答える父の声はしなかった。床に目を落としたセピアには彼の表情を窺うことは出来なかったが、いかにも話を続けたくない雰囲気だけは伝わってくる。しかし、黙り続ける訳にもいかなくなったらしく、渋々といった調子で彼は口を開いた。
「アピア、そういう意味で話しているのではない。ただ、私は……」
「僕よりもセピアの方が王として相応しいのは認めます」
ためらう父の言葉を、アピアは一刀の元に切り捨てる。
「ならば、僕を第一継承者に据えておくことはないでしょう。不適格だと明かして、いなかったことにすればいい。どうしていつまでもこんな中途半端な状態にしておくんですか」
何を話しているのだろう。
セピアはくらくらした心地で、二人のやり取りを聞くしかなかった。
玉座の話。自分が相応しい。アピアが不適格。意味が分からない。分かりたくない。噂。あの噂。嫌な噂。嫌な予感。漠然ともてあましていた不安が、セピアの中で明確な形を取り始める。
「不適格などと、誰も思ってなどいない」
「こんな体で、王の責務に耐えられるものですか。第一、そう考えていなければ、どうして休養など勧めるのですか」
自分の手を握りこむ冷たい指が、また力を増した。そこから伝わる僅かな震えが余計にセピアの背筋を冷やす。
「正直に……おっしゃってください。もう希望はないのじゃないですか」
「そんなことはない!」
返された否定はひどく大きく響き渡り、反射的にセピアは顔を父へと向ける。同じようにアピアも父を見つめており、二人の息子の視線に射抜かれた父もまた、己の出した声に戸惑うようにもう一度小さな声で同じ言葉を繰り返す。
「そんなことは、ない」
しかし、そこから先には進まなかった。ただ落ちる沈黙は、父がそれ以上の言葉を持たないのを伝えてくる。
アピアが深く小さく息をついた。ふと手が放され、セピアは今度こそ兄へと振り返る。
「……もういいでしょう。なら、こうした方が余程すっきりする」
あっという間に首より抜き取ったそれを掴む手は、ふりかぶられた。制止する暇など、アピアは与えてくれなかった。
窓の外に放り投げられたそれは、一瞬だけ陽光に照らされて煌く姿を見せたが、すぐに露台の手すりの向こうへ消え失せてしまう。
「アピア!」
「二人の継承者なんて、混乱を与えるだけです。必要がなくなったのなら、さっさと退場すべきだ」
父の悲痛な叫び。兄の固い返答。
何が起きたのか、すぐに呑み込めない。
けれど。
考えるより先に体が動いた。あれは必要だ。衝動のようなものが自分の背中を押す。あれを手放してはいけない。それだけは分かる。あれだけは。
いつの間にか露台に出ていた。少し力をこめただけで、体は軽々と手すりの上へと持ち上がった。地面が遥か下に見えたが、それはためらいに繋がらなかった。迷いなど差し込む隙間もありはしなかった。
どこか他人事のように、セピアは手すりを蹴って飛ぶ己の姿を認めていた。
意識をはっきりさせてくれたのは、額に叩きつける風の冷たさだった。頭から急速に血が降りてくる感覚がして、霞んだ視界が段々と色を取り戻してくる。耳に飛び込んでくる音が意味を成してくる。自分の名を呼ばれている。
「セピア、聞こえているのか!?」
顔をそちらに向けると、微妙に遠い距離に父が立っていた。険しい表情で呼びかけてきている。その隣にはアピアがいて、強張った顔で同じようにこちらを見ている。
その胸の前で握り締めた両手から垂れている鎖を見つけ、セピアはようやく今までの流れを思い返すことができた。手すりから跳んだ後、あれを見つけ掴んで露台へと投げ返し、そして……。
「ひゃっ」
世界がぐらりと揺れて、素っ頓狂な声を思わず出してしまう。慌てて掴んだものは尖っていて皮膚を刺してくる上に、しなって頼りない。それ以前に、高い。
「動くんじゃない。じっとしているんだ」
父の更なる呼びかけが、余計に現状を突きつけてくる。天へと背を伸ばす大木の頂点近くに必死でしがみついているという、その現状を。
動けるはずもない。
結局、衛士らを総動員した大騒ぎの後に、何とか地面へ降り立ったのは陽も陰り始める頃だった。
「無事で良かった」
父に安堵の息と共に抱きしめられ、セピアは蚊の鳴くような声で言葉を返す。
