美藝公
観劇日 2007.03.17夜 東京 ザ・スズナリ
原作:筒井康隆 脚本・演出:天野天街
観劇日 2007.03.17夜 東京 ザ・スズナリ
原作:筒井康隆 脚本・演出:天野天街
KUDAN Project二人芝居第三弾。一応原作ありですが、名前と世界設定だけ借りたほとんどオリジナル。
踊る立体映像
ちくわもぐら
「見てるからな」
何よりもラストのあのシーン
(2007.03.21記す)
今回は映画が重なる物語趣向なだけに、映像の使い方はさすがにグレードアップ。
個人的に一番おお、と思ったのは序盤も序盤、黒バックに幽霊のような二人が踊るあの映像。
影も一緒に映像として映せば、立体のように見えるんだなあと。見えませんでしたか?
今回、映像担当の人の作業量はすごいだろうなあ。感嘆。
映画つながりで。
経済立国云々の台詞は原作通りのようですが(美藝公はまだ未読なので)、ちょっと浮いてたかなあ。
それよりも、映画が演劇よりアドバンテージを得ているのは、その経済要因が大きい訳で、そっちの方面で考えてしまいました。
一本作る費用は演劇の方が大抵安いんだけど。
(2007.03.21記す)
おわってしまうのもこわいけどいつまでもおわらないのはもっとこわい
「くだんの件」より。
自分はこの台詞が大好きです。
でも何だろう、今回は「終わりの予感」をタロウがさほど恐れている風に見えなかった。
意味不明な状況に差し込まれてくる終わりの気配、それにつられてキリキリ緊張感を増していく世界、それが弾ける瞬間が天野芝居の自分の楽しみなので、今回はその点が物足りなかった。
それはたぶんヒトシとタロウの関係が幼馴染という説明以上に窺えなかったためのような気がする。タロウが追い詰められていないためか(書けないこと以外に)。書けないことに気を取られて、あんまり状況について考えていないような。
(2007.03.21記す)
それにしても今回は「演劇」「芝居」という明示のオンパレードでした。内容的に必然としても。そして「ここは劇場だ」というはっきりとした台詞。「I KILL」でも同様のものがあった。もちろんずっと前から「これは芝居だ」という喚起は劇中にいくらでもあったのだけど(SEとか照明とかは元々台詞中に多用されるし)、何だか最近明確化されているような気がしないでもないです。
というか、ここまでやられると、どうもメタというよりは楽屋落ちに寄ってきているような感じがして。笑えはするんだけど、同時に閉塞感。
メタの基本文法は「くだんの件」で完成されてしまって、後はいかに洗練するかになっているような。それはそれでいいんだけど。いいんだけど。
というような心持ちです。
セット崩しの芝居との密接性もやっぱり「くだん」が一番に思えるし。今回は最初に建てたので、すわ芝居自体を逆回しか、と身構えたのですが、あ、ひょっとして「続き」なのか。
崩して建てて崩して建てて。光。闇。光。闇。
永遠流転の二人の物語。
(いきなりだけど、弥次喜多は名古屋で見ないと「どうもオワリっぺえなあ」の台詞が面白くないよね。東京で見ればエドから出てないってメタ構造になるか。大阪とかそれ以外は……困った)
(2007.03.21記す)
と、考えると、やはり今まで二作の積み重ねを前提に、今回のは考えるべきかな。
もちろん前二作を観てしまっているので、絶対に前提にして観てしまっている訳ですが、ある程度切り離して単独評価してみようという意識も毎回一応持っている訳で。
他の人はどう感想書いてるかなと検索してえらく酷評のところを見つけたりして、全同意はしないけどその人の気持ちも分からなくもないからなあ。
未必の故意。密室の恋。そして再び未必の故意?
うーん、愛は強いわと思った。訴えるものが。
もちろんそれは裏表なんだろうけど。
(2007.03.21記す)
しかしやっぱり、ラストのアレですね。語る意欲を湧かせるのは。
ほんの小さな穴から差し込む光。
そこから世界を見ていた。
「見てるからな」
光。闇。光。闇。光。闇。
ベストを取り替えた二人の持つ小さなカミに映し出される、生と死の狭間の一瞬の夢。
同じように暗がりで身を縮めながら、私たちは何を見ていたんだろうね。
もっともっと、この一点の光に芝居全てを収束してほしいと思ったりした。
以上、そんなとこです。
(2007.03.21記す)