第二章 魔の章
「帰還と出立」
1-1
聖山は南方に聳え立ちたりて、我ら遍く其を臨む。
其は何ぞ。
其は魔を阻む砦。
其は神に届く階梯。
其は人が還る坩堝。
其に向かいて人はただ歩き、
其に至りて人は己を知る。
1-2
さすがに厳重だ。
むしろ今までに重ねた苦労がそこに忍ばれて、同情を禁じえない。同時に、傍から見ている分にはひどく滑稽な情景であったが。
「久しぶりだな、この馬鹿息子」
現れた彼は、腕組みをし見下ろしながら、その第一声を放った。言われた方も当然黙ってなどいない。
「てめーの面は二度と見ないで済むと思ってたんだがな」
「こっちこそ、誰がわざわざお前の仏頂面なんぞ拝みにくるものか。放っておけというに、リームはまだお前に不慣れでいかん」
名前を出されたリームは、彼の後ろで何とも困った表情で待機している。たぶん自分も似たような顔をしているんだろうなと、改めてミュアは思った。
そりゃ当事者たちは慣れているかもしれないが、巻き込まれた方は良い迷惑だ。何しろ尋常な場面には見えない。後ろ手に鉄鎖で拘束されたあげくに獣用の檻に放り込まれている相手と、明らかに貴族然とした装いを身に纏った相手が、大真面目に罵り合っているのである。
「手際良かったですよねえ」
ニッカがしきりに感心していたが、感じ入って良いところなのかどうかは微妙だとも思う。というか、人の村ではあまり繰り広げてほしくない光景ではある。親子喧嘩なら、自分のところで思う存分やってほしい。
「さて、今度は何をやらかした。きりきり吐いてもらおうか」
「てめーに話すことなんざ一つもねえ。さっさと出しやがれ」
「吐こうが吐くまいが、出すか。馬鹿が」
話は進まない。進むはずもない。
お互い譲歩というものを欠片も提示しない親子である。
「てめ、覚えてやがれ、この腰抜けじじい! すぐにその首ひねりちぎってやるからな!」
「うるさい、この脳足りん! お前なんぞはこのままトーラーに連行だ! いつまでも好き勝手できると思うな!」
ついにはお互い檻をがんがん蹴り始めたので、慌てて周囲がなだめにかかる。
「シード、ある程度事情は説明しなきゃ、そりゃまずいでしょ」
「お館様、どうかお鎮まりください。それでは何も始まりません」
どうにかこうにか一人と檻を引き離すと、辺りはようやく静寂を取り戻す。それは、公爵が再び口を開くまでの、束の間のことだったが。
「そうだな。私が愚かだった」
そして、そうだてめーは馬鹿だバーカ、と騒ぎ立てるシードを一瞥し、公爵は鼻で笑ってみせた。
「まともに人間の言葉を話せるかどうか疑わしい奴とは話など成立せんことを、すっかり忘れておったわ」
たちまち先ほどにも倍して罵り返し始めるシードを、公爵は耳をわざとらしく塞いであしらう。
「あー、うるさいうるさい。それは鹿車に放り込んでおけ。酒でも与えておけば少しは黙るだろう」
シードには悪いが、二人を対面させ続けない方が無難そうだったので、ミュアとニッカはそれを見送った。大体、口出ししても無駄だと思われる。
「こんな再会で申し訳ないね」
リームが機を捉えて話しかけてきたので、ミュアは頭を下げて挨拶をした。
「お久しぶりです。お手間とらせてすみません」
「いや、こちらこそシード様が色々と……鳥文は受け取ったよ」
彼らがこうやってここにいる時点で、そのことは分かっていた。いっそ届いていなければ、事情説明も必要なかったのだが。
「あの二人の姿が見えないようだが、ひょっとして……」
悪い想像をしたのだろう。リームが眉を曇らせ、ためらいがちにそう聞いてきたので、ミュアは精一杯明るい表情で返す。
「それなら心配ないんです。それも含めてお話ししますね」
