「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

第四話「六と半年前」

4-1

 海へ行こうと約束した。
 それは果たせずに終わり、自分たちは再び城に閉じ込められた。壁は以前よりも高く、強固になって。
 だから、今のこの状況がタナッセにはいまだに現実らしく思えなかった。
「ね、ね、あれ何? あれあれ」
 落ち着きなく窓の隙間から外を覗き、いちいち隣の自分に聞いてくるヴァイルに対し、タナッセは座りの悪い気持ちを抱きつつ答える。
「あれは籠り小屋だ。もうすぐ年明けだから、準備を進めているところなんだろう」
「へー、僕もあれがいいなあ。城でも作らないかなあ」
「私たちは部屋で籠ればいい。無意味だ」
「けち」
 ぷうと膨れて座席に座り直すヴァイルの横顔をタナッセはさりげなく見やった。その額に巻かれた布は、印を隠すためではなく傷を押さえるためのものだ。一月あまりでは治りきることはなく、それでも一時期のように膿が出てくるような惨状ではなくなり、順調に塞がりつつあるそうだった。少しやつれた気配はあるものの顔色も悪くはなく、ヴァイルは事件前の調子を取り戻しつつあるように見える。
 海へ向かう鹿車の中だった。
 正確に言えば、海……ランテ領へたどり着くのは最後になる。国王巡幸の道程は、ディットンを皮切りにリタントの要地を回り、ランテ領で終わる予定だ。今は王城より出発し、南下している最中だった。
 二人にとっては、正式な初めての遠出。あんなことがあった後だけに猛反対されただろうに、リリアノは同行を押し切った。むしろ、あんなことがあった後だからこそなのかもしれない、とタナッセは思う。にわかに立ち込めてきた暗雲を振り払い、塞ぎがちだったヴァイルの気を晴らすために。
 ヴァイルと共に同行しないかと打診を受けた時、タナッセの心に去来したのは戸惑いと恐れだった。あれ以来、ヴァイルと顔を合わせることもなく、囁かれる悪評も治まってはいない。きっとヴァイルは自分を許していないだろうと思っていた。
 だから、ヴァイルが部屋に訪ねてきた時は、その態度に拍子抜けしたのだ。
「タナッセも行くんでしょ。じゅんびしなくていいのー?」
 訪問を断る間も与えないまま、ヴァイルはずかずかと部屋の中に入ってきたかと思うと、開口一番そう責めてきた。
「いや……私は、まだ……」
「タナッセのことだから、あれが必要だ、これじゃないといやだってうるさいんでしょ。知らないよ、ぎりぎりであせっても」
 まるであの事件がなかったかのような振舞いに、タナッセはひどく調子が狂う。その額には薬の匂いがする布が巻かれているというのに。
「いーい? 僕のはかさないからね。自分で用意してよ。じゃあね、こっちもいそがしいから」
 好き放題言い立てると、来た時と同じようにたちまちヴァイルは部屋を出ていってしまった。すっかり一緒に来るものだと決めつけているようだった。
 結局、タナッセはその強引さに押し切られる形となる。第一、母もヴァイルもいない城に一人で残ることを考えると、それも真っ平ではあったのだから。加えて、城の視線に邪魔されずにヴァイルとゆっくり過ごせることも魅力ではあった。
 そして、タナッセは旅の途上にあり、同じ鹿車にヴァイルも乗っている。長旅にすっかり興奮してしまい、連日はしゃぐヴァイルの姿を見ていると、あの放浪は悪い夢だったような気もしてならない。
 もちろん、そんなはずはない。自分はしくじり、ヴァイルは傷ついた。それを忘れてはいけない。
 けれど、とタナッセは思う。さっさと会いに、見舞いに顔を出しても良かったのかもしれない、と。そうすればもっと早くこうやって元のように話せただろうに。
 あれはどうしようもない災難だったのだ。ヴァイルが生きてちゃんと元気でいられたのだから、それでいい。
 順調に進む旅路の中、ようやくタナッセはそう思えるようになりつつあった。

4-2

 ディットンは特別な街である。
 当然のことながら王の統治の下にあるはずなのだが、誰もが真の盟主は違うことを知っている。
 聖山に張りつくようにして建ち、街を見下ろす古色蒼然たる神の牙城。
 古神殿は、かつて手に入れた自治権を守り通し、今も半ば独立国のようにリタントに存在していてた。何よりも厄介なところはそれでも王への恭順の姿勢は崩さないところだ。アネキウスへの奉仕者に対して邪険に扱える訳もなく、リタント中の街々、村々に神殿はくまなく建てられ、その影響力を及ぼしている。特に辺地の村などにおいては、王などよりもよっぽど強く人々の生活に入りこんでいるのだ。
 そういった基本的な知識はもちろん学んでいたものの、タナッセにとってそれは実感できることではなかった。王城の一角を占めているとはいえ、神殿の態度は慎ましやかで、間借り人以上の存在感はなかったからだ。城下の神殿も荘厳な佇まいではあるものの、湖に浮かぶ王城の前ではどうしても見劣りした。
 結局は、神の代理人たる国王に膝まづく臣下ではあるのだろう、そう感じていたのだ。
 しかし天をつく聖山を臨む今、いまだ遠いここからさえ建物の影を認めることができると知り、タナッセは繰り返し説かれた神殿の恐ろしさの一端を掴んだような気がした。あれは王城より広く、高く、古いのだ。
 まず第一にランテ領に訪れるのではなくディットンへと向かう訳も、神殿への表敬の意を示すためなのかもしれないとさえ思う。へりくだる必要はないものの粗雑に扱ってはいけない相手、それが貴族たちの神殿に対する評価だった。
「ねえねえ、あそこまで登れるの?」
 圧倒されているタナッセに、横で同じように眺めているヴァイルは呑気な問いを投げかけてくる。伸ばした指は建物の最上部を差していた。
「たぶん無理だろう。古神殿は位階により立ち入れる場所が定まっていると聞いている。きっとあそこは大神官長しか入れないに違いない」
「そっか、つまんないの。きっとすごくながめいいよ、あそこ。ひょっとしたら城まで見えるかも」
 まだきちんと教えてもらっていないのかもしれないが、将来国王として折衝の矢面に立たねばならないのにこの調子で良いのだろうかと、タナッセは少し心配になる。まだ到着までには二、三日かかるはずだ。せっかくの機会だから今のうちに教えておいた方がいいだろう。
 しかし、始めようとしたタナッセのお説教は、ヴァイルの上げた声にさっそく遮られる。
「あっ、ねえ、何か聞こえない?」
 言いつつ、彼は背を伸ばして耳を澄ませている。つられてタナッセも同じようにしてみるが、別に変った音を捉えることはできなかった。
「……風の音ではないのか」
「そう、そうかな。そうかも。なんかあっちの方から聞こえた気がしたんだけど」
 再び南を指すヴァイルは、ひょっとしたら不穏な気配を感じてわざとそう振舞ったのかもしれない。その証拠に次に彼がとった行動は、気を取り直して神殿についての講釈を垂れようとしたタナッセを置いて、とっとと鹿車へ戻ることだった。
「そろそろ出発ー? 早く行こうよ」
 振り向いてみれば、確かに御者たちが鹿車の席に座り直していた。短い休憩時間も終わりなようだ。
 取り残されたタナッセは自然むっとしながら、決心を新たにする。
 車は同じなのだ、この道行の間にヴァイルの頭に神殿とは何たるかをしっかり叩きこんでおいてやろう。
 結果、ヴァイルの姿は翌日の車にはなく、リリアノの車に逃げ込んだとタナッセは知ったのだった。

