Southward

第二章 魔の章

「表裏」

8-1

 そして、三歳を数える年となった。
 もう、なのか、ようやく、なのか。
 痛む頭を抑えつつ、テーピアはしみじみ思う。長かったようにも思えるし、あっという間だったようにも思える。どちらにせよ、今この時を自分は神に感謝するべきだ。
「ちちうえー」
 ぱたぱたと足音がこちらへ近づいてくる。テーピアは顔を上げようとしたが、それより早く小さな顔が下から覗き込んでくる。
「ちちうえ、またあたまいたい?」
 その額に輝く自分と同じ徴。
 テーピアは心配する幼い息子に対して、安心させるように笑みを作ってみせる。
「少し痛いけど、大丈夫。これは必要な痛みだからね」
「ひつよう?」
「大事なことって意味だよ」
 首を傾げる息子へそう教えても、彼の心配は余計深くなったようだった。
「いたいのいやだ。だいじじゃないよ」
 眉をしかめて訴える息子が愛しく、その言葉の裏にあるものが哀れだった。テーピアは息子の額から頭にかけて、優しく撫で上げてやる。
「そうだね、アピアには大事じゃない。だから、痛かったらすぐに痛いって言うんだよ」
「いたくなくしてくれる?」
「ああ、助けてあげるから」
 そう言ってようやく、アピアは渋い顔を緩め、満面の笑みを向けてくれる。テーピアもまたつられて笑みを広げたが、同時に胸に痛みを覚えもした。
 どうしてよりによってこの子が、との思いは、強くなるばかりだ。
「ちちうえ?」
 どうやら顔が強張ってきていたらしい。また怪訝な表情になりかけているアピアに気づき、テーピアは話をそらそうと別のことを問いかける。
「そういえば、さっきは何をしてたんだい?」
「あ、ちちうえ、あっちにね、へんなむしさんが」
 途端、近づいてきた目的を思い出したようで、手を掴んでぐいぐい引いてくる。庭の片隅にある茂みでじっとしていると思ったら、何やら観察していたらしい。もちろん逆らわずについていく。
「こっちこっち」
 立っている衛士の姿が木立の間からちらちら見えるのをテーピアは確認しつつ、アピアに従う。周囲をぐるりと囲んでもらっているから、こうやって二人きりでいれる。異状はないようだ。
「あっ」
 小さな声と共に、前を行くアピアが引っ張られたように立ち止まる。慌てて見やれば、彼の首元から光る線が一本、はみ出ている。それが何かを認識した瞬間、テーピアの心臓は跳ね上がった。
「アピア、動かないで!」
 鋭く警告して、その線をテーピアは掴んだ。金属の冷たい感触が余計心臓を逸らせる。鎖は茂みの低いところから出た枝に引っかかった様子だった。絡ませないよう慎重にほどく。
 そして、がちがちに固まって停止しているアピアの胸へとそれをしまい、服を整えてやった。もういいよ、と声をかけると、彼は恐る恐るつぶっていた目を開いた。
「気をつけて。これは絶対になくしちゃいけない」
「はーい……」
 つい声を荒げてしまったせいか、アピアは明らかにしょげた様子でうつむく。怒っている訳じゃないということを示すために、もう一度頭を撫でてやる。
「アピアが悪いんじゃないよ。ただ、本当に大事なものだからね」
「わかった」
 彼は何度も頷き、再び奥へと進み始める。
そして、少し開けた場所で立ち止まると、きょろきょろとあちらこちら見回していたが、やがて困り顔を向けてきた。
「むしさんいないや……」
 騒いでいるうちに、逃げてしまったのだろう。アピアはさらに探っていたが、やはり見つからないらしく肩を落としている。
「今日は帰っちゃったのかもね。またそのうち出てくるよ。私たちもそろそろ戻ろうか」
 手を繋いで促すと、アピアは見上げて聞いてくる。
「ははうえ、おみまい?」
「いや、今日は止めておこう。一昨日、少し疲れていたみたいだからね」
「はーい」
 不満げながらも、物分り良く返事するアピアのつむじを見下ろしつつ、テーピアは苦く笑う。
 アピアは母に会いたいだろうし、もちろん彼自身が何か悪い訳ではない。だが、アピアの姿があるだけで、メイエの精神には負担がかかってしまうのだ。
 今お腹の中にいる子も同じようだったらどうすればいいのか、と。

