鈍い音と共に、シードの体は地面に叩きつけられていた。殴りかかった拳は軽く躱され、上から首筋へ肘の一撃が降ってきたのだ。さらに打撃が加えられる前にシードは手を地面について跳ね起き、後ろへと飛び退る。
「気は失わなかったか。丈夫だな」
構えすら取らず、にやにやと笑いながら話しかけてくるゼナンを、シードは土で汚れた頬も拭わないまま睨みつける。
前と同じだ。違うのは、前は転ばされただけだったが、今回は攻撃してくることだ。襟足辺りでうずく痛みが、手加減などしていないだろうことを告げてくる。そして、その攻撃はアピア相手の時にも増して掴めない。
いくら無謀なシードとはいえ、躱されることが確実な突撃を二度行なうほど馬鹿ではなかった。
「どうした、来ないのか?」
しかし、挑発されて穏やかでいられるはずもない。今すぐにでも殴りかかりたい気持ちと、下手に踏み込んでもいなされるだけだと警告してくる勘が、シードの中でぶつかり合う。結局、勝ったのは闘争心の方だった。
喉の奥から唸りに似た声を上げつつ、彼はまた突進する。
「芸がない」
当然、その攻撃も当たるはずがなかった。足払いを掛けられ、勢いもそのままにシードは茂みに突っ込む羽目になる。這い出してきたシードに、ゼナンは冷笑を浴びせた。
「俺が掴むのを期待しているんじゃないだろうな。お前の馬鹿力の話は聞いているぞ」
いまいち信じていないような口ぶりではあったが、己の身を持って確認するほど酔狂でもないらしい。手の届かない距離を保ち、彼はシードに話しかけた。
「大体、どうしてお前は追ってくる?」
その言葉は先ほどセピアが問いかけたものと同じだったが、彼の口からこぼれるとやけに粘り気を帯びているように感じられる。
「三足族は仇なのだろう」
口をつぐみ、ただ睨みつけるだけの少年に、ゼナンは畳み掛ける。
「あれの首を締め上げたのはお前だろうが。可哀想に、脅され、責め立てられて。あれから一緒に行くと申し出ても不思議はないと思わないのか?」
この問いにもシードは答えなかったが、その暴露につい少し離れた場所で見守っているセピアを横目で窺ってしまう。案の定、セピアもまたシードを見返していた。それは責めるような視線ではなかったものの、シードはもやもやした気持ちを抱かずにはおれず、さらに念を押すようにゼナンの問いは重ねられる。
「お前の顔など見たくもないと思っているとは、思わないのか?」
「うるせえよ!」
奇妙な後ろめたさを払うため、ついにシードは口を開かざるをえなかった。ぐるぐると喉を鳴らしながら、彼は宣言する。
「奴が何を言おうが俺には関係ねー。大体、お前の言うことなんざ信用できるもんか」
「直接聞けば納得できるのかな?」
「んなもん聞かなきゃ分かるか!」
にべもなく切り捨てるシードに対し、ゼナンは気分を害した様子すら見せない。それどころか、満面の笑みを浮かべてこう言い出したのだ。
「じゃあお前も連れていってやろう」
わずか一呼吸の間だった。シードが嫌な予感を抱いた時には、すでに懐に踏み込まれていた。
続く囁き声と、唐突に腹に起こる違和感。
「何でお前はあの時死ななかった、シンス=トーラー」
その感覚はすぐに熱さへと変わる。見下ろせば、いつの間に抜かれたのか、鈍く光る刃がそこにある。柄の根元のわずかな部分だけを覗かせて。
「色々面倒くさかったぞ」
その言葉を呑み込む暇すらシードには与えられない。
脇腹に深く突き立てられた短剣は、次の瞬間真一文字に横へと引き切られていた。
その時、セピアが咄嗟に思ったことは、追わなくてはいけない、ということだった。彼が出現したということは、アピアはそんなに遠くない場所にいる。今追いつかなくては間に合わない。
「待ちやがれ!」
駆け出したセピアの後ろから、シードもまたそう吠える。けれど、追いかけてくるかと思ったその声は、突如かき消えるように聞こえなくなった。
「殺し……」
驚いて足を止め振り返ったセピアの視界に、膝をついたシードの姿が飛び込んでくる。ひゅうひゅうと鳴る呼吸と、地面に垂れ落ちる赤い血。あまりに立て続けに起こった出来事に、忘れていたその事実。
「シード!」
置いていけるはずもなく、セピアは引き返して彼の顔を覗き込んだ。先ほどのゼナンに負けないくらい顔色は悪く、血の気は完全に失せている。抑えている傷口はいまだ開いたままらしく、指の隙間から赤い色が溢れ出しつつあった。
「ひどい」
