「冠を持つ神の手」外伝2

終わりの夜 目覚めの朝

「ネセレ」

2-1

■発見

 ネセレ・テイルフ=リタント=ランテ。
 それが彼に与えられた新しい名前だった。
 けれど、それの持つ意味以前に、自分の本来の名前すらはっきりと覚えていない程、その時の彼は幼かった。
 彼にしてみれば、何が何だか分らぬうちに連れてこられ、訳の分からぬ人たちに囲まれて、意味の分からぬことを囁かれて、まったく混乱するばかりだったのだ。
「あの、いまのおすすめは、つるばらであんだかごです。ほかにもいろいろあります」
 いつものようにそう言ってみると、困った顔をして笑われた。通じているのかいないのか、色々な食べ物を与えられ、果ては風呂にまで入れさせられる。今まで似たようなことがなくはなかった。村から街へ、街から村へと渡る行商は、持ってくる品物以上に話を売りにしているようなものだ。盛り上がる大人たちを横目に部屋の隅の方で料理をもらったり、眠らせてもらったりは何度も経験がある。でも、今回はどうにも様子が違った。
 きっとここは“おかねもち”のいえなんだ。
 彼はそう察して、大人しくしていることにした。そうすれば、きっと両親に誉められる。明日の朝になれば、いつものように迎えに来てくれると思って。
 もちろん、その予想は当たりはしなかった。次の日に部屋に現れた訪問者は、彼の全く見知らぬ人物だったからだ。
「ふん、なるほど」
 やけに上背のあるその男は現れるなり彼を見下ろし、そう吐き捨てる。
「その額に輝くは確かに選定印よ。認めざるをえまいな」
 男の体躯や召し物の立派さに加え、従えている人数の多さにネセレは圧倒され、ただただ目を見張るばかりだった。それでもこれが“えらいひと”だと察し、おずおずと挨拶をする。
「さくばんは、ありがとうございます……えっと……そんちょーさん?」
 瞬間、場の空気が凍ついたのをネセレは感じ取った。人と人の間を渡り歩いて暮らしてきた彼は、そういった機微を嗅ぎ取るのは苦手ではない。何が悪かったのかは分からないが、こういう時はとにかく謝っておくに限った。
「ご、ごめんな……」
「頭を下げるな」
 途端に、頭蓋に強い力がかかる。ぐいと無理やりに顔を上げされられ、ネセレは一層訳が分からなくなった。
「お主が学ぶべきものはそれではない。わきまえろ」
「……恐れながら陛下、それは少し酷ではありませんか。聞き及ぶところ、この子どもはまったくの庶民育ち、しかもここに来たばかりときては」
「阿呆か、貴様は」
 男が自分よりかなり年上の人間の言葉をむげに撥ねつける光景は、さらにネセレを混乱させることになる。今まで大抵の場合、年を取っていれば取っているほど偉い人だったのだから。
「これはお主の子ではない。次の王なのだ。お主は何ゆえそのようないらぬ差し出口を利くのだ?」
「は……」
 ここはおかしい。
 ネセレはもはやどうしていいか分からず、この事態を説明してくれる人を心から求めた。それはもちろん父と母の姿だ。
 ここは自分のいるべき場所じゃない。
「おかあさん……おとうさん……どこ?」
 半泣きで呟くその声に応えたのは、意外なことにこの場の支配者である男だった。
「父か。ここにいるぞ」
「えっ」
 自分が見逃していたのかと、ネセレは男を取り巻く人々をもう一度きょろきょろと見回す。けれど、そこには見慣れた顔など一つとてない。それどころか、誰も彼もがネセレと目を合わせると、気まずそうに面を逸らすのだった。
 と、急にまた頭を掴まれる。ネセレの目前にかの男のいかつい顔が迫り、強い調子の言葉が吐かれる。
「我がこれからお主の父だと言うたのだ。分かったな」
 もちろん、幼いネセレにその本当の意味など、分かるはずもなかったのだ。

