「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

第一話「八年前」

1-1

 駆け寄ってきたと思うや否や、小さな手は自分のそれをぎゅっと握った。いつものことだ。何も言われなくても分かる。
 そっと息を吐いて、タナッセは本を閉じた。もう少し読み進めたかったけれど、仕方がない。
「日が陰るまでにはお戻りなさいませ」
 侍従頭に見送られて、部屋を出る。晴れているから向かう場所は同じ、正門に程近い中庭だ。
「今日は何をした?」
「ええとね、ちずを見た。北はだいじで、南もだいじだけどやっかいで、東には何もないの」
「そうか。私は詩を学んだ」
「し?」
「そうだ、言葉だけで全てを表す技術だ。奥が深い」
「ふーん」
 三つ下の従弟は興味なさげに相槌を打った。そしてぐいぐいと繋いだ手を引っ張り、廊下を歩いていく。早く行きたいのだろう。
 急いでたどり着いたところで、彼の待っているものは見つからないのだけれど。帰ってきているという話は聞いていない。ランテの所領からここまでは、どんなに急いでも半週間はかかる距離だ。
 でも、この中庭詣ではすでに習慣になっていて、それでヴァイルの気が済むならば構わないだろうと、タナッセは大分前に諦めたのだった。
「これはこれは殿下方、ごきげんよう」
 すれ違う貴族は、自分たちの姿を見つけて頭を下げる。挨拶と共に向けられる探るような視線がタナッセは嫌いだった。奴らはまるで、自分たちが一緒にいることを責めるかのような目でこちらを見ることがある。
 別に自分だって望んで側にいる訳じゃない。ヴァイルの方が勝手に共連れにしてくるのだ。第一、この城内においては近しい年の人間などお互い同士しかいないのだから、そうなるのは当たり前だ。
 発されていない言葉に対して、胸の中で反論を続けながら従弟に引っ張られ歩いていた彼は、ふと嫌な予感を覚えて顔を上げた。その耳に微かな音が届く。動物のいななきだ。
 すでに目当ての中庭は近く、次の角を曲がれば到着するだろう。そこは城外から訪れた鹿車を一時駐留させる場所で、漂ってくる兎鹿の気配は誰かの訪れを意味していた。
 ヴァイルも察したらしく、つなぐ手は期待に強く握られる。でも、その期待はすぐに破られるだろう。彼の父は、自分の叔父は、まだランテの地にいるはずだ。
 あの事故があってしばらくの後、イルアノは王城とランテ領を数か月ごとに行き来するようになっていた。王弟にして次王の父である彼は、同時にランテ当主でもある。自領へ定期的に帰還しなければならないのも道理だったが、そんな大人の事情が子どもに通用する訳がない。
 それでも、大分落ち着いた。
 目の前をひょこひょこと上下するつむじを見やりながら、タナッセは思いを馳せる。少なくとも今のこいつは待つことができる。こうなるまでに、乳母や世話係がどれだけ苦労していたことか。あれから四年、年老いた乳母はますますしわを深め、子どもの面影を残していた世話係はすっかり大人になった。二人へのヴァイルの懐きようといったら、会話の中に「ばあや」と「ミラネ」という単語が混じらない日はないのだ。
「あ」
 ふと小さな声と共に、頭の揺れが止まった。タナッセもつられて足を止め、再びうつむきがちになっていた頭を上げる。中庭はすぐそこで、止まっている鹿車が目に飛び込んできた。その色、形、そして車体に掲げられている紋。一瞬で、頭から足へと血が引いていくのが分かった。
「も、戻るぞ!」
 ほとんど反射的に、タナッセは元来た道を帰ろうとする。しかし、途端に彼は強い力で引っ張られ、進めなくなる。留めているのがつないだ手ではなく、襟首を掴む指だと知った時、彼は今日の平穏を諦めるしかないと悟った。
「出迎え、ご苦労様」
 振り向いたそこには、もう一人の従兄の恐ろしい笑顔が待ち構えていた。

