Southward

第二章 魔の章

「壁の向こうからの」

2-1

 世は新しい年を迎え、グラドネーラ暦は七五一三年を数えることとなった。
 訪れる日々は変わることもなく、年迎えの喧騒も過ぎて、浮かれ立つ雰囲気も落ち着きがちになる白の月も半ば頃。ホリーラの王都リーラスへ向かい、五台の鹿車が道を進んでいた。
 それは特に目を引くところもない、どちらかといえば質素な造りのものであったが、まじまじと見れば素材の良い頑丈なものだと分かっただろうし、また人を乗せる型のものの窓は細い格子と布で覆われ、中を覗けないように厳重に注意が払われているのに違和感を覚えたはずだ。その布が指で小さくまくられる。
「……やっぱりどこにも成人小屋は見当たらないね」
 わずかに出来た隙間から外を覗いて、彼は側付きの侍従へと話しかけた。しかし、手を握り締めて心ここにあらずといった態の彼女は聞いていなかったようで、それでも話しかけられた気配を感じたのか甲高い声を出す。
「あ、はい、何でございましょうか!」
「こっちでは篭る必要はないんだねってこと」
「え、ええ、そうでございますね。……あまり目隠しをお開けになりませんよう。危のうございます」
「大丈夫だよ。万一見られても、誰も分かりはしないから」
 何しろ、身をもって体験済だ。ちらりと見られたくらいで、自分たちが三足族なのだと看破する者はいないだろう。
 アピアは苦笑しつつ、また傍らの侍従へと話しかける。
「トネリー、いい加減、入って半週になるんだから。ほら、今までだって取って食われなかったろう」
 おどけた言葉で緊張をほぐそうとするが、どうも彼女には逆効果の様子だ。ぶるぶると震えると、おもむろに祈り始めてしまった。そんなにも怖いのならば、初めから同行者に立候補しなければ良かったのに、根拠のない罪悪感というのも厄介なものだ。
 ようやくここまでこぎつけた。
 これから待っているものを思い、アピアは遠くへと視線を投げる。
 相次いだ使者の失踪やあの事変のせいで交渉は遅々として進んでいなかったが、ミュアたちの介入で事変が解決したために、城中での雰囲気が味方についた。今を逃す手はなく、その熱気が伝わったのか、ホリーラ側も譲歩の構えを見せてきた。畳み掛けるべき時だった。
「でも、やっぱり、アピア様が赴かれるべきじゃなかったんじゃないですか。今からでも遅くありません。戻りましょう」
 祈り終わったのか、トネリーが何度目になるかも知れないその言葉をぶつけてくる。アピアもまた、同じ返事をした。
「僕が自分から申し出たことだ」
「でも、こんな危険な……」
「危険なんてないよ。彼らは同じ人間で、ちゃんとした判断の元動いている。僕に危害を加える必要は、さほどない」
 さすがにまったくないとは言えなかった。だが、暗殺や人質の可能性も考慮には入っているものの、それはないだろうともアピアは考えている。今はまだ探りあいの時期で、強硬策に出るとは思えない。
 微妙な時期だからこそ、自分が出る必要があった。本気で交渉する気なのだとはっきり見せつけるために。
 壁は根づいている。人々の意識という地面の中に。実際の壁は一殴りすれば壊れようとも、それでは根が残ってしまう。焦ってはならないが、時期を逃してもならなかった。
 与えられた時間は多くはない。
 アピアは己の胸に手を当て、いつものようにそれを握り締めた。

