熱地を経験した後での草原の旅は、驚くほど楽なものだった。吹きつける激しい風もなければ、下から這い上がる熱気もない。視界が塞がれることもないし、足にまとわりつく重い砂もない。三日をかけて大森林の端までたどり着く道程は順調そのものだった。
「世界が変わって見えるよね」
なるほど巡礼に砂中神殿の拝礼が絶対必要とされる訳だと、ミュアは納得する。いくら言葉を尽くそうとも、この感覚は伝えきれないだろう。
とにかく最大の難所は越えた。あとは一路聖山を目指すだけだ。
彼方に高くそびえる聖山の姿は日一日はっきりとしてきている。このまま旅が続くなら、一月もしないうちにたどり着けるはずだ。
「三足族さんたち、見かけないね。熱地でうまくまけたのかな」
ミュアは隣を歩くニッカに話し掛ける。五人に戻った一行は、前の通りに勝手に進む先頭のシードと、後ろにつくアピアとセピア、挟まれるミュアとニッカという、いつもの配置に自然となっていた。今は今夜泊まる町への道を歩いている。
「まけているといいんですけどね」
サレッタの出発時、急いで引き払うふりをして宿を移ってみたり、ばらばらに別れるふりをしてみたり、途中で一時的に商隊から離れてみたりと、色々試してみたのだった。その効果か、今のところ彼らの襲撃はない。
「……あの人たちさ、どういう人たちだと思う?」
少し迷った後、ミュアはそう切り出した。
「壁を越えてきた三足族でしょう?」
「そうじゃなくて。分かってるくせに、ごまかさないで。ニッカはどう思ってるの?」
牽制しあうような問いの応酬に、ニッカはついに諸手を上げてみせる。
「僕らが腹の探り合いをしても、何も収穫はないでしょう。そうですね、僕の考えはこうです」
指を一本ずつ立てながら、彼は列挙を始める。
「一つ、全員がそれなりの教養の持ち主。少なくとも読み書きは出来るでしょうね。一つ、荒事に慣れているとは言えなさそう。けれど、まったく習いがないとは思えない。一つ、この国に来てそれなりの期間が立っている。少なくとも、一年」
最後の項目は、ミュアにとってまったくの予想外だった。目を見張る彼女に、ニッカは説明する。
「あくまで憶測ですけどね。彼ら、来たばかりにしては慣れすぎているとは思いませんか」
言われてみれば、熱地への装備など自分たちよりも手際が良かった。最初に見た時もマントを羽織って有羽族を装っていたし、目立たないように色々と工夫をしている。
「じゃあ、二人を追ってきたんじゃないってこと?」
「疑うのなら、そこから疑えてしまうんです。アピアとセピアは本当に壁の向こうから来たのかどうかさえ」
ミュアの心臓が一つ跳ねる。そんなことは考えていなかった。二人がホリーラ生まれの三足族の可能性なんて。これだけ三足族が入り込んでいるのなら、ない話ではないのだ。それならば、あの印は。
「まあ、それはちょっとした冗談ですが。そこから疑ってたんじゃ、逆に何一つ見えなくなってしまいます。彼らが本当に三足族かどうか、とか」
ミュアの顔色が沈んだのを見て取ったのか、ニッカは茶化すようにそう付け加えた。だが、きっと彼はそこまで疑ったのだ。まったく考えていなければ口に出すことはできない。
「ただ、少なくとも、アピアは彼らが追ってくることを知っていたと思いますよ」
ミュアの返事を待たずに、彼は言葉を継ぐ。そして再び彼女に問いかけてきた。
「それは裏切りだと、思いますか?」
「そんなこと……」
ニッカの口から飛び出したのはあまりに不穏な単語で、一瞬ミュアは口ごもる。
「そんなことは思わないけど。でも、こんな状態は長く続かないと思うの。出来るなら、打ち明けてほしい」
けれど今そう迫れば、アピアには責めているように聞こえるだろう。どうすればきちんと話してもらえるのか、いまだ分からない。
「僕もそれには同感です」
ニッカもまた頷いた。
「そのためには、たぶん……」
「こんにちは」
その時、ふと後ろから聞き慣れない声がして、ニッカは口をつぐんだ。振り向くと、父娘らしき二人組が足早に一行の横を追い抜いていく。自分たちと同じように町を目指しているのだろう。
ミュアの横を通り過ぎる時も、娘の方が軽く頭を下げて挨拶をしていった。大きな帽子の下にちらりと見えたのは、長い黒髪を一つに編みこんだ同い年ぐらいの少女で、ミュアも会釈を返す。少女はシードに挨拶している父親に小走りで追いつき、並んで道を進んでいく。
「人通りが多くなってきたみたいですね」
町が近いのだ。ニッカは話題を一旦打ち切ることにしたらしい。確かにこれ以上の話は、落ち着いた場所でした方が良いだろう。
ミュアは後ろの様子をさりげなく窺う。アピアはセピアの手を握り、硬い表情で歩いていた。
おびき寄せられているのは確実だった。けれど、行かない訳にはいかなかった。家々の間を抜け、角にちらつく姿を追う。わざとらしい誘いだ。案の定、町の裏手、人気のない森の中にたどり着く。
囲まれるのを覚悟していたが、アピアを出迎えたのは一人きりだった。
「……アピア」
そこに佇む少女は帽子を手に持ち、ためらいがちにその名を口にする。アピアにとってそれは見間違いようのない、懐かしい顔だ。
「サラリナート……」
アピアは呆然と呟く。
「君が来るとは、さすがに思わなかった」