とは言っても、どこまで正直に打ち明けるかの判断は難しいところだ。せっかく戻ってきたのに、全然気の休まる暇がないなと、ミュアはこっそり息を吐いた。
1-3
ムディカ=トゥカ村に寄るかどうかについては、ミュアは散々悩んだのだ。
問題は二つ。自分の気持ちと、鳥文だった。
「巡礼終わってないのに戻ってもなあ」
近くを通ることになるのだから寄りたいのは山々だが、下手をすればもう気は済んだだろうと引き止められるだろう。
リタントからホリーラへ戻るに当たって、大森林の北側へ出てしまうのは必然だった。壁の通り道の問題もあるし、わざわざリタントを縦断する意味はない。案内役としてついてきてくれた衛士がそのまま使節となって王都リーラスへ向かうという事情もあり、出たところはまさにトーラー領であった。シードがトーラーに寄りたがる訳もないので、三人はそのまま南へ下って大森林へと至る。
相変わらず先頭に立ってずんずん進んでいくシードの背を見やりつつ、ミュアはニッカへと問いかけた。
「少しは気を取り直したかな?」
約束を交わしたとはいえ、結局アピアは今ついてこない訳で、壁への途上、シードはずっと不機嫌の塊だった。前と違って、周囲には当たらないからまだいいものの、下手な火種は持ち込みたくない。
そこでもう一つ問題があったことをミュアは思い出す。シード本人だ。
「……やっぱり村には寄らない方がいいか」
呟くミュアの視線で悟ったのか、ニッカが聞き返してくる。
「何か問題が?」
「あー、ちょっと昔ね」
自分がすっかり失念していたくらいだから、ほとぼりは冷めているだろうが、お互い愉快な再訪にならないのは間違いない。
「鳥文の到着確認はどうします」
それさえなければ、こんなにも悩まなかっただろう。シードが怪我でひっくり返っている時に公爵宛に出した鳥文は、結局大森林の途中で壁を越えたことでうやむやになってしまった。はたして届いているのか、届いているとしたら何らかの動きがあったのか、その確認をするために一旦村に寄る必要が出来ていたのだ。万一まだ届いていないということであれば、途中で握りつぶして、文自体なかったことにしたい。
「取り消しとお詫びの追伸を送るしかないような」
「それで収拾する事態ならいいんですけどね」
公爵の人となりを良く知らないだけに、少々気が重い。シードに聞いても、奴はどうしようもない馬鹿だとかろくでなしだとか、不安を煽る答えしか返ってこないこともあるし。
「おい、ミュア」
不意に、シードが振り返って呼びかけてくる。何か無茶なことを物申してくるのかと身構えるミュアに、彼は平然とした顔で手元の水筒を振ってみせる。
「酒が切れた」
とりあえず、飲みながら歩くなこの阿呆、という気持ちを精一杯込めて、ミュアは彼の後ろ頭を思い切りはたいてやった。
1-4
そんなこんなで、結構どうでも良い心境になった。シードに気を使っても意味はない。一応確認してみたら、何で寄らないんだと不思議そうに聞き返され、帰ることにあっさり決まった。
「あれ。あれあれあれ、ミュアちゃん、お帰り」
村の近くに差し掛かると、顔見知りのおばさんが野草摘みに出てきたところにさっそく出くわす。
「どうだった、お山は。大きかったろう」
「えーと……」
答えに困ってしまう。まさかリタントに行っていたと言う訳にもいかず、大森林を縦断したことも言いにくく、挫折して帰ってきたにしては期間が長い。
「ああ、お友達もいるし、引き止めちゃいけないね。お父さん、寂しがってたよ。早く顔見せておあげ」
その空気を察したのか、おばさんはさっさと話を切り上げてくれた。しかし、村に入れば、会う人会う人に同じ問いを向けられる羽目になる。
「ミュア、お帰りなさーい。どうだった?」
「年越しに間に合って良かったなあ」
