Southward

第二章 魔の章

「魔の侵入」

3-1

「嫌よ。嫌だわ。冗談にもならない」
 シリル=ニアサ=ホリーラ=フィアスはその時大変不機嫌だった。
「まったく気味の悪い! どうして私が相手なぞしなくちゃらならないの」
 このホリーラの王女にして、次期国王たる彼女は、先ほど父王から伝えられた己の役割に、憤懣やるかたない気持ちを隠すことが出来なかった。
「お父様は、私が化け物に噛み殺されても構わないと思ってらっしゃるんだわ。そうでなきゃ、私に接待なんて命じるものですか!」
 着付けの最中なだけに、暇な口でひっきりなしに文句を並べ立てるしかやることがないのも熱演の原因だった。彼女の髪を結っている侍女が取り成しの言葉を掛ける。
「まあまあ、陛下もそのようなおつもりはあられませんよ。何分同い年だそうですから、お話も合うかもしれないと思われて……」
「同い年!」
 いかにもぞっとした風に、シリルは己の両腕を抱き寄せてみせる。
「同い年の男なんて、どいつもこいつもろくでもない奴らばっかりじゃないの! 乱暴で、何も考えてなくて、幼稚で、礼儀知らずで、詩の一つも読めやしないんだから!」
 同い年と言われ、たぶん彼女の頭の中には、真っ先に犬猿の仲の遠戚の少年が思い浮かんだのだろう。苦笑する一同の中から、櫛を捧げ持った侍女が進み出て、それを渡すついでに王女へ話しかける。
「到着された時に遠くから拝見いたしましたが、大神殿長様にどこか雰囲気が似ていらっしゃいましたよ」
 しかし、それは薮蛇だった。
「叔父様と化け物を一緒にするなんて!」
 睨みつけられて、侍女は恐縮して引き下がる。他の侍女たちの間に、馬鹿なことを言ったものだという雰囲気が一瞬だけ流れた。
 末の王弟にして大神殿長、ニケート=トゥカラ=フィアスにシリル王女が憧れているという話は、城中の誰もが知るところだ。それをわざわざ引き合いに出すなど、余計王女が気分を損ねるのは明らかで愚か極まりない。
 そうこうしているうちに髪も整え終わり、軽く白粉もはたかれ、準備は完了する。
 鏡石にむくれた顔を映すシリルだったが、もはや逃げ出しようもない。それでも往生際悪く呟く。
「急にお腹が痛くなったってのはどうかしら」
「殿下、どうか謁見の間へお向かいください。それに今からは謁見だけですから、すぐ終わりますよ」
 さすがにここで駄々をこねれば父の顔を潰すことになると、シリルもわきまえている。なだめられて仕方なく受け入れたという格好を取れたので、彼女は一つ鼻息を吹いて、侍女たちに宣言する。
「そうね。挨拶だけよ。挨拶だけはしてあげる。それ以上はお父様に土下座されたって、御免だわ」
「では、今夜の舞踏会は……?」
「化け物と対面したら、具合が悪くなるに決まってるわ。出られる訳がないじゃないの!」
 こうして、波乱の匂いを漂わせながら王女は部屋を出て行き、居室は僅かな間だけ静寂を取り戻したのだった。

