夜が始まる前に、彼は城から去ろうとしている。引き止める理由を見つけられないまま、アピアは一人見送りに出ていた。陰り始めた太陽が木々の影を濃くしつつある中庭には、二人の他に姿はない。
「……恨んでくれて、構わない」
サラリナートはアピアのその言葉に、小さく寂しげに笑って答えなかった。もちろん彼だって叶わないのは分かりすぎるほど分かっていたのだ。
ディーディスは首謀者の息子で、時にはその代理も務めていた。罪に問われないはずがない。
あれから二週間の時が過ぎていた。驚くほどあっさりとナッティアは投降し、散々かき回されたあげくに頭を失った一派は崩れざるを得なかった。静かな結末を迎えた今回のことは、必然的になかったこととされるのだろう。そして、そのためにはけじめが必要なのだ。
沈黙に耐え切れず、アピアは言葉を継ぐ。
「今なら、サラリナートの気持ちが少し分かる気がする。無理だと分かっているのに、叶わないと分かっているのに、それでも……それでも望んでしまう」
そう洩らしてから、それが今のサラリナートにとってどれだけ無神経に聞こえかねないか、気づく。青い顔をしたアピアに、サラリナートは再び微笑みを見せる。
「……うん、そうだね」
そして短くそれだけ返事をし、地面に視線を落とした。
「ごめん、僕は……」
「アピアは……」
言いかけた言葉を引き取られ、アピアは口をつぐむ。
「アピアは最後まで、ディーディスのこと、分かってあげなかったね」
どう答えてよいのか分からない。
「一度くらいは話を聞いてあげて」
「会いたがらないんじゃ、ないかな」
「そんなことないよ」
サラリナートはそう言うが、会ったところで今以上に何を話せば良いのか分からなくなるだけだろう。
また、お互いに言葉を探る沈黙が落ち、今度はサラリナートがそれを破る。
「もう二度と会えないね」
「うん……」
ナッティアに加担したとはいえ、サラリナートが実質行ったのはアピアを迎えにいったことだけだ。加えて彼は未成年で、城での騒動ではアピアに協力している。アピアにサラリナートを責める気持ちは少しもなく、サラリナートに表立って被せられる罪状はなかった。けれど周囲がもはや二人の接触を許すことはないだろう。これが間違いなく最後の会話になることを、アピアは知っていた。
だから、黙っていてはいけないとも思うのだが、改めて何か言おうとすると驚くほど何も出てこない。サラリナートもまた同じようで、無理やりといった感じで気まずい間を埋める。
「……最初からこんな風にアピアと私が話せること自体、おかしかったんだけど」
「そんなことない!」
反射的に出た否定の言葉は、中庭いっぱいに響き渡るほど大きな声音だった。
「僕にとっては、いつだってサラリナートは大切な友達だ。何があってもそれはずっと変わらない。変わるもんか。例えサラリナートが」
戸惑うサラリナートにアピアはその勢いのままでまくし立てたが、名前を出したことで我に返り、にわかに調子が弱くなる。
「サラリナートが、どう思っていようとも、僕にとってはずっと……」
「同じだよ」
前で握り締めた拳が、ふっと温かなものに包まれる。サラリナートの黒い瞳は、まっすぐにこちらへ向けられていた。
「私も同じだから。会えなくてもずっと友達だと思ってるから」
一瞬、話してしまいそうになった自分に気づく。そんなこと、誰の為にもならないばかりか、良くない事態を引き起こすだけなのだと、身に沁みて分かっているはずなのに。
「アピア?」
うつむいたのは、顔を見られたくなかったからだ。
アピアは心配そうに覗き込んでくるサラリナートの背に手を回し、抱きしめる形にする。それは一層、彼を困惑させるだけなのだろうけれど。
「さよなら、サラリナート。どうか元気で」
そんなありきたりの別れしか、もう告げられなかった。
ミュアの訪問を受けて、ニッカは読んでいた本を一旦畳むことにした。図書室で話をする訳にはいかないので、二人は裏の中庭へと出る。別に聞かれて困る話ではないが、城の中だと注目を浴びて落ち着かないからだ。
ミュアは用意されている木のベンチに座ると、軽いため息をついてぼやいた。
