「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

第二話「七と半年前」

2-1

 玉芋の樽の中から奴が引きずり出されるのを、私は見ていた。
 奴は見つかったのだ。
「やだっ!」
 じたばたと暴れて抵抗する様を、私はただ見つめていた。
 私は奴を裏切らなかった。
 けれど、協力もしなかった。
 私は逃げたのだ、その選択から。
「やだっ、なんで、なんでっ!」
 その問いは私に向けられたものではなかったけれど、いたたまれなくてつい目をそらす。万が一目が合ってしまったら、答えなくてはならなくなりそうで恐ろしかった。
 唯一その問いの答えを持っている人物は、少しだけ困ったように眉を寄せただけの表情で、静かに佇んでいる。
「なんで、なんでっ、父さん、父さん!」
 完全に引きずり出された奴は、衛士の手を振り払って父親へと取りすがる。奴を受け止めながらも、彼は答えようとはしない。寝台に引かれる紗幕のようだとふと思う。寄りかかれば包まれるが、重みをかけすぎるとひらりとかわされる、そんな感触。
 彼の手は奴の頭を柔らかに撫でる。
 彼は間違いなく優しい。
 そして、たぶん奴を大事に思っている。
 それでも、彼は行ってしまうのだろう。悲痛な懇願にも構わずに。今までと同じように。
「いかないで、いかないで!」
 しがみつく奴の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。一言発する度にそれは絶えることなく湧き出してくる。喚く声は段々とかすれて途切れ途切れになっていく。
「……だ、いっ……やら、だめ、やらやらやら!」
 誰も口を挟めない。
 同じように少し離れてこの光景を見ている母でさえも。
 ちらとその顔に目をやり、その表情に愕然とする。寄せられた眉根、思惑が窺えない凪いだ光を湛えた瞳。
 同じだ。この兄弟は、こんな時まで同じ顔をしていた。
 その様子に引き止める気はないのだと悟る。彼女は王だ、その気になれば拘束して留めることさえ可能だろうに。
 何で。
 心の中で誰かがそう叫んでいる。
 何でそうしてはくれないのですか、母上。
 その問いはけして自分の口から出ることはないと分かっていた。母を糾弾する勇気などあるはずがない。
「……も……くっ!」
 周りの思惑など気づくはずもなく、奴は訴え続ける。聞いてもらえぬ願いを、口にする。
「……しょに、いく、つれてって、つれてってっ!」
 それは絶対に赦されない。
 奴はただ一人の王となるべき人物で、代わりなどいない。
 だから私は奴に協力しなかった。荷物に潜り込み、共に行こうとした奴に。
 同時に、裏切りもしなかった。奴の居場所をわざわざ告げたりはしなかった。しなくても、父親や私や世話係の側に奴がいなければおかしいと誰もが怪しむはずだから。
 思った通りに、奴は探された。予想した通りに、奴は見つかった。期待した通りに、奴は捕まった。
 そして、奴はもう行けない。
 海になど行かなくていい。
 彼が奴を連れていくはずがない。
 私は思う。私は予想する。私は期待する。