8-2

 呼ばれて貴賓室に顔を出したアピアは、そこに知り合いの顔を見つけて、表情を輝かせた。たちまち彼の元へ駆け寄っていく。
「あ、でぃーすだ」
「ディーディス」
「でぃーすあそぼ」
 訂正するも甲斐なく、五歳年上の従兄は肩をすくめて引かれるまま部屋の隅へと連れていかれる。その後ろ姿を見送ったナッティアは、おもむろに弟に話の続きを振った。
「ほれ、あのように本人同士も仲の良いことではないか」
 にこやかに持ちかけるナッティアとは対照的に、テーピアの表情にはどうにも浮かない色がある。
「釣り合いからしてもちょうど良い。お前が何を嫌がっているのか理解できん」
「別に嫌がっている訳じゃない。まだ早い、とそれだけだけの話で」
「こういうことはさっさと決めておいた方が何かと都合が良かろう。別に口約束だけでも構わんのだ」
 渋る弟に、畳み掛けるように彼は承諾を促す。
「ファダーはその出自からして、南方に目を向けすぎていると揶揄されがちだ。王配も南のセリークの出だしな。ここらで北側のトリプラトと取り結んでおくのは、損はないぞ」
 再三の駆け引きにも、テーピアは頷こうとはしなかった。渋い顔で口ごもるばかりだ。彼の態度に、ナッティアは悟ったように息を洩らす。
「なるほど。あの口喧しい近侍どもにまた言われたのだな。王兄といえど口出しが過ぎる、用心せよ、とでも」
「兄上、そういう訳ではない」
 テーピアの否定を、ナッティアは首を横に振ってさらに否定してのける。
「ああ、ごまかさなくてもいい。ふん、奴らもおもねる機会は逃さないというだけだ。むしろ頼もしいとも言える」
 唇に皮肉な笑みを浮かべ、彼は一人ごちた。
「昔から変わらん。いや、後継者の誕生でいっそう露骨になったな。もはや種としての期待もないという訳だ」
「兄上!」
 止めさせようと立ち上がりかけたテーピアは、不意に立ち眩んだ。肘掛に手を置き、どうにか転倒を防ぐ。
「つっ」
 急いで侍従が飛んできて、彼の体を支えて椅子に下ろす。水を口に含んでどうにか眩みは納まったが、まだこめかみがずきずきと痛んだ。
 その様子を見やっていたナッティアは、諌めるように軽くため息をつく。
「無理をするな。お前の繋がりが不安定だと、メイエにも負担がかかる」
 そして、体を振って椅子から立ち上がった。
「やはりここは居心地が悪い。そろそろお暇することにしよう」
 身支度を整える彼を見て、テーピアは後悔の鈍い痛みを覚える。こんな話をしたかった訳ではない。それに、きっと嫌なことを思い出させてしまった。
「すみません、気をつけます」
「そうなされた方が宜しいぞ、国王陛下」
 距離を置く言葉に、それでもテーピアは礼を重ねる。
「……薬酒をありがとうございます」
「私は交渉に来ているのだ。手土産ぐらい持ってくる。大体、あんなものは余り物にすぎん」
 もちろん、自分のために選んで入手したものではないことは知っていた。だからこそ礼を言わねばならなかったのだ。
「ディーディスは夕刻改めて迎えに来させる。ではな」
 閉まる扉を見届けつつ、テーピアは再びこめかみを押さえる。
 兄のことを悪く言う近侍や貴族らは多い。確かに昔から彼は強引で尊大だ。野心も隠そうとせず、今でも北の貴族らを取りまとめようと暗躍していることは耳に届いている。
 だが、彼の抱える喪失の痛みを、今の自分なら少しは理解できるような気がするのだ。

