Writer:Oumi

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最新2節


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*8*

 中庭を囲む回廊にその姿を見つけ、セピアは弾む足取りで駆け寄った。向こうもまたこちらの姿を認め、柔らかな笑みを浮かべて迎えてくれる。
「礼法の勉強ははかどった?」
「うーんと、何とか」
「あれは慣れだからね。実地に何度か挑めば、違和感なくなるよ」
 そして、アピアは弟の手を取り、二人は並んで歩き出す。
「じゃあ、今日は湖まで出ようか」
「……できるかな。ひっくり返ったりしないかな」
「大丈夫だよ。前だって上手く出来てたんだから」
 アピアはそう励ましを入れた後、悪戯めいた光を目に宿して付け加えてきた。
「万一ひっくり返ったら、泳ぎの訓練に急遽変更だね」
「うー」
 くすくすと笑うアピアにつられて、困った顔から自然と笑い顔になったセピアは、初めは信じられなかったこの光景が段々と当たり前のものになりつつあるのに気づく。やっとここにたどり着いたのだと、そう思う。
 そう、最初は、とても嬉しかった。
 アピアが話を聞いてくれる。
 アピアが微笑んでくれる。
 アピアが気遣ってくれる。
 アピアが一緒にいてくれる。
 嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。はしゃいだ気持ちが耳を覆い、心の奥から訴えかけてくるその言葉に気づかなかった。
 どうして今そうしてくれるのか、どうして今までそうしてくれなかったのか、考えなくてもいいのか、という言葉に。
 考えたくないだけだということは、薄々気付いていた。目を逸らしていても、アピアの体が治るはずもないことも。
 そして、自分が何をやってしまったのかも。
 自分はただ分かってほしかっただけだ。どれだけアピアのことを好きで、大切で、誇りに思っているかを。
 今なら、分かる。
 アピアがそれを受け入れるということは、絶望との裏表だったことが。
 その時からアピアは、すぐそこに迫る自分の死に抗うことを諦めてしまったのだ。
「セピアが王位を継ぐんだよ」
 もうそれは決定したこととして語られ、翻る気配は見られなかった。
「うん。頑張る」
 だから頷く。
 それに、アピアにそんな役目を押し付けて、負担をかけたくはなかった。自分が背負えることならば、引き受けるべきだ。それがアピアを軽んじての行為ではないと、もう分かってもらえているのだから。
 ごまかしながら、自分はいつか必ず来る日を怯えて待っていた。調子を崩しているのに、それを外には悟られまいとして振舞うアピアの姿を見るのがとても辛かった。徐々にその頻度が高くなっていくのを、為す術もなく見守るしかなかった。
 だから、あのホリーラでの逃避行は驚きだったのだ。幾度か発作は起こしたものの、概ね調子良くあの距離を移動しきったのだから。
 それはもちろん気の抜けない状況のせいもあっただろう。でも、それに加えて、きっとアピアは再び思うことができたのだ。
 死にたくない、と。
 本人は気付いていないかもしれないけれど、きっとそうなのだ。そしてそれは、自分のためではない。
 セピアは再び膝の上で拳を握りこむ。
「行って、アピア」
 皆との別れの後、糸が切れたかのようにアピアは寝込んでしまった。三日意識は戻らず、七日寝台から離れられなかった。ようやく落ち着いたアピアに、そう訴えた。
「一緒に行って。アピアが本当に望む通りに。お願い。お願いだから」
 固い顔で聴いていたアピアは、しかし隣国への使節を引き受けるという形でしか、その願いを聞き入れてくれなかった。でも、神の導きか、今は一緒にいる。
 鳥文での知らせ、そして侍従らの報告を聞いた時、胸が締め付けられる寂しさと安堵が同時に襲ってきたことを思い出す。
「ずっと手段を探していた。けれど、国中探してもそれは見つからない。魔術師を名乗る者とて、導き入れてもみた。手段となるのならば、何でも構わなかった」
 その時、父の語る声が耳から飛び込んできて、セピアは長い夢想からようやく身を引き剥がした。
 顔を上げると、父の後ろ頭の向こうに、真剣な顔をして聞き入る伯父の顔が見える。
「そして……夢が私に囁いたのだ。世界はこの国だけではないのだと」

*9*

 そこで、もういいと言わんばかりに、伯父は頭を横に振った。彼は口を開き問いかけてくる。
「壁の向こうに望みを託したのか。何か手立てがあるものと」
「元より、調査に人を送り込んではあった。だが、そのような進度では間に合わない」
 ナッティアはあからさまに大きく、ため息をつく。
「お前は愚かだ。やはり国王として相応しいとは思えない」
 結局、彼から引き出せるのは拒絶の言葉だけだった。身を固くするテーピアに対し、ナッティアは鋭い視線を向けた。
「……だが、今もお前は王なのだ。それは覆らなかったのだから」
 そして、口を閉ざす弟へ諌めるように話しかける。
「テーピア。まさかこの段に及んでためらっているのではあるまいな」
 その口調はどこか柔らかく、言い聞かせるような響きがあった。
「聴取はすでに終わっている。私は包み隠さず話したつもりだし、他の者の証言とも矛盾はないはずだ」
 事を起こしてしまった以上、彼が助かる道はない。彼の言い分が理解できようとも、助けてはいけないのだ。
 同時に、それは彼の望みではない。
「さっさと実行の印を押せ。焦らされる趣味はない」
 突き放され、テーピアは呻くように問いを投げる。
「兄上。何か……何か言いたいことは、もうありませんか」
「意見はいくらでもあるがな。お前がけして聞き入れないことが分かった以上、もう口にする意味はない」
 そう宣言されては、もはや話を伸ばす理由もなかった。戸惑いで黙る弟に対し、兄はぽつりと呟く。
「だが、一つだけ、赦されるのならば」
 ナッティアは背筋を伸ばし、一分の隙もない佇まいで王と相対した。
「息子の命だけは見逃してほしい。これは愚かな故に、父に粛々と従っていただけで、己の思惑などない。このように無様な結末を迎えた以上、今後とも王家に仇なすような真似はできないだろうて」
 途端、ディーディスは息を呑む音も大きく、目を見張った青ざめた顔を父へと向ける。何か言いかけた彼を沈黙させたのは、父の鋭い一睨みだった。
「それだけを頼む」
 そして、縛られた姿勢のまま、ナッティアは深々と頭を下げたのだった。



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Akiary v.0.51