旅程に従えば、明後日辺りには大森林を離れることになるだろう。自ずから今までとは環境が変わってくるし、熱地についても早めにその対策を知っておいた方がいい。昨日夜遅くまで会議をしたこともあって、一行はもう一日この村に留まり、英気を養うことにした。
そして、空いた昼の時間を各々過ごしすことになったが、村の周辺を一回りしていたニッカは意外な場所で見覚えのある姿を認め、声をかける。
「また像磨きですか」
「またって。何だかいつも磨いてばっかいるみたいな言い方ね」
ミュアは手を止めて振り返った。村外れ、朽ちかけたお堂の中にある神像は肩の辺りまで汚れが落ちて、木目をてらてらと光らせている。
「最初が最初だけにそういう印象があります」
「村にいた頃はよくやってたけど、あの時は雨宿りのついでよ」
ミュアとニッカが初めて会ったのはサレグア村近くのお堂だった。雨を避けたミュアが軒先を借りた感謝と暇潰しを兼ねて神像を磨いていたところに、ニッカが通りがかったのである。
「家に泊めてもらえて助かったわ。朝まで止まなかったもの。けど、次の日の朝にいきなり一緒に行くって言われて、びっくりしたよ」
巡礼許可証をその日中に取得したのも驚いた。神殿に出かけていた様子なので、アピアたちの時のようなことはないのだろうが。
「色々面倒くさかったからですね、きっと。いつか出て行くところだと思ってましたし、それがあの時だったというだけで」
「私はきっかけ?」
「そんなとこでしょうか」
それは彼が不出来子であることと無関係ではないだろうとミュアは密かに思う。ニッカは人に対して微妙な距離を取る。たぶん村でもそうだったのだろう。
「でも、よくあんな雨の中出歩いてたよね」
「まあ、アネキウスの引き合わせだったということで」
「今は何してたの?」
「散歩です。ミュアこそ、今は何のついでなんです?」
彼の返答はいつもながら何処となく胡散臭いのだが、特に突っ込むことなくミュアは問いに答えた。
「村に来る時に見かけて、随分埃だらけだなあと思って。それに、ん、何ていうか、もうここにはきっと来ることないんだなって思ったら、何となく」
「放置されているということは、もう誰も祈ってないお堂なんでしょう?」
「すぐにまた汚れるだけかもしれないけどね」
道の途中に、よくこのようなお堂は建っている。巡礼道の名残なのか、それ以前からあるものなのか、どちらにしても神を求める心が結実したものに間違いはないが、時の移り変わりによって見捨てられているものも結構あり、その様子は物悲しいものがある。磨いたところで復活する訳ではなく自己満足だけれど、磨いておかないと後まで印象に残り続ける羽目になるだろうなとミュアは思っている。
話しながら掃除も進めることにして、ミュアは再び布で木像をこすりはじめた。肩が終われば、次は羽に差し掛かる。
「神官さまから聞いた話だけど、どっちの種族がよりアネキウスに近いかって喧嘩になったことがあるとか。ニッカ知ってる?」
ふと思い出して聞いてみると、さすがニッカは知っていたらしく応答してくれた。
「あの馬鹿馬鹿しい神学論争ですか」
「確かに馬鹿みたいだわ」
神の姿は鳥の羽根を持つ中性の容貌で表現されるのが一般的だ。つまり、有羽族は飛べるという点で自らの優位を主張し、生耳族は獣の特徴を有するという点でそれを否定しようとした。もし、その時に三足族がいたのなら、性別を有しないという点で参戦してきたのだろうか。
「とはいえ、あれは王権絡みでしたから。そういう意味では本気で討議していた訳ではないでしょう」
ホリーラの王権は現在有羽族が継いでおり、生耳族の中にはそれを不満に思う一派があるらしい。庶民レベルではあまり関係なく、ミュアには遠い世界の話にしか聞こえないが。
「大体、本当にこういう姿をしているかどうかから、検討すべきな気もしますし。アネキウスに人が認識できる姿などない、これは飽くまでアネキウスの意を伝える使者、天使だって説も強いでしょう」
聖書では特に神の容姿については触れられていない。皆が何となくこういうものだと思っているが、その根拠はほとんどないのだ。ニッカにしてみればいつものひねくれた見解を述べただけなのに、そこで何故かミュアがそわそわし始める。目線で問えば、彼女はおずおずとこう言い出した。
「ニッカが言い触らすとは思わないけど、一応内緒ね。実は巡礼に出るのを決めたきっかけが私にもあるの」
「聖山を見てみたいという話じゃなく?」