自分の頭からも血が引いていくのを自覚しながら、セピアはとりあえず着ているものを脱いで、それで傷を塞ごうとした。しかし、当てた上着はみるみるうちに朱に染まる。
こんな状態で動いて腕を握りつぶしたなんて信じられない。
「どうしよう……これじゃ、シード、死んじゃ……」
明らかに命に関わる出血の量だ。ひょっとしたらもう手遅れかもしれないとさえ思える。そう考えたらすぐに涙は溢れてきて、止めようと思っても止められない。しゃくり上げながら、セピアは成すすべなく傷を押さえ続ける。
「死なねーよ」
答えは思いのほかはっきりと戻ってきた。再び覗き込むと、シードは奥歯をかみ締めつつ、顔を歪めていた。
「死ぬかよ。死なねー。俺は死なない。絶対に、死なない」
繰り返す度にうわ言に近くなっていくそれを止めたくて、セピアは胸に押し付けるようにしてシードの頭を抱え込む。
やがて、涙にかすむ彼の視界に人影が映り始めた。
「……本当に死なないとは恐れいったわ」
大きなため息と共に、ミュアはそう吐き出した。言われた当人は眉を吊り上げて、不満そうな顔を見せる。
「嫌味かよ」
「嫌味の一つも言わせてほしいわよね。あんなに深い傷なのに、内臓がほとんど傷ついてなかったなんて。何なの、その丈夫さは」
「丈夫というか、運が良いというか。腸がはみ出てこなくて良かったですね。出てたらかなり迫力ある眺めになってましたよ」
「うるせーよ」
立て続けに腐されて良い気分な訳がないが、さすがに強く反論しづらいらしく、シードはただ横を向いて舌打ちだけをする。その変わらぬ様子を見やり、ミュアとニッカは視線を交し合った。
「事後承諾になるけど、言っておくわね」
そして、ミュアが切り出しにかかる。
「トーラー公爵に鳥文を飛ばしたわ」
「何勝手なことしてやがる!」
「正確にはリームさん宛だけど。途中で握りつぶされる可能性も考えて、私の村経由でも送ってみた。……起き上がらないでよ」
案の定、シードは憤慨して体を起こし、ニッカがなだめるようにその肩を抑えても言うことを聞かない。
「二人の詳しい事情は知らせてない。アピアが連れ去られて、その犯人がたぶん三足族だって、知らせたのはそれだけ」
「ただ、リームさんも怪しんでたみたいですし、二人も三足族だってことはきっとばれますね」
「奴に知らせたからって、何が出来るってんだ」
まったく納得していない顔のシードへ、たしなめるようにミュアは話しかける。
「私たちより、ずっとたくさんのことが出来るでしょうね」
「知らせてる間に逃げられるだろうが。それより、さっさと追いかけ……」
「シード。その怪我で追いかけられる訳ないでしょう」
今にもベッドから飛び出しそうなシードを押さえつけたのは、その一言だった。改めてシードは自分のいる場所を見回し、部屋の壁際でじっと黙って待機しているセピアの姿を見つける。痛みが走った下腹部へと目をやると、大げさなほどに包帯が巻かれていた。
「何だこりゃ」
剥こうとしたシードの手をすかさずミュアが叩く。
「触らないの! 糸もまだ抜けてないのよ!」
「こんなの平気だろ」
「無茶苦茶言わないで。それにもう一週間近く経ったのよ。……追いつけないわ」
シードとセピアを見つけ、近くの村まで運び込み、傷を縫い合わせてもらい、意識が戻るのを待つ間に、取り返しのつかない時間が過ぎてしまった。
押し黙るシードに、念のためニッカが詳しい説明を入れる。
「彼らは一直線に西を目指していた。どこかに壁を抜けることのできる場所があるんでしょう。ここから壁までの距離を思えば、彼らがとっくの昔にホリーラにいない可能性は高い」
自分たちに出来るのは、壁を越えるまでに彼らを捕まえることだった。
「既に手遅れなんですよ、シード」
沈黙が落ち、その中へシードの呟きは吐き捨てられる。
「またかよ」
それはいつになく力弱く聞こえ、ミュアとニッカもつられて視線を落とす。
「また俺は……」
しかし、突如彼は伏せた顔を跳ね上げた。そして射抜くような視線をセピアへと向ける。
「おい、セピア。お前、通ってきた穴の場所覚えてるだろ」
「え、あ、うん、たぶん」
見守っていたセピアはいきなり話の中へ引っ張り込まれて、戸惑いを隠せない。反射的に答えてしまい、その後に彼の狙っているところに気づく。
「待って、まさか……」
そのまさかばかりをやらかすのがシードなのだ。
「壁を越える」
彼は周りの慌てように構わず、堂々と宣言した。
「このままで済ませてたまるか」