8-3

 そして、夕刻も近づいた頃のことだった。
 政務へと戻っていたテーピアへ、困った顔で侍従が声をかける。入室を許可すると、聞いた通りに真っ白な顔色をしたアピアが姿を現した。その手を引くディーディスの顔もわずかに青ざめていて、彼は暗い表情でぼそりとこぼす。
「ごめんなさい。母様がどこへ行ったのか、しつこく聞かれたからつい……」
「ははうえもおとーとにつれてかれちゃうの?」
 ディーディスの弁明を遮って、アピアが問うてくる。二人の間にどんな会話がなされたのかは明らかだった。テーピアはアピアの頭を撫でて、優しい声で宥めてみる。
「そんなことはないから、心配しなくていいんだよ」
「でも、でぃーすのははうえは、つれてかれたって」
「それは……」
 当事者を前にして、こちらは大丈夫などという慰めの言葉を紡ぐのもためらわれ、テーピアは口ごもってしまった。そこに暗い匂いを嗅ぎ取ったのか、アピアの瞳にみるみると涙が溜まる。
「……いらない」
 そして、涙と同時にその言葉はこぼれ落ちた。
「おとーとなんかいらない。いらない、いらない、いらない!」
「アピア」
 頬に手をやっても、ぶるぶると頭を振られて拒否される。いつもの物分りの良さは期待できそうにない。
「ははうえをつれてっちゃうのなんていらない!」
「弟はメイエを連れていったりしないよ」
 根気良くテーピアは幼い息子に語りかけた。
「それにアピアだって、一緒に遊んでくれる相手が欲しいだろう?」
「でぃーすいるもん」
「ディーディスはいつもここにいてくれる訳じゃないからね」
「でも……」
 まだ納得していない風のアピアに、畳み掛けるように言い聞かせる。
「大丈夫、会えば、きっと好きになるよ。何しろ、たった一人の弟なんだからね」
 必ずしもそうとは限らないことをテーピアは思い知っている。けれど、そうなってほしいと、強く思う。
「……うん」
 語りかけが効果したのか、ようやくアピアは頷いてくれた。ほっとしたテーピアが頭を再び撫でてやると、くすぐったいのか彼はわずかに身を震わす。
 と、触れた手がテーピアにアピアの体の火照りを伝えてきた。改めて額で確かめると、少しだけ発熱している様子だった。
「だるいんじゃないか?」
 聞けば、アピアは首を横に振る。
「だいじょうぶ。つぎのおうさまだから、だいじょうぶなの」
「そうか、アピアは偉いな。でも今日はもうお休みしよう」
 いつにない興奮も体調が悪いせいかもしれない。侍従を呼んで、彼を引き渡す。
「おやすみなさい、ちちうえ」
「おやすみ」
 扉の向こうへ息子が消えるのを見送ったテーピアは、次に無言で佇むディーディスへと向き直る。
「あの、今日は……」
「今日は、アピアと遊んでくれてありがとう。色々と困らせてしまったみたいだね」
 彼に謝らせるつもりはなかった。彼とてまだ幼く、むしろ気遣いされなくてはならない年齢だ。
「もう少しすれば迎えが来るだろうから、広間でお茶とお菓子でもつまんでいるといい。今のことは気にしないで」
 出来るかぎり穏やかに聞こえるよう話しかけると、ディーディスは謝罪を求められていないことを察したらしい。一瞬だけぶつかった視線はどこか物言いたげなものに思えたが、その真意を問う前に彼はぺこりとお辞儀をして扉の外へと姿を消してしまう。
 兄が言う通りに、彼には相手とするのに何の不足もない。問題があるのは、自分達の方なのだ。
 また痛み出したこめかみに、テーピアは顔をしかめた。