2-2

■邂逅

 一週間が経ち、それでもネセレの状況は何も変わらなかった。見知らぬ場所に慣れるどころか、日が経つごとにそこは一層よそよそしさを増すようで、いつしか戸惑いすら表すのも難しくなってきていた。最初は同情混じりで接してくれた世話係たちも、塞ぎこんで反応の薄いネセレに手を焼き始めていたのだ。彼らはファジルの不興を買うのを恐れてもいた。己の子ですら甘やかす様子もないファジルが、後継者たる人間が泣き暮らしていることを許すはずもない。従い、彼らはどうにかネセレを仕立てあげようとしたが、そんな下心が見え見えな行為は彼をさらに委縮させるばかりだ。
 彼はほぼ一日中部屋に閉じこもり、湖を眺めて過ごしていた。食も段々と細くなり、顔色も優れない。比例するように、世話係たちの顔色も沈んでいくのだった。
 そんな彼らの顔が少しだけ血の巡りを良くした時があった。部屋に訪問者がやってきたのだ。医師や芸人よりも希望を持てる小さな訪問者が。
「君がネセレ?」
 実際、そう声を掛けられたネセレは、いつもと違う反応を見せた。自分と同じくらいの子どもの姿は彼を驚かせ、会話を誘うのには十分な要素だったのだろう。おずおずとネセレは問いかけを返す。
「だれ……?」
「ぼくはリーイール。だいさん王子だよ」
 臆病だが大きく振る舞いたがる第一王子や、何事も如才なくこなす第二王子に焚きつけられてやってきたのだろうが、同い年でおとなしい第三王子は交友相手としては悪くない選択に思えた。実際、話が弾んでいるとはいいがたいものの、逃げたり黙り込んだりすることなく会話は成立しているようだった。
「ねえ、それって神さまからもらったんだよね」
 どうやら第三王子の関心は選定印にあるらしい。彼はおもむろにネセレを質問責めにする。
「どうやってもらったの? どうすればもらえるの?」
「あの、これ……きっとぶつけたんだって、おとうさんが」
「ちがうよ。それは神さまがくれるものなんだって。ね、神さまってどんなだった?」
「えっと……わかんない」
「しんでんにあるのとはちがうの?」
「……しらない」
「しんでん行ったことないの? じゃあ行こうよ。おしえてあげる」
 思った以上に二人の相性は悪くないようだった。ずっと部屋から出ようとしなかったネセレの手を引いて、リーイールは外へと繰り出す。
 これでどうにか気分を外に向けてくれないかと世話係たちは祈るばかりだった。
 そしてその思惑通りに、連れられて初めてまともに外に出たネセレは、改めて自分のいる場所に驚くことになった。大きいし、石ばかりだし、人がたくさんいる。お祭りでも見たことのないような、派手な色の服を着ている人もいる。彼らは自分を見て、面白そうに何かを囁き交わしている。
 今いる神殿も、見たことのない天井の高さに圧倒されるばかりで、ぽかんと口を開けて見上げることしかできない。そんなネセレに、リーイールはレリーフを指し示す。
「ほら、神さまってあんな風だった?」
「わかんない……会ったことないし……」
「えっ、ないの? 印があるのに?」
「んー」
 ここへ来てから何度も似たようなことを言われた気がするけれど、全く意味が分からなかった。困っているネセレの様子を見て、リーイールは何事か察したらしい。再びネセレの手を握ると引っ張り歩き出す。
「じゃあ、こっち!」
 来た道もあやふやなネセレはそれに従うしかない。今度はひどく大きな扉のところへ連れてこられて、その中へと入る。そこは長く続く絨毯の先に、ぽつんと椅子が置いてある変な場所だった。
「ほら、あれがね、むかしの王さま」
 椅子の近くまで行くと、一枚の大きな絵が見えるようになった。リーイールが解説を始める。
「神さまが王さまになりなさいってくれたんだって。君のそれと同じもの。お父さまにもあるんだ」
 言われて自分の額が気になるネセレだったが、いくら目を上に向けても問題の印は全然見えない。四苦八苦しているネセレの耳に、とんでもない話が飛び込んできた。
「だから君はおとなになったら、王さまになるんだよ」
「おとなになったら、りっぱなしょうにんになるんだよって、おとうさんが……」
「ちがうよ。王さまになるんだよ」
「おとうさんが……」
「我がどうした」
 突然、朗とした声が部屋に響き渡った。リーイールの手がびくりと震えたのがネセレに伝わってくる。ネセレもまた身を強ばらせていた。それはあの男の声だったからだ。
 扉をくぐり、大勢の取り巻きをつれて巨躯の男が姿を現していた。
「そろそろ覚悟を決めたか。ならばそこで見ていても構わんぞ」
 男は躊躇せず椅子のところまで進むと、どっかと腰を下ろす。相変わらずの威圧的な様に押されつつも、隣にリーイールがいることが少しだけネセレに勇気を与えた。彼は男に向かって、声をふりしぼって訴える。
「あの、おとうさんとおかあさんのところに、かえしてください!」
 しかし、それに返されたのはひどく冷ややかな視線だった。
「父はここだ。母は残念ながら一昨年山へと登った。それにお主はもう添い寝する乳母が必要な年齢でもあるまい」
「ちがって、おとうさんはちちじゃなくて、おとうさんで……」
「ほう」
 空気が軋む音が聞こえた気がした。何が悪かったのかは分からなかったが、男の機嫌を損ねたことだけはネセレにもはっきりと伝わってきた。
「つまりお主の父となるには我は不足だと、そう言いたい訳か」
「ちが……」
「そう言いたいのか!」
 すくんで動けなくなったネセレをその場から救ったのは、リーイールだった。単に繋いだままの手を離すことを忘れていただけかもしれない。ネセレは逃げ出した彼に引きずられ、玉座の間から共に転がり出る。男は追ってきたりはしなかった。
「だ、だめだよ、お父さまをおこらせちゃ……」
 リーイールの忠告は与えられるのには遅すぎ、ネセレは恐ろしさのあまり涙目で返事もできない。
「へやにかえろ。いっしょに行くから」
 結局ネセレはそれからまたしばらく部屋に引きこもり、世話係たちの落胆を深めることになったのだった。