「毎日毎日、ニッカは図書室に入り浸り。シードは酒蔵室に入り浸り」
「今日もですか。こっちだって、未成年の飲酒は禁止でしょう?」
「管理人のおじさんと無茶苦茶仲良くなってるのよ。無法地帯ね」
おかげでいつ行っても、まともに話が出来た試しがない。本人は素面だと言い張っているが、酒の匂いがぷんぷんする場所でちゃんとした話はやはりしにくい。
「何か話があるんですか?」
「羽のこととかさ」
「それは聞いても無駄なんじゃないですかね、あの様子じゃ」
ようやく全員が再会を果たした後、シードの背中を見てミュアはぎょっとしたのだ。
「ちょっと待って。何、その羽」
「ああ」
シードは頷いて、あっさりと答える。
「生えた」
「生える訳ないでしょ!」
「……いや、でも、実際治ってますしね」
フォローなのか何なのか、微妙な言葉を挟んでくるニッカに問うような目を向けると、彼は言い訳を披露する。
「色々ありすぎて、突っ込むタイミングを逃してました」
確かに、あまりにも普通に元に戻っていたので、うっかり流しかねないところだった。今となっては、逆になかったことが信じられない。
「何かあったの?」
問われたシードは一瞬だけ視線を泳がせたが、やがてきっぱりと言い放つ。
「ない」
「ない訳ないでしょうが!」
むしろ、何もないのににょろにょろ生えてきた方が怖い。答えになってないのでミュアはしつこく問い詰めたのだが、返ってくるのは「ない」の一点張りだった。
もう一人の当事者だろうアピアは忙しくてなかなか捕まらないし、今に至るまで聞き出しは成功していない。
「まあ、人間、話したくないこともありますよ」
「シードを人間の範疇で語りたくないんだけど」
やっぱりフォローかどうか曖昧なニッカのとりなしを、ミュアは切り捨てる。ニッカは肩をすくめて続けた。
「そうですか? そりゃ、無茶苦茶ですけど、こう思いもするんですよね。出来ても別におかしくないんじゃないかって」
「ニッカ、貴方相当毒されてると思うわ、あれに」
ため息混じりにそう流してはみたものの、ミュアにもニッカの言うことが何となく分からなくもなかった。
シードはおかしい。それは明らかだ。
けれど、自分たちはそのおかしさに段々馴染んできてしまっている。
「回復といえば、足の調子はどうですか」
「もうほとんど普通に歩ける。ちょっと調整はいるけど」
話題を変えてきたニッカに、ミュアは包帯を巻いた左足で地面を蹴って見せた。骨がちゃんとつながったのか、あの痺れるような痛みもようやく消えてきたところだ。大人一人をぶら下げ続けたのだから当然だが、骨と筋がかなり痛んでいたそうだ。
それでも有羽族ということが幸いして、比較的早い時期から動き回ることができた。浮くタイミングを合わせれば、ほとんど体重の負担なしに杖を使うことができるからだ。おかげで回復も早かったらしい。
「……そろそろ頃合じゃないですか」
だから、ニッカのその言葉に頷く。
「ん……ま、ね。いつまでもいる訳にはいかないし」
「僕らは結局、この国への侵入者ですから」
隣国からの使者としてもてはやされていても、珍奇の視線が刺さるのはどうにも仕方がない。長くいるほど、ぼろが出る恐れもある。
「でもニッカは、もっとここにいたいんじゃないの。いる権利だってあると思うし」
貴重な書籍が制限なしで読み放題の現状からは離れがたいだろう。
「まあ、いたいといえばそうですけど。でも、やっぱり無理ですよ。皆と一緒に戻ります」
「そっか」
相槌を打って、ミュアは彼が手に持つ本へと目をやる。その表紙には、タイカ=ソールの名が刻まれていた。
結局、帰還の話をしてから実行までには一週間ほど準備時間が必要となった。きちんとしたもてなしをしないまま帰す訳にはいかないと引き止めるテーピアらと、辞退するミュアらのすり合わせた地点が、城中のみで晩餐会を開くことであったからだ。
何とか国中から呼び寄せる舞踏会からそこまでスケールを小さくするのに成功して消耗するミュアに、ニッカは論評してのけたものだ。
