「冠を持つ神の手」外伝2

終わりの夜 目覚めの朝

「ファジル」

1-1

■子どもたち

 廊下の向こうに翻り消える裾を、彼の目は捉えていた。こちらの姿を認め慌てて踵を返しただろうその様子に、思わず小さく息を洩らす。その微かな音により、周りを歩く衛士や侍従たちの間に緊張が走るが、そんないつものことに彼が頓着するはずもない。
 顔を合わせる度胸すら失せたか。
 茂みの向こうを焦って走っているだろう長子の姿を想像すると、苦々しい思いと笑い出したい衝動がないまぜとなって胸に押し寄せてくるのが感じられる。
 三代国王、ファジルの子は所詮その程度ということか。
 今、ここから走り出し、その首根っこを掴んでやったら、あの息子はどんな顔をするだろうか? そうしてみれば、きっと自分はそこに毎朝見慣れた面差しを見出すことになるだろう。
 つまり、あれこそが己の本性だということだ。ただ自分には逃げ出す場所がなかっただけに過ぎないのだ。
 と、角の向こうに影が差した。明らかに普通よりも背丈の足りぬその形に、まさか戻ってきたのかとファジルは訝しく思う。しかし、案の定現れた姿は先ほどのものとは違っていた。
「ご機嫌よう、お父様」
 幼い子ども特有の甲高い声が、場の空気を乱す。乳母に連れられた次子は大人たちの仕草を真似て、自分へと頭を下げてみせている。いつもならば軽く頷くぐらいで通り過ぎるところだが、彼が足を止めたのは先ほどの出来事のせいだったのだろう。こちらの予想外の動きに、並ぶ息子とその乳母の頭がびくりと震えるのが見てとれた。
「どうだ。何か不足していることはないか」
「あの……いえ、その、お父様、その」
 流暢な挨拶とは違い、不明瞭なへどもどした答えが返ってくる。頭は下げられたままだが、その視線があちらこちらへと動いているのは良く分かった。これではいくら待ってもまともな返事はやってこないだろう。
「そうか。ならばいい」
 ファジルは一方的に会話を打ち切り、再び歩き出す。立ち去り際に視線を投げると、いまだ息子は頭の頂点を地面に向けたまま固まっていた。
 臣下の中には、いまだ幼いのにしっかりしているとあれを誉める者もいる。だが、それが一体何だというのだ。くだらぬ者のくだらぬ真似が上手くできたからといって誉めるのは犬だけで結構だ。
 そんなくだらないことを考えながら歩を進めていたせいか、いつの間にか玉座の間に着いていた。恭しく開けられた扉をくぐったファジルの目に、またも見慣れぬものが飛び込んでくる。それは玉座の前に佇み、ぼんやりと上方を見つめる小さな姿だった。
 今日は妙な日だ。子の誰とも顔を合わせずに一日を過ごすのが当たり前だというのに、全員と遭遇するとは。
「何をしている」
 呼びかけると、末子はほとんど飛び上がらんばかりに驚き、こちらを見据える。そのまま近づいていくと、おどおどと体を揺らしたものの視線も外さずこちらを待ち構えている。しかし、問いかけへの返事はない。
「あれを見ていたのか」
 玉座の斜め上の壁に掛けられているのは、一点の絵画だ。一人の人物の後ろ姿とそこに降り注ぐ光。前王がお抱え画家に描かせたという、ルラントの選定印継承の場面だった。別に気に入っている訳ではないが、外すのも面倒なのでそのままにしているだけのものだ。いちいち観にくるようなものではない。
「あれが好きなのか」
 重ねて問うてみても、やはり息子からは返事がない。何かを訴えかけるような見開いた瞳で、こちらを見返し続けるだけだ。先ほどからの出来事もあり、ファジルの忍耐もついにそこで尽きた。 
「もういい、さっさと出て行け!」
 声を荒げた途端、小さな息子は驚きの顔となり、泡を食って逃げていく。長い長い溜息をつきながら、ファジルは己の椅子へと腰を下ろした。するとちょうど目の前にあの絵画が顕れ出る。
 神からの選定印の授受。
 己が冠を受けて、はや七年が過ぎた。三人の息子が授かり、そのどれもが印を受けずに生まれてきた。そして、印を持つ他の者が出たという話も聞かない。
 このまま、選定印の持ち主が現れなかったら?
 それも良いだろう、とファジルは思う。
 壁は建った。もはや奴らも攻めてこようとは思うまい。事実、壁の見張りに遣わした衛士たちからは、一度として侵犯の報告は上がってきていなかった。もはや建国王の威を借る必要はなくなったのだ。出ないというのなら、それも構うまい。あの息子たちにこの座を譲るかどうかはともかくも。
「何が神の証だ」
 誰にも聞こえぬよう口の奥で呟きつつ、ファジルは深々と玉座に身を沈めた。

