もちろんそれはかなり大きなニュースで、伝えられた途端に村は大騒ぎになった。特に構わなくていいと言われてもそんなことができるはずもなく、準備は村を挙げて行われた。
なにしろ、来るのは公爵の息子、順当に行けば次の領主様だ。失礼があってよいはずがない。
「でも、どうしてこの村に?」
ミュアの疑問は、誰もが一度は抱いたものだったろう。聞かれた父親はすらすらと答える。
「公爵様はお忙しいからね。王都にずっといなければいけない時もある。そんな時、トーラーのお屋敷にご子息様一人じゃ不安ということらしいよ」
「私は一人でもお留守番できるけどな。私と同い年なんでしょ?」
「おいおい、一人で留守番なんてしたことないくせに。それに広さが違うよ」
父親は笑いながらミュアの癖毛をかき混ぜるように撫でる。結び目がぐちゃぐちゃになってしまうのを嫌がり、頬を膨らませてミュアはそれを避けた。
「だったら一緒にリーラスに行けばいいんじゃないの?」
「リーラスにもお屋敷はあるけど、やっぱりあそこはね、息が詰まるよ。木の家が一番だな」
父親は昔、王都で働いていた時期があるらしく、話が出る度にそう締める。ミュアもその影響で、石造りの家が立ち並ぶ光景は一度見てみたいとは思っていたが、そこに住みたいとは思わなかった。大森林は恐ろしい場所であると同時に、恵みの宝庫だ。ずっと共に生きてきたし、これからもそうするだろうとミュアは信じている。
「ということで、公爵様はこの村にご子息を預けられるということさ」
めでたしめでたしと言わんばかりに、父親がそう結論し、ミュアも一瞬納得する。しかし良く考えれば何かおかしい。
「待ってよ。何か聞きたいことと違う。他にも村はいっぱいあるじゃない、どうしてここなの?」
どうして公爵の息子が屋敷を出るのかを聞きたかった訳ではないのだ。重ねて問うミュアに、父親はにやりと笑ってみせた。
「どうしてこの村を選んだかというと、公爵様はここの果実酒がお気に入りだからだそうだ」
ついたオチは牧歌的なもので、ミュアは拍子抜けする。例えばお家騒動で暗殺者に命を狙われていて身を隠すとか、そういうことを少し期待していたのだから。それを告げると、父親に笑い飛ばされる。
「お前は物語の聞きすぎだ。そんなことはないよ。この国は平和だし、ご子息の他にトーラーを継ぐ人間はいないんだから」
トーラー公爵家は新しい家柄だ。現在の当主は三代目で、現国王のはとこに当たる。そして、二代目にも三代目にも生存している兄弟はいない。つまり、家系は一本の線で結ばれていて、トーラーの家名を持つ近い親戚は存在しないのだ。
「もし万一……万一だよ。万一ご子息がお亡くなりになったとしたら、たぶん家名はなくなり領地は召し上げられて、他の家の領主がやってくることになるだろうね」
「めんどくさいことになりそうね」
「公爵様には良くしていただいてるからな。変な奴が交替でやってくるのは勘弁だ」
とにかく最初の疑問は解決したので、ミュアは他に気になっていることをさらに尋ねた。
「どれぐらいいるの? どこに泊まるの?」
「質問が多いな。まあ、泊まるのはやっぱり兄貴の家になるんじゃないか。それか、離れを用意するか。どちらにしろ、お世話は兄貴のとこが主体だろうな」
その言葉にミュアは歓声を上げる。
「うわ、ほんと。じゃあトスルんとこ遊びに行ったらいるんだ」
「いるってお前、珍しいペットじゃないんだぞ。くれぐれもご子息の前でそんなこと言うなよ」
村長とミュアの父親は二つ違いの兄弟であり、気安い仲だった。トスルは二つ上の従兄弟で、年の近い兄弟のいないミュアにとっては、昔からの遊び相手だ。
「へー、楽しみだなあ。どんな子なんだろ」
少しの違いはあれど、どの家でも似たような会話が交わされていただろう。子供たちが、自分と似たような年の“貴族様”に興味を持つのは当然の流れだった。それは大人も同様だったが、彼らは子供たちとは違い、責任ものしかかってくる。
そして、大人たちには緊張を、子供たちには物珍しさを覚えさせたその人物はついに村にやって来た。
王都からの使者は、丁重なお悔やみと見舞金、そしてシードをトーラーに戻すようにという指令を村にもたらした。慌しく準備は進み、それに合わせるようにして噂も再燃した。その最後の追い討ちの場面へ、ついにミュアは居合わせた。
村の外れに溜まって囁き交わしている彼らの輪の中に臆せず入り、その男の正面に立つ。
「ノトゥン」
ミュアはわざと彼の名前を呼び捨てにした。その無礼さへの怒りで目を剥く彼に、ミュアは怯まず続ける。
「もう止めなさい。シードは悪くない」
しかもそれははっきりとした命令口調であった。
ノトゥンは面食らったらしく一瞬黙り、しばらく迷っている様子だったが、そこでとぼけるような真似はしなかった。彼はただミュアを睨みつけ、憎々しげにこう絞り出す。
「……お前、従兄が殺されて悔しくないのかよ。それとも貴族様に尻尾振ってんのか?」
「悔しいわよ。悔しいわ」