4-3

 旅程はつつがなく進み、ついにディットンの街へと鹿車は進入した。連なる鹿車の群れとそこに描かれた王の紋を、立ち止まった沿道の人々は興味津津で見送る。今回は特にお忍びという訳でもなく、さりとて戴冠の後のように堂々たる披露行進をする訳でもない。珍しい客人ではあるものの、内実は単なる視察と権威づけだ。次代の国王たる継承者が同行していることも伏せてあった。第一、今の額の状態では、大っぴらに人前には出られないだろう。
 先日の一件はどうも内々に伏せられているものらしいとタナッセが悟ったのは、侍従らの態度からだった。当然人の口に戸は立てられないものの、貴族の中にも詳しい事情に通じていない者がいる程度の広がりのようで、意図して情報を抑えている雰囲気は見てとれた。
 一人で乗る鹿車は手持無沙汰だ。流れていく古い街並みを目隠しの隙間から窺いながら、タナッセは改めて不思議に思う。
 そんな中、わざわざ当のヴァイルを連れ出すのは何故だろう。しかも自分まで伴って。母の巡幸は元からの予定だったとはいえ、果たしてヴァイルの気分転換という理由だけであの人が動くだろうか。
 抱いた疑念に答えが出ることはなかった。彼があれこれと考える前に、鹿車はディットンの街を横切り、目当ての館へとたどり着いたからだ。促されて車から降りたタナッセは、そこが街の中心からも聖山からも遠く、ディットンの端に位置するのを知る。王の寝所として供された館にしては、随分と寂しい場所だった。
 その疑問が顔に出ていたのだろう。同じように降りた母に近づいていくと、彼女は悪戯めいた笑いを唇に乗せる。
「どうした。二人揃って浮かない顔をしているな」
 言われて、彼女の側に立つヴァイルもまた強張った表情をしていることに気づく。何かに気を取られているのか、どこか上の空な感じだ。
「いえ……てっきり古神殿にまず赴くものだと思っていましたから」
「あそこはなかなか面倒な場所でな。王といえども、いや、王だからこそ気軽に入っていく訳にはいかぬ」
 ついと向いたリリアノの視線に釣られ、タナッセもまた聖山の方へと目をやる。遠いといってもそれは麓にたどり着くまでの時間のこと、ここまで側に寄ればその偉容はほとんどのしかかってくるような錯覚さえ覚えるほどだった。
「お招きをいただくのに、まあ大体一日は見ておかねばならぬ故、ディットン入りした初日はここに留まることと決めておる」
 彼女の物言いに、何となくタナッセは状況を悟っていた。王に腰を折るがごとく諸手を上げて迎え入れるように思われたくない神殿は入山許可をもったいぶり、対して一応は臣下たる神殿にお許しをいただくような形にしたくはない王は直接神殿に向かうことはない。両者の思惑が噛み合ったところに、この猶予期間が生まれるのだろう。自治権のある神殿に無理強いしては、下手をすると待っているのは第二の分裂戦役だ。
「それにしても、ここはどうにも……」
 その辺りの事情は分かったとして、タナッセが気にかかっているのはこの館の様相だった。装飾などはいかにも凝っていて重々しく、格が低い所ではなさそうだが、もっと神殿に近い適した場所があるだろうに。まるで王を街外れに厄介払いしたようにも思える。
 しかし言葉を濁すタナッセに、リリアノは悪びれなく手を振ってみせる。
「ああ、違う違う。勘違いするな。ここは神殿とは関係ない。我が決めた場所だぞ」
「そうなのですか?」
「そうだ。ここはセリーク侯の別邸でな。いつも本邸の方へ是非と言われておるが、ここが良いと駄々をこねて迷惑をかけている」
「どうしてわざわざ?」
 確かに街の喧騒から離れたこの場所は、警備には適しているかもしれない。けれど、リリアノの様子からはそんな用心をしているようには思えなかった。
「それは……己が目で見た方が早いだろうな。二人共、ついてくるがいい」
 問いに答えを返すことなく、リリアノはさっさと館の中へと歩を進める。慌ててついていこうとしたタナッセだったが、呼ばれたもう一人がぼうと立ち尽くしているのに気づき、側に寄った。
「どうした、行くぞ」
 その手を引こうとしたタナッセは、ヴァイルの指先の冷たさに思わず息を呑む。それに反応するようにして、ヴァイルもまたはっと我に返った様子を見せた。
「え……あ、何?」
「いや、母上が……」
 背後の一幕に気づかぬリリアノの背中は、館の中に消えつつあった。その光景とタナッセの態度に、ヴァイルはすぐに状況を把握したらしい。
「あっ、ほら、行かなきゃ。行くんでしょ?」
 一転して、戸惑うタナッセをぐいぐい引いて歩き出す。ここに来る鹿車の中で母と何かあったのかとタナッセは気にかかったものの、それ以上聞き出せる時間もなく、とりあえず後を追うことにした。
 館に入り、階段を上がり、廊下を歩く。そして扉をくぐったそこには、海があった。

