伝わってくる振動の差で、外を覗かずともリーラスに着いたことが分かった。町の喧騒に幾度か近づき、遠ざかり、金属が触れ合う音、木が軋む音、何かが落ちる重い音が数度続いた後に、ようやく鹿車はその旅を終えた。
外から扉が叩かれる。
「恐れながら申し上げます。私、侍従長を務めております、モーネス=ランテット=ドネッセンと申します。此度のリタント国王子殿下のお越し、歓迎いたします。ご挨拶とご案内に参りました。どうぞお出でください」
まずは一つ解決だ。鹿車の中にほっとした空気が流れる。本心はどうであれ、向こうはこちらを逆賊の集団としてではなく、対等の相手として取り扱う姿勢を見せた。交渉の意思はあるということだ。
軽く身なりを整えさせ、衛士と侍従の先導で、アピアは外へと踏み出す。日に映える草地の上で、五人ほどが自分を待ち構えていた。二人が衛士で、残りが侍従、中央の背の高い、生耳族の男が先ほど名乗った侍従長だろう。最初の出迎えは、こちらの人数より多くして敵意を疑われることなく、少なすぎて失礼に思われる程でもなく。交渉はすでに始まっている。
正面を見据え、アピアは彼らに歩み寄った。自分の姿が映る彼らの瞳にわずかに感情の波が走るのが分かる。注目されているのは、自分のはっきりと晒した額だ。
他の二種族にとって、三足族の独立は屈辱の歴史だ。自然、語られることは少ないが、さすがに国の要職に就く者はその概要を知っている。
建国王ルラントの額に輝いていたものと同じ印を目の当たりにして、彼らは替え玉の見積もりを大幅に減じなければならなくなったのだろう。
「リタント国第一王子、アピア=セリーク=リタント=ファダーです。突然の申し出にも関わらずご受諾いただき、感謝しております。我らが大いなる守護者、アネキウスの栄光が貴方がたの上にあらんことを」
挨拶と共に、彼らのために祈る仕草をする。彼らもまた、ほとんど同じ仕草で返礼してきた。お互いが同じモノであり、同じ庇護の下にあると示すための儀式。
「さあ、まずはお部屋へとご案内いたします。長い旅路の疲れをお癒しくださいませ。その後、陛下とのご謁見を」
そう促され、鹿車より貢納の品を除いた荷物を降ろさせる。この前庭から先は本城になるため、車の乗り入れは許されない。護身の武器こそ取り上げられなかったものの、他に物騒なものを持ち込む気配がないか、監視された中での作業だった。
道中の感想など、ありきたりな受け答えをしながら作業の終わりを待っていたアピアは、ふと背後から響いた軋む音に耳をとられ、来た道を振り返る。閉じかける大きな扉の隙間から跳ね橋が上がっていくのが見て取れた。
なるほど、空を飛べるのが常態の国において、高い壁など何の守りにもならないのだろう。しかし、有羽族は横の移動に弱い。幾重もの堀にて城郭を囲むのはごく基本の防御手段となる。
そこまで考えて、アピアは気づく。自分たちの王城もまたそうなのだと。リタントの王城は、元々彼らと戦うための砦だったのだから。
戦は確かにもう遠い。直接それを知る者は誰一人としていない。
だが、かつての戦はまだ終わってはいないのだ。
これは、開国交渉であるよりも前に、停戦交渉でなければならない。ルラントの起こした乱が誤っていたとは決して思わない。だが、二百年は確かに長すぎる時間だ。
ようやく、それが終わりを迎える時なのだ。そして、その気持ちはたぶんホリーラの人々も同じはずで……。
アピアがそう思った途端だった。
「待て、貴様ら! これ以上進めるとは思うなよ!」
その怒声が辺り一面に鳴り響いたのは。
今日は良い天気だった。
取り込んだ洗濯物はふかふかに乾き、畳む手にも心地良い。腕と同時に動かされる口が紡ぐのは、もちろん二百年ぶりに訪れた珍客のことばかりだった。
「見た?」
「見た見た見たよ。さぼったのばれちゃったけど、さすがに今日は怒られなかったね」
「だってさ、洗濯頭も用事があるふりして、見てたもん」
「どう見ても、無理やり作った用事だったもんね。そりゃ怒れないよ」
「で、どうよ?」
「どうって……実のところ、あんまり近くでは見れなかったけど……何ていうか、拍子抜けかな」
「ちょっとー。これは間違いなく一大事なのよ。きっと歴史書とかに載るわよ。何でそんな気の抜けた感想なのよ」
「えー、でもさ、だってあれじゃまるで単なる不出来子じゃない。王子ってのも、ほんとに子どもみたいだし」
「確かにね。どんな化け物が来るかと思えば」
「にしては、わくわくしてなかった、あんた」
「怖いもの見たさってあるでしょ」
けたけた笑い合う若い娘たちを、通りがかった老女が眉をひそめて睨む。
「何言ってんだい。あの額の印を見なかったのかい」
「ああ、そういえば、何かあったような」
「あれが魔物の王の証なんだよ。ああやって、奴らは魔物と契約してるのさ。油断しちゃならないよ。いつだって最初は良い顔をして、魔物はつけ込んでくるんだから」
でもねえ、と若い娘たちは顔を見合す。
魔物なんて出てくるのは聖書とか物語の中だけで、昼日中にそんなものを怖がるほどもう子どもではないし、そんな話は面白くも何ともない。
彼女たちの関心は歓迎のために明日の夜行われる舞踏会にやがて移り、貴族たちの品評や準備に関する愚痴に話題は埋め尽くされる。彼女たちの勢いに対抗できるはずもなく、老女は一人洗濯物を仕分けしながら、呟くしかなかった。
「せっかくアネキウス様が壁を作ってくださったのに。王様は魔物の侵入を許してしまったんだよ」