「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

プロローグ

 その時のことは、良く覚えている。
 小さい頃の記憶というものは、曖昧でいい加減でむやみやたらに混じり合っていて、一体いつの出来事なのか、どこであった出来事なのか判然としないものだ。
 けれど、その時の光景と自分の気持ちだけは、今でもはっきりと彼は思い出せる。
 ただ、小さい、と思ったのだ。
 こんなに小さいのに生きて動いている、と。
 彼は城から出たことがなかった。城にわざわざ赤子を連れてくるような、貴族も使用人もいるはずがなかった。
 だからそれは、彼が生まれて初めて見た、自分より小さな人間の姿だったのだ。
 思わず近づく。触ってみたいと思う。歩みに合わせて、いつも抱いて持ち歩いている木彫りの人形の手足がからからと鳴る。
 これと、あれは、どれぐらい違うんだろうか。
 と、視線を向けられて、彼は反射的に足を止めた。あれを抱いている女の人。……それは、あれの母親。つまり、自分の叔母にあたると、理解できないまでも聞かされていた。
 でも、その視線は近しい者に向けられるものではなかった。ぴりと肌を刺す警戒の空気。敵意の色。それが彼を委縮させた。
 しかし、この記憶は間違いかもしれない。何しろ、とても小さかったのだ。それに、彼女は長旅の後で疲れ、苛立っていたのだろう。それだけのことだ。
 その証拠に、彼女はすぐに彼へ手の中のものを差し出してくれたのだから。
「……仲良くしてあげてね」
 小さな顔、小さな体、小さな手。
 ふと自分の手を伸ばし、触る場所に少し困る。結局、同じ場所を掴むことにした。手を、指を、握る。
 それは、暖かかった。

 次の記憶は、もう少し鮮明だ。
 計算では、それから二年が過ぎたことになる。
 二周りの年を重ねた彼は、少しばかり物事が分かるようになっていた。そう、自分とあの小さな生き物の違いが、少しだけ。自分よりもあちらの方が皆にとってより重要な存在なのだという、そのことがよく。
 それは時折心をちくちくさせたけれど、でも、どうでも良いことだった。今、小さな従弟が遭遇している痛みとは比べものにならない。
 泣きわめいていた。すがりついていた。引き離されまいと必死だった。
 彼女がどこへ何をしにいくのか、本当には理解していないだろう。それがどれぐらいの長さになるのかさえ。でも、朝から漂う不穏な空気は、ようやく赤子の域を抜けようとしている幼子にさえ、悟らせたのだ。
 母親がどこか遠くに行ってしまい、とてもとても長い間戻ってこないのだと。
 朝からだまりこくっていた従弟は、中庭での見送りの段になって、ついに爆発した。世話係がおろおろと抱き留めているが、その細腕ではいかにも頼りない。母親が困った顔でなだめるも、収まりそうにもない。彼にとっても、できることなどなかった。ただ、少し離れた場所で成り行きを見守るだけだ。
「ごめんね。貴方の弟が生まれたら、すぐに、きっとすぐに戻ってくるから。だから、少しだけお母さんを行かせて」
 頭を撫でつつ言い聞かせる言葉の、どれだけが幼い心に届くのだろうか。彼だって、どうして叔母がこの城から去らなくてはならないのか、よく分かっていなかった。
 ただ、なんとなく覚えがある。ぼんやりとした思い出は、自分があの泣きわめく従弟の立場にいたことがあると告げてくる。父だ。父は、ずっと昔、あの従弟が来る前にこの城を去り、そして……戻ってこない。
 自分は別れの時、あんな風にすがりついただろうか。行かないでほしいと訴えただろうか。よく覚えていなかった。
 それでも、感触だけは蘇ってきた。頭を撫でる大きな暖かい手。
 だから、彼はこの大騒ぎの結末を知っている。どんなにせがもうとも、彼は、彼女は行ってしまう。それは変えられないことなのだと。
 そして、自分に母が残されたように、従弟には父が残される。
 大丈夫、そのうち慣れるから。
 彼は、泣き声に力がなくなってきた従弟へと心の中で呼びかけた。
 それに、そっちは戻ってくるんだから。そう約束してるんだから。だから、大丈夫。
 もちろん彼は予感すらしていない。
 その帰省の間に、叔母が事故で帰らぬ人となる運命にあるなどということは。

 こうして、城には四人の家族だけが残される。
 彼と、従弟と、彼の母と、従弟の父。
 時は流れ、彼も従弟も物心がつき、色々なことを学ぶ。変わりくる日々が、喪失の痛みを少しずつ忘れさせていく。
 それはやがて、薄れて消えていったのだろう。
 再び傷をえぐるようなあの出来事が起こらなければ、きっとそうだったのだろう。