 そして、その通りになった。

2-2

 アネキウス暦7396年の年も明けた頃、城は騒然となり、そして深い戸惑いに沈んだ。
 誰もが彼の決断の意味を掴みかね、彼の落していった深い影を見通せなかった。日が経つにつれ、悪意は膨らませた想像を思うがままに撒き散らし、善意はそれに惑わされておろついた。彼に近い当事者たちは口を閉ざし続ける。
 自分もその当事者の一人なのだと、タナッセはぼんやりと思う。その感慨がどこか他人事めいているのは、叔父について何も知りはしないからだ。問われても答えられないから、黙っているだけだ。自分が知っているのは他の人と同じだけ。
 叔父は海に行ってしまった。母はそれを止めなかった。そして、ヴァイルは彼に置いていかれた。
 それだけだ。
 叔父の心持ちを知ることもなければ、母にそれを尋ねることもできなければ、ヴァイルを慰める言葉も持たない。それがひどく中途半端な自分の立ち位置だった。
「ヴァイル様!」
 窓の外から、あの世話係の切羽詰まった声が聞こえてくる。まただと思い、タナッセは露台に続く窓辺に寄った。たぶん自分の出番はないが、何かあったらすぐに手すりを飛び越して駆け付けられるように。
 隣の露台では、ヴァイルが手すりにかじりついて、その隙間から外を眺めている。遠く見えるのは、城に続く橋だ。
「今日は風が強くてお身体に悪いです。お部屋にお入りください」
 侍従頭も追って出てきて、中に入るように促す。ランテの遠縁の家の出身である彼は、実直を絵に描いたような性格で、それ故にヴァイルに振り回され気味なところがあった。ヴァイルがばあやと世話係に懐きすぎなせいもあって、いささか影が薄い。
 二人がかりの説得にも、ヴァイルは応じなかった。手すりを握りしめたまま、動こうとしない。
 ここ最近はまったく勉強も進んでいないと、共通の教師は嘆いていた。ほとんど部屋に籠りきりで、遊びの誘いは愚か、隠し穴からの呼びかけもたまにしか答えてくれなくなった。
 仕方がない。
 あの時、誰も彼を止められなかったのだから。食い下がるヴァイルに味方しようとはしなかったのだから。引き離し、彼を行かせてしまったのだから。
 ヴァイルは腹を立てているのだ。
 斜め後ろであるこの位置からは、柵の間に顔を突っ込んでいるヴァイルの表情は窺えず、強い風に煽られた髪の隙間からちらちら覗くうなじばかりが目につく。二人がかりの呼びかけにも動じないその姿を見て、タナッセは深く大きくため息をついた。そろそろ自分もあの呼びかけの列に加わるべきだろう。
 と、出て行こうとした彼だったが、それより先にヴァイルの部屋から出てくる影があった。
 小さくよろつくその姿は、年老いたヴァイルの教育係、“ばあや”だ。近頃めっきり公式行事に姿を現すことはなくなり、ヴァイルの部屋で半ば隠居状態となっている。彼女は杖をつき、侍従に助けられながら、ヴァイルの側へと近付いていく。
「ヴァイル様、ばあやも一緒に待ちましょうぞ」
 彼女の気配に、初めてヴァイルは反応した。ばっと振り向き、びっくりした目でその姿を見つめる。
「だ……だめだよ。おからだにわるいよ」
「なに、ヴァイル様が平気なら、ばあやも平気です。ご一緒いたしましょう」
「う……」
 ヴァイルはおろおろとばあややミラネ、侍従頭を見やり、そしてついに観念したらしかった。手すりを離して立ち上がり、ばあやの側へと寄る。
「わかった。中でまつから、ばあやももどろ」
「そうですか。では、ばあやもご一緒いたしましょう」
「何かおはなし、して」
「ええ、いたしますよ。ばあやが知っていることなら何でもいたします」
 どうやら出そびれたらしい。タナッセは身を隠したまま、胸をなで下ろす。さすがに彼女のヴァイル扱いには敵わない。
 彼女たちが部屋へ入っていくのを待ち、入れ違いに露台に出てみた。湿った風がたちまち自分の体をなぶる。
 やっぱり諦めて戻ってきたと、いつの日かあの橋を叔父の鹿車が渡ってきてはくれないだろうか。
 そう望まずにはいられなかった。

2-3

 ヴァイルが相変わらず籠りがちのままであろうと、叔父が帰ってくる気配がなかろうと、容赦なく時は過ぎていく。何一つ事態は変わらなかったが、それでも流れる日々は少しずつヴァイルの心に諦めを育てていったようだった。
「きっとね、ぼくがちゃんとおーさまのべんきょうしてたら、父さんは帰ってきてえらいってほめてくれるんだ」
 久しぶりに主日礼拝に顔を出したヴァイルは、隣の席のタナッセにそう言ってのけた。
「それでね、海のむこうのおはなしをいっぱいしてくれるの。だいじょうぶ、あぶなくなったら、アネキウスさまは父さんを助けてくれるもん。今、そうしてくれっておねがいしたもん」
 誰もその言葉を否定しなかった。できるはずもなかった。
 別れの日、叔父は息子の頭を撫でながら何度も言い聞かせていた。立派な王様になるんだよ、と。ヴァイルがその結論に至るのも無理はなかった。
「そうだな、じゃあしっかり勉強しないとな」
「うん!」
 タナッセの曖昧な促しに、元気よくヴァイルは頷く。この調子ならば心配することもないのかもしれないとタナッセは思う。自分とは違って、ヴァイルは強い。母親の時と同じように父親のことも乗り越えられるだろう。そのために必要なのは時間だけだ。
 礼拝が終わると、侍従頭に連れられてヴァイルは神殿を出ていく。今までの遅れを取り戻すために、特別授業をしてもらうらしい。その反動のような張り切りように不安を覚えなくもなかったが、部屋でめそめそしているよりはずっと良いことは確かだった。
 ヴァイルの後ろ姿を見送った後、タナッセはちらと祭壇の方へと目をやる。母はまだ神殿長と何やら話しこんでいて、終わる気配は感じられなかった。
 叔父の出奔以来、母とまともに顔を合わせた覚えがない。ただでさえ忙しい身である彼女の元にひっきりなしに人が押し寄せ、何やら揉めている気配を漂わせている。ランテの名を持たぬ程度の遠縁だったり、有力貴族だったりする彼らの望むところは、自分やヴァイルを見る視線で何となく察せられた。
 叔父はランテの当主だった。彼がいなくなった今、その座は唯一の子であるヴァイルに受け継がれるのが習わしだ。しかし、ヴァイルはまた玉座をも受け継ぐ運命にあるのだ。そして何より、彼はまだまだ小さい。後見人の地位はこの上もなく甘い果実だろう。
 母上は何だか疲れてるみたいだ。
 話す横顔を見ながら、タナッセは思う。一言挨拶を、出来れば少し話をしたかったが、自分などのためにそんな時間を使わせる訳にはいかないだろう。母の時間は貴重なのだから。
 諦めて神殿の外へ出て、そこに待つ護衛と共に歩き始める。図書室に寄って、いくつか本を見繕っていくつもりだった。
 その途中、中庭を臨む回廊を歩いていた時。タナッセの視界の端に、ちらと見憶えのある顔がよぎる。こちらには気づくことなく、その姿は中庭の茂みの中へと消えていった。
 どうしてその時に限って、そんなはしたなく恥知らずな真似をしようと思ったのか分からない。けれどタナッセは、気づけば護衛にそこで待つよう言い渡し、その後を追っていた。たぶん、かすめた彼女の表情がひどく思い詰めたものに見えたからだ。
「……やっぱり、駄目。そんなの無理よ」
 茂みの向こうから聞こえてくる彼女の声も、固く暗いものだ。
 タナッセはこっそり枝葉をかき分け、彼女とその相手の姿を確認する。
 そこにいたのは思った通り、ヴァイルの世話係のミラネと、以前彼女と共に歩いているところを見かけたことのある使用人の男だった。