1-2

「だから、ぼくとタナッセはいとこでしょ」
「うん」
「タナッセとユリリエもいとこでしょ」
「そう」
「それなら、ぼくとユリリエもいとこなんだよね」
「違うよ」
「何で?」
「俺の父様とあれの父様は兄弟で、あれの母様とヴァイルの父様も兄弟で、でも俺の父様母様と、ヴァイルの父様母様は兄弟じゃないから」
「う……ううん」
 いまいち呑み込んでいないらしく、ユリリエの答えにヴァイルは頭をひねっていた。
「じゃあ、ユリリエとぼくは、何?」
「他人。とりあえず、今のところは」
「今の?」
「例えば結婚したりしたら、夫婦だからさ。他人じゃない」
「いい加減そのつまらん話を止めたらどうだ。誰が従兄弟だろうが、従兄弟でなかろうが、何の関係もない」
 そこで、側でおとなしく聞き流していたタナッセもついに口を挟まざるをえなかった。余計なことをヴァイルに吹き込まれたくはない。ユリリエは日が陰れば城からいなくなるからいいが、その後にしつこく質問攻めにされるのは自分なのだ。
 何でもかんでも尋ね倒す癖がヴァイルにはあった。近頃、特に激しい。色々と知りたいことが多すぎる年頃なのだろうが、返答に困ることもたくさん聞いてくる。
 例えば、どうしてタナッセには印がないの、とか。
「へえ。人の話をつまらないなんて、タナッセも随分偉くなったもんだ」
 と、タナッセの回想は、柔らかい口調の、しかし冷たい声で打ち切られた。遮りの言葉選びを間違えたと思ったが、もう遅い。
「さぞ面白い話をしてもらえるんだろうね?」
 ユリリエは笑顔をこちらに向けているが、しかしその目は笑っていない。獲物を見る猛禽の瞳だ。今、彼の頭の中ではどういうお仕置きをしてやろうかと様々な画策がなされているに違いなかった。
「や……いや、そうだな、詩の話とかだな……」
「そんなのは教師相手にやりなよ。少なくとも、今、この場では興味持てないな」
「い、一週間前の大風のこととか……」
「何か愉快なことでもあったのかい?」
「それは、別に……ただ、すごかったなって……」
「ふーん」
 もはや何を提案しようが無駄だ。経験からタナッセはそれを悟らざるをえなかった。これから日が暮れるまでの間、自分はユリリエにいたぶられて過ごすのだ。
 その覚悟を決めた時、救いの手はタナッセの袖を引っ張った。
「あのね、けっこんってね」
 小さな従弟は上の者たちの静かな争いに構わず、さっきからの話題を続けてくる。こうなってはタナッセもそれに乗らざるをえない。話しかけてくる従弟につき合い、出来るだけ自然にユリリエから目をそらす。
「あのね、けっこんは大事なことだって、ばあやが言ってた。すごく大事なことだって」
「……そうだな」
「ずっといっしょにいたい人とするんだって」
「ああ、そうだ」
「だから、ぼく、決めたんだ。けっこんする人」
 得意そうに言うヴァイルは、たぶん聞いてほしいのだろう。けれど、タナッセはどうしてか先を促したくなかった。ためらう彼に代って、ユリリエが横から口を出す。
「へえ、誰?」
「父さん!」
 ぶっとユリリエが吹き出すのが聞こえた。彼はちらちらとこちらへ目線を送りながら、笑いをこらえている。どうやらお前が教えてやれと促しているようだ。これ以上逆らったらひどい目に遭うに違いないので、仕方なしに口を開く。
「……父親はだめだ。結婚はできない」
「何で?」
「他人じゃないからだ。結婚は、他人とする」
「じゃあ、ばあやとミラネとする」
「二人はだめだ」
「何で?」
「結婚は、一人としかできない。それにその二人は年が離れすぎている」
 たしなめるタナッセの脳裏には、少し前に目撃してしまった光景がよぎる。中庭で、ヴァイルの世話係が見せていたはにかむ笑顔。それは共にいる使用人の男に向けられていて、二人の関係は明らかだった。