2-3

■誅伐

 それは唐突に訪れた朗報だった。
「あのね、ネセレのお父さまとお母さまに会えるって!」
 飛び込んできたリーイールにそう耳打ちされ、字の練習をしていたネセレはびっくりして目を見開く。次に口を開いて聞き返そうとすると、リーイールに塞がれてしまった。
「しーっ。お父さまにきかれたらいけないから、ないしょないしょ」
 侍従たちの耳を避けて、二人は部屋の隅へと移動してひそひそ話を交わす。
「しようにんの人がないしょだよって、おしえてあげてって、ネセレに。こんどのお休みのれいはいの時に、お父さまとお母さまがうらぐちでまってるって」
「でも……おとうさんとおかあさんはぼくがいらなくなったから、あの……あの人にもらわれたんだって……」
「だれかがそういったの?」
「うん」
「ちがうよ。ネセレは王さまになるからここにきたの。ネセレのお父さんとお母さんはりっぱなんだよ」
 リーイールはきっぱりと言い切り、うつむきがちだったネセレはようやく彼の顔を見る。さらに力づけるように、リーイールはネセレの手を取った。
「でも、きっとお父さまはおこるから。だからないしょなの。ぼくのうばもきゅうにいなくなっちゃって。会いたいってお父さまにいったら、おこられたから」
 怒られる、という言葉でネセレの手が少し震えたが、次の助言でそれもすぐ収まる。
「だからね、ぼくないしょで会ってるんだ。ネセレもそうすればいいよ。そうすればおこられないよ」
「……うん!」
 “お父さま”に怒られるのはもちろん怖かったけれど、それ以上に父母に会える誘いは魅力的だった。
 そして礼拝の主日、その話が嘘ではなかったことをネセレは知る。初めて礼拝に出るふりをしてリーイールに連れていってもらった使用人裏口にはずっと会いたかった姿があった。彼らもまたネセレの姿を認め、やつれた顔を輝かせる。
「おとうさん! おかあさん!」
「ネセレ、ネセレ! よく無事で……!」
 抱かれた暖かさは前と変わらず、ようやくネセレは捨てられたんじゃないかという疑いを晴らすことができた。嬉しさのあまり、彼は父親にすがりついて舌足らずに報告し出す。
「おとうさん、あのね、字がよめるようになってきたの。りっぱなしょうにんになるには、字がよめるといいんだよね。だからね……」
「うん、分かった分かった。後で聞くから、今はここへお入り」
 しかし、何故か両親は話を聞いてくれず、ネセレを側の荷台にある木箱に押し込めようとする。
「え、なにするの? なにするの?」
「ここから逃げるんだ。さあ早く!」
 ここに来てひどく慌てたのは、隅で隠れて見守っていたリーイールだった。あれよあれよという間にネセレの姿が消え、台車は出発してしまう。
「だ、だめだよ、出てっちゃだめだよ、ネセレは王さまになるんだもの!」
 内緒で会う時、乳母はあんなことはしなかった。ひょっとしたらあれはネセレのお父さまとお母さまではなくて、悪い人だったのだろうか。
 青ざめながら、リーイールは城内へと取って返す。と、すぐそこに見回りの衛士がやってきていた。
「た、たいへん、たいへんたいへんー!」
 それがどういう結果を生むか、考える余裕などなくそう騒ぎ立てる。そして、すぐに彼の前にその結末は現れた。
 この城から出る道は一つ。ばれてしまえば、それで終わりなのだから。
 駆けつけた侍従頭に連れられて正門へたどり着いたリーイールは、そこに人垣を見出す。騒ぎの中心には、殴られ、引き立てられる男女の姿。そして羽交い締めにされて引き離されるネセレの泣き顔。
 リーイールがそこに出ていく機会は与えられなかった。彼が着いた直後に、重い足音がその人垣を割って響いてきたからだ。
 誰にも邪魔されることなく、恐怖の化身は輪の中へとそびえ立つ。
「己が犯したことの意味、承知しておろうな」
 それは自分に向けられた言葉ではなかったが、含まれた冷たい響きはリーイールを凍りつかせるには十分なものだった。彼はかたかたと震えながら、経緯を見守るしかない。
「木端商人がどうやって城に入り込んだかと思えば、なるほど、ノイラントの残党の差し金か。嫌がらせじみた博打を仕掛けてきたものだ」
 そして、リーイールだけでなく、他の誰も割って入ることはできなかっただろう。地面に這いつくばる男女を見やるファジルの目には一片の情けも宿っていないのが明らかだったのだから。
「ならば相応の返事をくれてやらねばな」
 鞘が鳴る。地面に落ち、甲高い悲鳴を上げる。隙なく磨かれた刀身が陽光を受け煌めく。描かれたためらいのない軌跡は、鈍い音をもって終点を告げた。側に立つネセレの頬に赤い模様が散らされたのを、リーイールは目撃してしまう。
「城の外へ放り出しておけ」

