北方山脈から流れ出る北森川が二つに分かれるその場所に、交易都市タイナーは位置している。川を通じて山脈からは石材や鉱物が、陸を通じて大森林から木材が集められ、そして北へ南へと運ばれていく。王都からは熱地や聖山を目指す人が、聖山からは王都を目指す人が集まり、そして北へ南へと去っていく。
物々や人々の一時的な休憩の地、街を囲む北の石で作られた市壁とその中に立ち並ぶ南の木で作られた家々、それがタイナーだった。
「うわ、人ばっか、あっちもこっちも」
目抜き通りには色とりどりの布で張られた店の屋根が立ち並び、客引きの声も盛んである。様々な格好をした人々が通り過ぎるその中を、五人は歩いていた。
慣れていないことをばれないようにしないとと心がけていても、物珍しいものを目が追って思わずきょろきょろしてしまう。ミュアは、そんな態度を取っているのが一行の中で自分だけだと分かると、少し落ち込んだ。
「浮かれてるの私だけなの?」
「いや、僕も初めてですけどね」
「俺も」
「じゃあちょっとは楽しそうにしなさいよ」
「性格ですから」
「めんどい」
「僕、楽しいよ」
つれない仲間たちの中で、現れた救いの主はセピアだった。ミュアは彼の頭を胸にかき抱き、男二人を睨みつける。
「セピアが一番大人だわ。セピアと楽しく歩くからいいもんねー」
「お前が子供だ」
シードの突っ込みにも素知らぬ顔で、ミュアはセピアと手をつないだ。それからアピアの姿を見つけ、空いている手を振る。
「ちょっとお姉ちゃんの座を借りるけどいい?」
「あ、うん」
言葉少なに頷くアピアを見て、さっきから彼があまり会話に参加していないことにミュアは気づいたが、いつも離れてセピアと話していることが多かったので、今回もそうなのだろうと判断した。もしかして彼も人の多い場所で緊張しているのかもしれない。
「まあ楽しく歩くのは良いとして、まず宿を見つけませんか? その後買い物に出ましょう」
そこに尤もなニッカの提案が来たので、一旦じゃれ合いはお預けになった。今までの村とは違い、豊富な選択肢がある宿を品定めしながら、彼らはまた歩き始める。
その姿を少し離れた場所から凝視している一人の男がいた。
「見つけた……」
その男はしばらく放心している様子だったが、彼らの姿が人ごみに消えそうになると、慌てて早足で一行の後を追い出した。
その頃、当の話題の主は特に宛てもなく目抜き通りをぶらついていた。道に木の柱を立て、布でその三方と上を覆っただけの簡単な店舗が立ち並ぶその通りには、夜が始まった今でも煌々と火が焚かれ、人々で賑わっている。土豚の串焼きを一本買ってかじりながら歩いているうちに、人だかりがあるのにシードは気づいた。どうやら講談が行われているらしい。耳をそばだてるとスティクスの名が聞き取れたので、そちらに足を向ける。
途端、彼の肩が掴まれた。
「見つけたぞ」
聞き覚えのある声に振り向くと、見覚えのある顔が見下ろしている。シードは動揺もせずに返事をした。
「何だ。リーム先生か」
そこにあったのは、トーラー公爵家の衛士であり、シードの家庭教師を務めていたリームの姿だった。
「何だじゃない。まったく……」
リームはその態度に深くため息をつく。少しはうろたえたり逃げ出したりしてほしいものである。まったく怯まない様子からして、彼は自分の家出を正当で後ろめたいところなどないと思っているのは間違いない。
「先生、こんなとこで何してんの?」
聞きたいのはこっちだ、と思いつつも、それを言い出すと不毛な問答になりかねないので、リームは素直に答えた。
「探しに来たに決まってるだろう」
シードが出奔したのはリーラスの屋敷からで、西はトーラー領、東は北方山脈で南に行くしかなく、南に行くとしたらこのタイナーを経由する可能性は高い。リームはそれに賭け、この町に直行し張っていたのである。二週間ばかりで彼の苦労はこうして報われたのであるが、目標がこの調子では甲斐がない。
「ふーん。親父が連れて来いって命令した訳じゃないんだろ?」
仲が悪いくせに、お互いのことは良く分かるらしい。監督不行き届きを謝るリームに対して、気にしないでしばらく放っておけと確かに公爵は告げていた。それを言い伏せて無理に探しに出たのは自分であり、だからこそ成果なしで帰るつもりはない。
衛士に取り立てられてから二ヶ月。
ご子息の家庭教師を命じられた時には光栄に感じたが、まさかその後すぐ家出されるとは思わなかった。実質接したのは一ヶ月足らずで、すぐに遠慮がいらない、一筋縄ではいかなさそうな跡継ぎなのは分かったけれど、それだけだ。まだ何も教えていないに等しく、ここで引き下がって別の任務を拝命する気にはなれなかった。
「そういう問題じゃない。とにかく一度戻ってだな、ちゃんとした話し合いを……」
しかし、そう説教している間にも、シードはふらふらと人混みに入っていってしまう。
