耳鳴りに似たオンオンという響きが辺り一帯に満ちている。それは天井に跳ね返っては戻るさざめきの木霊で、いくら静寂の場といえどもこれだけの人数が集まれば自然と生まれる音だった。祈りが雨のように降り注ぐその下で、ミュアとアピアは並んでいる。
「今日には到着するよ、きっと」
「うん、ありがとう」
「励ましじゃなくて、そろそろ現れてもいい頃のはずなのよね」
三日前に鳥文屋の一つでセピアからの連絡を見つけてからは、アピアの顔色も随分良くなった。旅路に問題がなければ、二人はそろそろ着くはずなのだ。シードが暴走していなければいいが。
さすがに熱地の真ん中で合流できるとは思っていなかったので、無理そうならサレッタまで進んで待ち合わせをしようと別れる時に取り交わしてあった。あの後、トーニナたちはこちらを見失ったのか姿を現すこともなく、ミュアたちは町に入り、商隊に混ぜてもらって順調にサレッタ入りを果たすことができた。以来六日間、二人を待っている。
「今日も門のとこにずっといるの?」
「そのつもりだけど」
「何度も言うけど、替わるからね。無理しないでね」
「大丈夫だよ。一度倒れたくらいで大袈裟だな」
困ったような笑いでアピアは答える。体調のこともあるが、あんなに人通りの多いところにいるとトーニナたちに見つかるのではないかと心配である。ミュアがそう告げると、少しためらった後にアピアは打ち明けた。
「それは……もう見つかってるから」
「え、じゃあ」
「それも大丈夫。彼らは目立つことは嫌うから、あんな場所じゃ何もしてこないよ」
もちろんそんな言葉で安心できるはずもなく眉根を寄せたミュアに、アピアは苦笑いを返す。
「すっかり巻き込んじゃってるな」
「お互い様じゃない? アピアたちを無理に同行させたのはニッカなんだし」
「じゃあミュアは巻き込まれっぱなしってことになる」
「ああ、そっか。でも、そのニッカを巡礼に巻き込んだのは私だし」
元を辿れば、これはミュアの旅だ。ミュアが求め、ミュアが決め、ミュアが導いてきた道程だ。
今まで意識していなかっただけに、そう考えると奇妙な気分になる。
「うん、だから、お互い様」
話しているうちに列は進みつつあった。天に穴が開いているためにどうしても溜まってしまう床の砂を踏み、二人は礼拝堂への道を歩む。
サレッタの中心たる砂中神殿。
市門が開くより早い時刻、光射す時間になると人々はそこに集まり、礼拝の順番を待つ。彼らは熱心で、その祈りはまっすぐに神へと向けられている。
ここに来てまだ一週間も経っていないが、ミュアには彼らの気持ちが分かる気がした。ここで暮らすということは神と共に暮らすということなのだ。
グラドネーラの何処に居てもそれは変わらないはずだが、やはりこの不毛な地では実感がまったく違う。この地の水は神の水、ここの地の陽は神の御姿。ただ生きているだけでそれが伝わる。自然、それが祈りとなる。
ミュアはこのなりわいを見た時、感動に打ち震えたものだが、ニッカなどは一度体験した後、逆に神殿に寄り付かない。彼曰く、何故だかいたたまれない気分になるそうである。よく分からない。神がいることを疑う者はいないが、積極的に祈るかどうかはかなり個人差が大きい。シードなどは神殿に来ることすら心の端にかからないだろう。
さっきから降り続けている響きが不意に遠くなった。複雑な形に切り取られた採光口が造り出す影が床に水面のような模様を作り出している。ミュアは顔を上げた。
一層高くなった天井から砂と共に朝の陽光が落ちている。
かつて地の底より掘り出され、同時に水をもたらしてサレッタの礎を造ったという神の巨像が煌く砂をまとってそこにそり立っていた。
何も飲んでいないのにすでに胸焼けしそうになりながら、アピアはカウンターに腰掛けていた。昼だというのに満員で、店の中はあらゆる種類の酒の匂いや焚かれる香、果ては人や獣の体臭までが交じり合い、独特の臭いに満ちている。今までに経験したことのない臭気だ。
「どこでこういう所を見つける訳?」
「商人のおっさんに教えてもらった」
落ち着かないアピアに比べて、シードは奇妙に馴染んでいる。店の主人に話しかけられ、強くてうまい奴、という曖昧な注文を出していた。アピアはとにかく早く出たくて仕方がない。シードと横に並んで座っていても、特に会話が弾む訳でもない。
シードの機嫌を損ねてでも出ようとアピアが立ち上がりかけた時、ちょうどグラスが二人の前に出されてしまった。口をつけずとも分かる強いアルコールの匂いが鼻をつき、アピアは怯む。思わずシードを見やると睨み返された。呑まない限り帰してもらえそうにない。
嫌がらせをされているのだと思った。しかし、アピアの目の前で、シードは同じグラスをあっさりと呑み干して新しいものを注文している。見ているだけで頭が痛くなる。
「どうした、呑めよ。結構いけるぞ」
その口調にはまったく他意はなさそうだ。それだけに性質が悪かった。
「こ、こんなの……」
何とか回避しようとアピアは逃げ口上を探す。
「こんなの呑んでたら体を壊す。止めておいた方がいいと思うけど」
「うるさいな。ミュアみたいなこと言うなよな。酔ったことなんて一度もない」
「そんな訳はないだろう」
むっとしてアピアは言い返した。こんな呑み方をしてまともでいられるとは思えなかった。自分を連れてきたのだって、まず平生ではありえなく、自覚していなくとも酔っているとしか思えない。