2-4

「無理って言っても、これからどうする気だい。どうしようもないじゃないか」
 ミラネの言葉を受け、男もまた強張った表情で首を横に振った。前はそこまで良く見なかったが、着ている服からすると文書係のようだ。それ以外は取り立てて目につく点はなく、何とも凡庸な印象の男だった。
「君の気持ちはよく分かるよ。もっと前に今の状況が分かっていれば、先延ばしにすることもできた。でも、今となってはもう遅いんだ」
 彼は切々と訴えかける。
「よく考えてごらんよ。一月も経てば、僕らは今のようには働けなくなる。そんな状態で満足にお仕えできるはずもないだろう。むしろご迷惑をおかけすることになる」
「でも、あんな状態のヴァイル様のお側を離れるなんて……」
「一時よりは随分お元気になられたんだろう。心配ないよ、きっと以前のようにお戻りになられるさ。それに、そろそろ君の手を離れて良い年頃じゃないのか」
 男は青ざめて黙り込むミラネの肩に手を掛け、優しく促した。
「君だって奥様に連れられてここに来て以来、随分頑張ったじゃないか。奥様だって、きっともう良いって言ってくれるさ。君の手は新しい子どもを迎えるために空けておくべきだよ。そうだろう?」
 何が話されているのかは、明らかだった。タナッセは喉が詰まるような感覚をどう受け流してよいか分からず、ただ地面に目を落とす。
 ミラネは世話係を辞めようとしている。あの男と出ていこうとしているのだ。自分の侍従の中にもそうやって城を去っていった者は何人もいた。
 それはきっと、喜ばしいことに違いない。でも……ヴァイルはどう感じるだろうか。どうしても思い出してしまう。父親にしがみついて泣きわめいていたあの姿を。文書係の男はあの光景を見てはいないのだ。
 沈黙が辺りを包む。きっとミラネも思い出している。だからこそ簡単に頷くことができない。様子を窺えば、腹の前で握られた彼女の手は震えているように見えた。
 出ていって何か言ってやりたい衝動にタナッセは駆られる。だからといって、何を言えば良いのかは分からない。引き止める権利も理屈も自分は持ってはいないのだ。
「分かったわ……」
 そして、迷っている間に彼女は心を決めてしまったようだった。タナッセは男と同じように息を詰め、彼女の返事を待つ。
「侍従頭さんたちにはもうずっと前に話は通してあるの。だから、後はヴァイル様だけなのだけど……ご納得いただけたら、貴方の言う通りにする」
 一瞬、男は顔を輝かせたが、すぐにそれは曇って怪訝な色に彩られる。さすがに城で働いているだけあって、頭の回転は悪くないらしい。
「待ってよ。じゃあ、納得されなかった時は……」
「お仕えし続けるわ。この子もここで産む」
「無茶だ。それにその後はどうするつもりだよ。お城で使用人が子どもを育てるなんて、許されるはずもない」
「それは……その時にまた考える。決めたの。後はヴァイル様次第よ」
 その答えにタナッセは思わず安堵の息を吐いていた。つまり彼女は留まることを決心したのだ。あれだけ懐いていたミラネの離職を、ヴァイルが認めるはずがない。ごねるに決まっているのだから。
 男は当然承知しかねるらしく、また説得にかかっていたが、茂みから垣間見える彼女の表情にはもう迷いはなかった。そこでタナッセは茂みから離れることにする。盗み聞きなんて長く続けるものではない。
 待っていた護衛は、いきなり中庭へと分け入っていった小さい主人の帰還を物問いたげに迎えたが、タナッセが歩き出すと特に尋ねることもなくついてくる。彼は「王の息子」に対してきちんと線引きして任務を果たす優秀な護衛だ。自分を取り巻く他の者たちも同じようなものだった。
 そこに思い及んで、ようやくタナッセは先ほどから自分の気持ちが沈んでいるのは何故かという理由に思い当たる。
 例え自分の世話係があのように辞めるとなっても、きっと自分は気にも留めず、引き止めるふりさえしないだろうことが良く分かったからだった。