3-2

 そして、帰還の時は騒々しさを引き連れてやってきた。
「服! 服の準備は!?」
 頬を上気させながら真っ先に飛び込んできたシリルは、扉をくぐるなりそう問うてくる。
「はい、いつものお服はこちらにご用意……」
「違う! 今夜の服よ!」
 息巻いて反論され、一同は何となく話の展開を悟る。それでも一応確認せざるをえなく、衣裳頭が出て控えめに尋ねる。
「シリル様、お体の具合は宜しいのですか?」
「何で? 朝から元気だったでしょう?」
 きょとんと聞き返され、事態ははっきりした。当然のことながら、衣裳自体は仕上がって届けられている。舞踏会に出ないと言い出すことの方が予定外だったのだ。
「もちろん今夜のご衣裳の準備も滞りなく」
 主人の移り気がちなところを皆承知しているが為、舞踏会が終わるその時まで片付けることなどしない。今回もそれで正解だったようだ。とはいえ、細かい準備はまだ必要だろうと踏んだ侍従頭が、後を引き継いで、すぐにも着替えたそうなシリルを落ち着かるべく話しかける。
「まだお時間も早くていらっしゃいますし、お疲れになったかと思います。どうぞ一休みくださいませ」
「そう。そうね。まだ早いわね。ああ、でも何だか、待ち遠しくって! 休めと言われても、そわそわしてしまうわ」
「お眠りいただくのが無理なようでしたら、お茶などされましたらいかがでしょう。すぐに用意させます」
「ええ、言われてみれば何だかお腹がすいてきたわ。用意して。あ、そうよ、あちらにも同じものを届けて頂戴」
「かしこまりました」
 主人の命令が下され、にわかに部屋は活気を帯びて動き出す。
 各々の役割を果たすべく移動を開始する中、先ほど不用意な一言を発してしまった侍女は、隣の同僚に囁きかけた。
「ほら、やっぱり。異種族だってことだけ差し引けば、絶対シリル様の好みど真ん中だと思ったのよねー」
 彼女の恋愛遍歴を見ていれば、男っぽくない中性的な容貌に惹かれているのは一目瞭然である。出発前の彼女の様子を見るに、どうもかなりひどい想像図を描いていたようなので、むしろその激しい落差のせいで余計に素晴らしく見えたのかもしれない。
「ええ、そうね、やっぱり叔父様にはちょっと劣るけど。でも叔父様は大人だから、そこのところは差し引いてあげないと、不公平ってものでしょう? とにかく同じぐらいの年齢でああいう方は私、今まで見たことがないわ。仕草もきびきびして、洗練されてらして……」
 水を向けられて、はしゃいで感想を喋るシリルを見送りながら、衣裳役の侍女たちは複雑な笑いをその唇に浮かべる。
「本当にうちの王女様はもう」
「相変わらずよね」
「ね、ね、いつもの言い出すと思う?」
「言うに一票」
「でも異種族だよ」
「ああなったら、周り見えてないって」
「えー! シリル様、異種族に取られるのなんて嫌だ!」
「言うだけよ。いくらなんでも許されやしないでしょ」
「まさかね」
 口々に今回のことを評する言葉を述べつつ、侍女たちは今夜の準備をするため散り始める。小さな主人を満足させるべく、完璧な仕度をするために。