「別に僕らのためだけじゃありませんよ。体面の問題もありますし、自分たちは勝利して健在だという主張、あと、壁の向こうにいるのはちょっと違うけどほら同じ人間ですよって、一番分かりやすく見せつけられますからね」
何とも返す言葉なくニッカを見やるミュアに、彼は肩をすくめてみせる。
「王様をやるってことは、大変なことだと思いますよ」
思惑はともかくにしろ、すると決まれば、ミュアだってそれなりに楽しみだったりもする。何しろ、衣裳からしていつも着ているものとは破格の差だ。好きに使っていいとは言われていたものの、気後れして入れずにいた衣裳部屋へアピアに伴われて入った時も、目を輝かさずにはいられなかった。
「本当は、採寸して一から作るものなんだけど、時間が足りないから、背中や裾なんかを縫い直すだけになるけど」
置いてある衣裳は、衣裳係が見本として作ったものや、仕立てたはいいが使用されなかったものがほとんどらしい。それでもミュアにとっては十分豪華で華美な代物だ。
「一からなんてとても作れないから、こっちの方がありがたいかも」
薄物を幾重にも重ねた羽織物など、想像の範囲外だ。最初から作ってもらったところで地味な出来にしかなりそうにない。
「ね、これ、どうかな?」
嬉々として衣裳を漁っていたミュアだったが、やがて一着選び出してアピアに示す。しかし、アピアは首を横に振った。
「これは男性用だよ。仕立て直しの時間を考えると、一応女性用から選んだ方がいいかな」
「あ、そうなんだ。うーん、何か区別つきにくいな。ホリーラじゃこういうの、男の人は着ないよ」
よく見れば、確かに胸や腰辺りの裁断が平坦だ。いざ着ると形がおかしくなってみっともないだろう。ぶつぶつ言いながら棚に戻したミュアは、ふとあることに気づいて振り向く。
「考えてみたら、アピアたちは女の子の服着てもいいんだよね」
正面から見据えられたアピアは、思わぬ奇襲に怯んでしまう。
「ね、アピアの服はどんなのなの? もっと豪華? 女の子っぽい?」
「え、う、僕はまだ未成年だし、いつも大体着てるのがあるから、それで……」
「それって今のと似たような格好?」
「うん、まあ、こんな感じの」
仕立てや素材は上等だが、造りはごく控えめな格好だ。晴れ着といっても、たぶんもうちょっと飾りがつくぐらいのものだろう。
「えー、つまんない。別におかしなことじゃないんでしょ、こういうの着ても」
ミュアはたっぷりと布が重ねられた一着を差し出し、アピアは思わず後ずさって逃げる。
「変ってことはないけど……そういうの、慣れてないから、ちょっと」
「じゃあ今回やってみようよ」
仲間が欲しいミュアの誘いは強引だった。なにしろ、ずっと女の子一人の状況で過ごしてきたのだ。意識せずとも、そういう方面の鬱憤が溜まっていた。
「大丈夫、大丈夫。絶対似合うって」
「笑われるから」
「笑う人なんていないでしょ」
「馬鹿にされて呆れられるよ、きっと」
「だから、そんな大人気ない反応、一体誰が……」
言いかけて、ミュアはふと気づく。しそうな奴はいる。一人だけ。
「……ひょっとして、意識してたりする?」
問えば、アピアはぴたりと黙った。しかし、目が泳いでいる。
「あー、そういうことか。あー。へー。なるほどねー」
「ち、違……」
「え、何が違うの?」
にやにやしているミュア相手では、口を開けば開くほど分が悪くなる。
「じゃあ余計に着ないとね。悪いようにはしないからさ。どれがいいかなー」
既に十分悪い、と思いつつも、アピアはその言葉を呑み込むしかなかった。
そして、朝は来る。
アネキウスの恵みはいつもと変わらず大地を照らし出し、魔を追い払う。しかし、人の背に負われた鬱々とした暗雲までは払ってくれそうにない。
出発を延ばすことも考えたが、そうしたところで事態が好転するとは思えなかった。大体、本人が留まることを望んでいなかった。昨夜、そのまま飛び出していこうとするのを止めるのに散々苦労したと、ニッカが語るくらいに。
今日も、とりあえず一緒にはいるものの、四六時中あらぬ方を向いたままで黙り込んでいる。最後の謁見でもその調子で冷や冷やしたが、アピアたちがあらかじめ取り成してくれていたのか、咎められることはなかった。下手に声を掛けると、たちまち噛みつかれそうな雰囲気に負うところも大きいだろうが。