2-5

 その日の夜、疲れたからもう寝ると言いつけ、タナッセは早々に寝床へと潜り込んだ。もちろん本当に寝る訳ではない。紗を引いて中を隠し、壁の石を外してそこへと寄りかかり座る。向こう側の石が外れていないので良く聞こえないが、それでもぼんやりとした気配だけは嗅ぎとれた。
 きっとミラネは今夜中に話をするだろう。彼女は決断すると早い性質だったし、相手の男の様子からして決着は急ぐほど良いだろうから。
 こうやって様子を窺ったところで、自分に出来ることは何もない。それは承知していたもののどうにも落ち着かず、成り行きを確認しておきたかった。
 しばらく隣の部屋は静まり返っていた。たまに人の気配がしてもすぐ消えてしまい、就寝の支度をしている侍従なのだと知れる。主人はまだ居室の方にいるのだろう。いつもより寝室に入ってくる時間が遅く思えて、タナッセは予感を抱く。
 果たして、扉が開いた微かな音と共に、複数の足音が近づいてきた。最初のものは速く軽く、追うものは遅くひきずるような鈍さだった。帳をはねのける音、身を投げ出す音、そして……すすり泣く音。
 穴に寄せたタナッセの耳に、囁くような声が届いた。それは予想していたような優しく若いものではなく、しゃがれて年老いた声だった。
「ヴァイル様、ご立派でした」
 教師として生涯を過ごしてきたというばあやの声は小さくても不思議と良く通る。それに答えるヴァイルの声はひどくくぐもっていて、まったく聞き取れない。
「ミラネはこれから大変な時期へ入ります。ヴァイル様のお側を離れるのは大層心配だったことでしょう。けれど、このような成長ぶりを見た後では、安心して産みの時に入ることができましょうぞ」
 だから、最初のうちはばあやの言葉の意味するところをうまく呑み込めなかった。
「ええ、王たる者に相応しき態度でしたとも。誰が見てもそう思うでしょう。天におわしめすアネキウス様も」
 しかし、じわじわと理解は頭に染み込んでくる。どうしてヴァイルは誉められているのか。どうしてミラネ本人がなぐさめにはこないのか。
「大丈夫です。ええ、ばあやはずっとお側に。ええ、ええ、ヴァイル様を残してどこぞにも参りませんよ。大丈夫です」
 ヴァイルは、きっと、ごねなかったのだ。
「さあ、お休みなさいませ、ヴァイル様。ばあやがついておりますから」
 隣室からの話し声はそれきり途絶える。タナッセは壁の穴から身をはがすと、寝台から滑り出る。そして戸口で控えている護衛に心配ないと合図して、そっと露台に続く窓の鎧戸を開けた。
 隣の露台が見える。佇む人影が月明かりに細く浮かんでいる。暗くてはっきりとは見えないが、それが誰で何をしているかは明らかだった。手すりを掴み、首を落として動かないその姿。
 彼女はずっとヴァイルに仕えてきた。城に上がってすぐ世話係として見出されてからずっとだ。母を亡くしたことをなかなか理解できないヴァイルを、所領との間を行き来する父にすねるヴァイルを、そして今度のことで塞ぎ込むヴァイルを一番側で支え、慰めてきたのだ。彼女がいなければ、ヴァイルは今のようには育たなかったろう。
 本当にこれで良かったのだろうかと、タナッセは考える。
 もちろん彼女のこれからのことを思えば、手放してやるのが正しいに違いない。世話係は世話係だ。このまま王となるまで側に居続ければ、きっと良くないことが起こる。だからばあやはヴァイルを誉めたし、誰もこの流れに反対する者はいないだろう。当然、自分も口を出せる立場ではない。
 朝の主日礼拝を思い出す。ヴァイルは笑って言っていた、ちゃんとした王様になるために頑張るんだと。それは良いことだとその時は思った。
 改めて思う。
 ちゃんとした王様とは一体何なのだろう、と。
 母は立派な王だと誰もが言う。けれど、ヴァイルが母のようになるのを、自分は望むだろうか?
 答えは出ず、タナッセは立ち尽くす。彼の視線の先で、細い影は己の腹を静かにさすっていた。