ミュアは首を横に振ると指を口に当てて声を潜め、ニッカはそこに耳を近づける。
「本当はね、天使を見たの」
放たれた鳥は、屋根に開かれた出入り口より空へと飛び出した。その足にくくりつけられた筒がかたかたと揺れる音が遠ざかっていく。リームは自分の文が送られたのを確認すると、主人に挨拶をして店を出る。
移動しながらではまともに連絡をとることもできない。タイナーやサレッタのような大きな都市なら鳥文も頻繁に行き来しているが、途中の小さな町では王都からの直通があるかどうか怪しく、中継を介していてはひどく時間がかかるしうまく受け取れるか知れない。自然、一方的な報告を送ることになる。
これからどうするべきか、リームは迷っていた。
普通に考えれば、こんな形で熱地などにシードを踏み入れさせるべきではない。けれど、止めれば止めるほどますます乗り気になるだろうし、放っておくともっととんでもないことをやりかねないし、どうすればいいのか分からない。数日前など少し目を離した隙にいなくなって、ぼろぼろのなりをして戻ってきた。崖から落ちたなどというが、どうして落ちたのかは教えてくれなかった。
言いたくはないが、同行者の面々もどうも奇妙だ。子供ばかりで、どういう過程でこの中にシードが入ることになったのか想像もつかない。今どき巡礼をするほど彼の信仰心が厚かったとも思えない。
「まあ、護衛……みたいなものでしょうか。私たちだけじゃ不安だったから、ついてきてくれたんですよ」
ミュアのその言い分も納得できるようで、実際見ていると全然納得できない。好き勝手にうろつく護衛もないものだ。シードの性格からしてもそんな殊勝なことを言い出すような気がしなかった。不出来子に何らかの思い入れがあるならともかく、そんな話も聞いていないことだし。
一行の中でも気になるのは、アピアという少年のことだった。シードが明らかに意識している。崖から落ちた時も一緒だったという怪しさもある。何よりも、会ったことなど一度もなく見覚えもないはずなのに、どこかで接したことがあるような気がするのだ。気のせいだと思っても、その微妙な違和感はいや増すばかりだ。
困ったことには、こんな得体の知れない状況下にあって、どうもシードが生き生きしているように見えるのである。
「奴の噂はお前も耳にしているかと思うが」
初めて公爵に謁見した時、挨拶の後にいきなりこう切り出された。それが公爵の一人息子のことを指しているのは、当然ながらすぐ分かる。トーラー公爵家に取り立てが決まった際に、同期の仲間に散々吹き込まれたからだ。噂など知らないととぼけるのも白々しいので、リームはそれを肯定した。
「確かに心ないお噂が流れておりますが、私はそのようなことは……」
「いや、魔物などの愚もつかないものを除いては本当だ。心してくれ」
しかし嘘だと釘を刺されるだろうとの予想に反して、公爵はあっさりと噂を認める。むしろ断定されたことで、リームの心に疑いが芽生えた。年端も行かない子供が訓練場の柱を叩き折ったり、衛士を二、三人まとめて投げ飛ばしたというのが本当だと言うのだろうか。
「見ていれば分かることだ。先に言っておくと、お前にはシードの家庭教師を任せたいと考えている。最初の一ヶ月くらいはこの家に慣れてもらい、その後からになるが、その間に無理だと判断したのならその旨伝えてくれ。……ああ、断ったからといって衛士の任を解く気はないから、遠慮はいらない」
もちろん子息の教育を任されるというのは、若輩者の自分にとっては身に余るほどの栄誉になる。通常ならば経験不足を恐れるところであるはずなのに、公爵の口ぶりはそんな雰囲気ではなかった。
「はっきり言えば、あいつは色々な意味でまともじゃない。今が戦乱の時代なら身の置き所もあっただろうが……」
一瞬、公爵の目が遠いところを泳いだが、それはすぐにまたリームに向けられる。
「まあ言っても詮無いことか。シードに対しては、敬語なども全部省いてもらっても良いからな。あいつもそちらの方が居心地が良いようだ。いや、それもその内自然とそうなるだろう。どうしようもない馬鹿だからな、奴は」
頭を垂れて聞きながら、リームは噂は本当だな、と思っていた。それは息子のものではなく公爵本人のもので、その歯に衣着せぬ物言いの話であったが。これでは他の貴族と衝突が多いというのも当たり前だろう。
彼は、シードの家出が発覚した時もこの調子を崩さなかった。
「いい、いい。お前に咎めるべき点は何もない。この家の馬鹿は初代からだ。いきなりあいつの代で治る訳がない」