しかし、シードは言い放った。
「効かねーよ、俺には。何もかんも効きはしねー。酒も、毒も、薬もだ」
「どうして?」
「そんなこと知るかよ。あの時からだ」
そして、アピアはそれが口に出してはいけない問いだったことを思い知る。
「お前らが母さんを殺した時だよ」
その話を遮れるはずもない。
「あの時、俺らは二人だった。屋敷の庭だったからだ。といっても、生垣くらいしか仕切りはなかったんだけどな。壁なんてなかった。壁なんて。だから簡単に入ってこられた。血だらけだったよ。必死だった。母さんはそいつに駆け寄った。俺はもちろんそいつが自分から言い出すまで、分かりゃしなかったよ、そいつが三足族だなんてな」
シードは思いつくがままに言葉を並べているようだった。アピアは相槌すら打てず、ただ喋らなくても済むようにグラスに口をつけた。
「続けて五人ぐらい奴らはやってきた。五人か。少ねーな、今となっちゃよ。くそ。何であの時俺はあんなに小さかったんだ? 納得いかねえ。母さんはそいつを渡せっていう奴らの要求を呑まなかった。当たり前だ。俺は逃げろと言われた。出来なかった。捕まった。腹をえぐられた。あっさりとだ。目覚めたら全部終わってた。母さんは死んだって言われた。俺は生きてた。もう埋めたって言われた。何せ半月寝てたからな。でもそりゃないだろ。追われてた奴も追ってた奴も見つからなかった。それで終わりだ。全部終わり。親父は何か知ってやがる。けど言いやしねえ」
感情の塊は、吐き出すことで収まることはなく、より一層心の奥に渦巻いただけだ。何度思い返しても、その理不尽さに胸が焼かれるだけだ。
「覚えとけ。俺は、お前らが大嫌いだ」
言い切った後、場には沈黙が落ちる。シードは舌打ちをし、あらぬ方を向いて酒を喉に流し込む。
こんな話をするつもりはなかった。しかし溢れ出した言葉は止められなかった。それに今はっきりさせておかないと、何かが決定的におかしくなる気もしていた。それが何かは分からなかったけれど。
ただ一つだけ、酒がまずくなったのだけは確かだった。
幸い、宿は迷うことなく見つけることができた。しかし、部屋には入れなかった。薄く開いた扉の隙間から、ミュアの姿を見つけてしまったからである。
「アピア、遅いなあ」
眠っているセピアに付き添っているらしい彼女は、そう呟くと今まで覗いていた窓から目を離す。見つからないように、シードは慌てて扉から遠ざかった。アピアを置いて呑み直しに出ようと思っていたのに、捕まったら台無しだ。
そこで新しい部屋をとって、そこに置いていくことにする。起きれば自分で部屋に戻るだろう。
アピアの体を無造作にベッドに放り投げると、手足はだらしなく横に広がった。意識が戻る様子はない。戻ってこないとミュアたちが騒ぐ前に何とか起きてくれないものかという願いは、叶いそうになかった。
上にシーツもかけずに、シードはさっさと部屋から出て行こうとする。ミュアと鉢合わせないように、まず廊下の様子を窺う。
「面倒くさいなあ、くそ」
怒られるのも、酒について一層口煩くなるのも確実で、シードはこれからを想像して呻いた。迷惑かける訳じゃなし、酒くらい好きに呑ませてほしい。
そう思った瞬間、ぐったりしているアピアの姿が視界の隅に入り、思考が一旦詰まる。これは迷惑だろう。たぶん。
言い訳すら封じられ、シードの苛々は一層増す。屋敷を出て、好きにやっていけると思ったのに、口うるさく責め立てられ、結局魔物退治も何も出来ていない。不本意なことだらけだ。考えれば考えるほど、分からなくなってきた。
何で自分はこいつらと一緒にいなきゃならないんだ?
ざわついていた心は、突然凪いだ。
シードは開きかけていた扉を閉め、ベッドへと引き返す。
三足族。
あの森で、その言葉を聞いた時の気持ちを思い出す。目の眩むような怒りと興奮。口の中が乾く。それだけじゃない。自分は確かに、ひどく嬉しかったのだ。
「俺は……」
ようやく、あの時に欠けたものが取り戻せると。
アピアの胴をまたいで膝を二つともベッドに突き、腕を伸ばす。両の手のひらはアピアの首を捉え、シードはその感触に不機嫌そうに眉をひそめた。
細い。
これでは必要なのはほんの少しの力だけだ。
「……殺していいんだろ」
アピアの頭がシーツに沈み込む。指に骨が当たる硬い感触が伝わってくる。抵抗はない。声も上がらない。
わずかに、力をこめるだけ。
「畜生」
そしてシードはまた聞く者のいない悪態をつき、上半身を起こした。喉にかけられた指がゆるゆると離れる。
こいつじゃない。
そんなことは最初から分かっているのだ。
自分と同い年のこいつがあの時の奴らじゃないことなんて。すでに埋められてしまったものは二度と取り返しがつかないことなんて。
それでも、自分は。
シードはベッドから体を降ろした。全身の動きがぎこちなく感じる。それを振り払うように大きく息を吸う。吐く。乾いた熱い空気が胸に入り、口の中がじゃりじゃりする。
何かが自分の中で焦げついていると、シードは感じた。自分の中の怒りの炎が消えかけているのだとも思った。
まだだ。まだそれを絶やす訳にはいかない。
喉の渇きが彼に行動を促す。彼は踵を返し、酒場へと向かう。
それが焦燥なのだとはけして気づかないままに。