2-6

 ミラネが城を去った当初はさすがに元気がなかったヴァイルだったが、それに気づいたのはいつも側にいる面々ぐらいのものだった。それは、先の王弟出奔の後の落ち込みがあまりに激しかったせいもあるし、部屋に籠ったりせずに積極的に勉強に励んでいたせいもあるだろう。
 勉強の合間に、前のように遊びに誘いに来る。他愛のない話を交わす時、彼の口からもはやミラネの名が出ないことにタナッセは気づき、複雑な思いを抱く。
 それでもそれは、穏やかに過ぎていく時間だった。
 タナッセにとっては、ユリリエの訪れがないことも精神上助かっている。彼はもう半年以上姿を見せていない。ヨアマキスの領地へ戻っているためで、しばらくあちらに留まると聞いていた。向こうにいる人物のことを考えると心がざわめいたが、もう自分には関係のないことだ。
 日々は積み重ねられ、月の色は変わる。
 本気で取り組みはじめたせいか、ちょうどそのような時期だったのか、ヴァイルの上達具合は目を見張るようだった。分野問わず、まるで乾いた大地のようにみるみる吸収していく。取り巻く人々は、さすが寵愛者様だ、次期国王だと褒めそやした。
 そんな状況の中、タナッセは自分の身の置き場がますます狭くなるような気持ちに苛まれずにはいられなかった。共にいれば、皆はこぞってヴァイルの方にばかり話しかける。舞踏会に顔を出して踊りを披露すれば、同じことをこなしたのにヴァイルばかりがお上手だとちやほやされる。三つ年上の自分が出来るのは当たり前だからなのだと納得しようとしても、胸のもやつきは収まりそうにない。
「おや、ひっつき虫の姿が見えたから来てみれば、寵愛者様がいないじゃないか。これは一体どうしたことだ?」
 それに加えて、自分にわざわざ構ってくる輩はこんな奴ばっかりだ。同じ年のこの少年は、父親を真似た気に障る物言いばかりが得意でそれ以外のことはさっぱりだ。
「ミーデロン・ファイフ=テリジェ、お前の戯言に割いてやる時間など私は持ち合わせていない。用がないのならば、さっさとどこぞへ行くがいい」
 自然、タナッセの言葉も刺々しくなる。売り言葉に買い言葉だ。
「用がなければ声なぞかけるはずもない。それぐらいも理解できないのかね? こちらこそ王子殿下に構っている暇はないのだ。寵愛者様宛に父上から言付かっているものだからね」
「またくだらぬがらくたを押しつけに来たのか。ヴァイルならば母上の視察に随行している。侍従頭にでも預けておくのだな」
 そう告げると、ミーデロンは大仰にため息をついてみせた。やれやれといった態で首を横に振る。
「……嫉妬とはみにくく恐ろしいものだ」
「お前のどこに嫉妬すればいいのか、分からんな」
「私にではないよ。まだ分からないかな」
 いかにも馬鹿にされた調子で言われて、良い気分になるはずもない。タナッセはもはや相手にしないことにした。
「好きに言っていろ。私はもう行くぞ」
 そう言い捨てて、彼に背を向ける。けれど彼の言葉は背中から追ってきて耳に届いた。
「いくら従弟といえども、次期国王を呼び捨てとは礼儀がなっていないとは思わないのかね、タナッセ殿下? 何か含むところがあると見られても仕方がないぞ」

2-7

 くだらない言いがかりだ。
 ミーデロンの気配を振り切り、何となしに正門に程近い中庭にたどり着いたタナッセは、目立たないように隅に座り唇を噛む。
 別に今までと同じように振舞っているだけだ。誰にも注意されたことはないし、ヴァイルだっていきなり敬称つきで呼ばれたりしたら変な顔をするだろう。何もおかしなところはない。第一、そうやって呼んでいるのは自分だけではない。ユリリエだって……。
 そこまで考え、タナッセははっと息を呑む。確かに彼は砕けた物腰で接してくるが、それは遊びの時など自分たちだけの場合だ。周囲に大人がいる時は、そういえばきちんと様付けで呼んでいた気がする。
 胸の奥のもやつきがせり上がってきて、ぐうと喉を鳴らさせた。
 自分はわきまえていなかったのだろうかという後悔と、いつもながらの牽制だから気にすることはないという意地がぶつかりあっている。テリジェ侯爵を筆頭に、王配を狙う貴族たちは自分の顔を見ると必ず遠まわしな嫌味を吐くのだ。要約すれば彼らが言いたいことはただ一点。
 お前は王配には相応しくない、さっさと諦めろ、と。
 諦めるも何も、最初からそのつもりなんてない。奴らが勝手にそう決めつけて、目の敵にしてくるだけだ。だから気にせず聞き流していたのだけれど、今日のはどうしてか心に引っかかって離れない。
 いつもと変わらない、くだらない言いがかりだ。
 もう一度、タナッセはその言葉を繰り返す。切り口を変えられたから動揺してしまっただけだ。別に自分はヴァイルを呼び捨てにするのに、何の含みも持っていない。それは確かだ。ただ単に今までそうだったから続けていただけで、求められればいつでも完璧に振舞ってみせる。次期国王に対する敬意をもって、完璧に。
 下種の勘繰りに心を動かすことはない。ヴァイルはまだ小さく、弟のようなもので、嫉妬もへつらいも抱くような対象じゃないのだから。
 そう言い聞かせていると、次第に頭も冷え、苛立ちも収まってくる。つまらないことに時間を使ってしまったと、タナッセは一つ息を吐いて立ち上がろうとした。
 その時、ふと中庭が騒がしくなる。衛士や侍従らが駆けつけ、その見憶えのある面々に何が起こるのかはすぐ見当がついた。立ち去る間もなく、鹿車が滑りこんでくる。侍従が恭しく扉を開け、途端にぴょんと飛び出したのは当の従弟だった。続けて、その堂々たる姿は現れる。彼女は隅で佇む自分に気づくはずもなく、侍従らのねぎらいの言葉を受けている。そして、窮屈そうに体を伸ばしているヴァイルを呼ぶと、彼の肩に手を置いた。
「良く役目を果たしたな。立派だったぞ」
 それを受けて得意げに微笑んだヴァイルの顔を見た瞬間、思いもよらぬ鋭い痛みがタナッセの胸を突き刺した。
 そうだ、確か三年ほど前だった。今のヴァイルと変わらぬ年頃だった。自分は母の視察についていきたいとお願いし、それはあっさりと却下された。遊びではないのだから、連れてはいけないと。もちろん遊びに行くつもりなんてなかったのに。
 ヴァイルは許され、自分は許されない。
 それは当たり前のことだと頭では分かっているものの……胸の痛みは一層ひどくなる。
 分かってしまった。
 今はまだ小さいこのひりつくようなうずきに、いつか堪えられなくなる日が来るということが。
 その時、自分はきっとここから逃げ出すのだろう。
 己の父と同じように。