8-4

 神の印を受けた寵愛者といえども、未来のことなど分かろうはずもない。ただ与えられた出来事に一喜一憂するだけで、他の者たちと何ら変わることはないのだ。
「アピア、おいで。メイエと弟に会いにいくよ」
 アピアを呼んでみて初めて、その声が思いのほか弾んでいるのにテーピアは気づいた。アピアがおずおずと寄ってきて、尋ねてくる。
「あえるの?」
「ああ、もう大丈夫。お待たせしたね」
 差し出された手を繋ぎ、テーピアは城の奥へ向かって歩き出す。メイエの神経を荒立てないように、産みの月の間は療養用の部屋を用意し、人の立ち入りも最低限にしていた。一月前に産みの月も終わったのだが、彼女の不安を鎮めるために少し様子を見る期間が必要だった。
 だが、もう大丈夫だ。
 アピアに答えた言葉を、テーピアは自分の胸の中で今一度繰り返す。アピアも母親のあの顔を見れば、すぐにそのことは分かるだろう。
 着いた扉の呼び鈴を鳴らせば、すぐに侍従が顔を出して寝室へ導いてくれる。開け放たれた窓から差し込む陽の光に照らされて、半ば体を起き上がらせたメイエが微笑んでいた。その安堵に満ちた柔らかな笑みは、入ってきた自分たちにもまた向けられる。
 そして、彼女の腕に誇らしげに抱かれた小さな体の、さらに小さな額に見えるのは、紛うことなき神の徴。
 誰もが予想だにしなかった、二人目の継承者の誕生だった。
 このために、生まれた直後のメイエの取り乱しようはひどいものだった。前と同じような体ではないかとの憂慮は、健康体であるという医士らの太鼓判をもらってさえ、払拭するのに時間がかかったのだ。
 あまりの雰囲気の変わりようにか、びくりと入口で立ち止まってしまうアピアへ、テーピアは優しく促す。
「もういいんだ。もういいんだよ」
「もう、いい……」
 喜びが自分の心を満たしていた。これで全ては良い方向へ転がっていくものだと思っていた。
「そうだとも、お前はもう……」
 こちらの想いとは別に、その言葉が彼にとってどう響くのかまで、考えは至っていなかった。こちらを見上げる彼の、その絶望に澱む瞳と目が合うまでは。
 思考が凍る。
「もう、いらない、の?」
 だから、とっさに返事など出来るはずもない。固まった思考のために生まれた沈黙を、たぶん彼は答えと取った。
 肯定の答えと。
 次の瞬間、手にかかった重みを一生忘れることはないだろう。それはほんの小さな子供の、ごく軽い体重に過ぎなかった。けれど全てを預けきったそれは、あまりにも物の感触だったのだ。
「アピ……ア?」
 返事はない。
 力の抜けきった体が、繋がった手からただだらりとぶら下がっている。
「アピア!」
 再度の呼びかけに返ったのは、可愛い声ではなくつんざく悲鳴だった。先ほどまでの落ち着きが嘘のように、メイエが色を失った顔を引きつらせている。腕に抱く赤子を取り落としそうで、気づいた侍従が慌てて抱きとめていた。こちらにもまた、隅に控えていた医士らが駆け寄ってきている。
 健康な二人目の誕生。これでアピアに継承者だからと無理をさせることもなく、メイエに無為な心労をかけることもなく、この国にとっても王を欠く憂慮を与えることもない。これで、何もかもが良い方向へ向くはずだったのに。
 周囲の喧騒を余所に、テーピアは呆然とそう考えるしかない。
 一体、何が悪かったというのだろうか。

