ショウネンオウジャカン

自由ノ人形

 ビデオ(2000.9.9長久手町文化の家撮影)にて鑑賞
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 まず、台詞が「パウダア」と比べてかなり聞き取りやすいのにはちょっと驚いた。元々芝居のビデオってのは台詞が聞き取りにくいものなんだけど(高音が強いんだよね、仕方ないけど)、「パウダア」は最初見た時、特にオープニングは何言ってるんだかさっぱりだったし。他に王者舘素人に二人ばかり見せてみましたが、やはり聞き取れないといっていたので、それで普通 なんだと仮定。
 で、今回はもちろん聞き取れないところはあるけれど、一番違ったのは音の伸びがあるところ。
 結論としては、七ツだと狭いから音が跳ね返りすぎるんだな、という単純な事実確認だったのですが。マイクにはうるさすぎるんだな。特に高音。

◆好きなシーン
 松宮さんがマッチするところは全部好き。
 合唱も。
 夕沈さんがひげの笛吹きから逃げるところが可愛い。
 あと、幻燈のばかばかしさが楽しい。

(2001.12.20記す)

◆唄
 うわー、頭に残る頭に残る。「おさかな天国」には負けるが頭に残りまくる。あ、メイン?の奴です。ビデオでは冒頭から流れるので特にです。
 二回目を観た時、やっと二番が「なつかし」じゃなくて「夏火事」であることに気づく私。゛ついてるとは思ったんだ。
 しかしがんがん歌ってますね、今回。 初演再演ともこうだったんじゃろかー。

(2001.12.20記す)

◆境界
 王者舘の芝居にストーリー解釈は無意味といえど(確かに無意味だと思う。賛成)、しかし観た人は皆なんとなくぼんやりと一つの形に組み立てて観ていると思うので、自分のぼんやりを披露しようというのが王者舘に対する感想のやり方だと勝手に思っているので勝手に書く。無意味だというのは、自己の解釈を他者にも正しいものとすることであるかと思い。他人の解釈読むのってかなり楽しい。でもこれって感想言うだけで自己をさらけ出す危険な行為な気もする今日この頃。
 という訳で本題。
 くどいくらいに原子爆弾を思わせるモチーフが散りばめられているので、前提はすぐに察しました。ネットとかで余分な知恵ついてるし。後は過去のアタシ(平太郎/夕沈)/現在のアタシ(正太郎/松宮陽子)/未来のアタシ(ズボンの騎士/中村榮美子)はいつもの基本構造だけど、今回台詞にしっかり入っているので分かりやすし。
 んで。一連の世界の中で導き手・俯瞰者として存在するのがカゼ(石丸だいこ)、プロペラ堂(カナタニ美弥子)、ペラペラ堂(杉浦胎兒)の三人。野口英世(篠田エイジ)微妙。
 さらに物語の渦中、というか中心に位置しているのに(故に、か)、世界の中の人間関係にほとんど入っていかず(例外が分裂後の食卓)、一人でさ迷っている正太郎(松宮陽子)。
 彼は現在のアタシ故に投下の瞬間のアタシであり燃え続けているアタシであり、無であり0であり、過去と未来の境界であり、夢を見ている主体でありマッチ持て世界を燃やせる終わりであるんだろう。たぶん。
 ゼロと神は同概念のジャンル違い、とどこかで近頃見たなと思ったら2chの境界スレ→だった。

 さてこの話そのうちつづく。

(2001.12.20記す)

◆昨日と今日と明日

 んで、つづき。

 08150806、落とされたもの、Little Boy――少年。燃えて光と重なった正太郎。彼は地上に興味はないと言い、マッチをする。それはゼロの瞬間の記憶。熱い。
 埋まっているのは、焼け跡にあるのはデンキの化石。
 アタシはデンキだ。だからそこいらじゅうにアタシはいた。裸電球に触れ、デンキは走る。ラジオを動かし、雷となり。アタシの欠片を思い出を拾い集め、そして融合。
 今日は昨日に思いを馳せ、昨日は明日を夢見ている。頭の中は明日のことでいっぱいだ。けれど今日は。憧れながらも、明日がないのを知っている。するはずだった夏休み。いるはずだった夏休み。
 本当は消えてしまっているアタシ。地面に埋まってしまうアタシ。地べたは嫌。
 ここは地べた? 違うここは屋根。傾斜きつい屋根の上。チジョウノチョウジョウ。下には何が埋まっている? ここからアタシは空に行く。
 アタシトンダワ ハネモナイノニ

 という風に自分の思考の流れは導かれました。自分にとっては正太郎を中央にすえるとすごく流れが作りやすかったというか。
 結構収まっているかなと思うのですが、一つ大きな問題が。野口がすごい勢いではみ出てます。出まくってます。私の連想野からもはみ出てるのでぶらんぶらんしてます。「片方」からつながってるよなーとは思うのですが、片方も結構はみ出てるので大変です。まあ別 にそれはそれで色々思いを巡らす余地があるので大歓迎。
 あ、「電気→伝記→野口英世」だからチンチンなんですかかの方。ちょっとつながったな。

