少年の頭に獣の耳はなく、背に透明の羽はなく、尻に尾はなかった。言わば、人間の基本的型だけを持つその物盗りの少年は、肩より少し伸ばした髪を後ろに払い、ミュアたちを脅すように大きな瞳で睨みつけた。
「事を荒立てるつもりはなかったんだ、おとなしく渡してくれれば。さあ、早くしてくれ」
力の優位を見せつけたとはいえ、物盗りの少年にもまた、言うほど余裕がある訳ではなかった。勿論、もし倒れている少年がまた襲ってきても、あの程度の動きならば勝てると思う。けれど、これは模擬試合ではないのだ。勝てば良いというものではない。
ローブを脱がざるを得なかった時点で、自分はかなりの危険を侵している。加えて、成人前であるが故に、自分の容貌が威圧には線が細すぎるのも承知している。勢いで押し切らねばならない。
「出してくれれば、何もしない」
物盗りの少年は、二人に向かって手を差し出した。
対するミュアは、突然始まって突然終わった小競り合いの結末に呆然としていたが、促されてようやく自分の置かれた状況に気づく。結局のところ事態はほとんど変わっておらず、有羽族の少年の乱入は大した影響がなかったということだ。
「分かったわ。渡せば、そのまま去ってくれるのね」
「約束する」
物盗りの少年が頷くのを見て、ミュアは懐の隠しに手を入れようとした。しかし、それは再び止められる。
「ちょっと待ってください」
ニッカがミュアの手を抑え、先ほどまでの諦めとはまったく違う、険しい表情で少年を睨みつけていたからだ。
「ミュア、渡しちゃいけない」
「……そうすると不本意だけど、力づくでってことになるよ」
少年の目が剣呑な空気を湛えて細められる。その攻撃を喰らえばひとたまりもないくせに、ニッカは引こうとせず、質問を厳しい声音で叩きつける。
「その前に、どうして巡礼許可証なんて必要なのか、聞かせてもらいたいのですが」
「答える必要を認めない」
「昔のように、誰しもが巡礼に出るなんてことは今はない。だからこいつだって、そんなに厳密な代物じゃない。それでもいくらかの恩恵はある。簡単な宿、簡単な食事、そして何よりも……身分証明。けどそんなのだって、別になくても旅は出来るし、普通そんなに怪しまれない。どうしてわざわざ巡礼許可証なんて奪おうとするのか。貴方はできる限り怪しまれたくないんだ」
そしてニッカは、ついにとどめの一言を言い放った。
「貴方は三足族だ。そうですね?」
包帯を巻き終わると、小さな少年はその癖毛の頭を礼儀正しくぴょこんと下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとう。本当に申し訳ない」
続いて、横に控えているアピアも頭を下げる。
「消毒しただけだから」
ミュアは薬箱のふたを閉じつつ、照れ笑いをした。そこへいかにも不機嫌な呟きが割り込んでくる。
「三足族にそんなことしてやる必要ねーよ」
机を挟んだ壁に寄りかかって睨みを利かせているシードだった。彼はさっきよりはましなものの、いまだ殺気じみた気配を発しており、たちまち部屋にぎすぎすした空気が満ちる。
「あの、どうしてシードがここに?」
勘弁してよ、と内心ミュアは思っていたが、ニッカは奥に引っ込んだままだし、この場をとりなせるのは自分しかいない。何とか突破口を開くべく、まずシードに話しかけてみる。
「三足族を逃がすかよ」
「えーと、でも、何か用事があったりするんじゃないの。公爵様の頼まれものの途中とか」
「……お前、親父に知らせるつもりじゃないだろうな」
シードの矛先が今度はミュアに向けられ、その言い様に彼女は嫌な予感を覚える。そして、それは的中した。
「俺はもうあの家とは何の関係もないからな。よく覚えとけ」
それって家出ってことですか、と突っ込む気力もない。無茶苦茶だ。いかにもやりそうな彼ではあったが、何も自分の出発直後に鉢合わなくてもいいではないか。それは、突然出現した三足族についても言えることだが。
ホリーラとリタント、それを分ける壁。
二百年ほど前、戦争があったらしい。争いを続けるうちに境が自然と決まっていき……やがて、そこに壁が作られた。人の手によって積み上げられた、土と石の壁。それが完成した時、ようやく戦争は終わりを告げたのだ。以来、そこを越えた者はいないとされている。その戦争の原因は……。
「君も三足族は魔物と手を組んだ、と思っている口か?」
ミュアが頭を抱えているうちに、険悪な雰囲気は一層増してしまったらしい。顔を上げると、まさに一触即発の様相で、アピアとシードが睨み合っていた。
「あ?」
「言っておくけど、それは勘違いだ。魔法使いを駆逐したのは戦争のずっと前の話だ。三足族の中に、怪しげな術を使う者なんて一人もいない」
「何の話してんだよ、お前。そんな昔の話なんてどうだっていいだろーが」
「じゃあ、どうしてそんなに憎む。目障りだって言うなら、通報でも何でもすればいい」
「アホか。俺が殺すって言ってんだ」
「殺せるものなら殺してみれば。さっきから一発も当てることができないくせに、口だけはでかいね」
「何だと。よし、外に出やがれ」
「あーあーあー、ちょっとちょっとちょっとー!」
放っておくと悪い方にしか行かないので、ミュアが仲裁するほかなかった。二人の間に入って手をぱたぱたと振る。
「いい加減にしてよね、二人とも」
「アピア……」
セピアも兄の袖を引いて諌めてくれたのと、ニッカが奥から姿を現したことで、シードはまた不機嫌そうに押し黙り、何とかその場は収まった。
「何やってたんですか?」
ニッカの問いに、ミュアは力なく首を振る。
「いや、何て言うか……そっちこそ何やってたの。どうにかするって言って、ずいぶん時間かかったけど」
「調達してたんですよ、これを」
言って、彼が机に広げたものは二枚の巡礼許可証だった。ちゃんと印も捺してあるのに、名前と出身地、年齢の欄が空白になっている。ミュアの物問いたげな視線に、ニッカは肩をすくめる。
「まだ家財道具が処分されてなくて助かりました」
何も考えたくない気分に襲われ、ミュアは外の風景でも楽しんでおくことにした。その横で、ニッカがペンを持って兄弟に尋ねている。
「さて、出身地は適当に捏造するとして、お名前と年齢は?」
「アピア……アピア=セリーク=ファダー。弟はセピア。十三と十だ」
飾り文字で書き込めば、巡礼許可証の完成だった。しかし、ニッカは書類を渡さず、その上に手を乗せ二人を見つめる。
「ひとつ、条件をつけても良いですか?」
アピアは口を開くことなしに、警戒を増した目でニッカを見やった。その無言を答えとし、ニッカはさらに言葉を継ぐ。
「目的地を教えてもらえませんか」
「それが条件?」
「これは前振りです。無理にとは言いませんが」
アピアはしばし考える様子を見せたが、やがて壁に貼ってある地図の一点を指差す。
「ここだよ」
それはホリーラ南端に一際高くそびえる山にして巡礼の最終地、聖山であった。
「なら、道のりは同じですね」
そこでニッカは微笑み、ようやく条件を口に出す。
「僕たちに同行してもらいます。それが呑めないのなら、これは渡せません」
そして、そのやり取りを耳に挟みながら、僕たちというのには自分も当然含まれていて、この先も厄介からは逃れられそうにないんだろうなとミュアは覚悟していた。
アネキウス暦七五一二年青の月のことである。