 もちろん、それがなかろうとも、ヴァイルと彼女が結婚などできるはずもない。それぐらいの分別は、タナッセにもついていた。
 続けざまに言い分を否定されたヴァイルは、難しい顔をして黙ってしまう。寄せられた眉根から、何やら必死に考えていることは明らかだ。
 そして、ついに小さな従弟は従兄へと再び問いをぶつけてきた。
「けっこんは、他人としかできない?」
「そうだ」
「いとこともできないの?」
「従兄弟は……出来る」
 答えつつ、タナッセは次の展開を予測せざるをえなかった。ユリリエの視線が痛い。そして、予測通りの反応は返ってきてしまった。
「なら、タナッセとする!」
 そこで、ついに耐えきれなくなったユリリエがけたけたと笑い出し、タナッセはどう返事して良いのか分からず黙り込む。ヴァイルはそんな二人をきょとんと見返した。
「やっぱり、できないの?」
「出来るよ。それを望めば、ね」
 今まで傍観していたくせに、こんな時だけすかさずユリリエは答えてくる。やんわりと話を変えようと思っていたタナッセだったが、完全に出遅れた。もう口を挟む気力も出てこない。
「でもね、そんなことしたら、これが王配だよ。それはあんまりだと思うけどなあ」
「待て。それはどういう……」
「おーはい?」
「そう。ヴァイルは次の王様でしょ?」
「うん、ぼく、おーさま」
「その王様と結婚した人が、王配になるの。この国にとって、大切な人にね」
 タナッセの弱々しい抗議は完全に黙殺され、ユリリエはヴァイルに余計なことを吹き込んでいる。今はまだまっとうな知識ではあるが、それがこれからろくでもないことを詰めるための準備であることをタナッセは疑わなかった。
 ユリリエは……ヨアマキスは、次の王配の座をも狙っている。それは貴族らの間ではほぼ確定の事実として囁かれていて、警戒されていた。そんな状況下で、姻戚、正確には元姻戚の立場を利用して城へ遊びに来るのはさぞ居心地が悪いだろうとタナッセなどは考えてしまうが、当のユリリエは平気な顔をしてこうやって赴いてくるのだ。図太い。心からそう思う。
 寵愛者の出現が確認されたその瞬間から、王配争いは始まっている。自分がその渦中に放り込まれていることに気付いてしまったのはいつのことだったろう。タナッセはこっそりとため息をついた。ヴァイルと遊ぶのは嫌いではないが、その度につきまとう貴族たちの視線がたまらない。彼らは口を閉ざしたまま、雄弁に語るのだ。お前の狙いはそれだろう、本姓の通りにお前もまたヨアマキスなのだから、と。
 いや、それはどうでもいい。ユリリエほどはうまくやれないが、無視しておけばそれで済むからだ。
 問題は……ヴァイルが気付いてしまうことだった。そして、それは自分を顧みれば、遠からず起きてしまう出来事なのだ。
 もう一度、小さく深くタナッセのため息が吐かれる。
 そうなった時、ヴァイルは今日の他愛のないやり取りを、どう思い出すのだろうか。考えたくなかった。
 と、のし、と不意に背中に重みがかかり、タナッセはまたも思考の淵から引き戻された。甲高い声が耳元で弾ける。
「ねー、もうたんけんにもどろーよー」
 返事を待たずに、ぶら下がったヴァイルはぐらぐらとこちらの体を揺らしてくる。そろそろ休憩にも飽きてきたらしい。
「そうだな。戻るか」
 正直なところ、こうしてのんびりしている方が性に合っているのだが、これは話を打ち切る良い機会だ。タナッセはすぐに賛成するも、ふと横に座る従兄の顔を見て後悔した。
 彼の目は、さっきの失言を忘れてないぞと雄弁に語りかけてきていたのだから。

