和らぐ。俺は続けた。
「思うに、俺が見つけたのは最初の本じゃなかったんだ。だっていきなり問題だもんな。一番最初にはやっぱ挑戦状がなきゃいけない」
 褒賞も何もないいたちごっこに付き合うのはよほど酔狂な奴だけだ。
「だから、俺たちは遡るべきだったんだ。前に戻ってそいつを見つけるのが賢い方法だ」
 我ながら鋭い。しかし、黙って聞いていたムロはあっさりと俺の熱弁を否定してくれた。
「それは無理だろう。何のヒントもなしに、そいつの好きな本が分かる訳ないよ」
 言われてみて、方法をあまり考えてなかったことに気づく。確かにこいつの本の選択はむちゃくちゃ多岐に亘っていて、それを当てるのは宝くじに当選するより難しそうだった。
「あーあ、一体どんな奴なんだよ」
「最後まで行けば分かるかもしれないぞ」
「最後なんてあるのか、これ」
 そこでムロがふっと窓に目を移し、顔のレンズに夏の光が当たって跳ね返る。
「もうすぐ夏休みだな」
 奴は脈絡のない言葉を呟いた。

 6

 聞いてはいたものの、本当にいつもの席にいないのを見ると、やけに違和感がある。
「用事があるから、明日は一時休止」
 落としちゃまずい課目でもあるのだろう、昨日、また本の中に指示の紙を見つけた後に、ムロはそう言い出した。こっちのテスト勉強の時間を散々奪っておいて勝手だなあと、俺は思わなくもなかったが、ここで一日もらえるのは願ってもないので文句は言わなかった。
 本から現れる問題を解いていると変な達成感があって、まるで課題をクリアしたかのような気分になっていたが、現実のテストはまだ俺の前に立ちはだかっているのだ。
 自然と出てくるため息を抑え、空いている席を探す。けれど、テスト前の図書館はどこもかしこも人と荷物に占領されていて、その隙間に潜るのも何だか息苦しい。
 下なら空いてるかも、と考えたのも自然なことだった。地下書庫に入り、ふらふらと閲覧ブースを回る。ふと気がつくと、俺は昨日の最後に見つけた本の分類番号を探していた。
 抜け駆けはなしだからな、ともムロに言われたんだった。それが引っ掛かっていたことは間違いない。大体でムロは俺より先に正解を思いついてにやにやしていた。悔しい。一回ぐらい、焦るムロを見守ってやりたかった。
 それは結局、テストから逃げるための方便だったんだろう。そして、そういう時ほど冴えているもんだ。ムロの助けなしで、俺は答えと思えるものに到達した。
 しかし、本を求める俺の前に壁が立ち塞がる。どうも電動で棚が動く仕掛けらしい。ハイテクだ。恐る恐るスイッチを押してみれば、モーター音と共に壁の一部が動いていった。
 モーゼだな、などと気分を良くして、俺は開いた書架の間に入り、番号を追う。奥の方に目当ての題名は収まっていた。
 俺は勇んで手を伸ばし、それを途中で止めた。どうしてか嫌な予感がする。その途端、低い唸りが立ち尽くす俺の耳をくすぐった。

 7

 気づくと、目前に本の壁が迫っていた。
 レールに沿って走る車輪は、勿論俺がいることなんて構いやしない。一瞬呆けた後、反射的に俺は床を蹴った。逃げなければ。思えば相当焦っていたんだろう。俺の足は絨毯の継ぎ目に引っ掛かり、見事に転んでいた。
 轢かれる、押し潰される!
 情けない悲鳴を上げなかったのは誉めてもらってもいいと思うし、自分としても恥をかかずに済んだ。何故かというと、棚は俺の肩にぶつかった途端、震えるようにして止まったからだった。そりゃそうだ、安全装置がついてるに決まっているじゃないか。
 赤面しつつ立ち上がる俺の耳に、今度は足音が届く。場違いな、床を軋ませる、けたたましいその音。
 俺もまた走り出す。足音の主を捕まえなければならない。何で俺を潰そうとしたのか、聞かなくては。単に他の書架を見ようとして誤って閉めただけの奴だとは考えなかった。いや、俺はそうでないことを確信していた。
 間違えただけなら、別に逃げる必要はない。
 捕まえてやろうという気力は充分すぎるほどで、ただ、地下書庫の広さと俺がその配列をまったく覚えていないことが敗因だった。
 犯人の姿を捉えることがないまま、俺は諦めざるを得なくなった。いつの間にか足音は止んでいたのだ。
「ちょっとあなた、何走ってるの!」
 さらに災難は降りかかってくる。騒ぎを聞きつけてやってきた司書が、俺だけを見つけたからだった。
 俺は当然のごとく、たっぷりと絞られた。
 解放された後に電動書架のところまで戻ると、床にぽつんと本が落ちている。確かめなくても探していた本だと分かった。本からは半分紙がはみ出ていて、金釘のような筆跡が踊っているのが見て取れる。
【Uqbarについて書かれた本を求めよ】
 それが最後の本への挑戦状だった。

