開いた二階の窓から彼の姿が見えた。思ったよりも早いお出ましだった。アピアは寝息を立てているセピアを棚の下段にしまい、扉を閉めた。それから寝台の上に置いてある剣に目を留めしばし悩んだが、取り上げて腰に提げる。
一階に降りると、ミュアが台所で夕食の準備を始めようとしていた。アピアは使ったコップをそこに戻し、声を掛ける。
「ちょっと薪でも拾ってくる」
「あ、助かるわ、お願い。あとシード見つけたら、早く帰るようにって」
「分かった。セピアをよろしく」
「いってらっしゃい」
ミュアは何も勘付いていないようだった。小さく手を振る彼女に振り返し、アピアは外へと出る。そして、家の裏手へと小走りに急いだ。
「どうも。お元気でしたか?」
回るなり、にこやかに声を掛けられ、アピアはそちらへと目をやる。待ち構えていたらしいゼナンが、隣の家の影から彼に手招きをしていた。
「あの家から見えない位置をご希望でしょう?」
アピアは素直にその誘導に従い、彼の方へと近づく。その距離があと五歩ほどのところまで縮まった時、アピアの手は剣を抜き放ち、足は地を蹴りつけた。喉からは息が細く吐き出され、笛のような音を立てる。刃は下からの軌道を描く。
次の瞬間、目の前の光景が霞んだ。地に肘をついている自分にアピアは気づく。腹部に重い痛みがある。たぶん、蹴られたのだ。剣は手から離れ、少し離れた場所に転がっていた。
「物騒なことはやめてほしいものですね」
頭上から声が降ってくる。アピアは立ち上がろうとして、不意にえづいた。こみ上げてきたものは止められず、地面に吐瀉物が散らされる。
「無茶をしないでください。貴方に怪我をさせたら、こっちが怒られるんですから」
息苦しさに荒く咳込むアピアへ、なだめるように言葉は掛けられる。駄目だ。アピアは乱れた息を整えながら、その目を固くつぶった。この男は相手を即座に無力化するやり方に長けている。リームとはまだ同じ舞台の上に立っていた。だが、この男とは立っている場所自体がまったく違う。
それでも。
アピアはようやく落ち着いてきた口元をぬぐう。ふらつく足を叱咤して立ち上がる。顔を上げ、ゼナンを睨みつける。
「いいか、僕以外の人間に手を出してみろ。そんなことをしたら、僕はお前らに絶対に従わないからな」
そんな脅しにもなっていない脅しに怯む相手であるはずない。分かっていても、言える言葉は数少ない。
ゼナンはそれに対して、大仰に眉を上げてみせた。
「承知いたしました……と言いたいところですが、それは残念。さっきもうお会いしてしまいましたしね」
誰に、と尋ねる必要はなかった。あの家にいなかったのは一人しかいない。そして、その遭遇は最悪の結果に至るとしか思えないものだった。
「……何を、した」
「血の気の多い方は困りますね、本当に」
「どこだ!」
「ああ、あの緑の屋根のお家だったと思いますよ」
途端に、アピアは剣もゼナンも捨て置いて、そちらへ走り出した。残されたゼナンは肩をすくめる。
「やれやれ。だから血の気の多い奴は困ると言っている。人の話は最後まで聞けと言われたことはないのかな」
彼もまた、落ちている剣には目もくれずに、歩き出す。
「そんなつまらないこと、最初からする訳がないだろうに」
目指すのは、アピアが出てきた家だった。開いた窓から、人影が見える。彼はその窓に近寄り、横の壁をノックして注意を促す。
中にいた少女は、突然出現した見慣れぬ顔にぎょっとしたようだった。窓から一歩下がったところで、ゼナンはまた深々とお辞儀をして名乗ってみせた。
「はじめまして。私、ゼナンと申します。どうぞよろしく」
どれだけ走ったのか分からない。普段したことのない全力疾走でふらふらになりながら、ニッカは村へ転がり込んだ。しかし、ここでへばってしまう訳にはいかないのだ。
空には星が目立ち始めている。シードも家に戻っているはずだ。早く連れていかなければ。
しかし、家へと走り出したニッカは、途中で人影を認める。それは間違いなくシードの姿で、何故か彼は緑の屋根の家辺りをうろついている様子だった。ニッカは彼へと駆け寄り、呼び止める。
「どうしたんです。何かあったんですか?」
「何にもねーよ」
