巡礼は廃れていても、道は日々の行き交いによって保たれている。物流の要点が近いともなれば尚更だ。最初はすれ違うことが珍しかった他の通行人も、ここに来て見かけない日はなくなっていた。
「三日後くらいにはタイナーに着けそうね」
旅は大きな揉め事もなく続いていた。小さな揉め事はたくさんありすぎて数える気も起こらなかったが。
揉め事の主たちは現在、先頭としんがりに分かれて進んでいる。お互いを無視している状態なので、しばらくはぶつかることもないだろう。
「タイナーって結構大きいんだよね。楽しみだなあ。ニッカは行ったことある?」
自然と緩衝地帯を歩くことになりがちなミュアだったが、いい加減この状況に慣れてきてもう気を揉むこともなくなってきた。結局なるようにしかならない。
「ないですよ。リーラスになら一度行ったことはありますけど」
「そうか。私、王都は行ったことないんだよね。シードんちは王都にもあるんだよね。トーラーのお屋敷は見たことあるけど。やっぱり大きい?」
「どーでもいいだろ」
「王宮よりは大きくないよね」
「うるっさいな、お前」
「答えてくれないからでしょ」
そして、前列の三人から少し離れて三足族の二人は歩を進めている。こちらは前と違って、声を潜めての会話をしていた。
昨夜のことを、セピアが話していたのである。アピアは聞いてまず眉をしかめる。
「嘘つかれたとかはない?」
「分かんない、けど……」
こちらを睨む目は据わっていて、とても冗談を言っているようには思えなかった。戸惑ったセピアの様子に、アピアは話の方向を変えて問いかけた。
「覚えてるよね、壁越えた時のこと」
途端、二人の背中を悪寒が走り抜ける。あの時の感覚は、それだけの言葉のきっかけであっさりと蘇った。まるで体の芯に食い込んでいるかのように、内から冷たさが沁みこんでくる。
雨が降っていた。
ずぶ濡れになった時のあのみじめな気持ちを思い出したくなかったが、そんな贅沢を言っている場合ではなく、壁に取りつく。その間にも何度も背後から足音を聞いた気がして振り向いた。けれど、そこには誰の姿も見えずに、神経だけが擦り減る。幸いなことに追っ手に見つからないまま穴は発見されたので、隠れていたセピアと共にアピアはそこをくぐった。
瞬間、総毛立つ。境界に踏み入れた足に、壁の影から何かが染み出てきて絡みつくような心地に陥る。今来た道へと引きずり倒されそうで、アピアはセピアを抱えるようにして慌ててそこから転がり出た。知らない世界へ入り込むためらいなど感じる暇もない。
「……誰か、いるよ……」
腕の中のセピアが弱々しい声で呟き、アピアも背後からの嫌な気配に気づく。
見ている。
貫くような視線を感じて辺りを見回しても、やはりそこには誰の影もない。でも分かる。その視線は明らかに自分たちを責めている。逃げ出す自分たちを連れ戻そうとしている。
アピアはセピアの手を取って、がむしゃらに走り出した。心がくじけそうで、後ろを振り向くことはもう出来ない。
壁から遠く離れて、ようやく悪寒は消えてくれた。
今となっては悪い夢の中のような気もするが、あれは現実だった。壁を越える前にも、越えた後にも多くの悪意にさらされていたはずなのに、最も鮮烈に思い出すのだ。
あれが、自分たちだけが感じた幻ではないとしたら。壁を越えようとした者に与えられる罰なのだとしたら。
「あんなの、よほどのことがない限り越えたいと思わないだろうね」
事実、抜けることはあんなに容易なのに、リタントに有羽族や生耳族が出現したという話は聞いたことがない。
「だから、シードの言ったことが本当なんだとしたら……」
その先をアピアは口にしなかった。ただ、胸の前で手を握り締めたまま、しばらく考え込んでいた。しかし、最後には首を横に振ってこう結論づける。