 8

 席には、見慣れない女の子がつまらなさそうな顔をして、ぽつんと座っていた。本を探すふりをして、何度か様子を窺いにいったが彼女が動く気配はなかったし、他の席にもその姿を見つけることは出来ない。
 ムロはいなかった。
 昨日の出来事を話そうと意気込んでいた俺は、拍子抜けしていた。用事が長引いているんだろうか。でも、昨日一日いなかったことだけでも珍しいのに、二日続けてなんておかしすぎる。いつだってムロはあの席で、いつもの本を読んでいたのだ。
 まさか、ムロも何かされたんじゃ。
 あれが、本を追う者への嫌がらせだったとしたら。俺はあの程度で済んだが、ムロはもっと洒落にならない事態になっていたら。
 その時に俺は気づいた。心配したところで、どうしようもないことに。
 俺はムロの連絡先を知らない。どこに所属していて、何を勉強しているのかも知らない。それどころか、名前だって知らないのだ。
 それはお互い様だった。俺とムロはただここで会って話すだけの仲だった。それだけだった。
 俺はメモを取り出す。
【Uqbarについて書かれた本を求めよ】
 これを解いていけば、また妨害があるかもしれない。そうしたら犯人を捕まえて、ムロのことを聞くしかなかった。
 Uqbar。ぱっと見、英語ではない。素直に読めばウクバーってとこか。響きはイスラムっぽい気がする。試しに検索端末に入れてみたが、さすがにそれでヒットしたりはしない。
 ウクバー。ウクバル。ウクッバー。
 何かが頭の奥で引っ掛かって、ちりちりと音を立てていた。どこかでこの響きを聞いたことがある。それもごく最近に。
 そして、その疑問は隣から聞こえてきた他愛ない会話によって解消されたのだった。
「夏休み、どっか行くの?」

 9

 そうだった。
 もうすぐ夏休みだな、とムロはあの時洩らし、俺は何気なしにどこか行く予定でもあんの、と尋ねた。いや、とムロはしばらく口ごもり、それから呟いた。
「うん、ウクバールに帰るつもりだよ」
「どこ、それ? お前、モンゴル人かなんかだったの?」
 そして、俺のからかいの言葉に、ムロは珍しく普通の笑みを見せたのだ。
「そろそろ帰らなきゃいけないからな」
 俺は再び端末に向き直り、ある題名を打ち込む。その本はこのフロアだけでも二冊あった。でも、どちらの本かは迷わない。赤い方の本に決まっているからだ。
 俺は空いていた自分のいつもの席に陣取り、持ってきた本を開く。それから一度にめくったりせず、奴のように一枚ずつ丁寧に読み進んだ。ウクバールの事は一番最初の物語に収められていた。
 それは、この世界のどこにも存在しない国の話だった。
 その短編が終わったところに、予想通り紙が挟んである。二つに折りたたんであるそれは、遺書でも懺悔でも愛の告白でもなく、さらに別れの手紙でもなかった。それはとてもシンプルな、それでいて奴らしい一通の挑戦状。
【おめでとう。これが最後の本だ。そしてこれが最後の問題だ】
 まったく、奴らしい難題だ。
【この世の中で最も素敵な本を見つけ、それを指し示す問題を作成せよ】
 俺は答えることができるだろうか?
 顔を上げて、正面を見つめる。
 そこにはもうムロはいない。やっぱり見知らぬ女の子が、こちらを気にせずにレポートと格闘している。
 俺は彼女の邪魔にならないよう静かに立ち上がると、出口へと向かった。

 10

 それ以来、ムロと会うことはなかった。
 薄情かもしれないが、今となっては顔すらぼんやりとしか思い出せない。ただ、二人で話していた時のあの空気を懐かしく思い、たまにあの赤い本を読み返す。
 もしかして、あの後もキャンパスですれ違っていたかもしれない。もしそうだとしても、お互い気づかなかったのか、気づいていても声をかけなかったのだろう。
 そういえば、気づいたことがある。
 リストに並ぶ本たちの特徴だ。共通点がある訳ではなくその逆で、明らかにそこには一貫性が見られなかった。
 つまり、これは誰か一人の仕業ではない。始めたのは、ムロじゃないのかもしれない。
 じゃあムロはどうして俺にこれを見つけさせ、解かせたんだろう。
 その答えもまた、今では分かった気がする。
 時間がある時には、俺は図書館を回遊する。リストを見て、あの挑戦状の軌跡を辿る。ほとんどの場合は何の変化もないが、稀に新しい問題が増えている。それに挑んで、新しい本をリストに加える。
 誰かが置いていったメモ、それはこの世界の誰かが一番素敵だと思っている本の証。
 俺はそれを巡る。問題をチェックし、紙片がなくなっていたら取っておいたコピーを挟み、あまりにも難解な問題にはヒントを書き入れる。獣道に生えかけている草を刈るただそれだけの役割、巡礼者たちのささやかな案内人。
 ある時、誰かがこの問題を見つけるだろう。その中の幾人かは、問題を解こうとするだろう。やがて、一握りの人間が最後の本までたどり着くだろう。
 そして俺は、世の中で一番素敵な本の向こうに彼らの姿を透かし見る。
「図書館には素敵な秘密があるべきだ」
 いつかこの言葉を次の誰かに告げる時、俺もまた、自分の姿を写す一冊の本を選ぶのだ。