それは、ほとんど走るような勢いだったので、横を通り抜けられたミュアはあおられて顔にかかった髪の毛を跳ね除けなければならなかった。一番先頭へと復帰してずんずんと進んでいくシードの背中を見やった彼女は、眉根を寄せて後ろへと振り向く。そこには肩をすくめてみせるニッカがいた。
ミュアは、今まで歩きながら話し込んでいたアピアに断りを入れると、下がって彼へ囁きかける。
「もう、何したの」
「今日は珍しく一番前を進まないんですねって聞いただけですよ」
いくら鈍いシードでも、そこに含まれる意味は察したらしい。というより、図星だから過敏に反応しただけか。
呆れた顔をするミュアに、ニッカは言い訳する。
「けどですね、あからさまに視線が追っかけてるのをずっと見せられている側になってみてください」
面子が変わったことによって、進行の並び方も自然と変わることになった。以前はアピアとセピアの指定席だった最後列を、今はリームが占め、一行全員を見守る形となっている。そして、いつも最前列で後ろなど顧みずさっさと進んでいくシードは、出発時こそそうしていたものの、最初の休憩を済ませた後は何故か列の半ばでニッカと並んで歩き始めたのだった。
そうなると、自然にミュアとアピアが一番前を行くことになる。
何となく後ろから居心地の悪い視線を感じるなと思ってはいたが、どうやらほとんど睨まれる勢いで見られていたらしい。
その光景が容易に想像できて、ミュアはため息をつく。
「……普通に話しかけりゃいいのに」
「まったくです」
たぶん、出鼻を挫かれたせいで、どう出ればいいのか分からなくなってしまっているのだろう。自業自得としか言いようがないが、ここ一週間酒場に入り浸りだったため、シードの酒の匂いはなかなか抜けなかったのだ。頑張って近くにいようとしたアピアが、ついに気持ち悪くなってしまうくらいに。
それでへそを曲げたのか、ひょっとしたら気を遣っているのか、彼はあからさまに距離を取るようになった。
元々人付合いが良いとはいいかねる性格だ。意固地になると始末が悪い。今も一人になったアピアが話しかけようかと時機を見計らっているけれど、思い切り背中で拒否してしまっている。
せっかく落ち着いたと思ったのに、色々と面倒臭い二人である。
「まあ、聖山に着くまでには何とかなるでしょ」
イーンデンを出発して、今は大森林沿いに南へ歩いている。何か起こらなければ、一月かからずに聖山へ着ける計算だ。長い時間とは言い難いが、もうちょっとくだけた感じにはなれるだろう。
「問題はその後だと思いますけど」
「……それはもう、なるようにしかならないんじゃない?」
「そうなんですけどね」
シードが早足でどんどん歩いていってしまうため、リームが最後列から飛び出して押し留めに走っていく光景を見やりながら、ニッカは思案顔で自分の耳を引っ張っていた。
シードの足を立ち止まらせたのは、微妙な意識への引っ掛かりだった。盛り場での揉め事など当たり前すぎて、いちいちその全てに首を突っ込むほどシードも酔狂ではない。気分が乗っている時には話が別だが、今はその反対だった。
だから、彼は路地裏の暗がりを覗き込みながら、自分を留まらせたのは何かと探ってみる。そして、耳に飛び込んできた幾つかの単語がその犯人だと知るやいなや、シードはその中へと飛び込んでいった。
「……からよぉ、半端もんがうろうろしてるの見ると、気分悪くなんだよぉ」
「それは申し訳ありません。解放していただければ、貴方がたの目につかない場所へ移動いたしますので」
「っせえなぁ。俺らはそんなこと言ってんじゃねえんだよ!」
「もう気分悪ぃんだからよぉ。どうしてくれるって聞いてんだ」
五人ほどの酔っ払い集団に取り囲まれて、小柄な姿はほとんど見えないが、声といい物言いといい、どう考えても思った通りの人物だ。
