天頂に座する太陽は次第にその光を翳らせつつあった。夜がもうすぐやってくるのだ。地と魔物の時間が。森が落ち着かなげにざわつき、生き物の気配が引いていくのが感じられる。アピアは口の中で夜の始まりのための祈りを小さく呟くと、改めてシードに向き直った。
「言っておくが、僕は君のような人間は大嫌いだ。これ以上つきまとうのは止めてもらおう」
「お断りだね」
対してシードは短く言い捨てると、腰に佩いていた剣を脇の茂みに無造作に放った。やる気は充分なようだが、アピアには別につき合ってやる理由はない。
「本当かどうか知らないけど、公爵の息子だって? 君のいるべき場所はここじゃないんじゃないか?」
一層冷たい声で、シードをたしなめる。
「親父のことは関係ないだろう」
「関係あるね。君はそこから逃げ出してきたんだろう。無責任にすぎると思わないのか?」
話しているうちに、アピアに次第に苛々が募ってくる。気に入らない。少なくとも、こいつにだけは自分たちの行動をどうこう言われたくない。
その気持ちを察したのかどうか、シードの返答は見事にアピアの感情を逆撫でするものだった。彼はわざわざ一音ずつはっきりと発音して言い放ったのだ。
「思わないね」
もはやアピアも話す気を失くしていた。
「最低の奴」
そう吐き捨てて、構えを取る。叩きのめしてやらないと分からない奴はこの世に存在する。あまり嬉しくない手合いだが、出会ってしまった以上仕方がない。
軽く間合いを計りながら、アピアはもう一度だけシードに問いかける。
「先に聞いておくけど、君は正規の訓練を受けてないのか?」
シードの動きはあまりにも力任せで大雑把すぎた。答えは予想通りのものだった。
「んなもん、俺には必要ねーな」
アピアはそこで大きく息を吸った。満ち始めた闇が一緒に入り込んで、胸が僅かに痛む。けれどその冷たさは、彼の体の隅々を目覚めさせた。
目をすがめた表情で、アピアはシードを正面から見据える。
「じゃあ君は、やっぱり僕には勝てないよ」
「ほざけ」
刹那、シードが地面を踏み切った。
「むかしむかし、壁が出来るよりももっと昔、グラドネーラには今よりもっと暗い時代があったの。地より魔物が湧き、魔法使いはそれらと手を組み、人々は不安に怯えるそんな時代」
ミュアは幼い頃神殿で聞いた話を思い出しながら、物語を紡ぎ始めた。請うたセピアが傍らの椅子に座って大人しく聞いている。
「偉大なるアネキウスは天よりその様子をご覧になって、心を痛めたわ。いくら光を与え、雨を降らせても、とても浄化は追いつかず、人々の嘆きの声は止まなかった。そして、ついに決められたのよ」
「自分が降りていくことを?」
「そう、人の姿を借りて、降り立たれたの」
その話は聖書の中核となるもので、セピアも当然知っていた。だから、先を促す。
「うん、それで魔物をたくさんやっつけたんだよね。それと巡礼はどう関係があるの?」
「つまりね、私たちがこれから歩く道は、かつてアネキウスも歩まれた道ってこと」
それはリタントの聖書にはない部分で、セピアは首を小さく傾げる。ミュアの指が地図を辿った。
「まずリーラス、王都ね。この場所に降臨されたアネキウスは人々に救いを説かれた。そして、南へと向かい、大森林に沿って歩き出し……」
「この、熱地とかいうところを通って、南の草原に抜けたんだ」
「そうそう。熱地には強い魔物がいて、激しい戦いになったらしいわ。行った時に詳しく教えてもらえると思うけど」
「最後が聖山なんだね」
ミュアとセピアの指が同時に南端に描かれた巨峰に触れる。それこそがグラドネーラで最も高い山であり、目的地だった。
「救済を終えたアネキウスはここから天に戻られた。向こうの国からもこの山は見えるでしょう?」
「見えるよ。リタントからも見える」
「私たちはアネキウスと共にこの山を目指すの。それが巡礼ってこと」
しかし、その習慣が盛んだったのは昔のことだ。今や制度だけは残っているものの、かつてのように成年の際に必ず出なければならない旅ではなくなっている。