「まあまあ、元気そうで何より」
「後ろの方はどなただい?」
「ね、ね、お土産はー?」
全然前に進まない。幸いなのは、シードの正体がばれていなさそうなことだった。旅路で格好も薄汚れているし、五年前の印象とはそう簡単に結びつかないのだろう。
事態が少し進展させたのは、出来つつある人垣をかき分けて顔を出した一人の少年だった。
「ミュア!」
「レサー」
一つ下の少年は、名を呼びつつ、最初ミュアに抱きつく勢いで駆け寄ってきたが、その直前にためらいを見せてぴたりと足を止める。
「あ、あの、お帰りなさい」
「ただいま。そうだ、レサー、私の書いた文って届いてるか知ってる?」
彼の家の雑貨店は、村へ来る鳥文の中継点でもある。ミュアの問いを受け、レサーは何度も頷いた。
「おじさん、毎日家に来てたんだよ。鳥文の続きは来てないかって」
良く考えたら、リームに渡してほしいと文を頼んで以来、連絡をしていなかった。大森林からリタントへ突入してしまっては、当然出来るはずもない。それは心配もするだろう。
だから、家に帰った途端の父の叱責も抱擁も素直に受ける。
「何に巻き込まれたかと、生きる心地もしなかったぞ」
「ごめんなさい。大丈夫だったから。それで、あの、文の方は……」
「もちろん、しっかりと届けたとも。しかし公爵付きの衛士様に何をお知らせしたんだね」
「大したことじゃないし、もう解決したんだけど」
連絡はついてしまっている訳だ。お詫びと説明の文を出さなければならない。とりあえず早急にと、何かと顔を出してくる家族に邪魔されつつも、ニッカと共に文面を考え、文を書き上げる。
それが必要なかったことを知ったのは、まさに雑貨店にその文を頼みに出た時だった。
暇だからとついてきたシードが、突如現れたその相手に背後からひねり上げられた。あれよあれよと言う間に、縛り上げられ、いつの間にかあった檻へと放り込まれる。
そして、トーラー公爵の登場と相成ったのである。
トーラーからここまで約半日、村に着いた直後に鳥が飛ばされたと考えれば、何とかならない時間ではない。それにしても手配の異様な早さは否めないが。
かくして、険悪な親子の対面が幕を開けたのだった。
1-5
結局、ミュアの家へと公爵を通して人払いをし、アピアとセピアの素性は伏せて話をした。壁を越えたことも話しづらかった。その二点を話さないようにして出来事を構成し直すと、何とか壁を越える前に追いついて奪還し、二人を向こうへ帰したという話の流れになった。かなり事実とは違うが、無難な線ではある。開いた時間は、療養と大森林内部で迷っていたことにするしかなかった。
途中で開封されることへの用心もあり、鳥文にはシードの怪我やアピアの連れ去り、セピアの保護依頼などの最低限のことしか書いていなかったので、その点はごまかせて助かった。
「……ふん、三足族めが」
聞き終わった直後、小さく、だがはっきりと公爵が吐き捨てるのを聞き、ミュアとニッカは顔を見合わせる。結果的にセピアは彼に頼ることがなかったが、それで良かったのかもしれない。
「その鳥文屋の奴らは、まだホリーラにいるんだな」
「どうでしょう。いるんじゃないでしょうか」
実際にはリタントでの王党派の巻き返しが伝わっていれば微妙なところであるが、自分たちは二人を送り届けただけで、詳しい背景も知らないということになっているので、彼らが撤退する謂れがない。
「よし分かった。すぐにとっ捕まえるよう手配はする。三足族どもが大手を振ってホリーラを歩いているなど、我慢できん」
控える衛士の一人に彼が指示すると、すぐに外へと跳ね跳んでいく。続いて、侍従の一人が歩み出てきて革袋を彼に渡した。
「よく知らせてくれた。それに、シードとの同行、ご苦労だったな。色々と迷惑をかけただろう。こちらに謝金を……」
