第二章 魔の章
「言葉と心と」
5-1
それは、ほとんど走るような勢いだったので、横を通り抜けられたミュアはあおられて顔にかかった髪の毛を跳ね除けなければならなかった。一番先頭へと復帰してずんずんと進んでいくシードの背中を見やった彼女は、眉根を寄せて後ろへと振り向く。そこには肩をすくめてみせるニッカがいた。
ミュアは、今まで歩きながら話し込んでいたアピアに断りを入れると、下がって彼へ囁きかける。
「もう、何したの」
「今日は珍しく一番前を進まないんですねって聞いただけですよ」
いくら鈍いシードでも、そこに含まれる意味は察したらしい。というより、図星だから過敏に反応しただけか。
呆れた顔をするミュアに、ニッカは言い訳する。
「けどですね、あからさまに視線が追っかけてるのをずっと見せられている側になってみてください」
面子が変わったことによって、進行の並び方も自然と変わることになった。以前はアピアとセピアの指定席だった最後列を、今はリームが占め、一行全員を見守る形となっている。そして、いつも最前列で後ろなど顧みずさっさと進んでいくシードは、出発時こそそうしていたものの、最初の休憩を済ませた後は何故か列の半ばでニッカと並んで歩き始めたのだった。
そうなると、自然にミュアとアピアが一番前を行くことになる。
何となく後ろから居心地の悪い視線を感じるなと思ってはいたが、どうやらほとんど睨まれる勢いで見られていたらしい。
その光景が容易に想像できて、ミュアはため息をつく。
「……普通に話しかけりゃいいのに」
「まったくです」
たぶん、出鼻を挫かれたせいで、どう出ればいいのか分からなくなってしまっているのだろう。自業自得としか言いようがないが、ここ一週間酒場に入り浸りだったため、シードの酒の匂いはなかなか抜けなかったのだ。頑張って近くにいようとしたアピアが、ついに気持ち悪くなってしまうくらいに。
それでへそを曲げたのか、ひょっとしたら気を遣っているのか、彼はあからさまに距離を取るようになった。
元々人付合いが良いとはいいかねる性格だ。意固地になると始末が悪い。今も一人になったアピアが話しかけようかと時機を見計らっているけれど、思い切り背中で拒否してしまっている。
せっかく落ち着いたと思ったのに、色々と面倒臭い二人である。
「まあ、聖山に着くまでには何とかなるでしょ」
イーンデンを出発して、今は大森林沿いに南へ歩いている。何か起こらなければ、一月かからずに聖山へ着ける計算だ。長い時間とは言い難いが、もうちょっとくだけた感じにはなれるだろう。
「問題はその後だと思いますけど」
「……それはもう、なるようにしかならないんじゃない?」
「そうなんですけどね」
シードが早足でどんどん歩いていってしまうため、リームが最後列から飛び出して押し留めに走っていく光景を見やりながら、ニッカは思案顔で自分の耳を引っ張っていた。
5-2
リームがとにかく反対したし、好き好んで野宿をしている訳でもないので、旅程は宿場町を基準に組まれていた。道中特に問題もなく、予定の町について宿を取る。
少し揉めたのは部屋割りだった。
セピアがいた時と同じように、ミュアとアピア、ニッカとシードに分かれようとしたところ、リームが難色を示したからである。
「女性と同じ部屋というのは少し……」
だからといって、アピアの護衛兼監視役としては、部屋を分かれるのは躊躇われる。彼の言い分としては、アピアとシード、それに自分を同室にしてもらいたいとのことだった。しかしそれにはミュアとニッカが顔を見合わせる。
「私たちは別に構わないけど……うーん」
今の状態で、その二人を同室にするのは少し危険な感じがした。うまく納まる可能性より、こじれる可能性の方が高そうだ。どうもリームは二人の間に流れる微妙な雰囲気をまだ感じ取っていないようだった。それ以前に、三足族の性別というものを実感できていないのだろう。
話し合いの結果、三つ部屋をとって、ニッカとシード、ミュア、アピアとリームで分かれることとなる。そんな時間を取っているうちに、いつの間にかシードの姿が消えていた。ふらりと散歩にでも行ってしまったらしい。リームは心配そうではあったが、今はアピアを優先させねばならないから探しにいけないようだ。
「いつものことですよね」
「そのうちひょっこり帰ってくるから」
全然心配していない二人の言葉で、どうにか彼も納得していた様子だったが、それも日が陰るまでだった。すっかり月に変わっても戻ってこないシードに痺れを切らしてしまう。
「僕はここから出ないし、二人もいるから、リームさんは探しに行ったら?」