3-3

 そしてアピアは、得体の知れない試練へと放り込まれた気分だった。
 次から次へと挨拶が訪れるのは分かる。好奇と恐れと侮蔑の視線にさらされるのも覚悟の上だ。だが、舞踏会の間中、横に密着して控えられることは想定していなかった。しかも、何だか横顔に熱を感じる。ちらと目線を流すと、目がかち合う。落ち着かない。
「シリル殿下、あの、少し近づきすぎなのでは……」
「私、父よりアピア様の接待役を申し付かっておりますから。目を離した隙に失礼があっては、申し訳が立ちません」
 僅かに人が途切れた間にそう促すも、シリルにはにこやかに一蹴された。
「それに殿下なんて。呼び捨てで構いませんわ。私たち、同じ立場ですもの」
 そう言われてしまうと、強くは出られない。あくまで自分たちは招かれた立場だ。彼女が手渡すグラスを受け取りながら、アピアは曖昧な笑みを浮かべる。
「呼び捨てという訳には参りませんので、ではシリル様とお呼びします」
「本当によろしいのに。アピア様とは今後、是非親しく付き合っていきたいと私考えておりますから」
 ありがたい言葉だった。裏がなければ。
「そうですね。シリル様は、これから二国をどのような関係にしたいと考えておられますか?」
 アピアはちょっとした探りと牽制を入れてみることにする。順当に行けば、この王女が次の代の王になる。そしてたぶん、壁に手をつけられるようになるのは、その代だ。彼女の人柄は重要である。
「うーん、いっそのこと、統一しちゃうってのはいかがです? 最初は連合王国な感じで!」
 そして、シリルが披露する未来予想図は、思ったよりも無邪気で楽観的だった。本音とは限らないけれど、と思いつつ、アピアも軽く受け止める。
「それはさすがに認められないでしょう。どちらが王になるかで、また喧嘩別れしたくないですから」
「あら。もちろん統一王国の王は、両方の血を引く子が継ぐことになりますけれど」
 示唆するところは明らかで、アピアはうっかり飲み物を吹きそうになった。からかわれたかと思って見やると、真顔で正面から見返されて面食らう。瞳には熱がある。
「だ、大胆な提案ですね……」
 相手の良く分からない勢いに押されて、引きつった笑いを浮かべることしかできない。方向は違うが、どうも誰かさんを彷彿とさせる。ひょっとして、ホリーラ王家周りは全員こんな感じなのだろうか。それだと結構怖い。色んな意味で勝てそうにない。
 立場が立場なだけに、一方的な好意をぶつけられることは何度も経験しているが、それは大抵打算絡みで、ここまで直截で遠慮のないものは初めてだった。
「結構、現実的だと思っておりますわ。やるのだったら徹底的にやった方がむしろ簡単だったりしますもの」
「しかし、あまりにそれはちょっと」
 引き気味のアピアの姿勢を見て取り、たちまちシリルは沈んだ顔になる。
「アピア様からすると、羽があるのってやっぱり変に見えるのかしら?」
 改めて言われて初めて、アピアはふわふわとしたショールに隠された彼女の羽のことを思い出す。あまりに慣れすぎていて、それが躊躇の理由に数えられることに全然気づかなかった。
「そうですわよね。三足族の方たちって、皆さん何にもないんですもの。異様に見えたりするんでしょうね。それこそ、化け物みたいに……」
「いえ、そんなことはありません!」
 アピアは慌てて彼女の言葉を否定する。本当にそんなことはないのだし、肯定したと思われてはまずい流れだ。
「いいんです。二百年は長いですわ。化け物が着飾って、滑稽だと思われても仕方ないことです」
 うつむいた彼女の顔に影がかかる。今にも泣き出しそうな雰囲気に、アピアは一層慌てた。
「そんなこと、全然思ってません。同じ人間ですし、貴方はとても綺麗ですよ」
「口だけでは優しい言葉も紡げますわ。そういう対象には思えない相手にも」
「本当に口だけなんて、思えないなんてことはない……」
 そこでようやく、アピアは自分が何を口走ろうとしているのか気づき、口をつぐんだ。しかし、それはいかにも遅かった。ぱっと上がったシリルの顔は微笑みで輝いている。
「本当ですか。アピア様も私のこと、思ってくださっているんですね」
 否定できるはずがない。
「ええと、あの、まあ、それなりに……」
「すぐにとは言いませんわ。ゆっくりと慣れていただければ、それで宜しいんですから!」
「はい……」
 すごくはめられた気分だった。