彼はいつにもまして不機嫌な顔をしていた。触れどころを間違えば、爆発するような状態だ。けれど、いつものように治まるのを待ったり、お酒に付き合ったりしている時間はない。
「一緒に来てください」
半ば強引に、ニッカはシードの手を引っ張って早足で歩き出した。
「何だ、どこ行くんだよ」
「森です。急いでください」
「何があるんだ」
「早く行かないとアピアがあいつらに……」
説明しかけた瞬間、突然後ろに引っ張られてニッカは倒れかける。シードは立ち止まり、今にも噛み付きそうな表情でニッカを睨みつけていた。
「行かねー」
「どうしてですか」
「……俺には関係ないことだろ」
そして、ニッカの手を振り払い、村の中へとのしのし戻っていこうとする。
「シード!」
ニッカは諦めず、シードの前へ回り込んで彼を押し留めようとした。いつもと違うニッカの様子に、シードは目を見張る。
「助けないのは、アピアが三足族だからですか!?」
「そうだ。そうに決まってんだろ。今更何言ってんだ。何で俺が」
「じゃあどうしてセピアは助けに行ったんですか!」
「あん時は……ああ、畜生、どうだっていいんだ、そんなのは。奴は隠してやがったんだ、知ってたくせに! だから俺は悪く……」
「僕だって、貴方に隠し事くらい沢山してますよ。例えば、僕は半分三足族です」
シードの動きが止まった。ニッカは念を押すように重ねて言う。
「僕は生耳族と三足族の間に生まれたんですよ。そして、僕はサレッタからあの三足族たちに居場所を知らせてました。情報と引き換えにね」
「てめえ!」
胸元を掴まれても、ニッカは怯まずシードを見返した。
「何でそんなことしてやがる!」
「知りたかったからですよ」
自分の行動はいつだってそこにたどり着く。結局、父と自分は同じ人間なのだろうと、ニッカは思う。
「父親のこと、自分のこと、彼らのこと、そして、アピアとセピアのこと。知らなきゃ何も出来ないと思っていたからです。あんな奴が来ると分かっていたら、やりはしなかったのに」
それは言い訳でしかないことも分かっている。トーニナから警告を受けた時、断念すべきだったのだ。大丈夫だと思っていた。自分なら、皆に隠し続けることも、三足族たちに協力するふりをして欺くことも、出来ると思っていた。あまりにくだらないのぼせ上がり。
「あいつか」
ニッカの指す奴が誰だかすぐ分かり、シードは舌打ちする。
あの、物腰も喋り方も最低の印象しか残さなかった男。
殴りかかっても良いようにあしらわれ、腹の立つことを囁かれ、最悪の気分の時にアピアがやってきたのだ。
「シードも会ったんですか?」
「反吐が出るような奴のことならな」
「なら、分かるでしょう。あいつにアピアを渡しちゃいけない。きっと取り返しがつかないことになる。お願いです、シード、一緒に来てください」
あの男は気に入らない。殴れるのなら今すぐ行ってやる。
シードは思う。
だが、どんな顔をして奴の前に出ればいい? あの目。大嫌いなあの目。むしゃくしゃさせるあの目。あの目を向けられたのは何回目だ?
殺せと言われたのは何回目だ?
「シード!」
「ごちゃごちゃうるせえ! いい加減にしやがれ! 行きゃいいんだろ!」
全てを振り払うように、シードは叫んだ。こんな言い争いは真っ平御免だ。
「いいか、今回だけはお前に免じてやる。けど、俺はお前らともう一緒に行かない。ここでお別れだ。いいな」
そう言われては、ニッカは迂闊に頷けなかった。頷けば、アピアが助かればシードはいらないと言っているに等しい。返事を待たずに凄い速さで歩き出したシードを追いながら、彼は尋ねる。
「ちょっ……別れてどうするつもりです?」
「好きなようにやる。大体、一緒にいる意味なんて何処にあったんだ」
頑なに口を結び、ただ前だけを見て進むシードは何を言っても聞きそうにない。
ニッカは一旦諦めることにした。シードの説得は後でも出来る。急を要するのはアピアの救出の方だ。せっかくやる気なのだから、それを殺がない方が良い。
しかし、そのやる気は空回りすることになる。逃げてきたはずの場所にはもはや誰の姿も見当たらなかった。
場所を間違えたかもしれないと、周辺をいくら探そうが呼ぼうが、何一つ返ってくるものはありはしなかった。