1-2

■夢枕

 彼は一人玉座に身を沈めている。
 見渡す限り控える者は誰もおらず、がらんとした沈黙だけが場を占めている。彼はここがどこだか分かっていた。幾度も訪れた場所だった。
 目を僅かに上げれば、掛けられた絵画が自分を見下ろしているのが確認できる。そこに佇む男は、恨みがましい目でこちらを睨みつけてくる。
「焦るな、先王よ。お主がくたばった暁には、そこにそうやって肖像をかけてやろう。何、さほど遠い日ではあるまい」
 そう答えてやると、絵の中の男はひどく不本意そうな顔で黙り込んだ。男を蝕む死の病が払われたという話は入ってきてはいない。感触からしてそう長くはないだろう。後継者の確保にも失敗した今、残党の返り咲きの望みは絶たれたも同然だ。情けをかけてやる気にもなろうというものだ。
 そんな戯れをしていると、ふと背後に気配を感じた。移動してきた訳ではない、膨れ上がってくる気配。
「また現れたのか、魔物めが」
 彼は振り向きもせず、肘をつくとその拳に顎を載せた。
「このような殺風景な場に訪れて、何が面白いか分からぬな」
 近づいてくる気配にそう吐き捨てた時、甘い花のような香りが鼻をくすぐった。耳元に艶やかな声が響く。
「ご機嫌はいかがかしら、人の王の子よ」
 彼はその呼びかけに鼻を鳴らして返してやった。
「いまだ我を王とは認めぬか。勝手に押し入ってきて、相も変わらずしゃらくさい奴よ」
 するとくすくす笑いと共に、両肩に二本の白く細い腕が掛けられる。それはひどく冷たい感触で、いつもと同じものだった。もう一度彼はこれみよがしに息をついてみせる。
「まあいい、神が現れるより、お主の方がよほど我に相応しいというものだ」
 この女の訪問を初めて受けたのはいつのことだったろうか。気がつけば、幾度も別に望まぬ逢瀬を重ねていた。
 美しい女だということは分かる。感じる。
 しかし目覚めれば、その面差しはまったく特定が出来なくなっているのだった。残るのはぼんやりとした焦燥だけ。
 頬を針のような指が這う。またあの問答を始めるつもりなのだろう。
 その予想を裏切らず、女は囁いた。
「人の王の子、貴方の夢は何?」
「本当に飽きぬな、お主は。それが何度目の質問かすら覚えていないのではないか」
 彼は前を見据え、朗々たる声音で宣言する。
「変わらぬ。我が我であり続けること以外の望みなどない。故、我も我の血肉であるこの国も何者にも屈せぬ。神であろうが、魔であろうが、だ」
 そして、同時に女の手首を掴み取ってやるも、突然の狼藉への動揺は全く伝わってはこなかった。体温の感じられぬ腕を引き、彼は低く問いかける。
「毎度毎度、我だけ問いただされるのは不公平だとは思わぬか? お主もそろそろ胸の裡でも吐いたらどうだ。何を企んでいる、魔物め」
 と、力は緩めていないのに、するりと腕は逃げていった。からかうような歌う声がまた耳元で弾ける。
「無駄なこと、無駄なこと。貴方たちは無を知らぬ故忘れてしまい、無を知った故耳を閉ざす。だから私は語りはしない。ただ人の王を除き」
「やれやれ、そこに戻るのか」
 遠回しな言葉遊びは苦手だった。彼は再び椅子に深く座り直し、肘をつく。
「別に構わん。聞きたくもない」
 気配は薄れつつある。彼は己の前に続く絨毯の道を眺め、一言だけ呟く。
「また訪れるつもりか」
 返事はなかった。