しかし見かねたアピアの提案には、首を横に振る。
「いえ、万一何かありましたら申し訳が立ちませんから」
「なら、僕も一緒に探しに……」
「夜に出歩くなどもってのほかです!」
正論ではあるが、そう言われてしまうと八方塞がりである。
「じゃ、僕が行ってきます」
その時、ひょいと手を上げたのはニッカだった。リームは一瞬考えたようだが、やはり首を横に振る。
「いや、やはり子どもが出歩く時刻では……」
「別にうろうろする訳じゃありませんから。いる場所なんて決まってますし。では、行ってきますね」
しかし、ニッカは彼の制止を最後まで言わせず、自分の言いたいことだけ言ってさっさと出て行ってしまった。リームは一瞬追いかけようと立ち上がったが、しばらく迷った後にまた腰を落としてしまう。護衛な訳でも、主家筋という訳でもないので、無理に追って止めることまではしかねるようだ。
「今までもこんな調子だったし、ニッカに任せとけば大丈夫だって」
彼の堅さをほぐすように、ミュアが軽い調子でなだめの言葉を紡ぐ。リームはしばらく渋い顔を崩さなかったが、やがて残った二人にこう聞いてきた。
「あのお二人は仲がよろしいんですか?」
「良い……のかな?」
「良いんじゃないの、いまいち分かんないけど」
リームの問いに、アピアとミュアは首を捻る。ほとんどの場合同室だったし、大っぴらに喧嘩をしているところも見たことがないので、たぶん悪くはないのだろう。
「いえ、シード様とは合いそうにない性格かと思っていましたので、少し意外で」
「まあ確かに」
一見、水と油といった感じだ。普段も積極的に絡む風でもないのだが、何となくお互い一目置いている感じはある。
「いわゆる男の子の連帯って奴じゃないの。私にはいまいち分かんないんだよね、あれ」
ミュアは肩をすくめてみせる。村にいた頃にも、男子勢の共犯者めいたあの仲間意識にはどうも乗っかれなかった。
とにかく、残された三人に出来ることといえばおとなしく待つぐらいしかない。あとは、リームの辛抱が再び切れる前に二人が戻ってきてくれるよう願うくらいだった。
5-3
シードの足を立ち止まらせたのは、微妙な意識への引っ掛かりだった。盛り場での揉め事など当たり前すぎて、いちいちその全てに首を突っ込むほどシードも酔狂ではない。気分が乗っている時には話が別だが、今はその反対だった。
だから、彼は路地裏の暗がりを覗き込みながら、自分を留まらせたのは何かと探ってみる。そして、耳に飛び込んできた幾つかの単語がその犯人だと知るやいなや、シードはその中へと飛び込んでいった。
「……からよぉ、半端もんがうろうろしてるの見ると、気分悪くなんだよぉ」
「それは申し訳ありません。解放していただければ、貴方がたの目につかない場所へ移動いたしますので」
「っせえなぁ。俺らはそんなこと言ってんじゃねえんだよ!」
「もう気分悪ぃんだからよぉ。どうしてくれるって聞いてんだ」
五人ほどの酔っ払い集団に取り囲まれて、小柄な姿はほとんど見えないが、声といい物言いといい、どう考えても思った通りの人物だ。
「そう言われても、それ以上のことを要求されても、正直応えかねますね。持ち合わせも大してありませんし」
「っ、この出来損ないが、俺らを強盗扱いするつもりかよ!」
たちまち人の山がざわざわと動き始め、鈍い音が路地に響き渡る。
シードは無言で一番後ろにいる男二人の襟首を引っ掴んだ。そして、相手が驚いて振り向こうとした途端に、両脇の壁にその体を叩きつける。所詮酔っ払い、奇襲なこともあり、全員を蹴散らすのにさほど時間はかからなかった。
「ありがとうございます」
人気のなくなった路地裏で、シードとニッカは改めて対面する。
「平気か?」
「慣れてますから」
涼しい顔で服の汚れをはたくニッカに、シードは眉根を寄せた不満そうな顔をした。
「何でやり返さないんだ」
「抵抗したら余計ひどくなるだけですよ。僕はシードみたいにねじ伏せることは出来ませんので」
「そんなもんなのか」
「そんなもんです」
にしては、わざわざ丁寧な言葉遣いをして、やけに挑発的な態度ではあったが。
「それに、たまにあった方がいいんですよ、こういうことは」
続けてのニッカの言葉はシードには全然理解できなかったので、無言で眉を上げてそれを流すと、別の話を振った。
「大体、こんなとこで何してんだ」
「探しに来たんですが」
「何を」
「貴方をです」
「何で」
「リームさんが心配してたからです」
「心配させとけ」
一言の下に切り捨て、シードは再び尋ねる。
