「冠を持つ神の手」外伝2

終わりの夜 目覚めの朝

エピローグ

4-1

■目覚めの朝

 空は白みかけてきている。
 神の瞼が開こうとしているのだ。
 ぽつぽつと沈黙が落ちるようになったのは、思い返す昔話が足りなくなったからではない。ただ、二人の間には触れるにはためらう出来事が多すぎたのだ。
 そんな気まずさを繕うように冷めた茶を口に運び、空になった茶器には時折弟が己のものと共に手ずから注いでくれた。向こうもまた、そうして言葉を探る時間を得ていたのだろう。
 結局、引き留めるための切り札をそこから見つけることはできなかった。彼はこの城を、この国を去り、そして二度と戻りはしない。
 それが海に出るということだ。
 本人を取り止める気にさせることができないならば……。
 決断の時が来たことを知る。彼女はそれを可能にする力を持っている。例え一生涯恨まれようとも、振るうべきではないだろうか。
 しかし、先にそれを制すべく動いたのは、彼の方だった。
 ごくさりげない仕草で懐から小さなものを摘みだし、卓の上に置く。ただそれだけで全ては決した。
「それは……」
 彼女は目を見張る。
 それはあの時彼の懐から回収され、そして彼に返された小瓶に間違いなかったからだ。どうしていまだそんなものを手放さずに持ち歩いているのか、彼女は分からず困惑する。
 つまるところ、それは疑われた効果を全く発揮せず、無害そのものだと実証されたのだ。それが一体何なのかは、彼は己の行為に関して無言を貫いたので判明せず、結局根負けした家令が紛らわしい行為に関して注意することで追及は終わった。偉大なる主人を失った館は、これからの今後の去就を見定めることに手一杯で、子どもの頑なさに付き合うどころではなかったのだ。彼女もまた、自分にすらどうしてそんなことをしたのか打ち明けてくれない弟に不審なものを感じつつも、次の王としての責務に忙殺され、きっと民間薬か何かだったのだろうと己を納得させてしまっていた。
 しかし、今はっきりとした。
 まだあの夜は明けてはいなかったのだと。
 朝の予感が漂う中、二人はゆっくりと視線を交わす。
「それは……何だったのだ?」
 そして、ついに彼女はその疑問を口にした。対する答えは、ためらいなく返される。
「渡してきた者はこう言っていました。これはお前の心が形となったものだと。それに相応しい形との結末をもたらすだろうと。誰にも分からぬように、ゆっくりと確実に」
 ひどく遠回しな、不思議な言葉。
 彼が、今この時発していなければ、それはお伽噺のことかと一笑に付したことだろう。そんな都合の良いものが人の世にあってはならない。
 だが、しかし。
 彼女は視線を落とす。己の前にある、もう中身がほとんど残っていない茶器に。その底に薄く溜まる茶色の液体に。
 ここで彼がそれを出してくる意味。
「ええ、兄さん」
 かつて許されなかったその呼び名を用い、彼はゆっくりと穏やかに宣言する。
「僕はずっと貴方を憎んでいましたよ」
 もはや彼女には微笑むより他、答える術はなかった。
「そうか。そうだろうな」
 夜は、目を閉じて闇が過ぎるのをただ待っていれば良い時は終わった。
 目を開かねばならない朝が来る。
 明かり取りの口から陽光が部屋を照らし始めていた。朝啼き鳥が盛んにさえずりを交わしつつある。使用人たちもそろそろ様子を窺いにやってくるだろう。
 彼は立ち上がり、三重の窓を一つずつ開いた。朝の冷ややかで瑞々しい空気が流れ込んでくる。
「良い出発日和ですね」
 日に照らされたその横顔は、遙か遠くを見つめているように思える。
 無駄だと分かっていても、最後に彼女は問いかけずにはいられなかった。
「本当に行くのか? あの子を置いて?」
 その時、彼の唇に浮かんだ苦い笑みが全てを物語っていた。
「……兄さん、僕は自分の昏さをあの子に押しつけたくはない。あの子はとても聡いから。共にいればきっと気づいてしまう。それが、とても怖いんです」
 そして彼は振り向き、彼女に正面から向き合う形となる。見える瞳と見えぬ瞳が並んで彼女を見据えている。そこにあるのは、この世でただ一人の弟の形。
「だから、行きます。さようなら……リリアノ」
 陽光を背に立つ姿、それが彼女の知る彼の最後の姿だ。
 彼女は応え、別れの言葉を口にする。
「さらばだ、イルアノよ」

 夜の気配はもうどこにもない。
 神の目覚めと共に、世界は始まりを迎えようとしていた。