1-3

■後継者

 あと五年ほどで、自分はこの座を追われる。
 ファジルは玉座に腰を掛け、次の予定までの短い間を過ごしていた。彼を見降ろすのは二枚の絵。印ばかりが目立ちどことなく印象の薄い男と、それに合わせて描かせた己の肖像だった。今より少し若い自分は、挑むようにこちらへ目線を向けている。やがて新しい王が彼らに睨まれることとなるだろう。
 五年。
 改めて考えずとも、ひどく短い年月だ。思い描いた各種の施策を全て実行できる時間ではない。
 もちろんそれを引き伸ばす方法はある。例えば、神の国への迎えが来るまで譲位は行わないとする。そう宣言するのは容易だ。何しろ成人と共に王を交替すると決めたのは彼なのだから。加えて後継者の出自のために、彼が王を続けることに表立って反対する者は少ないだろう。
 だが彼は、己が定めた故に、その規則を破るつもりはなかった。
 かつてノイラントと対峙した時のことを思い出す。成人してすぐに、支持者たちを連れてこの城へと乗り込んだのだ。玉座についたまま迎えるノイラントとその取り巻きたちに、彼は宣言した。
「もはや雌雄は決した。敬愛するルラントに倣い、いさぎよく次代に席を譲られるが良かろう」
 ルラント失踪後のドニヌスの抜け駆け行為が腹に据えかねていた者は多かったという訳だ。こちらの内部分裂を気取られ、かの二種族の刃を再び向けられてはたまらないと穏健に追認せざるをえなかったのを良いことに、ドニヌスとその取り巻きたちは穀倉地帯などの美味しい場所を占拠した。英雄たちの血筋も代替わりした今、不満が噴き出さない訳がなかったのだ。
「安心めされよ。お主の最後の大事業は受け継いでやる。奴らを隔てる壁は我が完成させてやろうとも」
 かくして、三代国王は玉座に就いた。
 改めて領地の線は引かれ直し、ドニヌスは北の積雪地帯近くへと居を移した。そことて穀倉地帯の端であり、不自由なく食っていくには何ら問題がない場所なのだ。恨まれる筋合いなど全くない。
 と、寄ってくる足音が彼の回顧を中断させた。侍従の一人が待ち人の訪問を告げると共に、扉が軋む音を立てて開き、彼は立ちあがらぬままにそれを迎える。
「来たか、ネセレ」
 ファジルの呼びかけに返ってきたものは、鋭い視線と重い沈黙だけだった。
 この後継者は、ほとんど口を開かない。
 初めて彼と接した教師や侍従は、必ず戸惑いをもってその報告を上げてくる。
 口が利けない訳ではない。問えば答えるし、話しかけてくることもある。単に徹底して必要なこと以外口にしようとはしないのだ。挨拶や軽口など以ての外だった。ただ黙々と、彼は与えられた課題をこなしていった。
 そして、ある程度前知識が備わった今、週に一度だけファジルが直々に王としての実際を教えてる時間を設けることとなった。その僅かな時間、玉座の間からつながった小部屋で二人は対峙する。
「王とは何か」
 席に着きしな、そう投げかけたのは先ほどまでの追想がまだ頭の端に残っていたからだろう。たちまち前に座るネセレの眉が不快げに歪められるのが見てとれる。口を引き結んだままの彼の反応をしばらく待ってみれば、やがて吐き捨てるようにぼそりと答えてみせた。
「ろくでもないもの」
「そうか。ではお主はそのようなものになるつもりなのだな」
 途端、睨み殺さんばかりの目を向けられるが、当然ファジルがそのようなものに動じるはずもない。ネセレは黙っておられずに再び声を絞り出す。
「別にならなくて構わない」
「王を廃すか。それも良かろう。だが、それを成すにはお主は王にならねばならぬ。故、お主はお主の言う通り、ろくでもない王となるだろう」
 反論できなくて悔しいのだろう。ぎりぎりと歯を鳴らしていたネセレは逆に問い返してきた。
「じゃあ、お前の考える王とは何だ」
 それは想定内の問答だった。ファジルはあっさりと答える。
「簡単なことよ。王とは国だ。国の形が王の形だ」
 それが気に入らないのか表情を一層険しくするネセレに、心得を説いてやる。元々今はそういう時間だ。
「己の思うように国を造れぬのは王ではない。それはただ単に玉座に座っているだけの者だ。故、玉座などさっさと次の者にくれてやればいい。残る形を作った王はいつまでも王であり続けるだろう」
 玉座に就く王は取り替えられる存在で構わないのだ。ルラントは去り、ノイラントは追われた。それでも国はなくならない。これからも印を持つ者が出続けるのならば、さっさと受け渡していけばいいだけだ。
 与えられた時間に何も成せぬ者は、いくら引き延ばそうとも成せぬままであり続けるだろう。
「あと五年だ。お主もろくでもないもの以外になる算段でもつけておくといい」
「……いてやる」
 食いしばられた歯の隙間から、その呻きは漏れ出でた。苛立ちを込め、次の王たる後継者は宣言する。
「なら、お前の残した全てを取り除いてやる。お前がいたことなんて、みんな忘れてしまうように」
 ファジルはそれを受けてにやりと笑う。
「そうか。ならば、楽しみにしておこう」

