そこでようやく、アピアが一体何を口にしているのか、ニッカは呑み込むことができた。疑問はたくさんあったがそれはまとまらず、かろうじて洩れ出したのは恥ずかしいほど上ずった声だった。
「ま、待ってください。成人って、そんな」
それを受けるアピアは、対照的に落ち着き払った様子で独白を続ける。
「正直なところ、半年保てば良い方かな。出来るだけそんなことはないようにするけど、いきなり明日ってこともないとはいえない。その時には慌てなくていい。リタント側では承知してるから、知らせてくれればいいだけ。誰の責任もならないよ。ならないようにしてある」
「そんな、ならないはずないでしょう。リタントにとっては、次の王が壁の向こうで殺されたってことになるんじゃないんですか」
「建前としてはね。選定印を持つ年長者が継承者じゃないなんて、不自然すぎるからさ。いらぬ詮索をされるのは避けたかったんだ」
息継ぎのように、再びついたアピアの息は、先ほどのものより長かった。
「最初からそう決まってた。王位を継ぐのはセピア。心配しなくても平気だよ」
腑に落ちる。
ゼナンに追い詰められた時、どうしてアピアは己を盾にして、こちらを逃がすような真似をしたのか。どうしてアピアが拉致された後、セピアは助けにいかなくてもいいと気持ちに反して言い出したのか。どうしてセピアが次の継承者についての問いに、はっきりと答えられなかったのか。
セピアが正体を明かしたあの時、自分が言おうとしたことをニッカは思い出す。
そう、アピアは最初から、自分の死を前提にしていた。
「生まれつき弱い性質でね。こんな年まで生き延びてしまったけど、本当はもっと早くにその時が来ると思われてたんだ。だから、セピアが生まれた時、そのことを知っている人たちはすごく安心したんだよ」
そして、アピアは胸に手を突っ込み、そこから鎖を引き出す。しゃりしゃりと鳴る繊細な編み込みの途中に一つだけ、小さな石がぶら下がって出てくる。王子が身につけるものにしては、質素な代物だ。
「これが僕の命をつないでくれた」
七色に煌く、奇妙な色合いの石だった。見ていると、どうにも落ち着かない、追い立てられているかのような気分になる。
「何なのか、聞いても構いませんか?」
「聞かれても答えられないんだ。分からないから。この石は僕が生まれた時に握っていたらしい。離せば胸から全身が苦しくなる。放っておいたら、たぶん死ぬだろうね、最後まで試したことはないけれど」
手に取って見せてくれるよう頼もうかとの考えがニッカの頭をよぎったが、さすがにためらわれた。黙っていると、アピアは再びそれをしまい込む。
「ネッテ先生、先の事で亡くなられた僕らの従医先生なんかは、神の恩寵としか思えない、とか言ってたけど、どうかな。僕が死んで不必要になるまでは、うかつに調べられないからさ」
「……でも、そんな風には見えません」
ニッカの呟きに、アピアは眉を上げてみせる。
「うーん、今ちょっと実験するのは怖いんだよね。やっぱり痛いし。シードに聞いてもらえば、何度か迷惑かけてるから……」
「それの話ではなく、アピアの体の話です。そんな風には見えません」
さっきから気になっていた。アピアの口調はどこか他人事めいている。出来ることなら、性質の悪い、悪すぎる冗談であってくれればいい。
けれど、ニッカの期待に反して、彼は普通に答えてくる。
「今は何だか調子いいんだ。前の時は……気が張ってたから」
「その調子の良さがずっと続いたりとか、しないもんですか」
「しないだろうね。ひょっとして成人まで保ったとしても、そこは越えられないだろうから」
「成人礼……ですか」
「うん、そう。こっちのは形だけなんだってね。僕らは結構きついんだよね、成人。といっても、僕も経験ないから伝聞な訳だけど」
三足族にとって、成人礼とそれに続く一月あまりは性別を決定する儀式であり、期間だ。体が大きく変化する故、体力も使うという。ニッカはその話を父の本で読んだ時、自分にも来るのかどうか、来るのなら苦しいのは嫌だなあと悩んだものだった。
今一度、問うように視線を投げると、それを受けたアピアは僅かに微笑むことで答えを返してくる。
ニッカは悟らざるを得なかった。
……冗談では、ないのだろう。
二つ隣の部屋は、覗く前から騒がしい。開けて入ると、中央で言い争う二人はそれどころではないらしくこちらを見もしなかったが、側の寝台で腰掛けて見物しているミュアが目線を投げてくる。
静かに横へ首を振って見せると、聞き出しに失敗したのだと思ったのだろう、彼女は軽く肩をすくめてみせる。