 それが、長い長い悪夢の始まりだった。

2-4

■成人

「あら、リーイール。成人おめでとう」
 呼び止められて振り返る彼の前には、澄ました次兄の姿があった。成人して一年、すっかり女性の振舞いが板に着いたようだ。
「ありがとう、兄さん。旦那さんは一緒に?」
「ええ、打合せに出席しています。私はその間、こうして子ども時代の思い出を巡ってみているという訳」
 言いつつ、彼女の唇には隠しきれない皮肉な笑みが浮かぶ。
「もっとも思い出したいことなんて、それほどないけれど」
「……ゆっくりしていってください。では」
 そこで話を打ち切って歩き出そうとしたリーイールだったが、次兄は彼を逃してはくれなかった。
「少しだけ待って。確かめたいことがあるの」
 別に急ぎの用という訳でもない。気の重さもあり、リーイールは再び立ち止まって次兄の方を向く。
「貴方、ランテの家を継ぐつもりってのは本当なの?」
 やはりその話だった。ためらいなく頷くと、たちまち次兄は気の毒そうに眉をひそめる。
「貴方だけ残されて何某かの責任を感じているのかもしれないけれど、別に放置して構わないのよ。あの人は今まで通り、自分の思うようにやっていくことでしょう」
 もの思わしげな忠告は、別に放棄したランテ家の継承権を惜しむためではなく、次兄の本心なのだろうと思えた。
「まあ、兄様ほど徹底して逃げるのもどうかと思いますけど。元よりあの人は私たちのことなんて、眼中にありませんから」
 長兄は成人してすぐ、ランテ家の継承権どころか姓まで捨てて、神殿へと入った。もうディットンから戻ってくることはないだろう。その知らせを受けたファジルは一言、「ふん、そうか」と呟いただけだった。以来、話題にすることもない。
「あの人の性格を甘く見積もり、ランテとお近づきになりたいだなんて考える輩はいくらでもいるのです。彼らを利用して逃げればいいだけ」
「兄さんのように?」
「そう。それが賢い生き方」
 そして次兄は成人してすぐに結婚し、ランテの名を中央に押しやった。当然というか、ファジルからの反対などありはしなかった。
 故に、今やランテを本姓に持つ者は当主たるファジルと、末のリーイール、そしてあと一人のみなのだ。
「でも兄さん、やっぱり誰かが引き受けないといけないことだから……」
 そう言うと、次兄はことさら大きな溜息をついてみせた。
「うまく対処もできない癖に、どうしてそうやって首を突っ込もうとするの。心配なのよ。このままじゃきっと貴方、良い方向へは行けない」
 これ以上留まっても、きっと話は堂々巡りだろう。リーイールはそう判断する。何を言われても決心したことを撤回するつもりはない。特に、今は。
「ごめんなさい、ちょっと行くところがあるのでそろそろ」
 だからそう断り、場を離れることにした。今度は次兄も引き留めてはこなかった。
「諦めるのも勇気よ。印持ちは、私たちとは違うのだから」
 ただ背中から、その声だけが追いかけてきた。
 印持ち。
 リーイールは廊下を鬱々とした気分で進む。
 継承者。寵愛者。ルラントと同じ加護を得た者。優れた者。神に認められた者。
 どうして自分は……。
 中庭へと逸れる。水辺を歩き、奥へと分け入る。部屋に訪れると出かけたと言われた。きっとこの辺りにいるはずだ。成人前は、いつもそうだったから。
 そしてリーイールは、その姿を見つけた。
「ネセレ」
 呼びかけには無言の反応で返される。しかしわずかに動いた目線で、あちらが認識したことは分かる。それに、目の前に立っているのが、確かに探していた人物だということも。
「……本当に、男を選んだんだね」
 今度の言葉に対する反応は顕著だった。ネセレはぎっと睨みを効かせ、ついに口を開く。
「それが何か?」
「ううん……ただ単に、君は女を選ぶと思っていたから」
「そんな話はしたことないはずだ」
「うん、だから、僕が勝手に」
 ネセレの苛立ちが伝わってくる。それでもリーイールは言葉を継がずにはいられなかった。もはや、全ては手遅れなのだから。
「だって……だって、君は父様のことが……だから」
 途端に、横面に衝撃が走る。殴られたのだと自覚した時には、ネセレは茂みの向こうへと姿を消していた。じんじんと痛む頬を触りつつ、リーイールは苦く噛み締める。
 これでもう子どもの時間は終わったのだと。

2-5

■即位

 アネキウス暦7352年、リタントは新たな王をその玉座に迎えた。
 平民出身という王の誕生は、貴族のみならず庶民からも不安の眼差しをもって迎えられた。彼らはやっと落ち着いた生活を乱されたくはなかったのだ。三代国王は登極の時こそ国内は大きく動揺したものの、在位の間は時折徴用が行われた程度で、概ね彼らは自分の仕事に専念することができた。とりたてて称えるようなことはなかったが、気がつけば外敵に怯えることもなくなり、耕した畑は次の実りを約束するようになっていた。王がどこ出身だろうとどうせ関わることなどないのだろうから、別に代替わりなどしなくてもいいんじゃないかというのが彼らの多数の意見だったのだ。
 そんな中一番浮足立ったのは、安定した流通を確保できるようになり存在感を増しつつあった大手の商人たちだった。ここで権利を握ることが出来れば、他の同業者を抑えて一気に躍進できる。彼らはこぞって新たな王の誕生を祝福し、貢物を差し出した。大貴族の出で強面の前国王よりは与し易しと侮られていたことは間違いない。加えて、彼らの耳にも前国王との不和の噂は届けられていたのだ。
 そして、それを証明するかのように変事は起こる。
 次の年も明ける頃、新国王が前国王を王城から追い出したのである。前国王は譲位の後も城に残り、陰日向にその影響力を及ぼしていたのは公然の事実ではあったが、これにより決裂は確定的となったと周りは見なした。
 しかし、どれだけもめることかと注視していた人々の昏い期待は裏切られる。前国王はあっさりと己の領地に引っ込み、新国王は己で采配を振るい始めたからである。
 必然、これが好機と商人や新興貴族たちは新たな王に群がり、王はその対応に日々忙殺された。人々のもくろみとは裏腹に、新王は彼らに迎合せずに、むしろ時が経てば経つほどその態度は頑なになっていくばかりだった。前王は取り立てて便宜を図ってくれるようなことはなかったものの、付け届けの類には鷹揚であった故に、彼らは新王の潔癖さにはそのような懐柔策はむしろ逆効果だというのを悟るのが遅れたのだ。
 返礼は冷遇となって顕れた。
 若い王は加減を知らず、忠告も彼の耳には筋の通らぬ非難めいて響いた。前の王を見習え、踏襲しろとの苦言は一番の禁句だったが、うっかり洩らす者も少なくはなかった。過ぎた時代は殊更良く見えるものだ。
 そして当然ながら、国を動かす大貴族と新王の仲が睦まじいはずもなかった。彼らにとって前王は担いだ旗頭であり、戦友である。その彼が認めた後継者として渋々ながらも追認する姿勢を見せていた彼らだったが、前王の追放じみた退城により事態は一変する。調整役たる前王を失い、不審を抱いた貴族たちと新王は直接対峙せざるをえなくなった。
 それがもたらした結果は言うまでもない。貴族たちこそ、前王の治世の継続をもっとも望む者だったのだから。
 衝突は目に見えて増えていった。溝はその度に深まり、取り返しがつかなくなっていった。
 やがて、当然の帰結のごとくに決定的な破局の時は訪れる。
 新王が懲罰として、ある貴族の領地を取り上げたのだ。
 もちろん新王がそこに至った言い分はあるのだが、それは打ってはならぬ禁じ手だった。貴族らにとっては宣戦布告も同様だったのだから。
 かくして長い確執の火ぶたは切って落とされた。
 どちらにとっても、後戻りの道は絶たれていたのだ。