「来たからには、付き合うんだろ?」
「いいですよ」
ニッカもまた、説得の気配すら見せずに、あっさりと誘いに乗った。最初からそのつもりだった様子だ。
二人は近場の店に移動し、居を構えることとなった。
5-4
やはり、一人で飲むのも物足りなかったのだろう。とっかかりは悪すぎるが、付き合えばシードは案外人懐こかったりするのだ。
張り切って注文するシードの横顔を見やりながら、自分とは根本的に違うなとニッカは内心思う。
「まったく、二人がかりであれこれ言われちゃ、宿でなんか飲んでられるかってんだ、なあ?」
文句をたらたらこぼしながらも、言うほど嫌がっている訳ではない。本気で鬱陶しがっているのなら、一緒に行動などせずにどこかへ消えてしまっているはずだ。
「心配してるんですよ。どう見ても、シードの飲む量は多すぎますから」
「別に平気なんだからいいだろ」
「本当に少しも酔わないんですか。目の前が眩んだり、眠くなったりした経験は?」
「夜になりゃ眠くなるけどな」
本当にシードの体の構造はどうなっているのやら分からない。秘密ではあるが、ニッカは昔こうやって部屋で付き合わされた時に、こっそりシードの飲み物に痺れ薬を混ぜたことがある。秘密のままでいられたことから分かる通り、それは全く効力を発しなかった。なので次の日、今度は熊退治の時などに使うもっと強力な奴を試してみた。幸いなことに、それも全然効かなかったのだが。うっかり痺れられたら困ったところだった。
そんな会話を交わしているうちに、注文の品も出されて、お互い口をつける。相変わらずシードの好みは強い酒で、ニッカはわずかに眉をひそめた。酔わないのなら、別に水でも果汁でも同じような気がするが、本人は味が好きだと言い張っている。それも嘘ではないだろうけれど、それ以外の理由の方が大きいのではないかとニッカは考えている。
だから、単刀直入に話を切り出してみることにした。
「近くにいるのは気まずいですか?」
「気まずいっていうか、うるさいだろ」
「アピアのことですよ」
途端、シードは見た目にも明らかに硬直する。分かりやすいが、それ故に面倒臭い。彼は自覚していることを突かれた時、否定したりごまかすしたりするのではなく、黙りこむ性質だ。
「シード、言葉にしなければ、分からないこともあるんです」
そうなると大抵いつもニッカは引くのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。彼はその沈黙を破るべく切り込んでいく。
「自分がどうしたいのか、どう思ってるのか、全然伝えてないじゃないですか。膨れっ面してれば、ちやほやとご機嫌窺いしてくれた館とは違うんですから」
「何だそれ」
「聞いた通りの意味にとっていただければ結構です」
そんな言い方をされて、穏やかでいられるシードではない。たちまち先ほどの機嫌の良さをかなぐり捨てて、ニッカを睨みつける。
「いつ俺がお前らにそんなこと要求した」
「黙ってるのなら同じことだと言っているんです。アピアと別れる時だってそうですよ。ずっと酒蔵室に閉じこもってろくに話もせずに、勝手に一緒に来るものだと決めつけて。あの勝負はアピアの苦肉の策でしょう」
まだあの時のことは記憶に新しいらしい。傷をえぐられた形となったシードは、わずかに怯む。
「アピアはそう長い間こっちにはいられないんです。また同じことを繰り返すつもりですか? それなら、僕はもうこういうことに付き合ったりしませんからね」
突き放すニッカに、何か言い返そうとする気配を見せたシードだったが、結局むっつりと口を閉ざしてしまう。このままではいつもと同じことだ。
「シード。言葉は絶対に気持ちには追いつきません。でも、言葉にしなければ、ほとんどのことは伝わらないんですよ」
だから、追い討ちをかける。
「うまく言えなくても、一言でもいいですから、言葉にしてみませんか?」
その問いかけに、シードはやはり黙ったまま、手の中のカップを一気に呷った。
5-5
そして、しばらく沈黙の時間が過ぎた。
シードは追加の注文をするでもなく、空のカップを握ったままで、ニッカは自分の分を少しだけ喉に通す。度はきついとはいえ、さほど高級という訳ではないのだろう、混ぜ物の味が舌に残った。自然とその味が何によるものなのか、判別しようとしている自分に気づいて、ニッカは密かに苦笑する。
「……お前がよく喋るの、そういうことなのか?」
そんなことをしているうちに、ついにシードが口を開いた。ニッカは受け取った問いに答えを返す。