 その後、アピアが寝台から離れられるようになるまで、一年の年月を要することとなった。

8-5

 憧れだった。
 いつだって颯爽としていて、何でも十分以上にこなして、それが当たり前という顔をしていて、本当に格好良かった。王子という役目にこれほど相応しい人間もいないと思う。
 自分とは、違う。だから、兄が自分に苛つくのは、とても当たり前のことなのだ。
「あの、兄上」
 近づいた途端無言で睨まれて、その呼び方では返事をしてもらえなかったことにはっと気づく。
「あの……あの、アピア」
「何?」
 言い直すと、ぶっきらぼうな問いが戻ってきた。
 良く分かる。こんな自分を弟だなんて思いたくない気持ちは。
「父上が、お呼びになってます」
「分かった」
 簡潔な返事と共に、アピアは揮っていた剣を鞘に収めて、訓練場を歩き去る。その後ろ姿を見送るセピアに、近くで訓練していた衛士が話しかけてきた。
「セピア様、お気になされない方がよろしいですよ。先ほどよりずっと訓練なされていたから、きっと疲れて口が重かったんですよ。私にも良くあります」
「うん……」
 気遣いの見える慰めの言葉に、セピアは笑顔で頷きを返した。それで収まるかと思われた場だったが、そこへ横合いから今一人の衛士の反論が差し込まれる。
「しかし、たった一人の弟君にあの態度はどうかと思いやしないか? そりゃ出来は良いのかもしれないけどさ、俺はどうも気に入らないね」
 彼もまた、小さい王子への好意のためにその揶揄の言葉を口にしたのだろう。けれど、それは逆効果だった。たちまちセピアは彼を睨み据える。
「兄……じゃなくて、アピアのこと、そんな風に言わないで!」
「あ、す、すみません」
 思いの外強い調子で返されたためか恐縮する衛士を後に、セピアは訓練場を出て行く。
 アピアが悪いはずがない。悪いのは、彼を苛々させる自分に決まっている。同じ印を戴いていても、どうしてこんなに違うのだろう。
 セピアはそこでため息をつき、感情のままに進めていた足を止める。
 こんなことを考えている限り、認めてもらうのは無理なのかもしれない。もっともっと頑張って、追いつかないまでもそれなりではあると思ってもらえれば。でも、そう考えて色々励むと、耳に醜い噂が入ってくる。自分が玉座を奪い取るつもりなのだと。父が自分を贔屓しており、そのために良い気になっているのではないかと。
 アピアはそんなつまらない噂を鵜呑みにするような人間じゃないと思うけれど、不安は消えなかった。悪意のある噂に触れて、良い影響があるはずもないのだから。
「何で僕に印なんかあるのかな」
 こんなものさえなければ、変な噂を流されることもない。次の継承者がアピアであることは文句のつけようもなく、二つ目なんて不必要なはずだ。自分にそんな器があるとも思えない。
 とぼとぼと玉座の間の前まで歩く。中の小部屋では父と兄が対面しているはずだ。近頃、どうも二人の間に緊張めいたものが走っているような気がする。そして、それはどうも自分の存在も無関係ではない感触がするのだ。つまらない噂のことを気にしてしまうのも、そのせいだった。
 と、目の前で扉が荒々しく開かれる。
「ならば、好きになされればよろしいでしょう! 僕の意見など聞く必要はない!」
 セピアは思わず立ち竦み、背後に言葉を投げ捨てつつ飛び出してきたアピアは、その姿を認めて眉をひそめた。奇妙な空白が漂った後、おもむろにセピアの手は掴まれる。
「来て」
 そして、返事を待たずに部屋の中へと引っ張り込まれた。追いかけてきたらしき父が、突然の乱入者に困惑した顔を向けてくる。何だか嫌な予感がして、セピアは兄と父の顔を交互に見やった。
「もう一度先ほどの話をしますか、父上」
 アピアの固い声が、頭のすぐ上から降ってくる。
「アピア」
 父の諌めるような呼びかけに、アピアは返事をしない。その代わりにぐいと引っ張られ、セピアは部屋の奥、玉座の前へと連れていかれた。
「僕のための玉座は用意されていないという話ですよ」
 平坦な抑揚で紡がれたその言葉と、不意に力を増して握られた指の痛みが、セピアの息を詰まらせる。そこで兄の顔を見上げることなど、出来はしなかった。