2-6

■罪過

 丸々と太り、つややかな頬を紅色に染めた赤子だった。
 そしてそれは、容赦なく切られた期限そのものだった。
 その額に刻まれた印によって。
 赤子は祝福と策謀と欲得に包まれて、安らかに寝息を立てている。
 あれから十年余が過ぎた。そして、これから十五年。今までの歩みと、これからの歩み。届く距離はすでに決まってしまっているのではないか。
 座り心地の悪い玉座の上で、ネセレは身じろぎした。ほとんど腰を落ち着けることはないため、いまだに自分のための席とは思いがたい。
 頭上からは二対の瞳が見下ろしてくる。わずらわしいその目線。そう遠くないうちに自分もあそこに顔を並べるというのだろうか。その時に、自分は何を成し遂げているというのか。
 ——残る形を作った王はいつまでも王であり続けるだろう。
 おもむろに肖像画の唇が動き、音にならぬ声を浴びせかけてくる。かつて、奴が放った言葉。自分が反論できなかった言葉。
 確かに奴は今でも王なのだ。
 貴族たちは奴の後ろ盾がない自分の言うことなど聞きはしない。ここ最近はまともに税収の報告も上がってこなくなった。無能な法務長を罷免し、庶民出の叩き上げをその後任につけてからだ。彼は直接法務官たちを主要な領地に派遣して情報を集めるなど頑張っているものの、限界はある。
 これが奴の目指した国の形なのか。ただ生まれのみで能力に優れた訳でもない一部の奴らが、与えられた餌を貪り肥え太るのを良しとする形。
 しかもそれはあまりにも強固に編みこまれてしまっているのだ。
 これから十五年。
 ネセレは膝に乗せた拳を強く握る。与えられた時間はあまりにも短い。
 不意に笑い声が玉座の間に響いた。けらけらと嘲るようなその哄笑は、高い天井に当たっては跳ね返り、場を満たしていく。あの小さな体から、どのすればこのように大きな音が出せるのだろう。床に置かれたふくよかな体は、音に合わせてぐらぐらと揺れている。
 あの赤子。
 貴族から生まれた。
 貴族の。
「私たちの子どもがまさか印を授かるなんて!」
「とても、とても光栄なことです!」
 笑い続ける赤子の横に男と女が跪く。歓喜に満ちた表情で、こちらを仰いで。何の疑いもなく。
 自分たちが素晴らしいことを成し遂げたのだと、信じている。
 無残な無邪気さで、その赤子を差し出してくる。
 ……どうしてあの時、自分は突っぱねなかったのだろう。その子は成人まで両親が育てればよいと。
「この子はいかがいたしましょう。やはり、前の王と同じく、貴方様の養子に?」
 どうして自分は頷いてしまったのだろう。
「どうすれば良いか、貴方は知っている」
 背中に女の重みがのしかかった。
「何をしたいのか、貴方は分かっている」
 耳元で女の息が弾けた。
「誰が残るべきか、貴方は決めている」
 胸元に女の指が這わされた。
「……お前は、誰だ」
 問いかけに答えはない。
 赤子はいまだ揺れている。あざ笑う声は止まらず響いている。
 けらけら、けらけらと。
 たくさんの声音が天井に当たっては落ちてくる。
「貴方の心に従いなさい、人の王の子よ」

 ネセレは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。

2-7

■接見

 緊張している。
 己のふてぶてしさには自信がある彼も、さすがにそのことは認めざるをえなかった。何しろこれから自分は判定されるのだ。使えるか、使えないかを。
 もし、使い物にならないと判断されたのなら……。
 知らず知らずのうちに、下唇を噛んでいた。それは最大の屈辱だ。考えたくもなかったが、考えざるをえなかった。
 そうなれば、自分の全てが無駄だと言われたも同然なのだから。
 使用人にまぎれて、ここに入った。料理番の下働きとしての自分は不合格。役立たずと罵られて他の部署へ行けと追い出された。世話を焼いてくれたおばさんにやたらと心配されて座りが悪かったが、そのうちに城からも追い出されたのだと忘れてくれるだろう。
 わざわざそんな手順を踏んだのは、ここへ侵入するのがいかに面倒くさいかという証だ。一番痕跡を残さずに済むのは貴族のお付きとして鹿車にでも入ったまま紛れ込むことだろうが、彼にその手段は使えなかった。ここを訪ねる貴族はほとんどいなくなっていたために。
 もっとも使えたとて、それを選ぶつもりは彼にはなかったが。仕事で連れていかれた時、彼らの間抜けさを見せつけられてうんざりしていたからだ。あれに媚びを売るのは耐えられない。
 ならば、今の自分はどうだというんだ。
 そう問う声が腹の底からやってくる。
 結局言われた通りにこんなところへやってきて、己が否定されはしないかとびくびくしている。相手を変えただけで、していることは同じじゃないのか。
 そうなのだろう。彼はためらいなく答える。自分はそのために作られたし、それに異議を唱える権利などない。だからこそ、他に無駄な気力を使いたくはないだけだ。道具は道具。使いこなされることだけが本望。
 それ故に、自分は今、緊張しているのだ。
「いらっしゃったぞ」
 隣に控えている統率役が唇を動かさずにそう告げてくる。言われなくとも、近づいてくる気配でそれは明らかだ。
 そして、扉が開き、その男が姿を現す。
 やせっぽちだな。それが彼の素直な第一印象だった。扉からの逆光で、体の線が強調されていたこともあるだろう。背は低くもないが、高くもない。街ですれ違ってもまったく印象に残らないに違いない。
 これが主人か。
 あまり鍛錬を積んでいないだろう動きで寝室に入ってくる男を、彼は見つめる。もちろん事前に情報は頭に入れていたし、体格など必要な条件ではない。分かっていても彼はまだ若く、そして自分の力に自信があった。
「陛下」
 男が寝台に近づいた時、統率役が月明かりの中へと進み出て、そう声をかける。男は驚くことなくこちらへと目を向けてきた。
「以前よりお話ししておりました、新たな者が到着いたしましたので、お目通りを」
 答えたのは、沈んだ調子の、どこか張り詰めたものを感じさせる声だった。
「そうか。新たに成人した者だな」
「はい。名は……」
 そこで彼はずいと進み出て、統率役を遮るように口を開く。後でうんざりするほど叱られるのは覚悟の上だった。いざこの時が来たら、こう言ってやろうと彼はずっと前から決めていたのだ。
「便宜上つけられていた名はありますが、もはや意味はありません。どうとでもお呼びくだされば」
 沈黙が場に落ちた。それは戸惑いのためか、不機嫌のためか、怒りのためか。彼は肌をもってそれを窺う。男の顔は部屋の闇の中に沈んで判然としない。とりあえず統率役が口を挟んでこないということは、この男は取りなされたりごまかされたりすることが嫌いなんだろうと見当づける。
 そして、ようやく口を開いた男の態度は、拍子抜けするほど淡々としたものだった。
「……人に名をつけるということは、そう軽々しくできることではない」
 なるほど。
 さきほどからくすぶっていた軽い失望が充ち満ちて、彼の指先を強張らせる。それは予想しえた答えの一つだった。気を使ったのだろう遠回しな表現が、こちらを苛立たせることにも気づかず。
 なるほど、面倒くさいのか。
 もちろんそうだろう。側近などならともかくも、こんな入り立ての小僧一人に貴重な時間が割けるはずもない。承知の上の問いかけだ。今の対応で、少なくとも目の前のこの男が短気ではなく、弱気なり慎重なりの性質であることは分かったので良しとする。
 しかし、頭を下げて再び闇の中に沈もうとした彼を追うように、男は一歩前に踏み出してきた。アネキウスの夜光を浴びて、初めて男の顔が露わになる。
 意表をつかれて思わず見上げた彼の視線が、男のそれとかち合う。
 想像していたものとは違う、昏く据えた瞳。
「だが、そう望むのならば考えておこう」
 男は呟くようにそう言った。