「あの、そのことですが」
失礼とは承知しながら、ミュアは公爵の言葉を遮る。
「お話しした通り、私たち、まだ聖山まで着いてません。またすぐに出発するつもりでいます。シードは、今まで一緒に旅してきた仲間です」
そこで既に察しただろう公爵の不機嫌な睨みに物怖じすることなく、彼女はお願いを口にした。
「シードも一緒に行かせてもらえませんか?」
たちまち、公爵の眉間に皺が寄る。それはそうだろう。今はぴんぴんしているとはいえ、一時は命に関わる大怪我をしていたのだし、せっかく確保したのだ。これ以上野放しにしたくないに違いない。
「一緒にというと、聖山までか」
「はい」
「あれを聖山なんぞに行かせてみろ。そのまま草原に突っ走っていって、戻ってこんわ」
さすが父親、正しく理解している。
「しばらくは見逃したが、いつまでも甘い顔はしておれん。一年も経てば成人なのだからな」
公爵を務めるだけあって、シードより分別は持ち合わせているらしい。シードと比べる時点で間違っているような気もするが。
どう考えても、公爵の言い分の方に利があるので、反論のしようもない。
「それにしても仲間、か」
それでも説得の言葉を考えるミュアとニッカの前で、しかし公爵はぽつりと呟いた。
「お前たちは、あれが恐ろしくはないのか」
何を問われたのかとっさに分からず、ミュアはきょとんとし、代わりにニッカが問い返す。
「……公爵様は?」
「いや。あんな馬鹿怖い訳があるか」
反問は即座に切って捨てられた。確かにあの態度で、実は怖いと頷かれても何だか困る。
「だが、良く知らぬ者はそうは見ん」
公爵は続ける。
彼の視線は開いた窓を通り抜け、遠くへと注がれている。
「あれは馬鹿だが、孤独だった」
その声は重く、ため息に似ていた。
「……礼を言わせてほしい」
そして彼は、戸惑う二人に頭を下げてみせたのだった。
1-6
「何でまた行く訳!?」
両親に続いて、レサーにも甲高い声で非難され、ミュアはやれやれと言い訳をする。
「終わってないからよ。何か、いろいろあってね。途中なの。だから……」
「もういいじゃん、そんなの」
明らかにむくれている一つ下の少年の頭を、宥めるようにミュアは優しく叩いた。
「やっぱり決めたことはやり遂げたいの」
「……ミュアはさ、ここが嫌な訳?」
「だから、前も言ったでしょう。そうじゃなくて、ちょっとしたけじめみたいなもので……」
「俺も行く」
言い聞かせるミュアの言葉を遮って、レサーは宣言する。
「俺だってもうすぐ十三になるし、そうしたらミュアと同じだ」
「でも、それは」
「一緒に行っていいでしょう? 問題ないでしょう?」
渋る気配を押し切るように、彼は言葉をぶつけてきたので、ミュアは返事に困ってしまう。
個人で勝手に巡礼に出るというのならば止める言葉はないが、ついてくるとなれば話は別だ。この面子に付き合うのはいくら何でもお勧めできない。
「別に良いんじゃないですか」
しかし、横で聞いていたニッカがあっさりそう請け負う。ミュアが眉をひそめたのを見て、彼は付け加えた。
「もちろんちゃんとご両親の承諾を得てからのお話ですけど。無断でついてこられる訳にはいきませんから」
勝手に話を進める彼の耳を掴み、ミュアは囁きで咎める。
「ちょっとニッカ!」
「聖山まで行くだけなら、そう危ないこともないんじゃないですか」
「そうだけど、でもさ……」
危ないことはないと言っても、三足族関係のことが解決しただけであり、それ以外に野盗に襲われたりもしたし、これからだってそれは充分ありうるのだ。
これで乗り気になられたら厄介だと、レサーを窺い見る。けれど予想に反して彼は全然嬉しそうではなかった。むしろ、怒っていた。