3-4

「おいおい、見ろよ。あの王女様のはしゃぎっぷり」
 バルコニーにて警備に就いていたイムデは、隣に立つ同僚にこっそり声をかけた。同じく長槍を手に外を警戒していた同僚は、ちらりと室内に視線を流す。
「ああ」
「異種族相手によくやるよなあ。そりゃ見た目はあまり違和感ないけどさ。まさか本当に結婚するとか言い出さないだろうな」
「無茶だ」
「本人も無茶は承知だろうさ」
 ホリーラ国王の唯一の子どもであるシリルは、何か起こらない限りは間違いなく次代の国王であり、彼女の子どもが次々代の国王だろう。ただでさえ敬遠されがちな異種婚なのに、壁の向こうの相手なんて通るはずもない。大体、リタント側もいくら開国のためとはいえ、第一王子を差し出したりはしないだろうし。
「戯れにしろ、面白く思わない輩も多いってことだよ。俺らがこうやって目を光らせている理由の方々がさ」
 二人は再び外の暗闇に目を走らせる。
 城の中庭も空も静かで、侵入の気配はどこにも見当たらない。
「とはいえ、今日は反対派も仕掛けてこないと思うな。これだけ厳重な時にわざわざ来ないだろ。俺だったら帰りがけを狙うね」
 ホリーラ側が今一番恐れているのは、開国反対派の襲撃だった。
 王家が交渉の方針を固めた以上、大っぴらに異を唱える者は少なかったが、潜在的なその数はけして少なくないはずだ。強硬手段の噂は絶えなかった。
「トーラー公爵」
 大っぴらな反対派筆頭の名前を同僚が上げてきて、イムデは首を横に振る。
「来るなり喧嘩吹っかけたってな。けど、あの人は単独犯だろ、どう見ても」
 誰かとつるんで暗躍するとはとても思えない。彼は良くやらかすが、そのほとんどが“喧嘩”だ。今回の件では口喧嘩のみならず、あわや国王と殴り合いになりそうなところまで行ったという話である。
「まあ、そうか」
「館で謹慎させられてるらしいよ。あの人のことだから守るかどうかは微妙だけど、乱入してはこないんじゃないか……たぶん」
 前科があるので怪しいところではある。
 どちらにせよ、彼が来るとしても扉からであって、窓からではないだろう。第一、反対派にしてみても、開国を阻止したいだけで王家を転覆させたい訳ではないのだから、この場に不法侵入する理由は薄い。当然、王権を奪える機会があれば、と思っている者も中にはいるだろうが、反乱を起こすにはさすがに時期尚早だ。
 従い、ぴりぴりした雰囲気があるとはいえ、バルコニー側の警備はどことなく暢気なところもあった。
「はは、あっちの王子さん、気圧されてんな」
 また中の様子を窺い、イムデは小さく笑う。誰かに呼ばれたらしく、国王が一時的に席を外しているので、中の空気も少しは緩んだようだ。もちろん今一番気を払わなくてはならないのは来賓らの安全ではあるが。
「お前も見てみろよ。明らかに引いてるよな、あれ」
 イムデは無口な同僚へ話を振ろうと再び視線を外へと戻し……己の目を疑った。
 立っている。
 先ほどまで何もなかったはずの手すりに、地に溜まる影のように黒く、空を突く木のように真っ直ぐに。
 それは、男のようだった。
 室内の明かりはそこまで照らしてくれず、その容貌ははっきりとしない。だが、明らかにここにいて良い人物ではないと分かる。
「おい……何やって」
 正面の男へとも、隣の同僚へともつかぬ問いを口走りつつ、イムデは怪訝に思う。どうして自分より先に同僚は警告など発しなかったのだろう。
 そして彼は、その理由を身をもって知ることになる。
 手すりの男がこちらを見た。顔は相変わらず確認できなかったのだが、視線が刺さったように感じ、イムデはそう思った。
 自分は何をもたもたやってるんだ、と同時に頭の隅で考える。
 早く槍を向けないと。
 もっと強い調子で警告しないと。
 拘束しないと。
 けれど、それは実現できなかった。
「う……」
 槍を持つ手が震えて握れない。
 喉が縮み上がり、まともな声が出ない。
 足はすくんで、びくとも動かない。
 頭の中が段々と真っ白になっていく。
 目の前で男は手すりからバルコニーへと降り立っている。そしてこちらへ歩いてくる。止めなければ。守らなければ。繰り返されるそんな思考は何の役にも立たない。
 立ち尽くす衛士らの横を、男はゆるりと通り過ぎていく。誰も止めるものはいない。
 皆もきっと同じ気持ちなのだと、分かる。
 イムデは何もしていない、言葉すら発していないこの男が、何故だか無性に怖ろしかったのだ。