4-4

 正面から吹きつける強い風に煽られ、波が立つ。それに伴って、ザ、ザ、ザ、ザ、と刻まれる一定の拍子は、彼方より迫ってきて耳元で弾けた。
 露台の下方でうねる表面は陽の光にてらてらと光り、まるで生き物の背のように気配を発している。
 話に聞いたり絵を見たりしたことしかなかったが、すぐに分かった。
 湖とはまったく違う存在感。これは、海だ。
 けれど同時に、頭の片隅で異議を唱える声が上がってもいた。分かっている。ここに海があるはずがない。ここはディットン、海からはとても遠い土地なのだから。
 では、これは。
「これが、魔の草原だ」
 朗と響くリリアノの声が、タナッセに答えを明かした。
「この別邸は、ディットン領主が魔の領域を見張るために維持している砦のようなものだ。もっとも襲撃の報告を受けたことは、リタントの歴史が始まってこの方ありはしないがな。それでも、ここはあり続けなければならぬ」
 改めて見下ろせば、確かにその“海”を形作るものはすべてがつながった水ではなく、一本一本が天へとそそり立つ草なのだと分かる。しかし、その姿はここまでの旅路で見てきたどの草原とも違い、異様だ。まるで人を踏み入れさせぬ意志があるかのように背は高く、鋭い気配を放っている。
 再び風が吹いた。
 南からの風。
 打ち捨てられていると言う、古き土地からの。
 途端、草が歌声を上げる。波打ち、体をすり合わせ、一定の拍子で空を満たす。
 ここが果てなのだ、とタナッセは実感する。ここから先はリタントという国ではない未知の場所、人が踏み入ることのない土地なのだと。
 その先へと視線を投げれば、ぼんやりと森や山の姿が見てとれた。遥か昔に滅びたという魔術師の国。神に封じられたそこには、今も魔が徘徊するという。
 身の硬直を解いたのは、足元から這い上がってきた震えだった。抑えようもなくわななくタナッセだったが、不意に腰を強く掴まれて飛び上がりそうになる。その相手をとっさに振り払わずに済んだのは、しがみつく体が自分より小さなものだと気づいたからだ。
 強く押しつけられていたために、ヴァイルの体もまた細かく震えているのが良く分かった。うつむき加減のために表情は分からなかったが、声を上げないことからもその恐れが伝わってくる。
 タナッセはほんの少しだけ自分の恐れを忘れ、リリアノの方を仰ぎ見た。彼女はその視線を受け、了解したように頷く。
「そうだな。ここに長くいるのは良くない。一度見れば十分だろうしな」
 そして、館へ戻るように促してくる。タナッセにも異論はなく、ヴァイルの背を押すようにしてその場を去ろうとした。けれど、ヴァイルは凍りついたように動こうとしない。
「どうした」
 さっきからのこともあり、心配になったタナッセはその顔を覗き込もうとする。その刹那、ヴァイルは急に露台の手すりへとすがりつく。
 驚いて駆け寄ると、ほとんど色を喪った顔で、彼は草原の一点を見つめていた。
「……あれ」
 追って、彼の指がそれを指す。それは境界よりほど近い場所で、揺れる草の中に白いものがちらちらと覗いていた。
「あれ、何」
 問う声は固く、ひび割れている。つられて見つめたタナッセは、遠くて判然としないながらも、それが平らかな台状になった石であることを認めた。草に埋もれるようにして置かれたその姿は、別に何の変哲もないそこらに転がっているような石でしかないのに、どうしてかタナッセも嫌な気分になる。
 たぶん、ヴァイルが必要以上に怯えているせいだろう。何が気にかかるのか本人にもはっきりしないようで、その瞳は不安に揺れている。
「ふむ。自然とあのような形を成したもののように我には見えるが……あれがどうかしたのか、ヴァイルよ」
 なだめるように問うリリアノにも、ヴァイルは首を振るばかりだった。
「わか……分かんない。分かんない」
 次第に瞳に涙が溜まりはじめたところで、リリアノは彼をここからとりあえず引き離すことにしたらしい。側付きの衛士に命じてヴァイルを抱えさせる。全く抵抗の姿勢を見せず館の中へと連れ込まれたヴァイルは、草の海が見えぬ居間に至って、少し落ち着いたようだった。それでも食欲はないらしく、出されたお菓子にも手をつけようとしない。
「安心せよ。今夜はここに泊まるが、あれが見える場所ではないからな。あの露台からしか草原は臨めぬ造りとなっておる。さすがに我も一晩中魔の巣窟と対面しながら過ごす度胸はないからな」
 茶化すような言葉にも反応が薄い甥を気遣わしげにリリアノは見つめ、逆に先ほどの一件にはあまり触れぬ方が良いと判断したらしかった。普段の声音に戻し、新たな提案をしてくる。
「さて、我は幾人かここで客を迎えねばならぬが、お主らは気晴らしでもしてくるがいい。無印の鹿車の手配をしてある故、ディットンを案内してもらえ。王都とは違ってなかなか趣があるぞ」

4-5

 街の中心部に着く頃には、ヴァイルの顔色も大分元に戻ってきていた。それでもいつもに比べれば瞳に好奇の光は乏しく、共にいるタナッセは気が気でない。
「ほら、有名な飴細工屋だそうだぞ。あの花の形をした奴などどうだ、それともあちらの鳥がいいか?」
「さすがこちらの焼き物は本場だけあって凝っているな。あの色などどう出すのか……」
「あれを見てみろ、あの広場の台座の上でルラントは当時の大神官長を迎えたというぞ」
 気にかけてしきりに話しかけても、ヴァイルの口はどうにも重かった。それならばと逆に先ほどのことについて尋ねてみても、分からないと首を横に振るばかりだ。これではどうしようもない。
 仕方なく手を引いて、案内役に導かれるままに古都を見て歩く。相変わらず冷たい指先は気になっていたものの、タナッセとて初めての場所、初めての遠出だ。珍しい事物に気がそぞろになりがちなのも当然だった。
「ここがあの詩で描かれていた館か!」
 特に先般読んで感銘を受けた大作詩の舞台を紹介された時には、傍目にも分かるほど興奮してあちこちを見て回る。そんな彼が館の中に従弟の姿が見えないことに気づくのが遅れたのも、無理からぬことだった。たちまちうろたえて問いただす彼を、案内役はなだめなくてはならなかった。
「大丈夫です、護衛の方々が一緒ですし、すぐそこですから」
 その言葉の通り、館を出たすぐの広場に姿は見つかり、タナッセは胸をなで下ろすことができた。開かれている市を見物していたらしく、果物が積まれた天幕を覗き込んでいる。
「こらお前、出ていくなら出ていくで一言……!」
 目が合うなり説教の言葉を吐き出すために開かれたタナッセの口だったが、それは無理やり塞がれた。ヴァイルが手に持った何かをすかさず突っ込んできたと認識した途端、思い出すのも嫌な過去の一件が脳裏をかすめてタナッセは背筋を凍らす。けれど舌に当たる感触はつるりとしたもので、動く気配もなかったため、彼はそれ以上取り乱さずにすんだ。
 改めて歯で確認してみると、柔らかく食い込んで汁気が溢れてくる。食べ物のようだと思った瞬間、喉の奥に酸っぱさが広がった。
「な、何だこれは!」
 味覚の不意打ちに、ついつい吐き出してしまったそれは、石畳に落ちて赤く潰れる。
「あ、やっぱりすっぱいんだ」
 悪びれなく言うヴァイルの手には、同じ果実が握られていた。半分に割ったそれを、彼は一口かじって顔をしかめる。
「ほんとだ、すっぱい」
「お前はいきなり何を……いや、それよりも勝手に動いては駄目だろう」
「言ったよ。外見てくるって。聞いてなかったの、そっちじゃない」
「え……」
「じゃましちゃ悪そうだったから、それ以上言わなかった」
 言いつつ、もう一度ヴァイルは果実をかじり、顔をしかめる。それがリネク桃だと、タナッセはこの時ようやく気づく。もちろんそのまま食べられない代物を露店の主人が勧めるはずもなく、今もこちらの様子を窺うように覗いている。ヴァイルがわざわざ選んだのだ。
「もう見終わったんでしょ。次のところ行こうよ」
 観光を始めた頃の落ち込み具合はどこへやら、涼しい顔でヴァイルはそう促してくる。
 ようやく調子を取り戻し、元気になったのだ。それは喜ばしいことのはずだった。
 けれどタナッセは何とも座りの悪い気持ちのまま、答える言葉を見つけることができなかった。