2-8

 一度生まれてしまった不穏な予感は消えることはなかったが、目につかぬ深い場所に押し込めることはできる。同じように、陰を落としていた王弟の気配を少しずつ押し込めて、城はかつての平穏を取り戻しつつあった。
 その中で、母だけが前にも増して忙しそうだ。多忙の理由をタナッセは知っていた。彼女は数多く名乗りを上げたヴァイルの後見人候補を全て蹴り、自分がその座についたのだ。つまり、王国の統治のみならず、ランテ領の細々とした裁可まで引き受けなければならない。
 このことに関して、さすがに強欲だと陰口が叩かれていることも知っている。間違いなく息子を王配につけ、退位後も甥を操り思うがままにこの国を動かすつもりだろうとも。悔しくて反論してやりたいが、当事者がそんな真似をすれば火に干し藁を投げ込むようなものだ。耳を塞いでやり過ごすしかない。
「タナッセー、あそぼー」
 前よりも頻繁ではなくなったとはいえ、変わらず小さな従弟はそういって首に飛びついてくる。その無邪気な様子に、流れている噂を知らないのかと、何度か喉元まで出しそうになってはこらえる。そんなことを気にする年じゃない。当たり前だ。
 それでも、タナッセにとっては気になる問題だ。自分だけならともかく、母の評判に関わるからだ。自然、出来るだけ目立たないように気を払う。
「今日は天気が良くない。部屋の中ならばつき合うが」
「そう? じゃあ、僕の部屋きてよ。いいものもらったんだ」
 隣の部屋に行くぐらいなら問題はないだろう。侍従たちの口から洩れるだろうが、少なくとも通りすがりに嫌味をぶつけられることはない。
 ヴァイルに伴われて場所を移ると、ばあやがにこにこと出迎える。
「ねー、昨日もらったの見せたいの」
「はいはい、あれでございますね」
 促されてばあやが持ってきたものは、一枚の紙だった。広げれば色鮮やかな世界が広がる。
 地図だ。しかも地理の講義に使うものより細かく正確に思える。
「あのね、そ……そぜい? とかやってるところに行った時、欲しいなってじっと見てたらくれたの。同じやつ」
 なるほど、法務の部署に行ったらしい。そこで見つけたこの宝物にかじりついた彼の歓心を買うために、誰かが気を利かせて新品を用意したという訳だ。
「……こんなに細かくては、逆に分かりにくくないか?」
「そんなことないもん」
「お前のことだから、あっちこっちに気を取られてろくに頭に入らないだろう」
「いじわるー。いいよ、じゃあ、もんだい出してよ。当てるから」
 ぷうと頬を膨らまし、ヴァイルは机にあごを載せる。タナッセは苦笑しながら、その誘いに答えてやった。
「そうだな。では、この城はどこにある?」
「ばかにしてるでしょ? ここ」
「最初は基本から行くものだ。では、ランテの屋敷はどこだ?」
「えーと、この辺り」
「正解だ。西の果てだな。さて、次だ。ランテ領はどこからどこまでだ?」
「え。えーと、えーとね、ここの山までと、えーと、東は……」
 地図の上をなぞっていた指が、ふらふらと迷いはじめる。街や特徴的な場所などは覚えていても、範囲となると予想外だったのだろう。それでも負けを認めるのは悔しいのか、こちらの様子をちらちら見やりながら指を少しずつ動かす。
「んーとね、たしかこの辺りがふくざつで……あ、ばあや、あのさ、ばあやのお家の場所ってここだよね。……ばあや?」
 そして、ついにばあやの助けを求めて彼女を呼んだその時だった。顔を上げたヴァイルの目が見開かれ、タナッセもまた反射的に振り向く。入口の椅子に控えていたばあやの腰は折れ、自分の膝の上に伏していた。苦しげな呻きが聞こえる。
「だっ、誰か! 誰かいないか!」
 上げた声に、外で待機していた侍従たちが慌ててなだれ込んでくる。彼らがばあやを運ぶ間、ヴァイルは一言も喋らず、凍りついたように同じ姿勢でただその様子を見守っていた。