8-6

 答える父の声はしなかった。床に目を落としたセピアには彼の表情を窺うことは出来なかったが、いかにも話を続けたくない雰囲気だけは伝わってくる。しかし、黙り続ける訳にもいかなくなったらしく、渋々といった調子で彼は口を開いた。
「アピア、そういう意味で話しているのではない。ただ、私は……」
「僕よりもセピアの方が王として相応しいのは認めます」
 ためらう父の言葉を、アピアは一刀の元に切り捨てる。
「ならば、僕を第一継承者に据えておくことはないでしょう。不適格だと明かして、いなかったことにすればいい。どうしていつまでもこんな中途半端な状態にしておくんですか」
 何を話しているのだろう。
 セピアはくらくらした心地で、二人のやり取りを聞くしかなかった。
 玉座の話。自分が相応しい。アピアが不適格。意味が分からない。分かりたくない。噂。あの噂。嫌な噂。嫌な予感。漠然ともてあましていた不安が、セピアの中で明確な形を取り始める。
「不適格などと、誰も思ってなどいない」
「こんな体で、王の責務に耐えられるものですか。第一、そう考えていなければ、どうして休養など勧めるのですか」
 自分の手を握りこむ冷たい指が、また力を増した。そこから伝わる僅かな震えが余計にセピアの背筋を冷やす。
「正直に……おっしゃってください。もう希望はないのじゃないですか」
「そんなことはない!」
 返された否定はひどく大きく響き渡り、反射的にセピアは顔を父へと向ける。同じようにアピアも父を見つめており、二人の息子の視線に射抜かれた父もまた、己の出した声に戸惑うようにもう一度小さな声で同じ言葉を繰り返す。
「そんなことは、ない」
 しかし、そこから先には進まなかった。ただ落ちる沈黙は、父がそれ以上の言葉を持たないのを伝えてくる。
 アピアが深く小さく息をついた。ふと手が放され、セピアは今度こそ兄へと振り返る。
「……もういいでしょう。なら、こうした方が余程すっきりする」
 あっという間に首より抜き取ったそれを掴む手は、ふりかぶられた。制止する暇など、アピアは与えてくれなかった。
 窓の外に放り投げられたそれは、一瞬だけ陽光に照らされて煌く姿を見せたが、すぐに露台の手すりの向こうへ消え失せてしまう。
「アピア!」
「二人の継承者なんて、混乱を与えるだけです。必要がなくなったのなら、さっさと退場すべきだ」
 父の悲痛な叫び。兄の固い返答。
 何が起きたのか、すぐに呑み込めない。
 けれど。
 考えるより先に体が動いた。あれは必要だ。衝動のようなものが自分の背中を押す。あれを手放してはいけない。それだけは分かる。あれだけは。
 いつの間にか露台に出ていた。少し力をこめただけで、体は軽々と手すりの上へと持ち上がった。地面が遥か下に見えたが、それはためらいに繋がらなかった。迷いなど差し込む隙間もありはしなかった。
 どこか他人事のように、セピアは手すりを蹴って飛ぶ己の姿を認めていた。