「何でお前に許してもらわなきゃいけないんだ!」
突然そう爆発した彼は、ニッカをじろりと睨んでから走り去っていってしまう。止める暇もない。
「若いっていいですね」
「一つしか違わないじゃないの」
暢気な感想を述べるニッカへミュアは呆れた態で言い放ち、レサーの去っていった方を見やった。
「本当に来るつもりかな。にしても、何でいきなり」
「人って、自分のことは見えにくいもんですよね」
「何のこと?」
「それよりも、シードのことですけど」
ニッカは半ば強引に話を戻した。元々そのことを相談するために外へ出た時に、レサーに捕まったのだ。
「まだいるのよね、村外れに」
夜も近く、公爵ら一行は急いで出立することなしに、一晩村に留まるらしい。再びお願いをするのなら、今晩をおいて他にない。
「さっきの話、雰囲気的に聞き入ってしまいましたけど、高度なうやむや技術のような気もしないでもないのですが」
「あー」
ミュアは苦笑する。確かにあの流れから説得にとりかかれるのは、かなりのつわものだろう。狙ったものだとしたら、シードの親とはいえ、公爵なだけのことはあるといったところか。
「まあ、しないでもないのですが、納得するところもありまして。シード、すがすがしいくらい人の話聞かないでしょう」
「聞かないよね。殴り倒したいくらいに」
「今まで、聞く必要なんてなかったからなんでしょうね」
「あー……」
今度の笑いにあったのは、別の苦さだった。その時こそ腹も立つが、後に引きずらないのはシードが自然体だからだ。
そして、それが自然になる状況は、あまり楽しいものではなさそうだった。
「で、結局シードはどうするんです」
「もう私らがどうにかできる領域じゃないよね」
ミュアは諦めの気持ちを表した。
何を言おうが、あの父親が自分の意地を曲げるとは思えない。
「そのうち来るでしょ」
「来るでしょうね」
それに、そのことを二人とも、一片たりとも疑っていなかったのだから。
1-7
ニッカを交えた夕食も済み、外もすっかり暗い時刻となった。もう眠る時間なのだが、話を聞きたがる弟妹はずっとまとわりついてくる。また出ていくということで渋い顔をする両親と違い、彼らは素直な好奇心丸出しだ。
仕方がないので、彼らが力尽きて眠るまで荷物整理でもしながら話をしてやることにした。ニッカも付き合ってくれる。
「ねー、ほんとにぜんぶ砂なの? 熱いの?」
「海とどっちが大きかった?」
両親の耳に入ることを恐れれば危険な目に遭った話は出来ないし、話の辻褄が合わなくなるのもまずい。面倒臭そうな部分は荷物整理に手がかかるふりをして流し、何とかやり過ごしているうちに、荷物の中からミュアは小さな木箱を拾い上げた。ミュアの表情から何事かを察したのか、たちまち弟妹は食いついてくる。
「何? それなーに?」
「これは、お姉ちゃんがお友達からもらった大事なものだから、触っちゃだめよ」
彼らに釘を刺しつつ布に包み、部屋に備え付けた棚の奥へとしまい込む。
「それ、置いていくんですか」
「いや、だって……」
「まあそっちの方が無難ですかね」
城の衣裳部屋で見つけたブローチだった。澄んだ翠色の石の中で、細かな光点が煌く様が気に入ってすっかり見入っていると、アピアがあっさりとくれたのだ。もちろん断ったのだが、御礼の品の一つも持っていってくれないとこちらも困ると押し切られた。
「でも、こんな高いもの、やっぱりもらえないって」
「もらってってよ。それにそれほど高価じゃなかったはずだよ」
アピアに問われて衣裳係が答えた値段で、ミュアはもらうことに決めた。何とか自分たちでも手が出せなくはない値段だったからだ。
しかし、ホリーラへ戻る途中、ニッカに見せると彼は顔を曇らせた。