4-6

 何かが掛け違ってきている。
 寝台で丸まりながら、タナッセは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
 それはこの旅路に出てからというもの、何度も感じてきたのに見ないふりをしてきたものとの対面だった。
 どうしてあんなことの後に、何事もなかったかのように振舞えるのかが分からない。
 広がる草原は禍々しかったけれど、あそこまで怯える訳が分からない。
 昼間の観光で見せた、あの態度に含まれたものの意味が分からない。
 確かにヴァイルは聞き分けの良い子どもとは言えない。思うがままに、周りの人間を振りまわすことだって良くあった。だけど、どうしてそんなことをするのか、いつだってタナッセには分かっていた。
 分かっていたのだ、ずっと、これまでは。
 ようやく元気を取り戻したように見えたヴァイルだったが、館に戻る道中では再び浮かない顔になり口数も減っていった。旅の疲れも出ているのだろうと、食事もそこそこに子ども組は寝室へ押し込まれたのだった。
 タナッセはさりげなく寝がえりをうち、シーツの陰から隣の寝台を観察する。警備の関係上、二人は同じ部屋を使っていた。並べた寝台に横たわった後、何も言葉を交わさぬままにヴァイルは眠りについてしまったようだった。
 ほんの少し前までは、とタナッセは思い出に耽る。侍従の目を盗み、露台伝いにやってきたヴァイルが勝手に寝台に潜り込んでくることが良くあった。理由は様々だったが、追い返す訳にもいかず他愛のない話をしたものだ。侍従たちもやがて心得たもので、こちらの寝台の山がいつもより大きいとわざわざ確かめずに放っておいてくれるようになっていった。
 そんなことは、この一年近くもう起こっていない。色々な事件が起こったからお互いそんな余裕はなかった、それだけのことだ。そう思いたかった。
 けれど、漠然とした確証がタナッセの中でずっとうずいている。もう二度とそんな時は訪れないのだと。何かが決定的に終わってしまったのだと。
 その時、ヴァイルの寝台から妙な音がこぼれた気がした。くぐもった、息を呑みこむような音。
「……ヴァイル?」
 いびきや寝言かもしれないと思いつつ、ひょっとしてまだ起きているのかとタナッセはひそめた声をかけてみる。それに答えるかのように再びしゃくり上げるような音がする。それは聞き覚えのある響きだった。
「お前、まさか泣いて……」
 タナッセが狼狽して身を起こした刹那。それよりも速く激しく、ヴァイルの寝台のシーツが跳ね上がった。思わず怯むタナッセの視界の端を、黒い影が駆け去っていく。続いて扉のところで起こった一騒ぎは、それが一体誰なのか雄弁に語ってくれた。
「ヴァイル様、どうされ……」
「あっ、え、どちらへ……ちょっ!」
 見張り番の衛士たちは、外から来るものに警戒していても、内から飛び出してくるものまで想定していなかったらしい。突然扉を開けて出てきた最重要人物に戸惑っている隙に、小さく素早い体は彼らの足元をすり抜けていた。控えの侍従たちも駆けつける間すらない早業だった。
 だから、呆気に取られる衛士たちが事態を把握した直後、脇をすり抜けようとする影を反射的に捕まえてしまったのは、ある意味仕方のないことだった。しかし、掴まれた方はそうも言っていられず、苛立ちも露わに彼らを怒鳴りつける。
「何をしている! 捕まえなければならないのは私ではなく奴だろう!」
 叱咤に気圧されて腕を離した衛士を一瞥すると、タナッセは目を左右に走らせた。もう廊下にはヴァイルの姿は見当たらない。一体どこへ向かったのか……母の部屋や館の入口ならば、さすがにそこを張っている衛士が捕まえるだろう。空き部屋などに入り込んで大人しくしているのならば問題はない。心配なのは……。
 駆け出すタナッセに目星がついていると思ったのか、衛士たちもついてくる。彼らを従えて階段を駆け上がり廊下の角を曲がれば、あの扉が開いているのが目に留まった。
「ヴァイル!」
 名を呼ばわりながら飛び込むタナッセの目に真っ先に映ったのは、月の光に浮かび上がる従弟の背中だった。