その言葉にサラリナートは目を伏せた。それ以降どちらも本題を切り出せず、しばらく沈黙が続く。先に口を開いたのはサラリナートの方だった。
「私が来た訳、分かってるでしょう」
「彼のためだね」
アピアは唇の端に笑みを浮かべる。
分かっていた。サラリナートは彼のためなら何でもやるだろう。壁を越えて、異国の地に来ることまでも。そしてほぼ確信はしていたものの、不確定であった敵の姿は明確になった。
「違う、って言っても信じてもらえないね。そう、確かにそう。でもそれだけじゃない」
サラリナートは訴えながら、アピアに一歩近づく。
「私がここまで来たのは、何よりも貴方のため。それは分かってほしい」
それは信じたかったし、信じても良かった。問題はサラリナートを送り込んできた者の思惑だった。
「ねえアピア。もう止めよう。もう戻って。こんなことに決着をつけよう」
友人の説得にほだされるなら良し、さもなくば、とその者は考えているはずだった。奴らは一枚カードを切ってきた。
「これまで二百年、私たちは問題なくやってきた。これから二百年だって同じように過ごしていける」
「それは、僕も……そう思ってた」
「なら、私と一緒に戻って。貴方以外に説得ができる人はいないんだから。そうでしょう?」
サラリナートの言葉は、気持ちを裏切っていない。彼は本当にそう思っている。そして、彼は正しい。正しいが、もはやアピアはそれを認める訳にはいかない。
サラリナートは帽子を投げ捨てる。白く細い指がアピアの手を包む。暖かさが伝わってくる。
一生懸命なサラリナートの姿は、いつだってうらやましい。
「アピア、お願いだから」
「戻りたいね」
洩れた呟きに、サラリナートの顔が輝く。しかし、アピアは首を横に振った。
「違うよ。こんなことが起こる前にさ」
どこから誤ったのか、誰にも分かるまい。少しずつずれていった歩みは、皆を引き返せない泥濘に踏み込ませてしまった。
「もう戻れない、元の場所には。そういう方法をナッティア伯父さんは選んで取ったんだ。もう戻れない、誰一人として。分かってるだろう、サラリナート。分かってないとは言わせない」
はっきりと告げた名を、サラリナートは否定しなかった。
促されて、トーニナは懐から紙の束を取り出し、ゼナンに渡した。しばらくゼナンはそれに目を通し、火の弾ける音だけが辺りに響く。十年近く溜められた情報は簡略にまとめられていても結構な量で、半分読み飛ばすようにして彼は紙をめくっていった。しかし、最後の数枚だけはなめるように読む。彼の眉はある地点でしかめられた。
「おい、タイカ=ソールってのは何だ」
「何だと言いますと?」
問いかけの意図が不明瞭だったので、トーニナは聞き返す。すると、ゼナンは何かを納得したような顔をし、邪慳に手を振る。
「あー、いい、いい。何でもない。あと、一人だけ家名がついていないが?」
「宿帳にいつも名前しか書いてなかったもので……」
「で、調べはついてないのか」
ごまかせないかと思ったが、ゼナンはそれほど甘くなかった。言い訳のようにトーニナは補足する。
「完全に信用できる情報ではないものですから」
「言え」
ゼナンの口調は一切の口答えを許していない。トーニナは出来るなら言わずに済ませたかったその名を口にする。
「トーラー。シンス=トーラーです」
瞬間、ゼナンの顔から表情が消えた。
いつも表情から感情が読めない人ではある。しかし、顔からありものの面相を剥ぎ取った今の方がよっぽど何を考えているのか分からないと感じる。その名前が彼の胸中に呼び覚ますのはどんなものなのか、想像するだに恐ろしい。トーニナが額に汗を滲ませて次の展開を待っていると、ようやく彼は口を開いた。
「わざと伏せたな」
その言葉と同時に顔が崩れる。唇に笑みが戻ってくる。
「まあいいさ。なるほどなるほど、渋っていた訳だ。なるほどね」
「確認は入れました。公けにはなっていないようですが、近頃姿が見えないことは確かな様子です。まだトーラー領からの連絡を受け取っていないため、そちらにいる可能性は低くありませんが」
一応予測ルートの町に鳥文を入れるよう手配は済んでいるものの、間に合わない場合も届かない場合もあるのはトーニナも職業柄良く承知していた。移動しながら鳥文を使用するのは色々と無理が出てくる。
「そんな確認なぞいらんさ」
ゼナンは横に積んである枝を炎に放り込みながら、そう呟く。
「引っかかったのは、そのせいか」
にわかに炎は大きくなり、ぱちぱちと火の粉が辺りに爆ぜた。夜の明かりにしては強すぎる焚き火にトーニナは眉をしかめたが、何も言わなかった。火の粉が体にかかるのも気にせず、ゼナンは炎を見つめている。
「お前もそろそろ寝ろ。しばらくは様子見だからな。ああ、坊ちゃんのお守りは今後お前に任せる」
「分かりました」
命令に従い、トーニナは鹿車の方へと戻ることにする。立ち上がって去っていくその背中をゼナンは見送り、また枝を焚き火へと放った。
「トーラーに、タイカ=ソール……」
彼は喉の奥でその名を繰り返す。
「こいつはすごい。誰のお膳立てだ?」
思った以上に楽しめそうだった。ゼナンは期待に目を細めて立ち上がると、目の前に燃え盛る炎へ思い切り足を振り下ろした。幾度も幾度も蹴り入れて、ついには勢いの弱まって小さくなった炎を踏みにじる。
彼が去った後には、ぐしゃぐしゃに散らされた焦げ跡が残っているだけだった。