「それ……ホリーラでは誰にも見せない方が良いですよ」
僕の記憶違いならいいんですけど、と言葉は続く。
「たぶんリタントでしか採取できない石だったはずです。ホリーラではダリューラ時代の古品しかない訳で……確かとんでもない値段がついてます」
そして、ニッカの告げた値段はミュアを震え上がらせた。そんなものを持っていると知れては殺されかねない。
「せっかくもらったのに、つけられないなんて……」
しょげるミュアに、一応ニッカはフォローを入れてくれる。
「貿易が再開すれば、相場も落ちますよ」
先は長そうだ。
そんなやり取りの末に、持ち歩くのはやっぱり危ないだろうと判断し、家に置いていくことにしたのだ。旅の途中の不測の事態に備えることも考えたが、そんな金額では引き取り手は簡単に見つからないだろうし、元々売る気もない。
「二人とも元気かなあ」
さすがに眠気を催してきたらしい弟妹の頭を膝に乗せて撫でながら、ミュアは呟く。次に会えるのはいつとも知れないが、そんなに遠くない日に会えるような気がする。単なる期待かもしれないけれど。
「元気ですよ、きっと。といいますか、まだ別れてから一月経ってないんですから」
「それもそうね」
この村だって、出ていってからまだ一年経っていないのだ。弟妹が半年分大きくなったりとか、それぐらいの変化しかそういえば感じられない。何だか自分の時間が早いのか遅いのか良く分からなくなる。
「あと一年で成人かあ」
年明けはもうすぐだ。
ミュアはもてあまし気味の気持ちを逃がすようにそう呟いた。
1-8
久しぶりの自宅のベッドは急な帰還のせいか、潜り込むと少し埃っぽかった。馴染んだ場所で安穏な眠りに落ちていたミュアは、ふとした違和感に目を開いた。
しばらく薄暗闇の中で待っていると、再びその音がする。窓を誰かが外から叩いている。
慌てて起き上がり窓を開いた一瞬、既視感を覚えてミュアは眩んだ。
もちろん、窓の外の木の枝にあるのは小さな少年の姿ではなく、十分に育った目つきの悪い少年の姿であったのだが。
「お。いた」
無意味にふんぞり返り、シードはそんな第一声をあげる。
「……どうやって逃げ出してきたの?」
「開けたり閉めたりするとこは弱い」
ミュアとしては、ああそうですか、としか返しようがない。力押しか。
「見張りの人はどうしたの?」
「そんなん車の中にはいなかったぞ。ずっと一人だった」
公爵本人は村長の家で泊まっているはずだが、見張りがいないのは変だ。シードの口ぶりからはたまたま用を足しに出て行った風でもない。
変だが、シードに聞いても解決しそうにないので、ミュアは話を切り替えることにした。
「で、これからどうする訳?」
「糞親父に構ってる暇はねーよ」
「はいはい」
そうくると思った。
「年越しぐらいはここで過ごそうと思ってたのに」
ふわあ、とミュアは気の抜けた欠伸のような力ない息をついてぼやく。空は明らみはじめている。準備をしているうちに、両親とも目を覚ますだろう。突然の出発は嘆かれるだろうが、仕方がない。
「ニッカは二つ隣の部屋だから起こしてきて」
シードにそう指示をして窓を閉めると、着替えることにする。昨日の夜に荷物の整理をしておいて良かった。それにしても。
「これが当たり前になるのってどうなのかなあ」
正直、全然動じていない。あまり嫌だとも感じていない。どうせこうなる予感はしていたし、この村はもちろん変わらず好きなのだけれど、まだ終わっていないという気持ちの方が強い。
「あー、神官様に挨拶もしてないや……」
ぼやきつつ部屋を出ると、ニッカがすでに待ち構えていた。
「シードには村はずれで待機しておいてもらいました。まだ逃げたのが見つかった気配はありませんけど」
時間の問題だろう。