公爵は平身低頭して謝るリームを立たせ、あの馬鹿が、とため息と共に吐く。金目のものを持ち出していったので、よほど贅沢な使い方をしない限り一年は不自由なく暮らせるだろう。
「なに、あいつは意地の塊だが、こちらも譲る気はないからな。トーラー家は潰すつもりはないし、潰させんよ。最終的には鎖でも何でもつないで連れ戻すさ」
そう言いながら見せる不敵な笑みは、シードのそれとそっくりで、親子だなあと当たり前のことを感じたのをリームは覚えている。似ているなどと言うと両方怒るのだが、ではシード様はお母様似でしょうか、と公爵に聞いた時はもっと嫌な顔をされた。結局答えは、奴は突然変異だ、というものだった。
「だが、まあしばらくは放っておけ。殺しても死なない奴だ、その辺りの心配はないだろう」
その言葉を証明するかのように、今シードは無駄に元気に旅をしている。思えば、館には同年代の者はおらず、大人たちの間で勢いが空回りしがちだったのかもしれない。
「無理にでも連れ戻すべきか……?」
リームの呟いた問いに、どこからも返事はやってこなかった。
空を翔る翼はあの壁を易々と越えるだろう。鳥は恐れを知らない。神に近いからだろうか。海の上にさえ彼らは飛び出すそうだ。
「海を渡るのは無理?」
セピアから問いかけられ、鳥の飛ぶ様を見上げていたアピアは彼に向き直り、首を振って答えた。
「たぶん。海を越えた話なんて聞いたことないし……北は危険だよ」
「どうして?」
「味方とは限らない」
端的なアピアの答えに、セピアの顔が曇る。そして彼は声を潜めた。
「あの……アピア。父上は、悪いことなんてしてないよね?」
声音に含まれる深刻な調子に、アピアはおもむろにしゃがんでセピアの顔を覗き込んだ。
「どうしたの、突然?」
「だって、悪いことしてないなら、どうしてみんなが敵になるの?」
セピアの瞳はうるみ、うつむいた肩は震えている。その様子で、アピアは彼の問いが思いつきでなされたことではないことに気づく。突然自分たちを襲った災難の原因を、おそらく彼なりにずっと考えていたのだ。
そして、ただ相手を悪だとして片付けるのではなく、状況を見て判断しようとする彼の聡さにアピアは内心安堵してもいた。押しの弱い性格のため侮られて見られることもあるが、自分などよりよっぽど冷静で物事をしっかり捉えている。それ故、今回のように言い出せなくて溜めてしまうのだろう。
アピアは彼の背に手を回し、いつものように抱き寄せてやる。異国の旅路で不安になるのは当たり前だ。
「セピアは父上のしようとしたことが、悪いことだと思う?」
しばらく落ち着かせた後、逆に問いかけると、セピアは少し考えて首を横に振った。
「今は思わないけど……最初聞いた時は不安だった」
「皆も同じなんだよ。だから父上に反対する人もいる。仕方のないことなんだ」
そして、その影響力がどこまで広がっているのかにわかに判断できない。安全である可能性が高い選択肢を選ぶのが無難であり、それは南へ行くことだった。
「大丈夫。安心していい。父上は良いことをしようとした。それは間違いないよ。セピアも父上を信じてあげて」
セピアの額に自分の額を重ね、囁くようにアピアは促す。
良いことが正しいこととは限らないし、譬え良くて正しいとしてもそれに対する者が悪くて誤っているとは限らない。この世に完全な善も完全な正義も存在しないのだから。
だが、そのことをアピアは告げなかった。セピアをこれ以上迷わせたくはない。今、迷いを持っていては命取りになりかねない。考えるのは安全を掴んでからでも遅くないのだ。
沈黙の嘘。
ふとその言葉がよぎるが、心の中でアピアは首を横に振る。これは嘘ではない。自分もまた父を信じている。ただ……。
「分かった。ごめんね、変なこと言って」
セピアは頷いた。そして、改めてアピアの目を正面から見返す。
「ね、二人で帰ろうね。一緒に帰ろうね」
それにアピアは微笑みで答えた。
これもまた嘘なんかじゃないと、彼は思う。
これは希望だ。
その二人の姿を、薄く開いた窓から見つめている人物がいる。彼は部屋の片隅にしつらえられた鳥かごから一羽取り出すと、その足に文筒を縛りつけた。
文には、こう書かれている。
『該当する兄弟らしき人物発見。人相書に一致、額は双方隠しているため未確認。巡礼行に紛れ、東へと向かう模様。至急連絡と応援を頼む』
放たれた鳥は一度村の上を旋回すると、やがて西を目指して翔け始めた。