8-7

 意識をはっきりさせてくれたのは、額に叩きつける風の冷たさだった。頭から急速に血が降りてくる感覚がして、霞んだ視界が段々と色を取り戻してくる。耳に飛び込んでくる音が意味を成してくる。自分の名を呼ばれている。
「セピア、聞こえているのか!?」
 顔をそちらに向けると、微妙に遠い距離に父が立っていた。険しい表情で呼びかけてきている。その隣にはアピアがいて、強張った顔で同じようにこちらを見ている。
 その胸の前で握り締めた両手から垂れている鎖を見つけ、セピアはようやく今までの流れを思い返すことができた。手すりから跳んだ後、あれを見つけ掴んで露台へと投げ返し、そして……。
「ひゃっ」
 世界がぐらりと揺れて、素っ頓狂な声を思わず出してしまう。慌てて掴んだものは尖っていて皮膚を刺してくる上に、しなって頼りない。それ以前に、高い。
「動くんじゃない。じっとしているんだ」
 父の更なる呼びかけが、余計に現状を突きつけてくる。天へと背を伸ばす大木の頂点近くに必死でしがみついているという、その現状を。
 動けるはずもない。
 結局、衛士らを総動員した大騒ぎの後に、何とか地面へ降り立ったのは陽も陰り始める頃だった。
「無事で良かった」
 父に安堵の息と共に抱きしめられ、セピアは蚊の鳴くような声で言葉を返す。
「ごめんなさい……」
「謝ることなんてないよ。しかし、良くあそこに引っかかっていると分かったね。どうやって見つけたのかい?」
「……全然覚えてない」
 改めて考えてみれば、認識して跳んだ訳じゃない気もする。地面に落ちていたり、隣の枝にひっかかっていたりした場合は何とも間抜けな結末を迎えていたことだろう。想像すると、頬が熱くなってくる。
 と、父の腕越しに見えてしまう。
 血の気の引いた青白い顔で、立ち尽くす兄の姿が。
 セピアは父に放してもらい、その正面へと歩み寄った。
「あの……あのね、アピア、僕は……」
「そんなことしてほしいなんて、思ってない」
 しかし、話しかけた言葉ははねつけられる。彼の手はいまだ胸の前に握り締められたままで、こぼれる鎖が細かに震えているのにセピアは気付いてしまった。
 つい先ほどまでだったら、ここで挫けて引き下がっただろう。けれど、セピアは言葉を続けた。言っておかなければならなかった。
「……あのね、アピア、僕は何にも取らないから。取る気なんかないから。だから、安心して。だから、あの……」
 側にいてもいい、なんて続けられるはずもない。また頭に血が昇ったらしく、くらくらした心地が戻ってくる。
「あの……」
 言葉を失い、駆けて逃げようとしたセピアだったが、しかしそれは叶わなかった。不意に引き寄せられ、頬に柔らかいものが押し付けられる。
 抱きしめられていると認識できたのは、顔の横から聞こえてくるくぐもり声のためだった。
「ごめん……ごめんなさい、セピア」
 背中に回された手はどこかぎこちなく、先ほど父にされたようにはしっくりこない。母がするようには暖かく、安心できるものではない。けれどそれは、セピアがずっと求めていたものだった。
「ごめんなさい……」
 肩に冷たいものがふりかかる。それは求めていたものではない。
「アピア、アピア、泣かないで、お願い、泣かないで」
 どうして良いのか分からず、セピアはしがみつくようにして同じ言葉を繰り返す。声での返事はなかったものの、体を包む腕に力が込められるのが伝わってきた。

8-8

 中庭を囲む回廊にその姿を見つけ、セピアは弾む足取りで駆け寄った。向こうもまたこちらの姿を認め、柔らかな笑みを浮かべて迎えてくれる。
「礼法の勉強ははかどった?」
「うーんと、何とか」
「あれは慣れだからね。実地に何度か挑めば、違和感なくなるよ」
 そして、アピアは弟の手を取り、二人は並んで歩き出す。
「じゃあ、今日は湖まで出ようか」
「……できるかな。ひっくり返ったりしないかな」
「大丈夫だよ。前だって上手く出来てたんだから」
 アピアはそう励ましを入れた後、悪戯めいた光を目に宿して付け加えてきた。
「万一ひっくり返ったら、泳ぎの訓練に急遽変更だね」
「うー」
 くすくすと笑うアピアにつられて、困った顔から自然と笑い顔になったセピアは、初めは信じられなかったこの光景が段々と当たり前のものになりつつあるのに気づく。やっとここにたどり着いたのだと、そう思う。
 そう、最初は、とても嬉しかった。
 アピアが話を聞いてくれる。
 アピアが微笑んでくれる。
 アピアが気遣ってくれる。
 アピアが一緒にいてくれる。
 嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。はしゃいだ気持ちが耳を覆い、心の奥から訴えかけてくるその言葉に気づかなかった。
 どうして今そうしてくれるのか、どうして今までそうしてくれなかったのか、考えなくてもいいのか、という言葉に。
 考えたくないだけだということは、薄々気付いていた。目を逸らしていても、アピアの体が治るはずもないことも。
 そして、自分が何をやってしまったのかも。
 自分はただ分かってほしかっただけだ。どれだけアピアのことを好きで、大切で、誇りに思っているかを。
 今なら、分かる。
 アピアがそれを受け入れるということは、絶望との裏表だったことが。
 その時からアピアは、すぐそこに迫る自分の死に抗うことを諦めてしまったのだ。
「セピアが王位を継ぐんだよ」
 もうそれは決定したこととして語られ、翻る気配は見られなかった。
「うん。頑張る」
 だから頷く。
 それに、アピアにそんな役目を押し付けて、負担をかけたくはなかった。自分が背負えることならば、引き受けるべきだ。それがアピアを軽んじての行為ではないと、もう分かってもらえているのだから。
 ごまかしながら、自分はいつか必ず来る日を怯えて待っていた。調子を崩しているのに、それを外には悟られまいとして振舞うアピアの姿を見るのがとても辛かった。徐々にその頻度が高くなっていくのを、為す術もなく見守るしかなかった。
 だから、あのホリーラでの逃避行は驚きだったのだ。幾度か発作は起こしたものの、概ね調子良くあの距離を移動しきったのだから。
 それはもちろん気の抜けない状況のせいもあっただろう。でも、それに加えて、きっとアピアは再び思うことができたのだ。
 死にたくない、と。
 本人は気付いていないかもしれないけれど、きっとそうなのだ。そしてそれは、自分のためではない。
 セピアは再び膝の上で拳を握りこむ。
「行って、アピア」
 皆との別れの後、糸が切れたかのようにアピアは寝込んでしまった。三日意識は戻らず、七日寝台から離れられなかった。ようやく落ち着いたアピアに、そう訴えた。
「一緒に行って。アピアが本当に望む通りに。お願い。お願いだから」
 固い顔で聴いていたアピアは、しかし隣国への使節を引き受けるという形でしか、その願いを聞き入れてくれなかった。でも、神の導きか、今は一緒にいる。
 鳥文での知らせ、そして侍従らの報告を聞いた時、胸が締め付けられる寂しさと安堵が同時に襲ってきたことを思い出す。
「ずっと手段を探していた。けれど、国中探してもそれは見つからない。魔術師を名乗る者とて、導き入れてもみた。手段となるのならば、何でも構わなかった」
 その時、父の語る声が耳から飛び込んできて、セピアは長い夢想からようやく身を引き剥がした。
 顔を上げると、父の後ろ頭の向こうに、真剣な顔をして聞き入る伯父の顔が見える。
「そして……夢が私に囁いたのだ。世界はこの国だけではないのだと」