4-7

 黒の月とはいえ、天にかかる神の寝姿は辺りをぼんやりと照らし出すほどには明るかった。薄明るいその中で、ヴァイルは背伸びをして露台の手すりに手を掛けている。彼の背景に草の海がある。いまだ止まぬ風に誘われて、歌声を上げている。
 一瞬、その中に女の声が混じった気がして、タナッセは身をすくめた。もちろんそんなものは聞き間違いに決まっているのに。
 足を止めたタナッセの前で、ヴァイルの背中がぐうと反り、持ち上がっていく。彼が露台によじ登ろうとしているのだと気づいたのは、力足りずにずり落ちた時だ。
「ば、馬鹿かお前はっ!」
 衝動的にこぼれ落ちた罵り言葉にはじかれたように、タナッセはその背中に飛びついた。そのまま組み伏せようとするも、途端にじたばたとヴァイルは手足を振り回し出す。
「やっ……やああっ、やっ……!」
「こら、私だ、止めっ、こら!」
「ごめんな……行く、らっ、ごめ……ごめんなさ……行く……ゆる……!」
 振りほどかれる前に、ついてきた衛士も加わってヴァイルは取り押さえられる。泣きじゃくりつつ、意味の分からぬうわ言をわめくその姿を、タナッセは呆然と見つめた。途切れ途切れの訴えから聞き取れるのは、謝りの言葉。
 やがて、それも弱々しく消えていく。抵抗の力も抜け、ヴァイルの体は床にぐったりと横たわった。荒い息の音ばかりが耳につく。紅潮した頬に手を当ててみれば、異様なまでに熱かった。
「どうした」
 ちょうどその時、扉をくぐって夜着のリリアノが現れる。報告を受けて飛び起きてきたのだろう、髪なども乱れて結ばれぬまま肩に垂れている。
「ヴァイルが……いきなり、こんな……」
 何を言ってよいのか分からず、タナッセは見れば分かることを口走ってしまった。リリアノはそれ以上尋ねず、甥の横へとかがみ、その首筋や頬に手を当てる。
「陛下、私めが」
 そして、進み出てきた随行の医士が交替して、詳しく具合を診る様子に、彼女は厳しい視線を注いでいた。
「……やはり、あちらにお任せするのが宜しいかと」
 しばらくの診察の後、医士はリリアノを振り仰ぎ、そう進言する。それを受けて、リリアノも重々しく頷いた。
「そうだな。既に使者は出した。緊急の事態だ、断られることはなかろう」
 みるみるうちに進んでいく事態に戸惑うタナッセだったが、流れは彼だけを見逃してはくれなかった。
「古神殿へと連れていってくれ。今のヴァイルにはあそこでの治療が必要だろう」
 そう侍従らに指示したリリアノが、続けざまに取り残された息子へと目を向けたからである。
「タナッセ。お主は付き添いとして共に行け。害されるような心配はせずともよいが、ヴァイルが目覚めた時に知らぬ顔ばかりでは寂しかろう」
「母上はどうなされるんですか」
「先にも言うた通り、王が一方的に古神殿に押し掛ける訳にはいかぬのだ。このような状況故、無理を通すことは出来ようが……皆がそれを美談として受け取ってくれるとは限らぬ。日が戻れば許可の刻限だ。すぐに駆けつけよう。それまであやつのこと、頼むぞ」
 その要請を断るはずもなく、母に任されたという誇りと、座席に横たわるヴァイルへの心配と、これから赴く古神殿という場所に対する不安をないまぜにして、タナッセは鹿車に揺られることになった。
 夜空を切り裂くように立つ聖山は徐々にその割合を増やしていき、麓にたどりついた今やほとんど空を覆いつくしていた。神殿の入口への道に灯火は置かれ、鹿車は迷うことなくそこへと導かれる。
 やがて、一際明るく闇に浮かび上がる扉と夜番の神殿衛士らの姿が見えた。彼らは足早に鹿車に近づいてきて、深々とお辞儀をしてみせる。
「上より承っております、ヴァイル継承者殿下ならびにタナッセ王息殿下。古神殿へようこそ」
 こうして、二人は初めて古神殿の門をくぐったのだった。

4-8

 随分長く歩いた気がする。
 奥へ奥へと案内され、複雑に入り組んだ通路を進むうちに、タナッセは一体ここがどこに当たるのか分からぬ場所に連れ込まれていた。ついてきた侍従たちも、すでに側にいない。一つ前の関で押し留められてしまったのだ。衛士などは、最初の関で止められている。
 神官たちが言うに、ここは神官のみが立ち入れる場所なのだそうだ。治療対象であるヴァイルは当然として、タナッセを入れるのは特例であり、それ以上の譲歩は出来ないと彼らは強硬に主張した。もちろん異議は申し立てたが、神殿を信用なさらぬつもりかと返されればそれ以上主張できるはずもなく、タナッセのみが付き添いとしてここにいる。
 装飾は少ないものの、清潔で手入れが行き届いた部屋だった。焚かれている香の柔らかい匂いに紛れて、時折鼻をつく異臭を感じるのは、薬のものだろうか。
 先ほどから神官たちがやってきては、器具類を置いていったり、ヴァイルの汗で湿った夜着を取り換えてくれたりしていた。少し落ち着いた感じはするけれど、まだ体温は下がる様子もなく、ヴァイルは寝台で熱い息を吐いている。
「医士はまだなのか」
 尋ねるタナッセに、世話役の神官は気遣わしげに答える。
「申し訳ございません、殿下。何分遠いものですから、どうしても時間がかかってしまうのです」
「しかし、こうしている間にもヴァイルの体が……」
「その心配は必要ございませんよ。ここは既に神の領域です。魔の誘いが届くことはありませんから、これ以上ひどくはならないでしょう」
 きっぱりと言い放つ神官に、タナッセは眉をひそめる。彼の自信の拠り所と同時に、その言葉の内容が気になった。
「魔……?」
 怪訝なその様子に、神官も悟ったらしい。タナッセが尋ねる前に切り出してきた。
「お聞きになられていないのですね。これは魔に引かれた者の見せる特徴です。随分と激しくはありますが……やはり印を額に戴いた方故なのでしょうか」
 彼は新たな香に火を入れつつ、言葉を継ぐ。
「この地では珍しい病ではないのですよ。特に感受性の強い、別に言えば不安定な子どもがよく罹ります。草原に呼ばれている、行かなくてはと、ふらふら踏み出していってしまうのです。大方は家族や近所の者が見つけて連れ戻すのですが、時折悲しいことも」
「では、あの時ヴァイルに追いつかなかったら」
「二階の露台から身を乗り出していらっしゃったのでしょう。では、たぶんそのまま進もうとなされたでしょうね」
 そんなヴァイルを待っているのは遥か下の固い地面だ。タナッセの顔からたちまち血の気が引く。一つ判断を間違えれば、とんでもないことになっていたのだ。
「もう大丈夫ですよ。ここには魔の声なぞ届きませんからね。しかし、このように熱が高いとなると、魔の気がまだ入り込んでいる恐れがありますから、こちらでの癒しを陛下は求められたのでしょう」
「……そうだったのですか」
 道理で王城の医士があっさりと身を引いた訳だ。いかに器材が不十分とはいえ、あれだけの診察で次代の王を神殿に委ねることを決めるのは、いかにもおかしかった。医士も母もこの症状のことを知っていたのだ。
「う……」
 その時、ヴァイルが身じろぎ、小さな呻きを上げた。顔に浮かぶ細かい汗を見つけ、吹いてやろうとタナッセは額を冷やす布を手に取る。その下から現れた傷はひきつれていてまだ生々しく、思わず顔をしかめてしまう。
「ごめんなさ……ごめ……」
 時折、ヴァイルはうわ言を洩らした。それは大抵何者かに謝っていて、聞く度にタナッセは座りの悪い思いを抱える。その相手が誰であれ、ヴァイルが謝る必要などないのだと、そう思う。
「どうぞ」
 拭き終った頃に、世話役の神官が新しく絞った布を渡してくれたので取り換える。神官たちにあまり傷を見せたくなくて、タナッセは慎重に額を覆った。
「なるほど、むごい跡だ」
 その時、背後から聞き慣れぬ声をかけられて、タナッセはぎょっと振り返る。いつの間に部屋に入ってきたのか、立派な白髭をたくわえた老爺が肩越しにこちらを覗き込んでいたのだ。タナッセの視線を受けて、彼はにやりと笑う。
「お待たせして申し訳ない、王息殿下。すぐに取りかからせてもらおう」
 それはタナッセが想像していた医士の姿からは程遠いものだった。まとう衣服は重々しく、肩布の色も見慣れぬものだ。それに何より雰囲気が違う。態度は気さくながら、彼はどこか母を思わせる威圧感を発していた。
 世話役の神官が色を失って叫ぶ。
「大神官長、わざわざ貴方様が……!」
「なに、せっかく初めていらしていただいたのだ、手ずから歓待いたそうと赴いたのだよ」
 ここでようやく、タナッセは目の前にいるのが当代の大神官長、キアノーと知ったのだった。