「私は待っていた」
 男は彼に語る。
「奴の影響を受けない者が成る日を。奴から引き継いだ者は、その息がかかっている」
 側には彼しかいない。彼だけがその側に呼ばれた。
「そのために環境を整えた。物心ついた時から、そこで育つ者を作るために」
 男の瞳は遠くを見ている。
「私には、全てを成すための長い時が必要なのだ」

 彼はハラドという名をもらった。

2-8

■侵入

 守りの輪はわずかにほどけていた。
 それはほんの些細な変化ではあったが、幾度も通い観察してきた彼の目には明らかだった。
 歩哨の巡回時間もその順路も目立って乱れてはいない。けれど彼らの足取りにはどこか油断のようなものが感じられる。何かがあったのだ。彼らの気を少しだけ緩める何かが。
 それはたぶん彼らの主人に関することだろう。彼が屋敷から姿を現さなくなって随分と経つ。どうやら体調は好転してはいないらしい。
 あと少し時期を待つべきだろうかと、彼は考える。
 機会は一度きりだ。屋敷に踏み込み失敗すれば、警備は虫も入れぬほど厳重なものとなるだろう。可能な限り失敗の可能性は排除すること、この仕事ではそれが何よりも肝要なのだ。
 しかし。彼の奥歯はかちんと噛み合わされる。残された時間は多くない。これ以上費やすことは、こちらにとっても良くない事態を招きかねない。
 全ての終わりまで、あと半年。あの人はその重みに耐えきれなくなっている。
 何もかもがうまくいかなかった。
 彼は必ずしもそうは思わないが、あの人はそう感じている。費やした年月に比して、成し遂げたことはあまりに小さいのだと。
 それは三代目の呪いだ。
 あの人はそこからどうしても逃れられないでいる。国を変えるようなことをしなければと焦っている。今回のことに成功すれば……その呪縛から解放することができるだろうか。
「ハラド、今の国の形をどう思う」
 仕え始めて数年が経ち、一人で側に控えられるようになった頃、あの人は唐突にそう聞いてくることがあった。もちろん気の利いた答えなど用意しているはずもなく、素直に反応するしかない。
「どう……とは。すみません、俺はあまりそういうことには興味がなくて。そうやって聞かれると、何を答えていいのか分からない」
「それもそうだ。聞き方が悪かったな」
 ごまかさなければ、どんなにひどい答えでもあの人は怒らないと分かっていたから。
「では、こう聞こう。この国の制度についてどう思う。王と、貴族と、治められる民との」
「はあ、それも難しいんですが、俺の実感としてだけなら」
 一応言葉を選んで彼は話し出す。数年のうちに、それぐらいの遠慮は覚えた。
「皆の生活については、大きな不満があるとは聞かないし、悪くないんじゃないかと。昔のひどい話を聞いているせいかもしれないけれど」
 あの人は黙って聞いているので言葉を続ける。
「貴族は気に食わない。何もしていない癖に偉そうで、貴方の邪魔ばかりする。役立たずはいなくなった方がいい」
「随分と過激だ」
「貴方もそう思ってるんじゃないんですか」
「否定はしないが」
 困ったように笑うあの人の横顔を、今ではもう見ることもない。
「では、王についてはどう思う」
「それは……分かりません、本当に」
 それは彼にとって困った質問だった。
「だって、俺は貴方しか王を知らない。王の仕組みも何も、貴方がそこにいられるならそれでいいと思う」
 そんな答えに満足できるはずもないが、あの人は何も言わなかった。ただ一言だけを除いて。
「ありがとう、ハラド」
 けれど、もし今同じ問いと同じ答えが交わされたら。きっと彼は言うに違いないのだ。
「王も同じだ」
 唇に笑みなど浮かべずに。
「役に立たぬものはない方がいい」
 だが、そんなやりとりがされることもないだろう。他愛のない会話もいつしか途絶えて久しい。全てが軋みだしたのは、あの時から。そう、寄りにも寄って次の後継者が三代の孫だと発覚した時だった。
 神というものがいて本当に王を選んでいるというならば、どうしてこんな真似をするのだろうか。
 神の選択などまやかしだ。それを証明してやらなくてはならない。
 彼は懐の短剣の重みを感じる。
 たぶん、自分も焦っているのだ。
 自覚していても、彼は仕掛けざるを得なかった。
 例え悪い予感がまとわりついて振り払えなかったとしても。