2-9

 結局、ばあやは床についたまま、意識を取り戻しすらしなかった。
「しばらく前から、ずいぶん調子が悪いとこぼしていらっしゃいましたから……」
 駆けつけた医士も一目見るなり浮かない表情になり、そうこぼすだけだ。栄養のある食べ物を与えるぐらいしか手立てを講じられないという。
 二つ夜を明かした後、介護の甲斐なく彼女は山へと旅立った。
「最期まで良く仕えてくれた。手厚く葬ることを約束しよう」
 リリアノも直接赴いてきて、哀悼の辞を述べる。遺体はすぐに整えられ、息子のセイテナ伯爵の到着まで神殿に安置されることになった。
 その間、タナッセは出来る限りヴァイルの側にいるよう心がけた。半ば無理やり片手を握り込み、彼の向かう場所についていった。
 それはつまり、神殿だ。ヴァイルは一日中神殿に居座り、ばあやの棺を見て過ごした。何をする訳でもなく、ぼんやりとうずくまっている。タナッセは床に座り込もうとする彼を促して椅子に座り直らせ、日が暮れると強引に部屋へと連れ戻す役割だ。引っ張ったり話しかけたりすれば一応答えるが反応はひどく鈍く、不明瞭な音を立てて頷くぐらいだ。自然、タナッセも黙りがちになる。
 たまに窺う横顔には悲しみの色は見受けられない。はばあやの姿も見えはしないこの場所から、ただ呆然と花に囲まれた棺に目を向けるばかりだ。これがいつまで続くのか、近頃ではタナッセに朝の訪れを告げるのは侍従ではなく胃の痛みだった。何もしないまま待つ日陰り時があんなに遠いとは、初めて知った。今日もあの時間が始まると思うと、ろくに朝食も喉を通らない。
 しかし、ついに解放の時は来る。
 その日、いつものようにヴァイルの手を引いて神殿へと訪れたタナッセは、握る手が急に強張ったことで様子がおかしいのに気づく
。いつもは静かな棺の回りに使用人たちが群がり、それを一人の人物が指示していた。彼はこちらに気づくと、大股に歩みよってくる。
「ヴァイル殿下、並びにタナッセ殿下。久しくご無沙汰しており、申し訳ございません。我が母にこのような盛大な弔いをいただき、感謝いたします」
 壮年の男は頭を下げ、うやうやしく礼を述べた。セイテナ伯爵が領地より到着したのだ。
 彼は続けて謝辞を述べていたようだったが、タナッセにはそれを聞いている心の余裕がなかった。握りこんだ手の緊張は緩むことなく、今や小刻みに震え始めているのが伝わってきたのだから。表情を窺おうにも、ヴァイルはうつむいてしまってつむじしか見えない。
「母の亡骸は故郷へと戻し、そこへ埋葬いたします。是非何かの折にはお立ち寄り……」
 そして伯爵のその言葉が火付け役となった。ヴァイルはその瞬間、タナッセの手を振り払い、棺へと駆け寄ったのである。
「……うそつき!」
 甲高い叫び声が、神殿の高い天井に跳ね返って降ってくる。
「うそつき、うそつきっ!」
 寵愛者相手に手を出していいのか分からずおろつく使用人たちの間を駆け抜け、ヴァイルは遺骸を包む布へとすがりつく。責める声は、発する度に涙でにじんで揺らぎ始める。
「ずっとって言ったのに、どこにも行かないって言ったのに、うそつき、うそつき、うそつき!」
 一足遅れて駆け付けたタナッセと伯爵も、すぐには手を出せずに震える小さな背中を見つめるばかりだ。
「きらい、ばあやなんかきらい、うそつきはきらい!」
 しかし、ヴァイルの激昂がそこに至った時、伯爵は意を決したように彼の背中へと話しかけた。
「恐れながらヴァイル殿下。そのようにおっしゃらないでください」
「だってうそついたもん、うそつきだもん、いなくなっちゃうもん、だからきらい!」
 予想した通りに、返ってくるのは鋭い反発だった。それでも伯爵は諦めず、言葉を継ぐ。
「それではあまりに母が哀れというものです。そろそろお役目を終え故郷に戻る手筈になっていたところ、この城に留まったのですから。それは他の何者でもない、ヴァイル様の御為でございます」
「僕、の……」
「ええ。母は故郷をとても懐かしがっておりました。しかし、それ以上にヴァイル様のことを大事と思っていたのです。どうかそれをお分かりくださいませ」
 懇々と諭され、ヴァイルの勢いはたちまち失せていく。遺体を包む布から、その手が力なく落ちた。
「ばあや……つれてくの?」
「せめて安息の地だけは生まれ育った場所にしてやりたいのです。それが母の望みでした」
「……帰りたかった?」
「ヴァイル様がいらっしゃらなければ、きっと」
「分かった」
 ぽつんと呟き、ヴァイルは棺から距離を置く。
「ありがとう、ばあや」
 そして、その言葉を最後に、出口へとふらふら歩き出す。二人のやり取りを見守っていたタナッセは慌ててそれに追いつき、また駆け出さぬように手をつなぐ。
 ヴァイルからは反応もなく、横顔からも何の感情も読み取れなかった。ただ、指先の冷たさだけがタナッセの心に残った。