4-9

「早速で失礼ながら、王息殿下には部屋から出ていってもらいたい」
 渋る神官たちを準備に向かわせ、自身も何やら懐から取り出しはじめたキアノーが次に発したのはそんな台詞だった。いきなりの通告にタナッセが表情を固くしたのにもお構いなしに言葉を継ぐ。
「隣室に寝台を整えてある。そこで朝まで休まれるといい。心配なのは分かるが、己の顔色がひどいのには気づかれていらっしゃらないようだからな。こちらとしても、継承者殿下は治したものの、王息殿下に倒れられたとなれば、国王陛下に申し訳が立たないのだよ」
「待ってください。私は母う……国王陛下から付き添うようにと命を受けたのです。目覚めるまでは側を離れる訳には参りません」
 このまま流されてはたまらないと、タナッセは声を上げる。しかし、途端に向けられたキアノーの目に唇は凍りついた。先ほどまでの気さくさは消え失せ、底冷えする光を瞳の奥に湛えている。
 タナッセは悟る。この神殿という国では、彼のみが王なのだ。
「では、こう申し上げればご理解をいただけるだろうか。これから行うのは神殿の癒しの技となる。おいそれと見せる訳にはいかないものだ。それが例え国王陛下といえども。それとも、王息殿下は将来、神に仕える決意がおありかな?」
 そう言われてしまっては、粘れるはずもなかった。これ以上噛みついた先に待っているやり取りも見えてしまったからだ。次にはこう言われるに決まっている。そのように神殿を信頼いただけないのならば、治療もいたしかねる、と。
 だから、納得はいかないながらも、引くしかない。
「分かり……ました。どうかよろしくお願いいたします」
 少しの沈黙に抵抗をにじませながらも、タナッセは頭を下げた。すると、後頭部をぽんぽんと優しく叩かれる。
「意識を戻した時には、必ず呼びにいかせよう。それまで少しでも体を休めておきなさい」
 もはやここから出ていくしかなかった。案内役の神官に促され、それでも出来るだけ遅めに支度する。振り返り振り返り部屋を出ていく時、キアノーの小さな呟きが耳に届く。
「哀れなものだ。置かれる座のみ変わるだけで、役割は何も変わらないとは」

 扉を出たすぐ正面は、中庭になっていた。
 あまりに焦っていたのか、連れてこられた時のことをまったく思い出せなかったが、ここは回廊に面して部屋が並んでいる造りになっていたらしい。
 開いた天井から差し込む空の明かりと、揺らめく廊下の灯火によって、影は複雑な模様を地面に描いていた。頬を撫でる湿った風が、朦朧としかけていた頭に心地よい。部屋の中は大分蒸し暑かったのだろう。
「こちらへどうぞ」
 だから、案内役に客室へと入れられそうになった時、ついついそれを拒否してしまった。
「あの、どちらにせよ眠れそうにはないので。ここで少し外の空気を吸っていきます」
 もちろん案内役はそれでは困るらしくしばらく食い下がったが、結局はこんな神殿の奥で危ないことはないと踏んだのだろう。御用がありましたらお呼びくださいと言い置いて、大神官長の元へ戻っていってしまった。
 そして、タナッセは一人になった。
 侍従も、護衛も側にいない、本当の一人。
 中庭に面するように作りつけられている廊下の縁台に腰かけて、彼はまず大きく深くため息をついた。
 考えたいことはたくさんある。考えなくてはいけないことも、きっとたくさんある。けれど、この一年であまりに多くのことが起こりすぎて、どこから手をつけていいのか分からない。気がつけば、胸に溜まるわだかまりはどんどん重く鋭くなっていて、吐き出し方も分からなくなっていた。
 これが喉元まで積もった時、自分は息が詰まって死んでしまうのだろうと、そう予感した。
 天にかかるアネキウスの御姿は柔らかくけむり、光はしんしんと辺りに降り積もる。不意に目尻に涙が浮かんできて、慌ててタナッセはうつむいてそれを拭った。周りに誰もいなくて良かったと思う。
 けれど、その安心はすぐに覆された。
「ん、どうした小僧。下手を打って部屋を追い出されでもしたか」
 突如、低い、けれど不思議と腹の奥に響くようなかすれ気味の声が中庭の静寂を破ったからだ。
 驚いて顔を上げたタナッセの滲んだ視界の中に、その女性はすっくと立ち現れていた。