ミュアは即答した。今だってまざまざとトスルの死に顔を思い浮かべることができる。不自然に強張った表情と、その口の端から漏れる赤い泡と、鉤のように曲げられたまま硬直した指の映像が頭を離れない。夜風が窓を叩き、開けた後でそこには闇しかないのを知った夜もあった。
けれど、その悔しさは誰かに向けられるものではない。
「じゃあ何で庇うんだよ。あいつらは何をしても金で解決できると思ってるのさ。今回のことで良く分かったろ。あいつらは俺らのことなんて虫けらくらいにしか……!」
「ノトゥン」
ミュアはまくし立てる彼を抑えるように、今一度彼の名を呼び捨てた。そして、繰り返した。
「もう止めなさい。貴方は悪くない」
途端、怯えるような沈黙が辺りを包む。ノトゥンの取り巻きの挙動がおかしくなり、本人も隠しようがなく目が泳ぐ。それを見て、ミュアは確信することができた。
「シードに食べさせたのは貴方ね」
それは、この村の子供の誰もが一度は経験すること。よく似た黒い実と赤い実を使った通過儀礼。
ノトゥンはこう言ったに違いない。
「度胸試しだ」
ゆっくりと慎重に噛み締め、そこにぴりぴりとした違和感を覚えたら即座に吐き出せば平気だ。噛み過ぎると口の中が一日痛む羽目になるが、それぐらいのこと。
でも、黒葡萄なのにニセブドウと間違えて吐き出したりしたら、そいつは臆病者だ。
「まさか、怖気づいたりしないだろ」
差し出される赤い実の房。熟れている最中なのか、それとももう熟しているのか、すぐには判断できない鮮やかな赤。
シードはたぶんためらわなかった。もぎ取り、放り込み、噛み、飲み下した。それがたまたま毒性の低い実だったのだろう、彼は平気だった。
不幸なのは、それを見て勘違いしたトスルなのだ。
「……きっと、誰も悪くない」
念を押すようにミュアは呟く。
やっぱりそれは事故で、ただどこか掛け合わせが間違ってしまっただけなのだ。
通達が下りてから二日と経たない内に、シードの出立の準備は整った。その早さは公爵側と村側の意向が合致した結果であったが、出立の朝にまた一騒動持ち上がる。
当のシードがふらりと出て行ったまま、出発予定時間を過ぎても戻らなかったのだ。当然ながら総出での探索となる。
その中、ミュアは親から離れて森の奥へと向かう。心当たりの場所があったからだ。
果たしてシードはそこにいた。彼は泉の脇に生えている赤い実を手にとって見つめていた。その横顔にミュアは声をかける。
「それはニセよ」
房だけもぎ取れば見分けがつきにくいが、生えている状態なら葉の裏に赤い筋が入っているのですぐ分かる。突然現れた彼女に、シードは怪訝な目を向けた。
「何だお前」
「何だと言われても。村の人間です」
「そうか」
それで納得してしまえたらしく、シードの瞳から警戒の色が消える。
「貴方を皆が探してるんだけど。帰らないの?」
「帰るぞ」
機嫌が悪いようにも見えないが、やり取りはぶっきらぼうだ。元々そういう性格なのだろう。
「トスルはさ、貴方にここを案内するって言ってたのね」
「ああ」
「ここだったの、貴方たちが実を食べたのって」
「ああ」
「死ぬのは、怖くない?」
一人で探しに来たのは、これを聞いてみたかったからだ。毒かもしれない実をあっさりと口に入れる神経が理解できなかった。その行為がトスルを殺した面もあると思わなくもない。
「別に」
言葉での返事は簡単で曖昧だったが、行動は明確だった。彼はいきなり赤い実を無造作にもぎ取ったのである。
「ちょっ……」
ミュアの制止は間に合わず、シードは手の中の赤い粒をばらばらと口へ放り込んだ。そして、ほとんど噛みもせずに飲み下す。
「まずいな、これ」
呆れたことに、その後の第一声はこれだった。
「は、吐きなさいよっ!」
慌ててミュアが背中を叩くが、間に合わないのは明白だ。即効性なのですぐに痙攣が始まるだろう。まさか自分で死を選ぶほど追い詰められているとは思わなかった。
「何でこんなこと……!」
「確認しただけだが」
それはあまりにも平然とした声だったので、ぎょっとしてミュアは動作を止める。目の前の少年は震えてもおらず、泡を吹いてもおらず、硬直してもいなかった。何一つ変わらない顔色で、そこに立っていた。
「効かないか」
息を吐き出して、彼は呟く。ミュアはそこからどう尋ねて良いものか分からず、ただこう聞いた。
「……死にたいの?」
「いや。俺、こんなじゃ死なないし。死ぬことなんて考えたこともない」
答えはやけにきっぱりと、しかし憂鬱げに返された。
「でも、他の奴は死ぬもんな」
その意味をミュアが取れずにいる内に、彼はさっさと村へ向けて歩き出してしまう。一言の挨拶を残して。
「じゃあな」
追うのも何だか変な気がして、ミュアはその場で彼を見送った。やがて木立の向こうに彼の姿は消え、彼女は一人森に取り残される。すぐ傍にはたわわに実った赤い粒が揺れている。
ニセブドウ。神に祝福された人々に嫉妬した魔物が作り上げたという、その伝承。
ミュアはそれを一粒取り、ゆっくりと噛み締め、そして吐き出す。舌の上に走ったぴりぴりとした刺激は、しばらく消えなかった。