下手に自分たちが逃がしたと思われても始末が悪い。一緒にいなくなればそうしたも同然ではあるが、目撃証言はない方が良いに決まっている。
「公爵のあの雰囲気なら、村に累が及ぶってことはなさそうですね」
ニッカの言葉に、ミュアは頷く。それに、彼には話していないが、公爵はこの村に負い目があるのだ。その点は大丈夫だろう。
「さて、私は親を説得しないとね」
「手伝いますよ」
「ありがとう」
昨日の今日な上に、寝起きに不意打ちで両親には申し訳ないが、黙っていなくなるよりはかなりましだと思ってもらうしかない。
1-9
待ち合わせ場所に着くと、白光りする水筒を手に、シードは相変わらず飲んだくれていた。
「こんな朝っぱらから、どこで仕入れたのよ」
「ああこれ、親父が放り込んでったやつ」
親子揃ってまったく仕方のない。嫌っていても酒はもらうらしい。
「じゃあさっさと聖山行くぞ」
言うなり南へと進路を取るシードの襟首を、ミュアは引っ掴む。
「どこ行くの」
「聖山」
「大森林は突っ切りません!」
あの時はあくまで非常事態だったからであり、やはり内部は得体が知れなかったので通りたくない。
「何でだよ。時間かかるだろうが」
「熱地は通らないから、前より早いわよ」
「森行くより遅いぞ」
「うるさい。森を迂回します。嫌なら一人で行きなさい」
不満たらたらのシードを叱りつけ、引きずるようにして東へと歩かせる。観念したのか、やがて彼は針路を修正した。
かつて似たような会話を交わしたことを思い出し、ミュアはため息をつく。
「何だか進歩の跡が見られないわ、私たち」
「一応進んではいるんじゃないですかね」
後ろ歩きかもしれませんけど、という言葉を呑み込みつつ、ニッカはそう答える。行ったり戻ったり脇に逸れたり、道も人もなかなか真っ直ぐにはいかないものだ。
「ひょっとして、今度は公爵様の追っ手がやってきたりするんじゃないでしょうね」
繰り返しを連想したのか、ミュアは顔をしかめてそう洩らす。ないとはいえない。
「それは……そうですね、うーん」
ニッカは考えを巡らす様子を見せた後、前を行くシードを呼び止めた。
「シード、さっきの水筒、ちょっと見せてもらえませんか」
「何だよ。没収するつもりか」
「すぐにお返ししますから」
言い含めて水筒を受け取ったニッカはしばし検分していたが、やがてシードにそれを戻す。
「何だよ。奴が毒でも入れてたか」
「入ってないと思います。大体シードには効かないのでは?」
「効かないぞ」
胸を張るシードをまた先に行かせ、ニッカはミュアと並んで歩き始めた。すぐにミュアが尋ねてくる。
「どうしたの?」
「いえ、あれだけシードを熟知しているはずの人が、見張りの一人もつけておかないのがやっぱり引っかかりまして」
ニッカは顎を親指の腹でこすりつつ、シードの背を見やる。
「あれ、やっぱり銀ですね」
つまり、それなりの値段がする。散財しなければ聖山までの旅費には充分だろう。
「じゃあ、分かってて?」
「まあ、ごく当たり前にそれが普段使いだって可能性もありでしょうけど」
貴族の感覚は良く分からない。
朝の光はすでに森に満ち、鳥たちのさえずりもやかましいが、背後から誰かやってくるような気配はない。しばらく黙って歩を進めた後に、ミュアは確認するように呟いた。
「……追っ手がかからないようだったら、経過報告くらい送った方がいいかな」
「そうですね」
そういえば、リームとの約束も破棄はされていないのだ。そう決めてしまえば、少しだけあった後ろめたさも消えてなくなる。
「タイナーに着くぐらいに年明けかな」
「じゃあ、年迎えの祭はタイナーで楽しむことにしますか」
「あ、賛成」
グラドネーラ暦七五一二年の終わり頃、二度目の巡礼行はこうして始まったのだった。