1-4

■来た道

 兄弟は多かった。
 けれど、一人も残らなかった。
 長兄は、王の命を受けて父と共に国境の視察に出た後、全員が喋らぬ躯となって帰ってきた。あちら側の巡回に運悪く遭遇し奇襲を受けたのだろうと結論づけられた。
 次兄はある雨の日、館の階段で足を滑らせて打ちどころが悪かった。
 一つ下の弟は、自分と一緒に毒を盛られ、それに耐えきれなかった。
 その下の異父弟は最初から体が弱く、物心つかないうちに山へと去った。
 一番下の弟はそれよりはましだったが、結局籠りを超えられなかった。
 父を亡くした後、実質的なランテの当主として采配を振るい、後ろ盾を得るために再婚した母も、病を得てその頃には既に帰らぬ身となっていた。
 気づけば、周りにいるのは遠戚や姻戚や取り巻きたちだけだった。彼らはそれぞれを牽制しつつ、多くの実りを彼から得ようとすり寄ってくる。
 別にそれは構わない。お互い様というものだ。見返りがあってこそ人は動く。
 彼らの出してきた中から配偶を選び、子を成した。妻はまた失ったが、子は残った。
「そして、お主が四人目の子という訳だ」
 そう締めると、ひどいしかめ面が返ってきた。多少むっとするが、さすがに彼のその振舞いにも慣れてしまっている。
「お主が珍しく自分から尋ねてきたから答えてやったのに、随分な態度だな」
「別にお前の家族のことなんて興味ない」
「ならば何故尋ねた」
「お前の弱点がないかと思っただけだ」
「そうか。あったか」
 返事がないのが答えだった。
 ネセレはむすりとした表情を崩さないまま、話をそらそうとしたのか別のことを尋ねてくる。
「……再婚は考えなかったのか」
「そうだな。そういう話はあった」
 まだ十分に若い王がいて、後継者も出現していない。出ない方がおかしい状況だ。
「だが、お主が来たからな。うやむやになった」
「ひ、人のせいにするな!」
「お主のせいにはしたつもりはないが。おかしな奴だ」
 指摘すれば、膨れ面でネセレは黙り込む。普段は賢しいが、こういう時だけはどうしてか子どもっぽい。
「一つ、面白いことを教えておいてやろう」
 そこでわざわざ自分からそう口火を切ったのは、おまけの気分だったのだろう。
「我の幼少の頃には、まだ分裂戦役を経験した者が多く生き残っていてな、ルラントに直に率いられた者も珍しくはなかった。そして、彼が現れる前の暮らしを知っている者も。そんな内の一人に聞いた話だ」
 ネセレの顔はこちらへ向きはしなかったが、耳だけはそばだてている気配は伝わってくる。この国でルラントの話に興味を抱かない者は少なく、ネセレもその例外ではない。
「そやつはためらいながらこう話したものだ。今では大きな声では言えぬが、ルラントが立ちあがった時に反対勢力は少なくはなかった。そして、その中で流れているこんな噂があった」
 老人は誰にも聞かれぬように声をひそめて囁いてきた。確かにそれを血の気の多い者にでも聞かれたら大変なことになっただろう。
「ルラントは草原からやってきたのだと。突然そこから現れたのだと」
 ルラントの出自は詳らかになっていない。そのような噂が流される余地は十分にあった。
「それが真実かどうかは我は知らん。どちらでも良いことだ。ただ確かなのは、ルラントですらそのような扱いを受けたということだ」
 明確な貴族の出であるファジルですら、それは免れ得なかった。母の不貞から拾い子、印のねつ造疑惑までありとあらゆる悪評を立てられたものだ。
「我らはそうやって扱われる存在だ。お主が家族を弱点と考えるのならば、作らぬ方が身のためだろうな」
 そう締めた途端のことだった。小部屋に鈍く乾いた音が響き渡る。
「結局、そこに戻るのか」
 ネセレが拳を机に叩きつけ、立ち上がっていた。
「良く分かった。お前には大事に思う人なんていなかったし、いないんだ。家族も、子どもも、もちろん取り巻きも……それに、自分も。だからあんなことができる」
 彼は続けて数度がつがつと拳を机に当てると、呻くような調子で言葉を継ぐ。
「……お前は、僕を自分と同じようにしたいのか」
「本当に今日はどうした」
「僕が殺されたら、きっとお前は喜々として王を続けるんだろうな」
「身の危険を感じたのなら、きちんとその時の状況を伝えていけ。対策を立てる」
「もういい! 僕はお前の取り替え部品じゃない!」
 とりつく島もなく、ネセレは憤りのままに小部屋を出て行ってしまう。残されたファジルは当然追う気もなく、半ば開け放たれた扉を見て軽く息をつく。自分も自分の子どもたちもあのような態度に出ることはなかった。
「難しい年頃という奴か。良く分からんが」
 ファジルのそんな呟きは、誰に聞かれることもなく消えていったのだった。