3-5

 悪寒が体を走り抜けた。
 アピアは反射的に顔を上げ、そちらを見つめる。頭の芯がちりりと音を立てたように思えた。
 開け放たれた窓より、夜風と共にその影は滑り込んでくる。粗末な身なりの一人の男。どう見ても場違いな、招かれざる客。
「あら……?」
 アピアの視線を追って、シリルが小さく不審の声を上げた。それに連鎖するように、側付きの衛士たちが、そして雰囲気に導かれるように参加客たちがそちらへと注目する。たちまち緊張が場を走る。
「外は何を……!?」
 背後の衛士が呟くのをアピアは聞く。彼らはシリルとアピアを守るように、前へと歩み出る。
 会場警備の衛士たちが、たちまち男へ向けて駆け始め、客たちは反対側の壁へと避難する。容赦のない槍衾が男を取り囲んだ。
 それは、後から考えれば異常な行動だった。武器も手にしていない、貧相な体格の男一人に対して、ここまで大げさにする必要はない。一人か二人行けば、拘束には十分だったはずだ。けれどその時は、誰もがそれを自然に感じた。
 そして、それはけして大げさなどではなかったのだ。
「このまま部屋の外に出てもらおうか」
 四方八方から槍を向けられているというのに、当の男はまったくの無表情で、その命令を受け流した。耳に入ってさえいない様子だ。当然、衛士たちが面白く思うはずもない。
「きさ……!」
「王はどれだ」
 荒げた声を遮ったそれが、男が初めて発した言葉だった。無表情に相応しい感情の篭らない声は、さほどの大きさで発されていないはずなのに、広間に冷たく染み渡る。
 いけない。
 寄り添うシリルの体が一つ震えたのをアピアは感じた。
 あれは止められはしない。
 全身が脈打っているのが分かる。ちくちくとした痛みが皮膚の裏を刺すようだ。
 このままでは。
 さっきからとりとめのない言葉が頭の中を駆け回っている。警告。嫌な予感。焦燥。焦燥。
 何だこれは。
「さて、どれだ?」
 男は値踏みするように立ち並ぶ人々を眺め回した。
 今や広間は静まり返っていた。誰も言葉を発しない。誰も動こうとはしない。しないのではない、出来ないのだ。囲む衛士たちですら、槍を構えただけでそれ以上何も出来ないでいる。
「どれが王だ」
 そして、男が問う言葉を三度吐いた瞬間。
 そこかしこに灯り、広間を照らしていた明かりが一斉に掻き消えた。闇が、粘ついて質量さえ持っているかのような重い空気が、開け放たれた窓から侵入してきた。
 それでも、悲鳴すら上がらなかった。
「ふ……うっ……!」
 ただ一つ、その呻きを除いては。
 不意に突き上げた激しい痛みに耐えかね、アピアは己の胸を抑えて、床に崩れ落ちている。彼の朦朧とする頭に一層激しく責め立てる声がある。
 駄目だ、駄目だ。
 闇の気配が、ぞろりとこちらを向くのを感じた。来る。あれが、こちらへ。
 冷や汗がにじむ手を床につく。うずくまっていてはいけない。こんな無防備な姿勢で。
 息が詰まる。膝が震える。
 胸が痛い。痛い。
 あれは、僕が。
 僕らの。
 あれは。
 立ち上がらなくてはいけない。立ち向かわなくてはいけない。
 あれは、敵だ。
「どうも、お前らしいな」
 耳のすぐ傍で、男の囁く声がした。
「人間の、王」

3-6

「違い……ますわ」
 それは弱々しい、かすれた小さな声だった。それでも、沈黙の広間には大きな響きとなって広がる。
「間違っておられます。その方は、この国の王ではございません」
 自分にまとわりついていた気配が、わずかに引くのをアピアは感じた。
「国……?」
「そう、ですわ。貴方はこの国の王に……御用なのでしょう?」
 頭上から響くシリルの声は、ひどく喋りにくそうに震えて途切れ途切れだ。息苦しささえ覚えるこの雰囲気の中では、それが精一杯なのだろう。
 いけない。
 痛みを抑え込もうとしながら、アピアは思う。
 それとそんな風に対峙しては。
「お前が王か」
 しかし、アピアの回復は間に合わず、男の問いにシリルは頷いてしまう。
「……ええ、そうですけど、何の御用がおありなのかしら? 私、貴方をご存知ありませんけれど」
 明らかな虚勢だった。
 相手は侵入しておきながら、求める相手のの年恰好すら知らない様子だった。幸いながら国王は今ちょうど席を外している。この男の企みが何かは知らないが、父に会わせて良いことはないと、彼女は判断したのだろう。
「お前はやはり覚えてないのか」
「貴方のような無礼な方、存じあげません」
 生来の気の強さからか、彼女は気力を振り絞って応対を続けている。それは王たるには必要な資質であったろうが、今は完全に裏目に出た。
「そうだろうとも、人間の王」
 男ははっきりと彼女を標的に定めたようだった。
「私は彼らを知っている。彼らは私を覚えてはいない。だが、覚えていなくとも、知っている」
 唱えるような言葉の調子は、それが彼の言葉ではないことを告げている。その意味を問う間もなく、彼は己の言葉を継ぐ。
「あの時も、王は二人いた」
 どうにか顔を上げたアピアの頬を冷気が叩く。見えぬ中ながら、男が動いたのが分かった。たぶん、男の腕が、シリルに向かって。
「とりあえず一人」
 声も出せぬ彼女の喉がひゅうと鳴る。
「もらおうか」
 途端、どさりと重いものを受け止めた音、衣擦れの音が、そして柔らかく軽い感触のものが続けて降ってくる。掴めば、それは薄布のショール……シリルが羽織っていたものだろう。
 何が起こったのかは明白だった。あれに正面から射竦められて、まともに抵抗できる者などいはしないのだ。
 何をしている。
 ここに来て、アピアの腹に苛立ちが巻き起こった。
 這いつくばって何をしている。己の体がままならないことはとうに承知しているはずじゃないか。何のための覚悟なのだ。
 痛みなど、ねじ伏せられる。
「……待て!」
 息を吐き、アピアは立ち上がった。耳の奥が鳴る。頭の芯が眩む。手足が震える。どう見ても、自分はまともに立てていないだろう。それでも、崩れることだけはしないと決めた。何一つ出来なくとも。
 男の意識が再びこちらに向いたのを感じた。
 アピアは、彼に問いかける。
「どうするつもりだ」
「連れていく」
 答えは単純で、明確だった。
「シリルに何をするつもりだ」
「何も」
「何もしないのなら、何のために連れていく」
「彼女のために」
 男は問いに答えはするが、あまりに断片的でまったくその意図は分からなかった。自然、相手の言葉を繰り返すしか手掛かりはない。
「……彼女とは、誰のことだ」
 しかし、そう問うた瞬間、ざわりと辺りの空気が蠢いた。そこに含まれる成分は、さきほどまでの冷ややかな感触と少し違う。
「知りたければ思い出せ」
 この男は、ひょっとして苛ついているのだろうか。さっきの自分と同じように。
 ふと気配が遠ざかる。男は話を打ち切るつもりらしい。ここで逃げられては、きっともう捕まらない。
「シリルを置いていけ! さもなければ……」
 だが、そう脅しをかけたところで、立っているだけで限界な自分には何もできはしないのだ。
 当然、男は従わなかった。彼の気配はみるみるうちに闇の向こうへと溶けて紛れていく。
「お前が迎えにくるんだ、人間の王」
 シリルではなく、最後の言葉を置き残して。