セピアは再び地図の上の巡礼の道を指で辿っていたが、不意に顔を上げた。
「……でも、それじゃあアネキウスはリタントには来なかったってこと?」
「うーん、そうなるのかな」
セピアの疑問に、ミュアは言葉を詰まらせた。正直、壁の向こうの国のことなんて考えたこともなかったのである。よく言われているように、三足族は化け物だとも思っていなかったが、目の前にいる少年のように、アネキウスを信仰する同じ人間だとも思っていなかった。
「僕はかなりの部分が嘘だと思ってますけど」
困るミュアに助け舟を出してきたのは、横でやり取りを聞いていたニッカだった。
「嘘って?」
「例えば、リーラスから始まるってのが胡散臭い。確かに今は王都ですけど、例えば帝国時代には浄められた平原の辺りに都があったって話でしょう。ダリューラ時代も違う場所だったはず。つまり、アネキウスが訪れたからそこが都になった、ってのは後から作られたと考えた方がいい」
ニッカの言い様に、今度はミュアが戸惑ってしまう。
「じゃあ、巡礼に意味はないってこと?」
「どうでしょう。本当でも嘘でも、アネキウスの跡を歩こうと思っての行動なんですから、その道は祝福されている……と僕は思いますけど」
「そんなものなの?」
「そんなもんですよ、言い伝えなんて」
物語に潜んでいるたくさんの嘘。確かに今ではもうはっきりしたことがある。三足族は化け物ではなく、魔法使いでもなく、聖なる壁を越えられない訳でもない。
(むかしむかし、有羽族も生耳族も三足族も同じ国で暮らしていました)
ふとミュアの頭の中にそんなフレーズが浮かんだ時、部屋の扉が軋んで開いた。
少し遅れて始められた食事は、とても豪華とは言えないものの、それなりの味と量は保っていたし、何より野宿の時と違って暖かいのがありがたい。巡礼が廃れかけた今では、昔は一日歩く距離ごとにあったという巡礼宿も既にないことが多く、野宿も致し方なかったのだ。
テーブルについた四人は各々のペースで喋ったり口に運んだりを繰り返していた。
「にしても、シードはほんとに勝手よね」
ミュアは、姿の見えない少年に対して、憤慨の意を示す。
「食事ぐらい皆で揃って取ったらどうかしら」
「まあ、彼は許可証を持っている訳じゃないですから、ここで食べる必要はないですけど」
「そういう問題じゃないのよ。大体、ここ以外に余所の人間に食べさせる場所ってあるの?」
「見当たりませんね」
さほど大きな村ではなく、来訪者が頻繁にある訳でもないので、そんな施設の必要はない。
「どこまでついてくる気か知らないけど、一緒に来るつもりなら協調性をもうちょっと持ってもらわないといけないと思うわ」
別に身分を鼻にかけているとは思わないが、やっぱり育ちが育ちなのでずれている部分が彼にはある。前に村に来た時もそうだった。自分のお屋敷の中なら好きにしてくれていいけれど、ここはそうではない。
「そういえば、アピアは会わなかった?」
問われて、アピアはかぶりを振る。
「さあ。森の中で迷ってなければいいけど」
「魔物退治だー、とか言って、森の中に突っ込んでいきそうですからね」
その光景は難なく想像できたので、一行は笑っていいものか心配すべきなのか、微妙な表情になって一瞬黙る。
「とにかく帰ってきたら言い聞かせてやらないといけないわ。ニッカ、戻ってきたら教えて」
「了解です」
しかし寝る時間になってもシードの姿は部屋には現れず、ミュアのやる気は空回ることになった。
誰かが呼んでいるような気がして、セピアは目を開いたが、ベッドに上半身を起こしてしばらく耳を澄ましても、もう何も聞こえなかった。響いてきたのは、夢の闇の奥からだったかもしれない。それは懐かしい声だった気もして、少し悲しくなった。