「こら、待てって!」
相変わらずマイペースな彼の調子に、リームはこれからの困難を思わずにはいられなかった。
川の近くに建てられた市壁は水気を吸い込み、積まれた石の間にはどこからも苔が葺いていた。そこに耳をつけると、外の流れが奏でる耳鳴りのような音が石の中に響いているのが分かる。
壁。内と外を分ける物。
ではあれは、どちらが内でどちらが外なのだろう。
「お待たせしました」
声をかけられ、アピアは壁と思考からその身を剥がした。振り向けば、白い毛に覆われた獣の耳を生やした少年がそこに立っている。
「何の用?」
街の喧騒は遠く、辺りには人気がまったくない。こんな場所に呼び出す思惑は明るいものには思えなかった。それでも応えたのは自分からも聞きたいことがあったからだ。
「僕はシードじゃないんですから、果し合いは申し込みませんよ。身構えなくても大丈夫です」
警戒を見透かし、ニッカは両手を小さく挙げて話しかけてくる。
「シードといえば、ちょっと昼間のあれは可哀相でしたね」
わざわざその名前を出してくるところに意図が見える。そんな話は別にしたくなかったが、答えずにはいられない。
「夕食の時といい、庇いたい訳?」
「苛つくのは分からなくもないですが、少し意地悪に見過ぎだと思いますよ。彼にも良いところはたくさんありますから」
「どこが?」
そう聞き返したのは自然の流れだった。ニッカは少し間を置いた後、こう返してくる。
「そうですね。例えば、彼は正直です、僕たちと違って」
「僕は嘘なんてついてないけど」
「そうですか?」
今日のニッカは明らかに意地悪な物言いをしてくる。昼間からの機嫌の悪さを引きずっているアピアは、それに辟易し始めていた。
「……ついてない」
「喋らなければ嘘じゃない、誤解したのは相手が悪いってのは詭弁ですよね」
それは突かれたくない場所で、しかしニッカは言葉を止めてはくれない。
「意図した沈黙は偽りですよ」
「何が言いたいの?」
「すみませんね。ストレートに聞いても答えてもらえないと思いましたので」
彼は話題を誘導して、アピアの沈黙という逃げ道を塞いだ訳だ。こういう駆け引きは苦手な上に、苛々していて慎重さに欠けていた。
シードと殴り合っていた方が随分楽だな、とうっかりアピアは思ってしまい、自分のその想像に気分を害する。今日は厄日だ。このまま流されていると変な循環にはまっていきそうで、彼はそこから抜け出すために自分から討って出ることにする。躱しているだけでは勝つことは出来ない。
「……僕も聞きたいことがある。君は知りすぎてる。三足族のことについて、そこまで知ってるこちらの人間なんて聞いたことない。ごく普通の村の人間だなんて、嘘だろう」
アピアの告発に、ニッカは何も言わないまま正面から彼の視線を受け止めてみせた。路地に灯りはなく、月明かりだけでは彼の表情の細かいところまで判然としない。しかし、そこに笑んでいる顔があるような気がして、アピアはぞっとする。
「と、いう風に黙ると、貴方は誤解しますよね。当然です」
そのタイミングを計っていたかのごとくに、軽い調子の声が場を割った。
「断言しておきましょう。僕はどこにも何のつながりもなく、力もないただの村人ですよ。たぶん貴方と敵対することもないはずです」
先ほどの印象は拭いがたく、もちろんそれでアピアが納得するはずもない。不審の目を向けるアピアに対して、ニッカは再び語り始める。
「見ての通り、僕の片親、言ってしまえば母親なんですけど、彼女は生耳族です」
彼は自分の頭に生える耳を引っ張ってみせた。
「だからね、何も言わなくとも皆思うんですよ。父親は有羽族だって。僕は沈黙の嘘をずっとついてきた」
ニッカの言わんとするところを悟り、アピアは愕然とする。
「まさか……」
不出来子とは低能力者であり、生まれる原因は異種族同士の婚姻にある。即ち、父親が有羽族であるのが嘘ということは、答えは一つしかない。
今度は、ニッカは沈黙をもって答えとしなかった。
「そうです。僕の父親は、自らを不出来子と偽った三足族でした。納得いただけましたか?」
それを疑う要素は存在しなかった。彼は見ただけで三足族だということを看破した。彼はやけに三足族のことについて詳しかった。彼は男という性別を既に持っていても、線が細く三足族的な容貌だった。
「貴方はたぶん僕の父を知りはしないのだろうけど、まったく無関係とも思えないんですよ。貴方は壁を越えてきた。貴方は自分を不出来子と偽ることを知っていた。貴方はこの国に以前から三足族が侵入していることを知っている」
アピアは何も言えない。それはしようとしている沈黙ではなく、ただ、何も言えない。
「両親ともすでに死に至り、何も語ることはありません。僕は父のことが知りたくて、その手掛かりを探しているんですよ」