3-7

 そして、予感通りに男とシリルは消え失せてしまった。幾重にも張り巡らされた城壁も堀も何の役目をも果たさず、一昼夜の捜索の甲斐もなく、彼らの姿は城内のどこにも見つかることはなかった。
 必然的に三足族一行は城にて留め置かれ、実質的な軟禁状態に置かれることとなった。安全のためにという建前はあれど、疑われているのは明らかだ。
「くだらない濡れ衣です! こちらこそどうなっているのか問い詰めたいくらいですのに! 狙われたのはここの王で、私たちは巻き添えを食らっただけでしょうに!」
 以来、トネリーは怒りっぱなしだ。
「大体、あれが三足族ですって! 言いがかりは止めてほしいですとも! 羽や耳が見当たらなかったとか言う癖に、問い詰めると、そんな気がした、とか、たぶん、とかあやふやな返事になるくせに!」
 舞踏会の場にいた、いないに関わらず、城にいた者たちは全て尋問を受けた。そして発覚したことは、侵入者の容姿がいまいち明確にならないことだった。侵入してきてあまり間のないうちに、大広間は闇に包まれたので仕方ないともいえるが。
 そんな状況では、人は自分の見たいものを見る。三足族に全てを押しつけたいのは山々だろう。
 それに。
 アピアはトネリーの憤慨を半分受け流しながら、考えを巡らす。
 自分の目においても、あの男には耳も尾も羽も見当たらなかったと思うのだ。もちろん、そんなことを申し立てて自分らを不利にはしないけれど。
 トネリーの過剰反応も、そこからの不安にあるのだろう。あれは自分たちの差し金ではない。しかし、その糾弾に対する反証を自分たちが持ち得ないことも確かなのだ。
 自分たちの扱いは、今やこの国の腹一つで決められる。処刑は早計としても、拘束の上、人質交換の交渉を試みられることは十分ありえる展開だ。当然リタントに交換すべき人質などいないので、それで丸く収まるはずもない。
 最悪、再び戦が始まることになる。
 開国交渉が開戦交渉に化けるなど、洒落にもならない。それだけは避けなければならなかった。
 だから、ホリーラ国王の部屋への訪問を拒めるはずもなく、最大限の誠意を持ってリタント一行は彼を迎え入れるしかなかった。
 国王に、城の風潮に流されている様子がないのは幸いだった。
「この度は、お側におりながら何の手立ても尽くせなかったこと、真に申し訳なく感じております」
 詫びたアピアに、彼は詫び返してくる。
「お客人が気に病むことなど何もありはしまい。いらした途端にこの度の不始末、こちらこそ頭を下げねばなるまい」
 もっとも肚の底ではどうか分かったものではない。なにしろ一人娘が得体の知れない相手にさらわれたのだ。心配と苛立ちに支配されて当然の状況だ。
 向かい合わせになって座り、相対した彼の顔は、やはりどこか疲れているように見えた。
「まず、そなたの意見をお聞かせ願いたい。娘の最も近くにおり、狼藉者とも言葉を交わしたと聞いておる。……何が我が娘をかどわかしたと考えておられるか」
 率直な問いだった。
 同時に、こちらの反応から何かを探ろうとしているだろう問いだった。
「あれは……」
 一瞬言い淀み、しかし次にアピアは正面から国王の目を見返し、言い放つ。
「あれは魔だと考えます」