「こちらはどうです?」
ニッカは潜めた声で問いつつ、彼女に近づく。見ての通り、というように、ミュアは中央の二人に視線を戻した。
「これだけ噛み合わないと、逆に面白くなってくるわ」
主従でもあり、師弟でもある二人は向かい合って睨みあい、侃々諤々と言い合いを続けている。
「つまり、リーム先生はあいつが嫌いってことだろ」
「いや、だから、俺が嫌いとかそういう話じゃなくて。嫌いじゃないし、というか、俺が嫌いだろうがそうでなかろうが関係のない話じゃないか」
「なら、何で反対するんだよ」
「いや、反対とかいう問題でもないと……もう一度言う。落ち着いて考えてほしい。無理だろう?」
余裕がないせいか、リームはすっかり敬語をかなぐり捨てている。遠まわしな言い方ではシードに通用しないことを、これまでの経験から学んでいるのだろう。
「ひょっとしたら、和平の関係であっちは了承するのかもしれない、その辺りは向こうの問題だから置いておくとして。こちらの問題を考えよう。こんな話、お館様が頷くはずない。人柄とかの問題じゃないんだ」
「親父なんざ何の関係があるんだ」
「あるに決まってるだろう、結婚ってのは個人の問題じゃ……」
「さっきから個人とか問題とか訳が分かんねー! 俺の話だろ! 何が問題だよ! つまり、あいつが気に入らないんだろが!」
会話が元の位置に戻ったのを確認して、ニッカは一応ミュアに尋ねてみる。
「こんな感じで、ずっと?」
「ずっと」
アピアとニッカの話し合いを邪魔しないように二人を引き止めておくと言ったものの、ミュアの出番はなかったようだ。むしろ放置しておいた方が長引いたらしい。
「そっちは終わったの? やっぱり答えてくれなかった?」
「ええ……まあ」
「そっか。私が聞いても無理かなあ」
「止めておいた方が良さそうな感触でしたね。それより、そろそろ止めた方が良くありませんか?」
ミュアからの問いをさらりと流し、ニッカは険悪度を増してきている二人を指差す。何順目の問答かは知らないが、繰り返せば解決するという問題でもない。
「そうね。もう時間稼ぎの必要もないし、参戦するか」
ニッカの誘導に特に疑いもなく、腕まくりしながら二人の間に彼女は割って入っていった。そして、二人を無理やり引き離しにかかる。
「はいはいはい、ちょっと確認させてほしいんだけど」
「何だよ」
不毛な言い合いですっかりむくれているシードの胸に、ミュアは指を突きつけて問う。
「結局のところ、シードはアピアのことをどう思ってるから結婚したい訳?」
「俺の物で、他の奴の物じゃないから、つまり結婚すりゃもう取られないんだろうが」
しかし、ずれまくったろくでもない理由を胸を張って語られては、さしものミュアも返す言葉がない。
「根本がひん曲がってるっていうか、歪んでるっていうか、駄目だわ、こりゃ」
その癖、態度は真っ直ぐ極まりないので始末が悪いのだ。彼女のぼやきにもすぐ食いついてくる。
「だからお前ら、何が言いたいんだよ」
「いーい? 私はね、気持ちを聞いたの。勝手この上ない理由なんて聞いてないの。ニッカだって、あんたにいきなり求婚しろって言った訳じゃないの。さっきから聞いてれば、全然このこと言ってないよね? じゃあ、はっきり聞かせてもらうけど、アピアのことが好きで好きでたまらないから自分の物にしたい、結婚したいってことでいいのよね?」
「なっ……!」
途端に、シードは言葉を詰まらせて、目を白黒させる。分かりやすい反応の速さだ。
「んな事、言ってないだろが!」
「言ってないから聞いてるんでしょうが!」
これは明らかに分が悪い。開き直ってふんぞり返るミュアに、シードが勝てるはずもない。
「う、うるさい! お前らには関係ないだろ!」
結局、逃げるしか手がなくなったらしかった。捨て台詞を残して、シードは部屋を出ていってしまう。
そんな光景を見やりつつ、ニッカは誰にも聞かれないように小さな呟きを洩らす。
シードが知ってるなんて、そんな訳ないじゃないですか。ましてや気遣いなんて。
もちろんアピアだって、そんなことは分かっているのだ。分かっていないはずがない。分かりたくないだけだ。
たぶん、今の状況を一番把握しているのは、自分ということになるのだろうとニッカは思う。村にいた頃の自分なら、この状況も構わなかった。さて次はどうなるのかと、高見の見物をしていれば良かったのだから。
知ることは自分の望みだ。
けれど、知りたいことだけを知ることは出来ない。いつまでも観察者であり続けることなど、出来ないのだ。
やっと実感し始めたその事実は、胸にひどく重かった。