「母が亡くなってから、ずっと一人でしたから、自然と。主張しなければ、いないのと同じように扱われてしたからね」
その状況がいまいち理解できないらしく、シードはわずかに眉をしかめる。黙りこくっていようが過剰に気を配られるのが彼の常態だったはずだ。存在が認められないなど、想像の範疇外だろう。
「まあ、母がいても同じようなものでしたか。そういうこと全然気にしない人でしたので。そうでなきゃ、得体の知れない流れ者と結婚したりしませんよ」
正直、父と契ることによって自分が被る不利益を分かっていたとは思いがたい。たぶん盛り上がりに流されるがままだったのだろう。
そういう人だった。
「こういう言い方をしては何なんですけれど、あまり賢い人とは言えなかったですね。死んだのも事故……というか、はっきり言ってしまえば食中毒でした」
父が失踪して以来、彼が残した少々の蓄えはあったものの、生活は楽とは言い難かった。当然ながらそんな母に甲斐性などあるはずもない。
何とかするのは自分の役目だった。そして、彼女なりに何とかしようとしたのかもしれない結果が、それだった。
「たまたま僕が留守にしていた時に、野草を料理に使って。見分けるのが難しい種類だから、一人の時は手を出さないように言ってあったのに、仕様が無いですよね」
摘んでいるところを見かけても、村の者たちは何も口を出さなかった。関わらないのが当たり前だった。それだけのことだ。
「最後まで文字を読むこともできないままでした。たぶんあの人も根気良く教えたんだと思いますけど、向き不向きがありますから」
もっとも読めた方が良かったかどうか分からない。彼女が、通じた相手が壁の向こうの見知らぬ種族だと知っていたかどうかさえはっきりしないのだから。
尋ねられなかったが、聞いておけば良かったと今になっては思う。
「すみません、自分の話ばかり」
「……いや」
言葉少なにシードは首を振る。気がつけば、随分と表情から険が取れていた。
「俺は、どうすればいい」
「どうするもこうするも、さっき言った通りですよ。話せばいいんです。素直に思っていることをね」
「そうか」
そこでようやく彼はカップが空なことに気づいたらしかった。同じものを注文して一気に呷り、立ち上がる。
「じゃあ、帰るか」
「ええ、そうしましょう」
はたしてどう出るかは別として、何らかの決意を彼はしたように見えた。どう転んでも、今のようにくすぶっているよりは随分ましだろうとニッカは考える。
しかし、その目論見は甘かったのだ。
5-6
宿に戻ると、全員がまだ起きて帰りを待っていた。
「随分遅かったのね」
「探索と説得に時間がかかりました」
明らかに酒の匂いをさせているニッカに、ミュアはそう話しかけるが、さらりと流される。まあいいけど、と彼女は肩をすくめて、むすりと口を曲げているシードを見やった。そんな表情だが、不機嫌という訳ではなさそうだ。ニッカはそれなりにうまくとりなしたらしい。
そこでニッカの口元に残る痣に気づき、ミュアは眉根を寄せる。
「まさか、殴り合いとか、した?」
「まさか。そんなことしたら死んでしまいます。僕が」
「じゃあ今まで何やってたの?」
「少しは事態をましにしようと、僕なりの努力を」
その成果は、すぐに現れそうだった。
どこに行っていたか尋ね、勝手な行動は慎むように説くリームをあしらいつつ、シードの注意は明らかにアピアへと向けられていたからである。当のアピアもその視線に気づいているらしく、居心地悪そうに成り行きを見つめている。
「おい、アピア!」
そして、ついにシードは覚悟を決めたらしかった。
ぶっきらぼうにそう呼びかけるなり、アピアの前へと大股に歩み寄る。
さてどうなることかとミュアとニッカは見守り、リームは怪訝な顔をしながらも何があった訳でもないので止めることなく、シードは次の言葉に詰まっている様子で、アピアは黙ったままそれが発される時をじっと待っている。
その奇妙な均衡の沈黙は、鼻息荒く吐き出したシードの言葉で破られた。
「……俺ら、結婚するからな! いいな!」
ほとんど、噛み付くような物言いだった。だから、誰もが一瞬、その意味を受け取りあぐねた。彼の赤面が怒りのためではないことや、彼がしたのが決闘の申し込みではないことのみならず、その言葉の重要性やとんでもなさを呑み込んだ時にはもう遅かった。
ミュアがシードの後頭部を張り飛ばし損ねたのは、呆気に取られていたためだけではない。
そのあまりにも唐突で、思慮も段階も雰囲気も何もあったものじゃないシードの求婚の言葉に。
「……うん」
小さく、けれどはっきりとアピアが頷いたからだった。