8-9

 そこで、もういいと言わんばかりに、伯父は頭を横に振った。彼は口を開き問いかけてくる。
「壁の向こうに望みを託したのか。何か手立てがあるものと」
「元より、調査に人を送り込んではあった。だが、そのような進度では間に合わない」
 ナッティアはあからさまに大きく、ため息をつく。
「お前は愚かだ。やはり国王として相応しいとは思えない」
 結局、彼から引き出せるのは拒絶の言葉だけだった。身を固くするテーピアに対し、ナッティアは鋭い視線を向けた。
「……だが、今もお前は王なのだ。それは覆らなかったのだから」
 そして、口を閉ざす弟へ諌めるように話しかける。
「テーピア。まさかこの段に及んでためらっているのではあるまいな」
 その口調はどこか柔らかく、言い聞かせるような響きがあった。
「聴取はすでに終わっている。私は包み隠さず話したつもりだし、他の者の証言とも矛盾はないはずだ」
 事を起こしてしまった以上、彼が助かる道はない。彼の言い分が理解できようとも、助けてはいけないのだ。
 同時に、それは彼の望みではない。
「さっさと実行の印を押せ。焦らされる趣味はない」
 突き放され、テーピアは呻くように問いを投げる。
「兄上。何か……何か言いたいことは、もうありませんか」
「意見はいくらでもあるがな。お前がけして聞き入れないことが分かった以上、もう口にする意味はない」
 そう宣言されては、もはや話を伸ばす理由もなかった。戸惑いで黙る弟に対し、兄はぽつりと呟く。
「だが、一つだけ、赦されるのならば」
 ナッティアは背筋を伸ばし、一分の隙もない佇まいで王と相対した。
「息子の命だけは見逃してほしい。これは愚かな故に、父に粛々と従っていただけで、己の思惑などない。このように無様な結末を迎えた以上、今後とも王家に仇なすような真似はできないだろうて」
 途端、ディーディスは息を呑む音も大きく、目を見張った青ざめた顔を父へと向ける。何か言いかけた彼を沈黙させたのは、父の鋭い一睨みだった。
「それだけを頼む」
 そして、縛られた姿勢のまま、ナッティアは深々と頭を下げたのだった。