1-5

■猜疑の時

 体の不調を感じはじめたのは、その頃からだった。
 年を数えればもう五十に近く、自覚するにはむしろ遅い方だろう。しかし、彼にとってはそれは不本意であり、受け入れがたい事実でもあった。
 元から身内と信頼できる使用人しか置いていない屋敷だ。片意地を張る必要などなかったはずだが、彼自身がそのような時の振舞いに慣れていなかったのだろう。結果、元より気難しい傾向があった彼は、ますますその性質を強めることになる。有り体に言えば、使用人にとって一層扱いにくい主人となったのだ。
 ふざけて理不尽な要求をしてくるようなことはないものの、仕事の質には輪を掛けて厳しくなった。そのために使用人が必要以上に寄ってこなくなったので、双方にとって良い距離感を保つ結果となったのかもしれない。
 そんな中、唯一彼女だけが呼ばれなくても側に出入りする者だったのだ。父の命で各所に顔を出して留守がちな夫の代わりに、実質彼女が館の維持を取り仕切る役目のためでもあった。
「何か御用はありますか?」
 そうやって訪ねる彼女にしても、機嫌が悪い時には無碍に追い出されることも珍しくはなかった。それでも挫けることなく彼女は通い続け、いつしかそれは当たり前の光景となっていった。ファジルとて機嫌が悪いばかりではなく、話し相手が必要な時もある。
 そんな変わらぬ日々、彼女がぽつりと呟いたことがあった。
「私は、ここにいても良いのでしょうか」
「どうした。他に用事があるのなら、さっさと行くがいい」
 素っ気なく返された彼女は、静かに首を振る。
「この部屋のことではありません。この屋敷に、です」
「何か言われたのか」
「いえ。けれど、跡取りも作ることができず、このままではランテ家にご迷惑をおかけするばかりかと」
 彼女がランテに輿入れしてから、はや十年の年月が流れている。最初は当然期待された後嗣の誕生も、この頃においては口はばかる物事となっていた。
「何だ、そんなことか」
 しかしファジルはそんな懸念を鼻で笑って終わらせる。
「子が出来なければ、ランテは滅ぶ。それで別に構うまい」
「……私は、少し困ります」
「お主は無駄に正直だな。何、その時はお主の実家も婚姻を理由にランテの躯に食いつけばいい。それなりに美味しい部分も確保できよう」
「そういう意味ではありません」
 どういう意味だと目で問うても、彼女はそれ以上口を開こうとはしなかった。そうなるといくら促しても無駄だと承知しているのでファジルも重ねて聞くことはしない。代わりに呆れた息を吐いてみせる。
「何だかお主は誰かを思い起こさせるな。驚くほど率直かと思えば、突然理解の及ばぬことを言ったあげく黙り込む」
 ぼやいた彼の言葉に彼女は静かに微笑む。
「ファジル様、私が初めてお会いした時のこと、覚えていらっしゃいますか」
「いや。たぶん侯爵に連れられて城に訪れたかどうかしたのだろうが」
「そうでしょうね……私たちはたぶん似た者同士の夫婦なのでしょう」
 さらに意味の分からない返答で濁され、もはや追求の気も失せる。
「まあいい。別にお主が去りたければ去ればいい。それだけのことだ」
 しかし、彼女の心労は杞憂に過ぎなかった。
 一年も経たぬうちに、いかなる幸運か待望のものは授けられたのだから。
「ありがとうございます、ファジル様。おかげでお役目が果たせそうです」
 挨拶にきた彼女をファジルは身を椅子に深く沈めたまま迎える。
「おかげんはまだあまり良くありませんか?」
「そろそろがたの来る年頃だ。致し方あるまい」
「あまり無理をなさらずに」
「お主らには残念だろうが、まだくたばるつもりはないな」
「ええ、永くお願いいたします」
「リーイールはどうだ」
「変わりはありません。あまり影響がないようで……」
「そうか。我もそうだったからな。血筋かもしれんな」
 納得する態のファジルに、彼女はまた微笑みかける。
「それで、是非お義父様にお名前をいただきたいと」
「そんなものはそちらで決めれば良かろう」
「いえ、是非」
 そこからまた退かぬ姿勢を読み取り、ファジルは承知せざるをえなかった。別に悪い気分でもない。
「分かった。考えておこう」