「やっぱりそんなことはない。嘘だよ、セピア。あいつに似つかわしい、意地の悪い嘘さ」
そして、改めて一人の時にシードに近づかないように忠告する。セピアはそれを困ったような顔で聞いていた。
追跡劇はあっさりと終了した。逃げ出した宿屋の主人が飛び込んだのは、隣に建つ小さな小屋だったのである。シードも後を追って小屋の扉に手を掛けるが、鍵を閉められたらしく開かない。そこでシードは一瞬考え、続いて思いきり扉を蹴っ飛ばす。途端、めきっと何かが壊れる音がして、扉は内側へ倒れていった。
中にいた男たちが、ぽかんとした顔で戸口に立つ少年を見る。
「……んで?」
彼らはどうやら出迎える準備をしていたらしく、手に武器を持っている者と持っていない者がいた。人数は主人を入れて四人。結構な強面で、例えば朝になって金品がなくなったと訴え出たお客様にお帰りいただくのが普段の業務といったところだ。今回のような乱入は想定外だったに違いない。
「こ、こいつ、こいつを!」
主人が指差して騒ぐのを無視して、シードは中へとずかずか入っていく。そしてまだ臨戦態勢になっていない男たちの一人の襟首をさりげなく掴む。まさか当の男も、明らかに体格に劣るシードに自分が軽々と持ち上げられるとは思わなかっただろう。
「うえ?」
男が自分の状態をやっと理解して奇声を上げた途端、シードはそれを遠くにいるもう一人に向かってぶん投げた。不意打ちを避けられるはずもなく、男二人はそのまま壁に叩きつけられて動かなくなる。
「あー、剣忘れたから、手加減がめんどくせー」
シードがぼやき、主人と強面の最後の一人が唖然とする。
「降参するなら、終わりにすっけど?」
ここでシードの挑発に引き下がる訳にはさすがにいかなかったらしい。気を取り直したらしき男は主人を押しのけ前に出て、シードと対峙した。
「ガキだと思って手加減してりゃあ、いい気に……」
「いや、いつしたんだよ、手加減」
当然、男の威圧に怯むシードではない。そう冷静に突っ込むと、男は吠えながら殴りかかってきた。
「うるっせぇよ!!」
体格差を生かした、上から振り降ろすような攻撃がシードに迫る。しかし、シードはそれを避ける素振りを見せず、ただ睨みつけたまま動かない。男の拳がシードの顔面に突き刺さる。
と男が思った瞬間、少年の姿はかき消え、拳は空振りしていた。それを不思議に思う間もなく、男の腹に痛烈な打撃が与えられた。
「ち……あん時やられたのはこれか、畜生」
男の懐でシードは呟く。ぎりぎりで躱し、盲点へと踏み込んだのだ。数日前に自分が喰らった反撃だった。
泡を吹いて倒れる男の向こうに、主人の姿がある。手前の床に財布や金品を置き、深々と土下座している。
「お連れ様のものはお返しいたしますので、どうぞご勘弁を!」
「はあ」
ミュアたちの方が先に盗られていたらしい。別に取り返しにきた訳ではなかったが、一応検分するようにその内訳を確かめてみる。その指が、妙なものに引っかかった。
普段なら、気にもとめない代物である。金の鎖の先に小さな石がついた首飾りに興味などない。けれど透明の石の中でちらちらと踊る七色の光を見ていると、焦りにも似た変に落ち着かない気分になってくる。
「おい、お前」
「な、何でございましょうか」
「朝までこいつらとここにいろよ。逃げたらどうなるか、分かってるだろうな」
シードは荷物を掴むと、男たちを拘束もせずに小屋を転がり出る。何に自分が追い立てられているのか、分からないままに。
宿屋は変わらず静まり返っていた。自分が通り抜けた窓が開きっぱなしでぎいぎいと揺れているだけで、慌てて帰ってきたシードは拍子抜けする。あの奇妙な焦燥は何だったのだろう。