2-2

 伝わってくる振動の差で、外を覗かずともリーラスに着いたことが分かった。町の喧騒に幾度か近づき、遠ざかり、金属が触れ合う音、木が軋む音、何かが落ちる重い音が数度続いた後に、ようやく鹿車はその旅を終えた。
 外から扉が叩かれる。
「恐れながら申し上げます。私、侍従長を務めております、モーネス=ランテット=ドネッセンと申します。此度のリタント国王子殿下のお越し、歓迎いたします。ご挨拶とご案内に参りました。どうぞお出でください」
 まずは一つ解決だ。鹿車の中にほっとした空気が流れる。本心はどうであれ、向こうはこちらを逆賊の集団としてではなく、対等の相手として取り扱う姿勢を見せた。交渉の意思はあるということだ。
 軽く身なりを整えさせ、衛士と侍従の先導で、アピアは外へと踏み出す。日に映える草地の上で、五人ほどが自分を待ち構えていた。二人が衛士で、残りが侍従、中央の背の高い、生耳族の男が先ほど名乗った侍従長だろう。最初の出迎えは、こちらの人数より多くして敵意を疑われることなく、少なすぎて失礼に思われる程でもなく。交渉はすでに始まっている。
 正面を見据え、アピアは彼らに歩み寄った。自分の姿が映る彼らの瞳にわずかに感情の波が走るのが分かる。注目されているのは、自分のはっきりと晒した額だ。
 他の二種族にとって、三足族の独立は屈辱の歴史だ。自然、語られることは少ないが、さすがに国の要職に就く者はその概要を知っている。
 建国王ルラントの額に輝いていたものと同じ印を目の当たりにして、彼らは替え玉の見積もりを大幅に減じなければならなくなったのだろう。
「リタント国第一王子、アピア=セリーク=リタント=ファダーです。突然の申し出にも関わらずご受諾いただき、感謝しております。我らが大いなる守護者、アネキウスの栄光が貴方がたの上にあらんことを」
 挨拶と共に、彼らのために祈る仕草をする。彼らもまた、ほとんど同じ仕草で返礼してきた。お互いが同じモノであり、同じ庇護の下にあると示すための儀式。
「さあ、まずはお部屋へとご案内いたします。長い旅路の疲れをお癒しくださいませ。その後、陛下とのご謁見を」
 そう促され、鹿車より貢納の品を除いた荷物を降ろさせる。この前庭から先は本城になるため、車の乗り入れは許されない。護身の武器こそ取り上げられなかったものの、他に物騒なものを持ち込む気配がないか、監視された中での作業だった。
 道中の感想など、ありきたりな受け答えをしながら作業の終わりを待っていたアピアは、ふと背後から響いた軋む音に耳をとられ、来た道を振り返る。閉じかける大きな扉の隙間から跳ね橋が上がっていくのが見て取れた。
 なるほど、空を飛べるのが常態の国において、高い壁など何の守りにもならないのだろう。しかし、有羽族は横の移動に弱い。幾重もの堀にて城郭を囲むのはごく基本の防御手段となる。
 そこまで考えて、アピアは気づく。自分たちの王城もまたそうなのだと。リタントの王城は、元々彼らと戦うための砦だったのだから。
 戦は確かにもう遠い。直接それを知る者は誰一人としていない。
 だが、かつての戦はまだ終わってはいないのだ。
 これは、開国交渉であるよりも前に、停戦交渉でなければならない。ルラントの起こした乱が誤っていたとは決して思わない。だが、二百年は確かに長すぎる時間だ。
 ようやく、それが終わりを迎える時なのだ。そして、その気持ちはたぶんホリーラの人々も同じはずで……。
 アピアがそう思った途端だった。
「待て、貴様ら! これ以上進めるとは思うなよ!」
 その怒声が辺り一面に鳴り響いたのは。

2-3

 男の声だった。
 それは、目の前の迎えの一行から発されたものではなかった。彼らはむしろ狼狽し、声の元を探している。アピアもまた、反射的にその声のした方へと顔を向けた。そして、皆が見つける。
 彼はいた。王城の主要部へと続く三の門の上に、腕を組んでふんぞり返って。
「良く聞け、三足族の頭領め!」
 朗々たる声音が、前庭へと響き渡る。
「よくもここまで入り込んできた。だが、ここまでだ! 私の目の黒いうちは、この門より先には行かせはしな……!」
 その布告が途切れたのは、慌てて駆けつけてきたらしい衛士一団にわらわらと取り囲まれ、半ば無理やり門から引き摺り下ろされたからだった。あっという間の出来事だった。
 呆気にとられるリタント一行へ、汗をかきかき侍従長が説明を始めようとする。
「た、大変失礼いたしました。ええと、あの方はですね、その」
「トーラー公爵」
 答えた言葉に、侍従長は目を丸くした。
「既にお会いされてましたか」
「……いえ、初対面です」
「はあ」
 腑に落ちないといった顔をしている彼に、アピアは心の中で呆れ顔をして呟く。
 間違えようもなく、そっくりですから。
 確かにこれでは、すごく仲が良いか、すごく仲が悪いかの二択になるだろう。二人揃ったところには出くわしたくないなと思う。
 それにしても。
 誰にも聞こえないように、下を向いてアピアは微かなため息を吐く。
 こんなところにいるはずがないのに、思わず期待してしまった自分が少し嫌になる。セピアが悪いのだ。あんなことを言うから。
 もし、会ったら。
 でも、そんなことが出来るはずないじゃないか。
「お出でになられるなりの失礼、お詫びのしようもございません。何卒ご寛恕いただけますよう、お願い申し上げます」
 突如発された切実な声につられて顔を上げ、アピアはぎょっとした。いつの間にか侍従長に膝をついて謝られている。
 自分の考えに気を取られていたアピアの様子が、ひどく機嫌を損ねたように見えたらしい。やらかした相手が相手だけに、ごまかしも利かないと判断したのだろう。下手を打てば、ホリーラ全体の意志と解釈されかねないのだから。
 空気を悪くするつもりもなく、急いでアピアは侍従長を取り成す。
「どうか膝をお上げください。反発を覚える方がおられるのは当たり前のことです。このような行き違いをなくすために、私は参ったのですから」
 出来るかぎり穏やかに見えるよう意識した笑みを浮かべつつ、無難な言葉を並べ立てて、何とか侍従長を立たせることに成功した。本当に、親子揃って色々と面倒臭い事態を引き起こすものだ。
 けれど、公爵には三足族を恨む正当な理由がある。どれだけ詫びても許されないのはこちらで、しかも詫びることさえ状況が許さない。
 シードにすら、自分は何一つ償っていない。
 そんな思いに身を沈めていたら、また険しい顔になってしまっていたらしい。アピアは侍従長の窺う視線と僅かに伏せた耳に気づき、再び意識して表情を緩めた。
 悶着なく全てが順調に終わるとは思っていなかったが、初っ端から予想外の一撃をくらってしまった。先行き不安の想いはいや増すばかりだった。