「ごめんなさい……」
「謝ることなんてないよ。しかし、良くあそこに引っかかっていると分かったね。どうやって見つけたのかい?」
「……全然覚えてない」
改めて考えてみれば、認識して跳んだ訳じゃない気もする。地面に落ちていたり、隣の枝にひっかかっていたりした場合は何とも間抜けな結末を迎えていたことだろう。想像すると、頬が熱くなってくる。
と、父の腕越しに見えてしまう。
血の気の引いた青白い顔で、立ち尽くす兄の姿が。
セピアは父に放してもらい、その正面へと歩み寄った。
「あの……あのね、アピア、僕は……」
「そんなことしてほしいなんて、思ってない」
しかし、話しかけた言葉ははねつけられる。彼の手はいまだ胸の前に握り締められたままで、こぼれる鎖が細かに震えているのにセピアは気付いてしまった。
つい先ほどまでだったら、ここで挫けて引き下がっただろう。けれど、セピアは言葉を続けた。言っておかなければならなかった。
「……あのね、アピア、僕は何にも取らないから。取る気なんかないから。だから、安心して。だから、あの……」
側にいてもいい、なんて続けられるはずもない。また頭に血が昇ったらしく、くらくらした心地が戻ってくる。
「あの……」
言葉を失い、駆けて逃げようとしたセピアだったが、しかしそれは叶わなかった。不意に引き寄せられ、頬に柔らかいものが押し付けられる。
抱きしめられていると認識できたのは、顔の横から聞こえてくるくぐもり声のためだった。
「ごめん……ごめんなさい、セピア」
背中に回された手はどこかぎこちなく、先ほど父にされたようにはしっくりこない。母がするようには暖かく、安心できるものではない。けれどそれは、セピアがずっと求めていたものだった。
「ごめんなさい……」
肩に冷たいものがふりかかる。それは求めていたものではない。
「アピア、アピア、泣かないで、お願い、泣かないで」
どうして良いのか分からず、セピアはしがみつくようにして同じ言葉を繰り返す。声での返事はなかったものの、体を包む腕に力が込められるのが伝わってきた。
そこで、もういいと言わんばかりに、伯父は頭を横に振った。彼は口を開き問いかけてくる。
「壁の向こうに望みを託したのか。何か手立てがあるものと」
「元より、調査に人を送り込んではあった。だが、そのような進度では間に合わない」
ナッティアはあからさまに大きく、ため息をつく。
「お前は愚かだ。やはり国王として相応しいとは思えない」
結局、彼から引き出せるのは拒絶の言葉だけだった。身を固くするテーピアに対し、ナッティアは鋭い視線を向けた。
「……だが、今もお前は王なのだ。それは覆らなかったのだから」
そして、口を閉ざす弟へ諌めるように話しかける。
「テーピア。まさかこの段に及んでためらっているのではあるまいな」
その口調はどこか柔らかく、言い聞かせるような響きがあった。
「聴取はすでに終わっている。私は包み隠さず話したつもりだし、他の者の証言とも矛盾はないはずだ」
事を起こしてしまった以上、彼が助かる道はない。彼の言い分が理解できようとも、助けてはいけないのだ。
同時に、それは彼の望みではない。
「さっさと実行の印を押せ。焦らされる趣味はない」
突き放され、テーピアは呻くように問いを投げる。
「兄上。何か……何か言いたいことは、もうありませんか」
「意見はいくらでもあるがな。お前がけして聞き入れないことが分かった以上、もう口にする意味はない」
そう宣言されては、もはや話を伸ばす理由もなかった。戸惑いで黙る弟に対し、兄はぽつりと呟く。
「だが、一つだけ、赦されるのならば」
ナッティアは背筋を伸ばし、一分の隙もない佇まいで王と相対した。
「息子の命だけは見逃してほしい。これは愚かな故に、父に粛々と従っていただけで、己の思惑などない。このように無様な結末を迎えた以上、今後とも王家に仇なすような真似はできないだろうて」
途端、ディーディスは息を呑む音も大きく、目を見張った青ざめた顔を父へと向ける。何か言いかけた彼を沈黙させたのは、父の鋭い一睨みだった。
「それだけを頼む」
そして、縛られた姿勢のまま、ナッティアは深々と頭を下げたのだった。