やれやれと息をつきベッドに腰掛けると、手からこぼれた財布が甲高い音を立てて転がる。そういえば、返しておかないと朝になって自分が盗ったと思われては面倒だ。どれが誰のやら分からないが、適当に脇机にでもまとめて置いておけばいいだろう。
「入るぞー」
聞いてはいないだろうが、一応そう声をかけてから隣の部屋の扉を開く。主人が鍵を開けたままにしておいたらしく、シードは問題なく中へとずかずか入り込んだ。
その声に気づいたのは、脇机に荷物を積み上げ、帰ろうとした時だ。
最初、森ででも獣が唸っているのかと思った。しかしよく聞き直すと、それは部屋の中のもので、獣ではなく人間の呻きだと分かった。
「何だ?」
生耳族ならもう少し見えるのだろうが、有羽族のシードにとっては部屋は闇に沈んでいたので、まず窓を開けてみる。月明かりが差し込んできて、ぼんやりと世界が浮かび始める。片方のベッドがもぞもぞと動いていた。
「何やってんだ」
シードはためらわずシーツを剥ぐも、中の有様を見てうろたえた。
「おい、どうしたよ、おい!」
明らかに様子がおかしかった。アピアはベッドの上で体を折り曲げ、震えていた。その口からは苦しそうな喘ぎが洩れてくる。触れた頬は冷たく、汗でぐっしょりと濡れていた。
「起きろ馬鹿、こら!」
いくら叩いても、まったく反応がない。時折、痙攣と共に呻きが吐き出され、どう見てもやばそうな状態だった。
「チビ、起きろ、こらチビ!」
そこでシードは標的を変えることにした。同じベッドで眠っているセピアを叩き始めたのである。最初は反応がなかったが、しつこく叩き続けるとゆるゆる重い瞼を開く。まだ意識がはっきりしていないらしい彼に、シードは話しかける。
「お前の兄貴、何か変だぞ」
途端、薬の影響が切れたのか、すばやい動きでセピアは起き上がった。そして、横でくの字になっているアピアを覗き込み、その胸元に手を入れる。彼の横顔が引きつるのをシードは見た。
「首飾り!」
セピアは振り返って叫ぶ。
「知らない、石のついた奴!」
「ああ……あそこ」
噛みつかんばかりのセピアの剣幕に圧され、シードは素直に脇机を指す。すると、セピアはそこへ飛びつき、あの首飾りを探り当てた。それを持ってベッドへと戻り、アピアの手に握らせる。効果はてき面だった。時間が経つにつれて、アピアの呼吸は穏やかになっていく。セピアはベッドに手をつき、大きく安堵の息を吐いた。
それから振り返ると、シードの疑問の視線が注がれているのに気づく。
「何だそりゃ?」
「何であんなところに?」
お互いの問いは同時になされ、再び二人は不可解だという表情を向け合った。
「いや、そりゃ逃げるでしょ。逃げるわよ、絶対」
空っぽの小屋を見て、ミュアは呆れた声で繰り返す。それに対して、シードは大あくびをして答える。
「もうどうでもいいだろ、あんなの」
「んー。どうでもよくはないような」
目覚めて人気のない宿屋を不審に思った一行は、暢気に寝ていたシードから話を聞いて事情を知ったのである。そこで小屋を覗いてみると、残っているのは破壊の跡だけで、昨夜シードがのした男たちの姿はどこにも見当たらなかった。
「まあ、一応詰め所なり神殿なりにでも通報しておけばいいんじゃないですか」
「それしかないか」
別に自分たちは自警団じゃないし、もうこの村を経つのだから、追って捕まえるなんてことは出来ない。それに、ミュアやニッカにとっては知らないうちに始まって知らないうちに終わった事件だったので、腹が立つとか悔しいとか、そういった感情も湧きようがない。当のシードが本当にどうでも良さげなのも拍車を掛けていた。
「でも、どうして放置して戻ったんです?」
「眠かったからな」