2-4

 そして、三の門をくぐってすぐ、アピアは次の問題に行き当たってしまうのである。
 もっともそれは、不意の邂逅による静かな衝撃であり、当人たち以外には少しも認識されないものだった。つまり、先ほどの騒ぎを収めているらしき衛士の集団の中に、知った顔を見つけてしまったのだ。目を見開いてこちらを注視する彼と、何の気なしに流した目線がばっちりかち合った。アピアは一瞬固まった後に、慌てて視線を引き剥がして顔を背け、動揺を抑える。
 そうだ。念頭に入れておくべきだった。公爵がいるのならば、そのお抱え衛士であるリームが傍にいる可能性は十分だったのだ。
 動揺が収まってくると、自分の対応の拙さを思い知る。
 しまった。
 知らないふりをすれば良かったのに、思わず強く反応してしまった。額も出しているし、髪も編んでいるし、身なりも整えてあるから、他人の空似と思ってもらえたかもしれない。
 そう考えた後、そんな小細工をしてもどうせ名前でばれることに思い当たって、アピアは苦笑する。あの驚きようからして、彼の耳にまだ自分の名前は届いていなかったようだが、いずれ知れることだ。容姿と名前が揃っては、ごまかしきれるはずもない。
 ホリーラに知る者もなし、万一呼ばれた時に不自然な反応をして目をつけられないように、また、ホリーラに襲撃者の手のものがいるならばむしろおびき出そうと偽名は使わなかったのだが、こんな事態はさすがに想像していなかった。
 でもまあいいか、とアピアは思う。
 ミュアたちには一応自分たちのことやリタントでのことは内緒にしておいてくれと頼んだものの、それは今後の開国交渉においてややこしくなることを避ける予防に過ぎない。経緯をホリーラの上層部に知られれば、王子自ら間諜に侵入したとか、ホリーラの民に助けられたのだからこちらに有利にしろとか、突っつきどころを沢山与えてしまうからだ。
 リームは迂闊に騒ぎ立てる性格ではないはずだ。何とか接触する機会を見つけて事情を話すか、最悪はしらを切り通せばいい。
「こら、通るなと言ってるだろうが、この三本足!」
 下手に動くと、衛士の人垣の向こうから聞こえるこの声の持ち主に鉢合わせてしまいそうな嫌な予感もすることだし。
「さ、さ、こちらへこちらへ」
 とにかくこの場から去りたいのか、やたらと急かす侍従長に導かれ、アピアら一行は本城の中へとついに足を踏み入れた。
 洗練された佇まいの建物だった。最も奥まった位置にある本城は確か一番古い歴史を持つはずだが、手入れがしっかりしているためか、余裕のある時代の産物のためか、劣化を感じさせることはなく、むしろその重みを威圧へ転じさせているようだった。
 これに比べれば、リタントの王城は無骨で、かなり砦の性格を残している。成り立ちからすれば仕方のないところだが。
 玄関ホールを抜け、廊下を通り、中庭を横目に回廊を歩く。その全てであからさまな好奇の視線が突き刺さり、一歩遅れて従うトネリーなど、がちがちに緊張しているのが伝わってくる。
「申し訳ございません。何分、貴方がたのお姿を拝見するのが初めての者ばかりで」
「気にしておりません。むしろ、何ら変わりのない人間なのだと見ていただく、良い機会でしょう」
 見物に来ないようにという勧告はされているだろうが、まあ無駄だろう。今までの使節は極秘の訪問で、城内だけの秘密にしても大っぴらに三足族がこの国に訪れるのは初めてなのだ。そして、それが王子となれば尚更だ。
「我が国に貴方がたがいらっしゃった時の方が、もっと騒ぎ立てられると思いますよ」
「それはそうかもしれませんね」
 客観的に見れば、三足族の姿形は面白いものではない。単に足りないだけだ。それ故、ダリューラ時代は他の二種族より人として劣っているという扱いを受け続けていた訳なのだが。
 建国王ルラント。
 アピアは再びその名を思い、己の額の印をそっと撫でる。
 リタント王位の継承法の特殊さ故、血の繋がりは一切ない。それ以前に、彼は子を一人も残さなかった。言うなれば、リタントという国が彼の子のようなものだ。
 ここに来て、やはり強く思わされる。
 これほど長く禍根を引きずることになろうとも、彼の蜂起は必然だったのだろうと。