「ありがとう。どんなに言葉を尽くしても言い切れないほど、皆には感謝してる」
シードの憔悴とは比べるべくもないが、正門前の最後の見送りでそう述べるアピアも心なしか疲れた様子だった。シードの方を見ないようにしている感じもある。対照的に、アピアの横に立つセピアは、何かを訴える目でシードをじっと見つめていた。
「皆と共に過ごせて、とても楽しかった」
「それは私たちも同じだけど……もう、こら、シード、仕方ないでしょ、最後くらい挨拶しなさい!」
何とか丸く収まらないかと叱咤してみるも、応える様子はない。それどころかふてくされたように正門に向かって進み出してしまう。一度殴ってやろうかと拳を固めるミュアの手を、アピアはそっと押し留めて声を上げる。
「シード」
最初の呼びかけは無視されたが、肩が反応したことで、耳に届いていることは分かる。アピアは構わず続けた。
「シード、約束する」
ついに足を止めたシードへ、約束を投げる。
「今は行けない。でも、君がもう一度ここを訪れたのなら……その時は必ず一緒に行くよ」
その後に開いた少しの間は、たぶん気持ちを処理するために必要だったのだろう。
ようやく振り向いたシードは、目つきも悪く唸るように確認する。
「本当だな」
「アネキウスに誓って」
「アネキウスなんかどうでもいいがな。よし、その言葉忘れるなよ」
「忘れないよ」
途端、別れの言葉もなく踵を返し、のしのしと歩き始めたシードの背を見て、アピアは嫌な予感に駆られた。
「言っておくけど、一旦外に出て、すぐに戻ってきても駄目だからね」
念のため釘を刺すと、シードは不意に立ち止まり、大きく舌打ちをする。どうもそうする気満々だったらしい。ろくでもない悪知恵だけはよく回る。
「いいか、覚えとけよ。破りやがったら承知しねーぞ」
そして、三下がすごむ時のような、情緒もへったくれもない台詞を突きつけると、再びずんずん歩き出した。その背中にアピアも別れの言葉を投げかける。
「……元気で」
「もうちょっとまともな挨拶ってもんがあるんじゃないの、本当、馬鹿」
もはや止める気もないらしく、ミュアは腰に両手を当てて呆れた息を吐く。国境までの案内係についた衛士が困っていたので、シードを追いかけてもらう。
「いいの? あれ、そういうところだけは執念深いから、絶対来ると思うよ」
しかも、開国とか関係なしに、自分が思い立った時に壁を壊してでも入ってくるだろう。まず間違いなく。
アピアが困った笑いで答えている間にも、シードの姿はどんどん小さくなっていく。
「うわ、ほんと行っちゃう。アピア、セピア、絶対また会おうね。絶対会えるから。そんな気がする」
「壁が開く日を楽しみにしてますよ。またお邪魔させてもらいますから」
ミュアは二人に抱きつき、ニッカは握手をして、それぞれに別れを惜しむ。そして、先に行くシードを見失わないように、小走りで橋を駆け出した。
手を振りながら去っていく彼らを見送るアピアは、不意に袖を引かれてそちらへ視線を落とした。セピアの思い詰めた顔とぶつかる。
「まだ間に合うよ。まだ追いつける」
「セピア」
彼は知っている。さっきの約束が、自分の今の言葉が、どういう意味を持つのかを。だから、こんなにぎりぎりになるまで、何も言えずにいた。
アピアは弟にかぶりを振ってみせる。
「僕は、ここにいたい。父上や母上、セピアと一緒にいたいんだ。だから行かない。行かないよ」
優しくそう言い聞かせ、頭を撫でると、彼の目から涙がこぼれ落ちた。
「僕は、本当にいつも……」
その先は言葉にならなかった。セピアの頭に手を置いたまま、アピアは橋の向こうを仰ぎ見る。南からきた風が、立つ彼らの髪や服をなぶり、吹き抜けていった。
その後に起こった大きな騒動に紛れてしまったためか、この年の王城事変について、後の世の歴史書はほとんど触れることはない。
しかしながら、リタント十二代国王ティセドの即位によって、壁の存在が有名無実と化すに至る一連の流れの、これが発端であった。
第一章 完