2-10

 気がつけば、もう年も半ばを過ぎようとしている。湖に囲まれた小さな箱庭の姿は変わることはないが、それを見つめる自分の目はこの半年で随分変わったようだとタナッセは思う。
 小さい頃、ここは世界の全てだった。湖の外に広がる土地は得体の知れない場所で、住んでいる人の姿など想像もできなかった。
 けれど、今目の前に揺れている水面は海ではない。城壁の外へと出航した人々は無事に戻り、様々な戦利品と土産話を持ち込んでくるのだから。そして、自分は知った。湖を臨むこの場所が、けして世界の果てではなかったことを。
 人々は訪れ、過ごし、そして去る。彼らはここで生まれてはいない。彼らはここに葬られもしない。
 唯一王だけが、ここにあり続ける。
 不意に羽音が降りそそぎ、つられてタナッセは天を見上げる。放たれた文鳥たちは翼を打ち鳴らし、四方八方に散っていく。もしあの瞳を借りることができるのなら、世界はどのように映るのだろうか。
 少し、イルアノの気持ちが分かるような気がした。彼はこの世界に対して、似たような心持ちになってしまったのかもしれない。世界の姿を見ようとすれば、そこから出るしか方法はないのだから。
 湖畔を離れ、城へと戻る道を歩く。午後は空いているのでヴァイルにつき合う予定だ。
 あの神殿での爆発以来、ヴァイルは我を取り戻し、また王修行に励み出していた。もはや世話係も教育係も必要ない。彼の幼い子どもの時は過ぎつつある。
 一抹の寂しさが胸をかすめ、それを振り払うようにタナッセの足は速まる。その勢いのままヴァイルの部屋の呼び鈴を鳴らそうとした彼は、中から出てきた人物にぶつかりそうになった。
「あ、わわ、殿下、申し訳ございません!」
 部屋から出てきたのは文書係で、目を白黒させて謝ると、恐縮しきった態で廊下を去っていく。騒ぎを聞きつけた侍従頭がこちらの姿を認め、扉を開けて招き入れてくれた。
「いらっしゃいませ、タナッセ殿下。ヴァイル様が今か今かとお待ちかねですよ」
 迎える彼の手には鳥文が握られている。目で問うと、彼は何故かためらいがちに微笑んだ。
「さあ、奥へお入りください。これ以上待たせると、探しに飛び出していってしまうところでした」
 促されて通された居室では、すでにあの地図が開かれていた。その上に指を滑らせていたヴァイルは扉の開いた気配に顔を上げ、ぷうと頬を膨らます。
「おそいー。もう日がかげっちゃうー」
「まだそんな時じゃない。それに午後と約束はしたが、それ以上の細かい取り決めはしなかったぞ」
「そんなのきべんだよ」
 どんどんヴァイルの物言いも達者になってきているようだ。近頃はたまに言い負ける時もあって、少し悔しい。
「すみません、先に少し宜しいですか。ヴァイル様宛に文が届いておりまして」
 不毛な言い争いに発展する前に侍従頭が割り込んできて、タナッセは快く彼に話を譲る。
「だれ? ごけぎんうかがいならいらないよ」
「ご機嫌、だ」
「そう言ったよ」
「言ってない」
「いえ、あの、ミラネからで、ご報告をと」
 その名前が出た瞬間、部屋の空気が軋んだかのような感じを覚え、タナッセは身を固くした。侍従頭は気づかないのか、こほんと小さく咳をして先を続ける。
「無事に出産を終え、母子ともに元気だそうです。良かったですね」
 侍従頭はにっこり笑う。彼の表情に似つかわしい、明るい報せには違いない。けれどタナッセが素直に喜べなかったのは、当のヴァイルがぼんやりとした無表情で侍従頭を見返したからだ。
 はらはらしながらも声をかけられずに見守っていると、ヴァイルは確認するかのように静かに尋ねる。
「そっか。城から出ていって……ミラネは、幸せなんだね」
「ええ、これもヴァイル様の寛大な御心のお陰と、深く感謝の意を述べております」
「うん、良かった」
 答えを得て、ようやくヴァイルの唇にふわりとした笑みが浮かんだ。そこには心からの安堵が見えて、タナッセは先ほどの緊張は自分の思い過ごしだったのかと内心苦笑する。
 そうだ、ヴァイルは弱くない。自分とは違うのだから。
 この半年であまりにも多くのことが変わり、それらは二度と戻らない。けれど、そんな激変の中でもヴァイルは挫けることなく前に進もうとする。それがきっと印持ちというものの性質だ。
 自分などが心配する必要はないのだ。印を持たぬ自分などが。
 そうして自分は考えることから逃げた。
 今思えば、恐ろしかったのだ。
 泣いても母に置いていかれ。
 すがっても父は海へと出。
 認めても世話係は留まることなく。
 交わした約束も神の定めたばあやの時を覆せはしない。
 自分は恐れていた。
 「五人目」になるその時を。
 それと同時に、いつかその誘惑に勝てなくなる時が来るのを予感していた。
 けれど、その予感は外れることになる。
 「五人目」はすぐにその姿を現し、当人だけでなくヴァイルをもこの城から連れ去ったのだから。

 アネキウス歴7396年赤の月、あの事件が起こった。