2-5

 ルラントの出自ははっきりしない。
 はっきり分かっていることといえば、彼が南から現れたということ、武勇よりも知略に寄って立ち、人をよく惹きつける人柄だったということ、そして、額に印があったということだった。
 統一王国における三足族の扱いは粗雑に過ぎた。国の要職に就く者はおらず、実りの少なく危険な土地にほとんどが追いやられ、何かあると槍玉に挙げられた。
 その理由はこう語られた。
 奴らは魔術師の一族だから油断ならない、奴らは魔術師の一族だからあの土地でも危険なんかじゃないだろう、と。
 なるほど、三足族の魔術師はいたのだろう。かつて存在した魔法王国の支配者層が三足族であったことも確かかもしれない。しかし、同じように有羽族や生耳族の魔術師もいたことは確かで、だからこそ魔術師狩りの時などは無差別に鉈が振るわれたのだ。
 つまり、三足族だということだけで魔術師と看做される謂れはない。単に嫌なことを押しつける態の良い理由にされているだけだ。
 当然のことながら、幾度も反乱は起こった。そして、その全てが鎮圧されて終わりを迎えた。
 勢力が貧弱なのに加え、個々の戦いにしても、飛べる有羽族や俊敏な生耳族に比べ、どうしたって身体能力では引けを取る。最初の時期こそ戦意で補うことが出来ても、長引けばあっさり潰れるのが常だった。
 そして、敗北の度に立場は一層悪くなる。泥沼にはまり込んだ三足族は打ちのめされ、次第に気概を削られていく。
 ルラントの出現がもう少し遅かったなら、間に合わなかったかもしれない。
 しかし彼は現れた。強靭な意志と、明確な夢を持って。
 所詮いつもの小競り合いだと高を括り、個々の領主が対処することを疑わなかった王家を初めとする北の権力者たちは、聖山が包囲されるに至って、初めて事の大きさを認識した。慌てて鎮圧を指導しようとするも、この頃のダリューラ王国は各所領の寄せ集めのような様相を呈していた上に、大森林で分断された北とは連絡の不自由があり、一つの指揮の下で動くことなど到底望めなかったのである。
 聖山へと敵の耳目を引きつけておき、指揮の乱れの間隙を突いて、ルラントは北へと進軍した。
 目指すは穀倉地帯、ダリューラ王家の喉元。
 その道行きの途中、今は約束の地と呼ばれる場所でかの契約を神と交わし、勢いを増したルラント軍は現王城の元となった砦を落として拠点と為したのであった。
 その後は、領土の奪い合いという泥仕合だ。
 疲弊した両者の均衡地帯が自然に国境線となり、いつしか壁が建てられた。
 そして、二百年もの間、壁は両者の間にあり続けた。絶対の境界として。