1-6

■葬送の島

 その島は、どれほどゆっくり歩いても一回りするのにさほど時間がかからないであろう、小さなものだった。
 しかしながら、生い茂る草木はその中にあるものを外界からひっそりと隠している。さらにそれらは野放図に伸びてきた訳でなく、明らかに人の手が入っていることを所々に感じさせた。
 どうしてこんなところに、こんな男と二人きりでいなければならないのか、ネセレには分からなかった。どこへ行くとも知れぬ間に、無理矢理連行されてきたのだ。当然のごとく彼の機嫌は最悪で、前を一人行く男の背を射殺さんばかりに睨んでいる。
 それでも足を止めてごねたりもせずついて歩いてきたのは、これが好機でもあったからだ。舟を降りて以降、自分たちには一人のお供もついていない。こんなことは初めてだった。
 何が目的かとネセレは訝しむ。こんなところに重要なものがあるとは思えない。ここまで足を運ぶほど、人に聞かれたくないような話でもあるのだろうか。城の中ですら安心して話せないとなれば、どれほどの重要事か。
 そんな話は聞きたくはない。またどうせ、王がどうたらということに決まっているのだから。
 自然に寄ってくる眉間のしわを感じつつ、ネセレは地面に目を走らせる。そして目当てのものを見つけると、すかさず蹴躓いたふりをしてそこへと倒れ込んだ。後ろの妙な気配にファジルが反応するが、もちろん心配して寄ってくるはずもない。僅かに振り返り一瞥したところに立ち上がる様子を見せてやれば、思った通りにまた前を向いて歩き出したので、見咎められることもなくネセレはそれを懐に入れることが出来た。後は隙を窺うだけだ。
 しかし、背後を取る機会はすぐに失われてしまう。茂みを回ったところで、ファジルが足を止めたからだ。
 感づかれたかとネセレは身を強ばらせたが、そこにあるものを認めて、元々の目的地に着いたと知る。
 大きな二つの石碑が鎮座していた。立派な装飾を施されたそれは、一瞬神像かとも思うが、刻まれた文字でネセレはその正体を知る。
 墓だ。
 まるでアネキウスそのものであるかの造形で天を見据える初代国王ルラントと、それに付き従うかのように居並ぶ二代目国王ノイラント。ここは王たちが眠る場所なのだ。
 それを認識した時、ネセレの胸中に湧き上がってきたのは強烈な違和感だった。何故この男と、こんな場に立っているのか。
 男のいつもと変らぬ不遜な横顔からしても、まさか死者を悼むために訪れた訳ではあるまい。元々そんな感性など持ち合わせているはずもない奴だ。
 ならば目的は……誇示か継承なのだろう。
「ここは何だ」
 どちらもご免だったが、無言で立ち尽くしているのも気分が悪い。どうせ聞かなければならぬなら、さっさと終わらせて帰り道に賭けよう。
 ネセレの問いに、ファジルは鼻を鳴らす。