「そう言われても、それ以上のことを要求されても、正直応えかねますね。持ち合わせも大してありませんし」
「っ、この出来損ないが、俺らを強盗扱いするつもりかよ!」
たちまち人の山がざわざわと動き始め、鈍い音が路地に響き渡る。
シードは無言で一番後ろにいる男二人の襟首を引っ掴んだ。そして、相手が驚いて振り向こうとした途端に、両脇の壁にその体を叩きつける。所詮酔っ払い、奇襲なこともあり、全員を蹴散らすのにさほど時間はかからなかった。
「ありがとうございます」
人気のなくなった路地裏で、シードとニッカは改めて対面する。
「平気か?」
「慣れてますから」
涼しい顔で服の汚れをはたくニッカに、シードは眉根を寄せた不満そうな顔をした。
「何でやり返さないんだ」
「抵抗したら余計ひどくなるだけですよ。僕はシードみたいにねじ伏せることは出来ませんので」
「そんなもんなのか」
「そんなもんです」
にしては、わざわざ丁寧な言葉遣いをして、やけに挑発的な態度ではあったが。
「それに、たまにあった方がいいんですよ、こういうことは」
続けてのニッカの言葉はシードには全然理解できなかったので、無言で眉を上げてそれを流すと、別の話を振った。
「大体、こんなとこで何してんだ」
「探しに来たんですが」
「何を」
「貴方をです」
「何で」
「リームさんが心配してたからです」
「心配させとけ」
一言の下に切り捨て、シードは再び尋ねる。
「来たからには、付き合うんだろ?」
「いいですよ」
ニッカもまた、説得の気配すら見せずに、あっさりと誘いに乗った。最初からそのつもりだった様子だ。
二人は近場の店に移動し、居を構えることとなった。
宿に戻ると、全員がまだ起きて帰りを待っていた。
「随分遅かったのね」
「探索と説得に時間がかかりました」
明らかに酒の匂いをさせているニッカに、ミュアはそう話しかけるが、さらりと流される。まあいいけど、と彼女は肩をすくめて、むすりと口を曲げているシードを見やった。そんな表情だが、不機嫌という訳ではなさそうだ。ニッカはそれなりにうまくとりなしたらしい。
そこでニッカの口元に残る痣に気づき、ミュアは眉根を寄せる。
「まさか、殴り合いとか、した?」
「まさか。そんなことしたら死んでしまいます。僕が」
「じゃあ今まで何やってたの?」
「少しは事態をましにしようと、僕なりの努力を」
その成果は、すぐに現れそうだった。
どこに行っていたか尋ね、勝手な行動は慎むように説くリームをあしらいつつ、シードの注意は明らかにアピアへと向けられていたからである。当のアピアもその視線に気づいているらしく、居心地悪そうに成り行きを見つめている。
「おい、アピア!」
そして、ついにシードは覚悟を決めたらしかった。
ぶっきらぼうにそう呼びかけるなり、アピアの前へと大股に歩み寄る。
さてどうなることかとミュアとニッカは見守り、リームは怪訝な顔をしながらも何があった訳でもないので止めることなく、シードは次の言葉に詰まっている様子で、アピアは黙ったままそれが発される時をじっと待っている。
その奇妙な均衡の沈黙は、鼻息荒く吐き出したシードの言葉で破られた。
「……俺ら、結婚するからな! いいな!」
ほとんど、噛み付くような物言いだった。だから、誰もが一瞬、その意味を受け取りあぐねた。彼の赤面が怒りのためではないことや、彼がしたのが決闘の申し込みではないことのみならず、その言葉の重要性やとんでもなさを呑み込んだ時にはもう遅かった。
ミュアがシードの後頭部を張り飛ばし損ねたのは、呆気に取られていたためだけではない。
そのあまりにも唐突で、思慮も段階も雰囲気も何もあったものじゃないシードの求婚の言葉に。
「……うん」
小さく、けれどはっきりとアピアが頷いたからだった。