2-9

■拒絶

 露台には、彼の他に誰もいなかった。
 彼を護る気配も周囲には感じられず、一体何をしているのかと思わず腹立ちを覚えたところで、ハラドはその滑稽さに苦く笑う。今の自分が言えることではない。それどころか、好都合ではないか。
 罠とは思えなかった。ハラドにとって、この辺りは文字通りに庭であり、これほど周到に仕掛けるような者も思い当らなかった。
 ならば、これは。
 もはや退く訳にはいかなかった。ハラドはゆっくりと木陰から姿を現し、枝を蹴って露台へと飛び移った。突然の出現にもやはり彼は驚く様子を見せず、ハラドは憶測を確信に変える。
 彼は自分を待っていた。
 新たな命を受け、裏切るために戻ってくる自分を。
「彼女は……どうしたんです」
 気になっていることがあった。
 機を図る偵察の際、彼女の姿を一度も見かけなかったことだ。
 近頃の彼は人を寄せ付けることすら忌避しがちだったが、その中で彼女と自分だけが例外だった。自分が彼の裏の側仕えであるのならば、彼女は表のそれだったのだ。
 一度もまともに顔を合わせたことはなかったが、ハラドにとって彼女はこの城で最も近しい人物だった。
「出ていった。故郷に帰ったよ」
 だから、淡々とした答えを聞いた時、胸の奥に渦巻いた気持ちは失望と納得が入り混じったものだったのだろう。彼女だけは、この時に彼の側に居てくれるものと思っていたのに。
 しかしそれは、彼女が彼を見捨てた訳ではないことも承知していた。彼が彼女を遠ざけたのは間違いなかった。
 もはや彼は誰も側に置くことはないのだろう。そしてただ一人、この石の箱庭に閉じ込められたままでいるのだ。
 どこで間違えたのだろうか。
 半月ほど前、彼と対峙した時のことを思い出す。
 ランテの館から解放されてのこのこと戻り、失敗を報告するのは身を切られるような思いだった。それでも身を眩さずに帰ったのは、掴んでいる情報が彼にとって重要なものだと理解したからだ。
 失敗を責められ、罵られるのは覚悟の上だ。しかし舞い戻ったハラドを、彼はごく当たり前の顔で迎えた。
「申し訳ありません。果たせませんでした」
「そうか。何があった」
 うなだれつつ、ハラドは報告を始める。屋敷の警戒状況、侵入の成功、対象の誤り、そしてその原因となった三代の死。思えば、そこで空気が変わったのを勘づけなかったのは、頭を垂れ、己の失敗にばかり気を取られていたせいなのかもしれない。
 新たな候補者からの提案を続けて話そうとした時、頭上からひび割れた声で遮られたことで、ようやくそれに気づいたのだ。
「……何故、とどめを刺さなかった」
 一瞬、ハラドは何を言われているのか分からなかった。
「いえ、これは我が方にも利のある条件と思い、一度お耳に入れておこうかと……」
 てっきり連行された時に標的に掴みかからなかったことを責められていると思い、そう弁明しつつ顔を上げ、ようやく己が間違った解釈をしていたと知る。
 彼は血の気の引いた憤怒の表情で、こちらを見下ろしていた。初めて見るその顔に、ハラドは柄にもなく言葉を詰まらせる。
 そこへ無慈悲な冷罵が襲いかかってきた。
「懐柔されたか」
 それはほとんど確信に近い語調を持って発された。
「お前はあの男に会ったのだな。そして、そう報告しろと言い含められた」
「違います。先代は既に……」
「ならば、どうして刃を止めた! 本当は身代わりなどではなかったのだろう、違うか!」
「違います。かつて死産とされた候補者の弟がいたかと思いますが、それが……」
「では、ランテの者なのだろう! 止める理由などない! 全て絶やしてしまえばいい! あの男の残したもの、全てだ!」
 これ以上、口を開いてはならないと分かった。自分の言葉は彼には届かず、激昂を誘うだけだろう。
 それでも彼にこれ以上のことを言わせてはならないと思った。
「貴方は、かつておっしゃったはずです。必要以上の犠牲を出すべきではないと」
 自分が単純な手段に出ようとした時、よく彼にそう諭された。そう説く彼の真剣な目が好きだった。
「ランテの子どもを滅ぼすのは、必要な犠牲なのですか。それならば……従います」
 返ってきたのは、不機嫌な沈黙。
 望んだ返事は与えられない。代わりにやってきたのは拒絶の意志だった。
 彼は言う。
「お前の新たな主人のところへ行って告げるがいい。見え透いた罠に乗るほど愚かと思うな、と」
 そして、彼はハラドに背を向ける。
「裏切り者は必要ない」
 その後、どうして素直にランテの屋敷へと向かったのか。それはまるで彼の疑いを肯定するような行為であったのに。
 彼の言う通り、自分もまた先代の死が半信半疑だったのかもしれない。けれど戻って分かったのは、そこにはやはりあの男の気配は感じられないということだった。新たな候補者だけが再びハラドと対面する。
「どうだ。お返事はいただけたか」
 いまだ成人せぬ子どもは、その容姿に似合わぬ堂々たる振る舞いで怯まず尋ねてくる。
「あの方は……もう……」
 言葉を濁すその姿に、候補者は聞かずとも察したようだった。
「そうか。して、お主は我を殺しに来たか」
 そうすることで、彼が喜ぶならそうしてもよかった。しかし多分、彼の望みはもはやそこにない。
「あの方は、私をもう必要としておりません」
「……そうか」
「だから、お願いがございます。どうか私に……」
「口に出さずとも良い」
 跪いたハラドの頭にそっと柔らかいものが当てられる。僅かな重みが掛けられる。
「それは我の……次の王の役割だ。故に、お主に命ずる」
 いまだ高い声で告げられる命。
「四代目を弑し、新たな玉座の礎とせよ」
 そして、ハラドはここに戻ってきた。
 懐には冷たい短剣の重みがある。
 彼以外にここには誰の姿もない。
 全ての始まり。
 全ての終わり。