閉まった木窓の隙間から、青白い光が洩れている。ベッドを降りて近づき、掛け金を外して少し開く。空の中心に皓々と丸く月が掛かっている。昼とは比べ物にならないくらい弱い光だけれど、魔の時間になってもアネキウスがこの世界を見守っていてくれる証だ。昼の直視できない陽光よりも、こちらの方が何となくセピアは好きだった。
「ん……」
眺めていると、光に反応したのか後ろでアピアが小さな声を上げる。起こしてはいけないと思い、セピアは窓を閉めたが、もうちょっと見ていたい気持ちもあった。そこで、こっそり外に出てみることにする。宿の前に出るだけだし、危ないことはないだろう。
しかし表に出た途端、一陣の強い風が吹いて森がざわめき、セピアはすくんでしまう。黒々とした塊が村を囲み、視界を塞いでいるのはやっぱり怖い。空は同じに見えるのに、何て遠くに来たのだろう。
「……誰だ?」
その時、背後からいきなり声がして、セピアは反射的に跳び上がった。振り向き、そこにいる者の姿を見つけて、さらに彼の顔は青ざめる。
太い眉を持つ有羽族の少年が、宿の前のベンチに陣取っていたのだ。
「チビの方か」
アピアから、一人の時は絶対に近づくなと注意されていた相手が目の前にいる。しかも、彼の横を通らないと宿には戻れない位置に。どうしたらいいか分からなくなって、セピアは思わず挨拶してしまった。
「こ、こんばんは」
「何びくびくしてんだよお前」
しかしそれもつれなく返されて、もう掛ける言葉が見つからなくなる。どうやって宿に入ろうか悩んでいるセピアに構わず、シードは空になったグラスに琥珀の液体を注ぐ。
「ああ、ガキに殴りかかるほど暇じゃねーから安心しとけ」
そして一口含み、彼は顔を歪めてそれを地面に吐き出した。またセピアは驚いて肩を震わしたが、地面に出来た染みに赤いものが混じっているのも見つけてしまった。
「あの……もしかして、怪我してるんですか」
おずおずと聞いたセピアに、不機嫌そうな視線が向けられる。
「別に、口ん中切れてたから消毒しただけだ」
「ご、ごめんなさい」
「何で謝るんだよ、訳わかんねぇ」
その会話になっていない会話の後、しばらく沈黙が続いた。その間、セピアは所在なく立ち尽くし、シードはひたすらグラスを呷り続ける。
「おい」
「あ、は、はい」
「つーか何で突っ立ってんだよ、お前。眠れないのか?」
「あ、えーと、そういう訳じゃ……」
「飲め」
萎縮するセピアに、得体の知れない液体が満たされたグラスが差し出された。断るのも怖いので、一口だけいただくことにする。喉に流し込んだ時、ぴりぴりとする特有の感覚をセピアは覚えた。彼はこれが何だか知っていた。未成年だから普段はいけないのだが、時々飲まなくてはいけない場面もあったからだ。
「これ、お酒だよ」
しかも、セピアの経験からすると相当強いものに思える。こんなに喉が痛くなったことは今までにはない。
「そりゃそうだ」
「どうして……」
お酒なんて飲んでるの、飲んでいいの、などと聞こうとして言葉足らずになったセピアの問いかけに、シードは面倒くさそうに答える。
「俺は関係ねーけど、お前は寝れるんじゃねーの」
その言葉の意味するところが急には理解できず、セピアはきょとんとしてしまう。すると、シードがまた睨みを利かせてきた。
「いいから飲め。ガキが夜中にうろうろしてるんじゃねえ」
ぶっきらぼうな物言いに促され、グラスを口に運ぶ。数回続けている内にそれは空になった。
「よし、じゃあ寝ろ。寝れるな?」
さすがにこれだけ飲むと、全身が火照って視界がくらくらするし、やけに目蓋が重い。同時にさっきほど怖がっていない自分に気づく。目の前の少年が、アピアが言うほどひどい人にも思えなくなっていた。
だから、聞いてしまう。
「あの」
「何だよ。寝ろって」
「どうして僕らが嫌いなんですか?」
うまく聞き出せば、これからアピアと仲良くやっていけるかもしれない。
「……教えてやろうか?」
けれど、そんな期待は空しかった。返ってきた言葉に、セピアは口が滑ったのを後悔する。
「俺の母親を殺したのが、三足族だからだよ」