4-10

 タナッセがとっさに返事が出来なかったのは、いきなり話しかけられたためだけではなかった。
 反対側の回廊に現れた彼女が一体何者なのか、すぐに判断できなかったためだ。
「……おや?」
 しかし彼女はタナッセの戸惑いなど構わず、そう呟くと無遠慮に距離を詰めてくる。最短の距離を、つまり中庭を横切ってたちまち目の前までやってきた。
「おやおや?」
 近づけば、さらにはっきりと彼女の姿が見て取れた。片手は数冊の書物で塞がっていたため、空いた方の手で彼女はつるりと顎を撫でてみせる。
「良く見れば、神官見習いの服ではないな。それにどこかで見たような顔だが、思い出せん」
「そ……そちらこそ、神官ではあられないとお見受けしますが」
 タナッセを困惑させたのは、女性のまとう衣服が神官服ではなかったからだ。もちろん神官とていつも同じ装いをしているとは限らないが、立ち入りが厳しく制限されるこの奥の院で、わざわざ目立つ格好でうろつく必要もない。聖印も下げておらず、漂うぶっきらぼうな雰囲気も神官のものとは思えなかった。
「泣いていたのか」
 彼女はタナッセの誰何をあっさりと無視し、そう尋ねてくる。母より幾らか若いくらいの年齢だろうか、強い癖のついた赤の髪が顎の線の辺りであちらこちらに跳ねているのが印象的だった。
「別に……そういう訳じゃ……」
 指摘されると何故だか後ろめたく、タナッセは改めて目をこすってごまかした。この人物の正体は判然としなかったが、王子は軟弱者だと神殿に広められるのは嫌だった。
 しかし、その返答は誤りだったと、すぐに思い知らされる。
 ふっと影が差したかと思うと、いきなり強い力で顎を掴まれて上を向かされる。自分を見下ろすその顔には憐みも苛立ちも表れておらず、ただ何かを測り取ろうとするように平静だった。
「偽りに慣れると、取り戻すのは難しくなるぞ」
「と、取り戻すって、何を……」
 突然の展開にタナッセはついていけない。目をまたたかせて、彼女の台詞を繰り返すばかりだ。
「何だと思う?」
 問い返されても答えられるはずがない。黙り込むタナッセを突き放すかのように、彼女は答えを与えた。
「真の言葉だ」
 同時に、掴まれていた顎も放される。いまだ何が起こったかよく分からぬタナッセの前で、彼女は懐に手を入れて一冊の本を取り出し、それを突きつけてきた。断るという行為に思い至らず、思わず受け取ってしまう。
「どうやら眠れぬ様子だ。これを貸してやろう」
 本の表面はすり切れていて、題名は読み取れなかった。随分古く、そしてよく使った本であることだけが分かる。ぼんやりと見つめるタナッセの頭に、声は降ってくる。
「別に、話すばかりが伝える手段ではない」
 そして、彼女の気配は遠ざかる。慌てて顔を上げると、彼女はそれを最後の言葉としたらしく、踵を返して入口の方へと歩き出しつつあった。
 泡を食って、タナッセは腰を上げその背中へと呼びかける。
「や、あの、私はここで暮らしている訳ではないので、貸していただいても……」
「返すのはいつになっても構わない。中身はすっかり覚えてしまっているからな」
 振り向きもせず言い捨てて、ついに彼女の背中は角の向こうへと消えてしまった。追い掛けるのもためらわれて、タナッセはただその場に立ち尽くす。
 と、もう一つの気配が中庭に現れた。軽い足音と、呼ばわる声。
「ヤニエ伯爵、忘れ物ですー」
 成人を一つ二つ超えたぐらいだろうその神官見習いは、本を片手に入口へと向かっている。彼の求める相手がさっきの女性だと、すぐに分かった。
「あの、少しいいだろうか」
 呼び止めると、神官見習いはきょとんとした顔でこちらを見る。
「今通っていった女性は、神官ではないようだったが」
「ああ、ええ、伯爵様ですよ。よく本を借りにいらっしゃるんです」
「いや、しかしここは貴族といえども立ち入りは限られているのでは……それに、こんな時間に……」
「特例って奴です。何しろ神殿にもあの人より修辞に優れている人はいませんからね。思い立ったらいつでも構わず、ふらりと訪れるのが難なんですが」
「そうか……ありがとう」
 礼を言うと、彼は再びぱたぱたと女性を追ってかけていく。その足音が静寂に呑まれた後に、タナッセは力が抜けたように縁台へとへたり込んだ。
 何だか、強い風が吹きすぎていったような体験だった。彼女の指の感触が、まだ顎に残っているかのようだ。
 そこで、タナッセは手に持った本に改めて気づく。彼女が残していった手ずれた書物。なめらかな皮の感触に誘われ、膝の上でぱらぱらと開く。灯りに寄れば、読むには十分な明るさが手に入った。
 最初は確認のための行為であったはずだが、内容が分かるにつれタナッセはその中身にのめり込んでいく。ここがどこであるのかも、今の状況も頭の隅に追いやってしまうほどに。
 それは、細かく注釈が書き込まれた、詩の教本だったのだ。