ニッカの素朴な疑問への答えも素っ気ない。そのやり取りを少し離れた場所から聞いていたアピアが嘆息する。
「中途半端っていうか、いい加減っていうか」
「でも、シードがいないとお金盗られてたんだよ。僕たちは気づかなかったんだし」
「……まあ、そうかな」
しかし、傍らのセピアにそう諭されて、渋々ながらそれを認めた。薬を盛られるなんて迂闊さは反省すべきだ。今のところうまく逃げているとはいえ、油断は否めない。こんなことではこの先乗り切れない。
「あの、だから、お礼とか言った方がいいんじゃないかなって……」
自己反省をしていたアピアだが、セピアに考えもしなかったことを言われ、思わずぎょっとする。
「お礼?」
「うん」
「……あれに?」
「うん」
「いや、でもさ……」
気の乗らない雰囲気のアピアに、セピアは言い募る。
「父上も母上もアピアも、何かしてもらったらちゃんとお礼を言いなさいって」
「うん、分かってる。分かってるけど、ちょっとそれは」
アピアは難しい顔をしたまま、考え込んでしまった。セピアにしてみれば、いくら仲が悪いからといってここまでためらうアピアを初めて見た。むしろ仲が悪ければ悪いほど、完璧に振舞う方をアピアは今まで選んできたと思う。よほど相性が悪いのか、この様子だとお礼は言ってもらえそうになく、シードに申し訳ない。
昨晩、状況を説明してもらったセピアは、シードに頭を下げた。
「ありがとうございます」
その直接的な表現に面食らったのか、だからぺこぺこする奴は、などとシードはもごもご口の中で言っていたが、やがて問いただす視線でセピアを見る。次はセピアが話す番のはずだが、彼は変わらずまっすぐにシードを見たまま、首を小さく横に振った。
「申し訳ないのですが、僕からお話しできることは何もないんです」
もちろんシードが納得する訳もなく、鼻を鳴らすことで不満を表明する。それでもセピアは引き下がらず、重ねて加えてきた。
「ただ、一つお願いがあります」
こう言われると、逆にその内容が聞きたくなり、シードは憮然としながらも促す。
「言ってみろよ」
「さっきのこと、忘れてください。アピアに聞いたり、調べたりしないでください」
随分と虫の良い話だった。聞くだけ聞いておいて、自分は話したくない、忘れてくれ、と言われているのだ。普段のシードだったら、脅してでも聞き出そうとしたかもしれない。
ただ、相手がセピアであること、今は叩き起こされて眠かったのこと、その時に見ていた悪い夢の名残りが心の片隅に引っ掛かっていたことが食い下がる気持ちを萎えさせた。
「お願いします」
再び頭を下げたセピアに、シードは投げやりになって言い放つ。
「あー、分かった分かった。別に三足族のことなんて知りたくもねーよ」
「取ったりとか……」
「しない」
その約束のために、シードはミュアたちに前半部分しか話さなかった。まあ話したところで、男たちを放り出して帰った理由が一応つくだけであり、その理由にしても嫌な予感とかそういう曖昧な落としどころだ。
だから、どうでも良い。
「通報するなら、まだ出発じゃないよな。俺もうちょっと寝るわ。出る時に起こしてくれ」
また欠伸をして、シードは宿屋へと戻っていった。その後姿を見送るニッカがぽつりと洩らす。
「別に疑っている訳ではないですけど、眠り薬が効かなかったっていうのは、どうなんでしょう」
その辺りの話は何となく流されてしまったが、犯人たちを拘束しなかったことの次に引っ掛かるのがその部分だ。どうもシードの説明は主観が強くて分かりにくい。
「ああ、うん。それはいいの」
しかし、ニッカのその疑問をミュアもまた流した。
「シードはそうだから。だからいいのよ」
赤い実と黒い実。
ミュアは思い出している。
シードが村にやって来た時のことを。