 さてさて。昨日(平太郎)と今日(正太郎)と明日(ズボンの騎士)の関係とか。平太郎と正太郎、平太郎とズボンの騎士は話中でよく絡んだけれど、正太郎とズボンの騎士が一緒に出てくるシーンは群唱などのシーンのみ。つまりそれが「昨日が今日を追い越した」「そして明日に追いつく」かなと思ったりもしています。
 正太郎は終わってしまったことを感じていて。平太郎は感じてないから、ズボンの騎士と共にいれる。今日を境に折り返される昨日と明日。

(2001.12.22記す)

◆不明どこ
 楕円体⊃地球には即座に発想はいくのですが(というか歌ってるしなばっちり)、それ以上他のところに結びつかず困った困った。連想途切れてしまうと脳内のひろがりがいまいち面 白くなくなるので損だ。後で色々思いついてみるに、爆弾そのものとか、転がっている少年とか、管が転がりゃ楕円になるかな?とかまあそんな風に。
 あ、楕円で出来てる訳だから、単に人間とつなげてもいいんだ。
 あと傾斜でも途切れてしまう。損損。
 あ、それに「片方」もあまりつながらない。特に石→右が。損損。

(2001.12.20記す)

◆朝顔
 カタムキとか朝顔力とかがあまりうまく呑み込めないままでいたのですが、こちら→を読んでなんとなく分かったような気になりました。まあ頭で分かるもんでもないんだけど。
 コウゴウセイは皇后制かつやはり光合成なんですやね。んで「種」の保存と。
 最初の正太郎の台詞に「光吸う」「酸素吐く」てのがあるし、埋まったアタシは朝顔のタネに転化する訳か。そして明日咲いて成層圏までトブ、と。
 あと、同じく正太郎の台詞の「19粒の種庭に埋める」ってのが気になります。キャストが総勢19人なんですよな。無関係ってことはたぶんないかと。

 ところで、あらすじ紹介なところで、雷電家が「五人家族」となっているのが今は大変不可解です。参考→
 だって六人いるじゃん! 「おれたちゃ五人だ!」ということか、単なる間違いor変更なのか判別 つかないので大変居心地が悪い雰囲気ですが、どうでもいいといえばどうでもいいか。どうでもいいと言えば、参考の後者の長久手森の家のあらすじ、あれを読んだ限りでは「わーっピカドンじゃーっ」「アアッ、父ちゃんが梁を支えて!」「お前ら早く逃げろ!」「父ちゃーん」「ギギギギ」とかいう話しか想像つきません類型的な私の頭。そして死に別 れの弟にそっくりな子にあったりしたり。

(2002.01.09記す)

◆埋まっているもの
 何度も出てきて、その名の通りこの話の根底にある「埋まっているもの」は複合的なものを孕んでいるので、何が正解って訳ではもちろんないのでしょうが、幾つか連想したことを書こうかと。
 とりあえず、全体の話の流れとして原爆によって死んでしまったアタシ、は一つのモチーフであるのは確かとして、その他に。
 中で埋まっているものを示唆するセリフとして出てくるのが「デンキのカセキ」「種(アサガオ・スイカ)」「アタシの片足」「腐敗性有機物」「お宝」くらいか。
 このキーワードの中で、後半部分の三つと「父親が埋めた」という繰り返されるイメージ、団らんへの野口乱入の際のやり取り、さらに失業中のはずの父親がもたらす「給料」、この辺りからなんとなく思ったのが民俗学曰くの『異人殺し』。
 『異人殺し』とは何かというと、「村を訪れた旅人を殺し、その富を奪うことで金持ちになる。しかし後にそこには不幸がおとずれる」というモチーフで、機構的には経済格差の説明かと思われます。憑き物筋と似たような機構ですな。こちらにも簡単に書いてあります→
 異人というのは同時に神でもあるので、これは神殺しでもあるはず。野口はこの芝居の中で俯瞰者な役割なのであながち的はずれでもないかも。しかし何故「片足」なのか分からんちんです。片手は野口英世だから当然として。あんまり野口英世には詳しくないのですが、足がどうこうなるエピソードってないですよね。というか前にも書いたけどやはり野口むずかしい……。

 ところで、父親云々書きましたが、ここで描かれる父親って実在の父だけじゃなくて、“国民の父”たるかの人のイメージも入ってるすかね。やはり。浩宮と同時に。
 でもって“天”皇と美“地”子の間から生まれるという国造神話なイメージとか。これはうがちすぎか。字違うし。

(2002.02.17記す)

◆図
 なんとなく「自由ノ人形」を図式化するとどうなるかと考えてみたら、どうしても下の図しか思い浮かびませんでした。すみません。

 元ネタ知らない人もすみません。というか手元に資料ないのでうろ覚え。

(2002.04.14記す)

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