4-11

 呼ばれたのは、朝の気配が漂う頃だった。
 はっと我に返れば、前に立つ神官が心配そうにこちらを窺っている。そこでタナッセは、ようやく今いる場所を思い出した。
「ヴァイル殿下が目を覚まされましたが、どうなされますか?」
 会わないという選択肢はない。
 踏み込んだ寝室は様々な匂いが混じり合い、むせるような熱気に包まれている。その中にいるせいなのか、病み上がり特有のやつれた顔のヴァイルは、まだ少し熱っぽさを体に残している様子だった。
「ごめんなさい……」
 けれど、意識ははっきりしているらしく、タナッセの顔を認めるとそう呟いてうつむく。タナッセは寝台の横に座り、その横顔に話しかける。
「お前が謝ることなど何もない。もうすぐ母上もいらっしゃる。ゆっくり休ませてもらうといい」
「うん……」
 目覚めたとはいえ、まだ体がだるいのだろう。瞼が重たそうに垂れ下がりつつあるヴァイルを寝かしつけ直し、タナッセは側で一息ついている大神官長の方へと向き直る。
「ありがとうございます」
 丁寧に述べた礼には、快活な笑いが返された。
「なに、近頃はめっきり実務をやらせてもらえなくてね。久しぶりに腕を振るえる大義名分をもらえて、こちらこそ礼を言いたい気分だ」
「長様」
 たちまち彼は側付きの神官にたしなめられて肩をすくめる。すでに老境に入った年齢のはずだが、徹夜明けの気だるさはほとんど窺えない。
「ヴァイルはもう心配いらないのでしょうか」
「どういう状態をもって心配いらないと表するかは難しいところだが、そうだね、少なくとも熱で頭がやられるようなことはもうないだろう」
「それで、魔というのは……」
「そう深刻そうな顔をするほどのことじゃない。ちょっとした気病みのようなものだ。体や心が弱った時に囁いてくる、魔とはそういうものなのだから。だが……」
 そこで言葉を濁したキアノーは、わずかに表情を曇らせる。しかし、タナッセの視線に気がつくと、何でもないという風にその眉を上げてみせる。
「そうそう、額の傷も順調に治っているようだし、そちらも心配はいらないだろう。ともかく、詳しい話は国王陛下がいらっしゃってからにしようか。王息殿下も一休みするといい。ずっと外で待っていらしたそうじゃないか」
 キアノーに他意はなかっただろう。けれど、言われたタナッセは、途端に後ろめたい気持ちが膨らむのを感じていた。自分が起きていたのはヴァイルを心配してのことではなかった。最初はそうだったかのかもしれないが、いつしかそんな気持ちは吹き飛んでいたのだ。
 手に持ったままだった本を、タナッセはさりげなく懐に隠す。見られたとて誰に咎められることもないだろうが、自分が落ち着かなかった。下手に見えるところに置いておけば、また読み出してしまいそうな気がした。ヴァイルはまだ辛そうだというのに、それを忘れて。
「……あの、母の到着をここで待ちます。大神官長様はどうぞお休みください」
 そう促すタナッセに、キアノーはふと物言いたげな顔を見せたが、それが言葉にされることはなかった。彼は留まる神官たちにいくつか指示を出し、部屋を出ていく。
 タナッセは寝台の側に腰かけたまま、ヴァイルの寝顔を見つめ、考える。
 昼間もそうだった。自分のことに夢中になり、ヴァイルの動向にまったく気を払わなかった。幸い何事もなかったが、あの時にさらわれていたとしたらどうだ。
 結局、自分はそういう人間なのだ。
 肝心な時に自分のことばかりで、役に立たない。気にかけているのはふりだけで、あっという間に放り出す。
「……め……さい……」
 眠るヴァイルの口から洩れる呟きが、余計に己の不実を責め立ててくるかのようだった。

4-12

 結局、古神殿では二日ほどを過ごした。
 本当は一週間ほどディットンには滞在する予定だったのだが、早々に立ち去ることになったのだ。
 理由は、ヴァイルの不調だった。
 熱は下がり、あれ以来不審な行動もなくなったものの、すっかり彼は塞ぎ込んでしまった。情緒は一向に安定せず、ついにリリアノへここは嫌だと直訴したのだ。神殿への不義理に当たらないかと冷や冷やしたものの、大神官長はあっさりとそれが良いだろうと了承し、国王一行は再び旅路についた。
 この状態で、他の領地など周れるはずもない。それは即ち、城への帰路だった。
 巡幸の予定は行幸と化し、結局自分たちは海へとたどり着けない。
 タナッセは窓を流れる景色を見ながら、ぼんやりと物思いに耽る。共に乗るヴァイルはしつらえられた寝台で眠っており、話相手にはならなかった。もっとも、起きている時ですらお互い舌は重く、あまり会話は弾まなかったのだが。
 ヴァイルの気晴らしでもあったはずのこの遠出は、余計に彼の憂鬱を深める結果となってしまったらしい。さすがの母もこんな結末を想定していたはずもなく、ヴァイルを心配して眉を曇らせがちだった。結果、一行の空気は重く、進む道程はやけに長く感じられる。
 タナッセの口から、やり場のない気持ちがため息となって洩れてくる。これを言葉と化すことができたら、どんなに楽になるだろう。
 あの夜のことを、まだ聞けずにいる。
 何に謝り続けていたのか。魔の誘いというのは、どういうものなのか。聞いても分からないと返されるだけなのかもしれないが、それすら試せなかった。
 分かっている。自分は怖いのだ。
 あの事件の後に避けていたのもそのためだ。ヴァイルの体の心配よりも、責め立てられることを恐れていた。
 自分のことばかりだ。
 何がどうしようもない災難だ、あれは避けられたはずだ。自分がもっとたくましく、強くあれば。今回のことだって、もっと気を配っていれば、きっと。
「もうすぐ王城につきますよ」
 と、侍従の促しに、タナッセは我に返った。言われてみれば、いつの間にか伝わってくる揺れは石畳のものになっていて、隙間から見える景色は見慣れた王都の街並だった。
 侍従がヴァイルを揺り起こすのを横目に、近づいてくる城の姿を見る。その姿に何も変わりはないはずだったが、何故だかやけに小さく感じられた。
 鹿車は何の問題もなく、城の中庭にてその歩みを止める。降り立つ一行を城仕えの使用人たちが迎え、労りの言葉を口々に述べてくる。
「お二人はお部屋に戻り、旅の疲れをゆっくり癒すようにとの陛下のご指示です」
 起こされたヴァイルは眠そうではあったものの、歩くのに辛いほどではないらしく、その指示にうんと頷いた。では移動しようかと、タナッセはごく自然に彼の方へと手を伸ばし……その刹那、強い抵抗感に襲われて手を止める。こんな自分が、その手を取ることなど赦されるのだろうかと。
 ためらいは、伝わったらしかった。
 ヴァイルは強張った表情で一瞬タナッセを見つめたかと思うと、突然身を翻してぱっとその場から駆け出す。
「ねむいから、先にかえってねてるねー」
 ごく軽い調子の、その言葉だけを残して。
 慌てて追いかけていく侍従や衛士たちの背中を見送りながら、タナッセは行きどころをなくした手を戻し、その手のひらを見つめる。
 もう戻らないものの残滓が、まだそこで僅かにくすぶっているような気がした。
 そのうち、それも感じられなくなるだろう。

 そして、タナッセは知る。
 自分たちが旅路に就いている間に、城では大きな改革があったのだと。
 側付きの使用人たちの顔ぶれはがらりと変わり、特にヴァイルにおいては侍従頭から医士においてまで、ほとんど前と同じ顔はないほどだった。
 留守中に行われるよう、母が手配していったのだ。これだけの配置換えとなると色々とごたついたはずで、その渦中に自分たちを置かないようにしたのが今回の同行の大きな理由だったのだろう。
 もはや、あの時代は過ぎた。
 どんなに望んでも、帰ることは叶わない。
 予感は既に確証に変わりつつある。
 「五人目」にはならなかった。けれど、自分はやがて間違いなく。
 このちっぽけな城から逃げ出すだろう。
 懐に収めたまま持ち帰ってしまった本の角は、時折胸に当たってちくりと刺した。