 ハラドの胸の奥に、鞘がするりと滑り落ちた。

2-10

■痕跡

 見下ろす中庭には色とりどりの天幕が張られ、その合間を楽しそうに人々がそぞろ歩いていく。庭に面した部屋で次の会見までのわずかな空き時間を過ごしていたリリアノは、窓から覗くその光景に少し気を取られた。飛び交う声が風に乗って切れ切れに届いている。
 二週に一度の市の日。
 城下の商人たちが品物を持ち寄り、城中召し上げの野心に挑みつつ、使用人たちの楽しみとなるそんなささやかな催しだ。
 城中行事などで時折開催しない時はあるものの、特に大きな問題も起きることなくこれまで続いている。一部の貴族が目障りだと苦情を入れたこともあったが、撥ねつけ続けたところ、今では彼らが開催日には城に寄りつかないことで平和的に解決しており、他に文句を言う者もいない。
 ただ一人を除いては。
「……何故、取りやめなかったのですか」
 側付きが抜けた僅かな時間に、その苦言は背後から投げかけられた。微かに生じた気配からこの問答を察していたリリアノは、ごく自然な態でそれを受け入れる。
「どうした。警備はそんなに大変か?」
「それはもちろん、大変ですが」
 どこかむくれたような声がリリアノの問いかけに答えた。城外から人と荷物を流入させるのだから、当然のごとく不埒な動きも生まれる。問うまでもなく、それらの見張りは大変だろう。
「使用人の慰労のためとはいえ、彼らのほとんどは城外に出ることができます。商人たちとて、売り込みたければ該当の部署や各々の貴族らへと直接赴けば良いだけのことでしょう。わざわざ城内で開かせる必要性はないと思いますが……」
 筋の通った進言をする彼の心が、その言葉通りのものではないことをリリアノは知っている。止めさせたいのではない。ただ、欲しいだけなのだ。これを続けるための正当な理由を。
 さて、どう答えればよいかとリリアノは思案する。ともかくも、彼が疑っている、欲しくない答えだけは分かっていた。
 それは、哀れみだ。
 この市は、四代の頃に始められたという。
 贅を凝らした品々のお披露目会ではなく、多少は高価とはいえ庶民的な品が集まる傾向にあるのも、たぶんそのためだろう。
 彼は即位の最初の数年を除き、全く城から出ることもなくなったと伝えられている。彼もまた、このように窓から眺め、耳をそばだてたのだろうか。
 ほんの小さな中庭で繰り広げられる、懐かしい光景に対して。
 そう、そんなことを考えなかったといえば、嘘になる。
 しかしまた、そのような感傷で事を決めることもない。だからリリアノはたっぷりの間を置いて後、口を開いた。
「……お主、完璧であるということをどう思う?」
 一瞬、気配は意図を掴みかねた故のためらいを見せた。
「それは……とても好ましく、目指すべきものかと」
「そうか。我はそう思わぬ」
 彼の当然の答えをそう一刀の下に切り捨てると、リリアノは言葉を継ぐ。
「この城は確かに堅牢に出来ておる。前身が砦だからな、さもありなん。その気となれば、人の出入りは完全に統制するのも不可能ではあるまい」
「もちろんです。ですから……」
「だがな、それは良いことだろうか」
 返事はない。不服と思われる沈黙に、リリアノは再度問いかける。
「逆に考えてみよ。お主ならば、そのように完全に律された場を見てどう感じる。間諜すら満足に入れられないとしたならば」
「そうですね……怪しみ、不安に思うでしょう。隠されたものに、人は己が見たいものを見ます」
「だからな、穴はいるのだ。第一、我には隠し立てするようなことなどないしな」
 空惚けた物言いをしてみれば、また沈黙が返る。しかしそれには先ほどのものとは違う、了解の軽やかさがあった。
「最後の一線さえ守り抜ければよい。それ以外は見せてやればよいのだ。人は完璧であるものに敬意はもっても、好意は抱かぬ」
「承知いたしました。出過ぎた真似をいたしました」
「良い。また何か気づくことがあったら申してみよ」
 その時、扉の向こうから側付きが戻ってきた物音がし、たちまち背後の気配は消え失せる。
「……ありがとうございます」
 微かな一言を残して。
 それに対してリリアノもまた、口の中で呟くようにして返す。
「我はお主の仕事を増やしているのだぞ。礼を言われる覚えはない」
 もう会見の時間だろう。
 立つリリアノは、最後の一瞥を窓の外にくれた。
 天幕の一つから小さな子どもが歩み出て、道行く人に何か話しかけている。両親の手伝いだろうか、手に小さなかごを持っている。
 彼らの営みを目に焼き付け、リリアノは城の奥へと戻っていった。