「見たままだ。分からんか」
「建国王の遺骨も納められているのか」
「まさか。中は空だ」
 その言いぶりは、いかにも実際に見たもののそれだ。
「荒らしたのか」
「人聞きの悪いことを言うな。我が作ったのだ」
 遺骨のない墓碑をこのように目立たぬ所に作るなど、この男に似合わぬ所業だ。不審の目を向ければ、ファジルの視線は二代の像に注がれていた。
「奴を引きずり下ろす際、立派な墓に弔ってやると約束したからな。果たしたまでよ」
 その理由ならば十分に納得できる。この男は己が成した戦果の記念碑としてこれらを建てたのだ。そして時折、こうやって眺めて満足しているに違いない。
 自分の想像で胸をむかつかせ、ネセレは視線を墓碑から逸らす。と、少し離れたところに小さな石碑を見つけた。小さいとはいえ今さっき見たものに比べてで、そこらの村にあればとても立派に見えることだろう。やはり墓にも見えるが、王墓たるこの島に他の余計なものを置くのを良しとするだろうか。
 たぶん業績なりなんなりを記した碑だろうと刻まれた文字を何気なく読んだネセレは、次の瞬間思わず身を強ばらせる。
 それは紛うことなく墓で、そこに彫られた名前は聞き覚えのあるものだったからだ。
 彼が永遠に失った者の名だったからだ。
「次の王父と王母だ。問題はあるまい」
 背後から掛けられる悪びれたところのない言葉に、ネセレは声を失ったまま振り向いた。彼から彼らを奪った張本人は、何ら後ろめたさを感じさせぬ態でそびえている。
「何か加えたければ、お主が王となりて後にでも好きにするがいい。ここはたまの巡回と掃除人以外は王しか立ち入らぬ」
「おま……お前が殺した、くせに……!」
 ようやく出た責め句は、自分でもはっきり分かるほど動揺で揺れていた。そんな有様ではファジルの眉一つさえ動かすこともできない。
「当然だ。次なる王を拐かそうとした大罪人なのだぞ」
「なら、こんな中途半端な……っ真似っ」
 妙な情けをかけられたと思うと、悔しさのあまりに涙が滲む。
「お主は何か考え違いをしているようだ。罪は罰により濯がれた。後に残るは我の民、死したる者に罪なぞない。故、弔ったまで」
 勝手な理屈を言い放つファジルは、そこでにやと笑みを浮かべた。
「お主もまた、我が死したる時には弔うといい。先の王を葬るのもまた、王の役目なのだから」
「うるさい!」
 叫んだと同時に、ついネセレは懐に隠していた石を勢いで投げつけてしまう。真正面からの攻撃が当たるはずもなく、石はあっさりとファジルの太い腕に弾かれる。
「言われなくとも、お前なぞ葬ってやる! そこに並べて、屈辱的な碑文をつけてやるからな!」
 挑発のはずの言葉に、しかしファジルは動じず頷いた。
「うむ、頼んだぞ」

 それが二人の間に交わされた唯一の、そして叶えられることのない約束だった。