2-6

 アピアは今一度、己の額を撫でる。
 自分では直接見ることは叶わない、でも確かにそこに刻まれて輝く神の選定の証。
 かつての蜂起と現在を繋ぐからこそ、アネキウスの聖印とまったく形が違おうとも、この徴はリタントの民にとっては何よりも神聖だと思われているのだ。
 神との盟約。
 だが、ホリーラの人たちはその話を真実とはするまい。認めれば、自分たちこそが神の怒りを買う行いをしていたということになる。
 まさか天の使いが現れて、どっちが良い悪いと判定してくれるはずもなし、どこで妥協してどこを見逃しあうのかの問題になるだろう。
「お部屋はこちらをお使いください。王子殿下は奥のお部屋に、お付きの方々には右側のお部屋に寝台をご用意してございます」
 考えながら歩いていると、いつしか本城の奥まったところにたどり着いていた。侍従長が扉を開けさせて、中へと一行を導く。念入りに用意したであろうことが隅々にまで窺える三間続きの部屋だ。ここで手を抜いたら、ホリーラという国の沽券に関わってくると考えたのだろう。
「遠い場所からいらっしゃったのですから、どうぞ本日はごゆっくりお休みを。何かご入用のものがございましたら、お申し付けいただければ、すぐに」
「王へのお目通りはいついただけますか?」
「明日のご予定をさせていただいております。また、歓迎の会も明日の夜に」
「分かりました。宜しくお願いいたします」
 別に急がせる必要もない。こちらの献上品を吟味したり、対応方針の微調整をする時間は必要だろうと考え、アピアは頷いてその日程を受け入れた。侍従長は一礼して部屋を出て行き、張り詰めた空気が少しだけ解ける。
 一週間程度はここに滞在することになるだろう。月が替わる前には、成果を手にリタントへ戻りたいものだ。
「アピア様、お加減は宜しいですか? お疲れになったでしょう、お休みください」
 今後の行程を頭の中で組み立てていると、トネリーが気遣わしげに声をかけてくる。
「いや、さほど疲れてないよ」
「でも……」
 はっきりと曇った彼女の顔を見て、アピアは何故彼女がこの派遣に志願したのかを思い出し、苦笑する。
「分かった。じゃあお言葉に甘えて少し休もうか」
 考えるのは寝台の中でも出来る。何より自分が休みを入れないと、他の者たちも一息つけないだろう。髪を解いてもらい、服も着替える。
 寝台に横になると、思ったよりあっさりと眠気が襲ってきた。緊張で気づかなかったが、結構消耗していたらしい。体の欲求に逆らってまで考える気にもならず、アピアはそのまま目を閉じることにした。

2-7

 今日は良い天気だった。
 取り込んだ洗濯物はふかふかに乾き、畳む手にも心地良い。腕と同時に動かされる口が紡ぐのは、もちろん二百年ぶりに訪れた珍客のことばかりだった。
「見た?」
「見た見た見たよ。さぼったのばれちゃったけど、さすがに今日は怒られなかったね」
「だってさ、洗濯頭も用事があるふりして、見てたもん」
「どう見ても、無理やり作った用事だったもんね。そりゃ怒れないよ」
「で、どうよ?」
「どうって……実のところ、あんまり近くでは見れなかったけど……何ていうか、拍子抜けかな」
「ちょっとー。これは間違いなく一大事なのよ。きっと歴史書とかに載るわよ。何でそんな気の抜けた感想なのよ」
「えー、でもさ、だってあれじゃまるで単なる不出来子じゃない。王子ってのも、ほんとに子どもみたいだし」
「確かにね。どんな化け物が来るかと思えば」
「にしては、わくわくしてなかった、あんた」
「怖いもの見たさってあるでしょ」
 けたけた笑い合う若い娘たちを、通りがかった老女が眉をひそめて睨む。
「何言ってんだい。あの額の印を見なかったのかい」
「ああ、そういえば、何かあったような」
「あれが魔物の王の証なんだよ。ああやって、奴らは魔物と契約してるのさ。油断しちゃならないよ。いつだって最初は良い顔をして、魔物はつけ込んでくるんだから」
 でもねえ、と若い娘たちは顔を見合す。
 魔物なんて出てくるのは聖書とか物語の中だけで、昼日中にそんなものを怖がるほどもう子どもではないし、そんな話は面白くも何ともない。
 彼女たちの関心は歓迎のために明日の夜行われる舞踏会にやがて移り、貴族たちの品評や準備に関する愚痴に話題は埋め尽くされる。彼女たちの勢いに対抗できるはずもなく、老女は一人洗濯物を仕分けしながら、呟くしかなかった。
「せっかくアネキウス様が壁を作ってくださったのに。王様は魔物の侵入を許してしまったんだよ」