3-8

 僅かな沈黙が場に落ちた。
「……なるほど」
 それを破ったのは、国王の相槌だった。
「話を聞く以上、魔と呼ぶしか仕方のない者なのだろう。しかし何故この時に及んで、魔術師が現れるのであろうな。かつての恨みにしても、壁よりも遥かに前の話であるのに」
 魔術師の粛清が行われたと言われているのはダリューラ時代も半ばであり、当然のことながらその時を知る者は誰もいない。王家の血筋の交替もあったはずで、目の前のディント国王と当時の王ともたぶん濃いつながりはないはずだ。
「恨みには思えませんでした」
 大体、恨む相手も分からず、突入してくるなど考えられない。それに、あの男からはそういった強い敵意は感じられなかった。
 それでも。
 アピアは、湧き上がってくるその理不尽な感情をもてあまし、肩を震わす。
 それでもあれは敵なのだ。
「今に至るまで、何も要求は届けられていない。……掴み所が見つけられないというのが、正直なところだ」
 この数日間、成果は上がらなかったのだろう。
「狼藉者の正体が判然としない以上、そなたらに責を負わすつもりはない。色々と手筈がある故、すぐにとは行かずに申し訳ないが、そのうちお国へと戻っていただけよう」
「ありがとうございます。侍従らも不安を覚えています故、陛下御自らのそのお言葉に安心いたすことでしょう。しかしながら、お願いがございます」
 そこで、アピアは切り出すことにした。
「私だけは、この国に残らせていただきたいのです」
 僅かに目を見張り、国王はアピアへと問い返す。
「この城に留まると申すのか」
「いえ、そうではありません」
 それだけの返事に、加えての説明は求められなかった。ただ、己の髭をしごきながら、国王は再び問うてくる。
「そなたには分別が備わっておられるようだ。どのようにお考えか」
「お約束はいたしかねます。ただ……私の出来うる限りのことは果たすつもりです」
 思慮の間がしばし空いた後、国王はおもむろに立ち上がった。
「返事は改めてとさせていただきたい。しばし待たれよ」
 そして、それを最後に部屋より出て行った。
「アピア様、残るって、そんな……!」
 たちまち悲鳴を上げたトネリーへは顔を向けず、ただ前方を睨んでアピアは呟く。
「迎えにこいというなら、迎えにいくまでだ」
 その先に待つ結果は知れたものではないけれど。
「帰してくれるというんだから、帰ったら良いじゃないですか!」
「解放と同時に、強制退去だよ。この後、壁が開くことはなくなるだろう。そして、新たな三足族極悪伝説が、ホリーラの人々に語り継がれるって按配だ。……それは駄目だ」
「で……でも、陛下に申し訳が……」
「父上は止めはしないよ」
 父としてはともかく、王としては否と言えぬ状況だ。そして、彼はすでに覚悟を決めているはずなのだ。
「トネリー、焦らなくても平気だから。僕以外は全員帰ってもらう」
「そ、そんな、そんなこと……」
「これは命令だ。それに、三足族の一団が国内を移動することなど、ホリーラは許すまい」
 途切れない文句をぴしゃりと遮り、アピアは彼女に用事を言いつける。
「言い分は後で聞こう、急ぎの用件だ。つなぎをつけてほしい相手がいる。たぶんこの騒ぎで、城内に上がってきているはずだ。なるべく内密に接触したい」
 彼もとんだ貧乏くじを引くことになるが、そこのところは諦めてもらうしかない。
 アピアはふとそこで弟の顔を思い出し、密かに苦笑する。
 セピア、何の悪戯か、どうも言われた通りになりそうだよ。