1-3

 すりむいた肘は、軟膏を塗るとてきめんに染みた。あまり怒られなかったのは、自分から進んでやったことではないと侍従頭も承知していたからだろう。もちろんその通りだったが、それでも格好悪いことは間違いない。木登りを失敗して、枝からずり落ちるなんて。
 あの後、ユリリエはやりたい放題やってくれた。水辺で突き落としかけられるわ、枝で後ろから追い立てられるわ、あげくの果てがあの木登りだ。
 ちょうど良く二階の露台に枝を伸ばした木を見つけたユリリエは、あそこから城に戻ろうと提案してきたのだ。最悪なことにヴァイルが乗り気になってしまい、逃げる術はなかった。
 言い出したユリリエが難なく成功し、その後を追ったヴァイルも危なげながら到着し……そして、自分だけがしくじった。露台の近くまでは何とかよじ登ったものの、飛び移る段になって小枝に服を引っかけてしまったのだ。地上に落ちずに済んだだけでも幸運だったのだろう。
 今日何度目かもう分からないため息を吐きながら、タナッセはじりじりと痛む傷をかばうように寝台へと横たわる。明日は平穏無事な一日であることを望みながら。
 しかし、彼にはやすらいだ眠りさえ、すぐには与えられなかった。
 寝台の横の壁から、コツコツといつもの音がし始めたからだ。続いて、くぐもった声も響いてくる。
 タナッセは仕方なく起き上がり、壁の一角に手を掛ける。そして組まれた石の一つを外して寝台へと置いた。その石だけは他のものと違って薄く、子どもの力でも動かせる重さなのだ。
「タナッセー、だいじょうぶ?」
 外したところに出来た穴を、その声は通ってきた。かろうじて腕一本が通せる程度のその隙間に、タナッセは口を近づける。
「別に大したことはない。すりむいただけだ」
「いたい?」
「痛いことは痛いが、すぐに治る。心配されるほどじゃない」
 問いかけてくるのは、ヴァイルの声だ。彼もまた、寝台を覆う帳の中でこっそり石を外してこの仕掛けに口を寄せているのだろう。
 お互いの部屋を貫くこの穴を見つけたのは、ふとした偶然だった。元々どんな目的で作られたかは分からない。ここが砦だったことを考えると、今と同じように部屋同士の伝令のためかもしれないし、何かを通すためかもしれない。どちらにせよ、これを見つけてからというもの、二人は寝台に入った後もこっそり話すことができるようになった。
「だって、びっくりした。タナッセどんくさいんだもん」
「悪かったな」
 むっとして、タナッセは言葉を返す。
 猫でもあるまいし、あんな風にひょいひょいと登っていく方がおかしいのだ。
「これ。これ、おみまい」
 不機嫌な声の調子が伝わったのか、そう言ってヴァイルは穴の中に腕を差し込んできた。自分も突っ込んで受け取れば、甘い匂いが広がりその正体が分かる。
「とっといたの。あげる」
 得意そうにヴァイルは言うが、これは夕食に出された杏の実だ。自分はすでに食べている。
「……ああ、ありがとう」
 とはいえ気持ちの問題なので、とりあえず礼を言って受け取ることにした。食べたいのを我慢して、こっそり取っておいてくれたのだろう。寝台に持ち込む時に握りこんでいたのか妙に暖かいが、それも仕方がない。ナイフも手元にないので皮を苦心して指でむいていると、またヴァイルが話しかけてきた。
「あのね、おしえて」
「何だ」
「タナッセは、おーはいがいやなの?」
「どうしてそんなことを聞く」
「だって、いやな顔してた、お昼」
 自分は……そんな顔をしていたのだろうか。
 知らず知らずのうちに、タナッセの口からは大きく息が洩れていた。しまったと思っても、もう遅い。
「そうじゃない。別に王配がどうということはない」
 慌てて継いだその言葉は、ヴァイルの耳にもっともらしく届いただろうか。分厚い壁を隔てては、気配すらうまく窺えなかった。
「ただ、お前は軽々しくそういうことを言う立場じゃないということだ。それに、だいぶ先の話だしな」
 その言葉は半分だけ本当だった。だから、半分は嘘だ。王配のことを自分は気にしている。
 逃げたと言われた。
 お前の父親は所詮王配の器じゃなかったと。だから尻尾をまいて逃げ出したのだと。
 少し前までは違うと言い返していた時もあった。今はちょっと理由があって出かけているだけで、そのうち帰ってきてまた一緒に城で暮らすのだと、そう。
 王配という立場と、離縁の意味、どちらも知ってしまった今では、そんな反撃はできそうにない。
 あの時以来、父親は一度たりとも城に顔を出すことはなかった。噂によれば、ヨアマキスの領地に再び引っ込み、社交の場に顔を出すこともないそうだ。
 奴らの放言を認めるのは悔しいけれど、分かってしまった。
 彼は逃げたのだ。この城から。王の重い冠を共に支える責務から。そして……印のない子どもから。
 王たる母親は、彼のことについて何も触れない。
「おーはいがいやじゃないなら……」
「あ、うん、何だ?」
 そんなことをつらつら考えている内に、またヴァイルが話しかけてきていたらしい。慌てて生返事をすると、何故か壁の向こうの従弟は言葉を濁す。
「……んーん、何でもないや。もうねる。また明日ね」
「ああ……また、明日」
 挨拶と共に、石の擦れ合う音が響いてきた。タナッセもまた仕掛けを元に戻し、結局食べられなかった杏を脇机に置くと、ようやく横になることができる。
 どうしてだか喉の辺りに詰まったような感じを覚えて気にかかったが、それが何なのかを確かめる暇もなく、やがて疲れからくる眠気が全てを押し流していく。
 顔のすぐ横に転がっている杏から漂ってくる甘い匂いだけが、いつまでも鼻に残った。

1-4

 今日のヴァイルは一味違う。
 何が違うというと、はしゃぎ具合が違う。
 予想していたものの、実際相まみえるとその騒がしさにいささかうんざりするというのが正直なところだ。
「ねえ、まだ? まーだー?」
 午前の勉強も一時中止になった。到着はまず間違いなく午後になると報せを受けているが、この状態では手がつかないからだ。自分は単なるとばっちりだが。
「騒いでも兎鹿の足が速くなる訳じゃないのだぞ。ああ、だから手すりに上がるな、危ない!」
 タナッセの叫びに慌てて衛士が駆け寄ってきて、露台の手すりによじ登ろうとするヴァイルを取り押さえる。やれやれと息をついていると、世話係のミラネが盆を手に姿を表した。
「ヴァイル様、おやつを持ってきましたよ。さあ、席におつきになって」
 彼女が促すと、しつこく手すりにしがみついていたヴァイルはたちまちおとなしく卓へと戻ってくる。菓子につられたところもあるだろうが、ヴァイルは基本的に彼女とばあやの言うことは素直に聞くのだ。
「ちゃんといっぱいはちみつかけてきてくれた?」
「ええ、もちろん。ヴァイル殿下の仰せの通りに」
 くすくすと笑いながら、ミラネはヴァイルの首に前掛けを結んでやっている。世話係兼遊び相手たる彼女のヴァイルさばきは見事だと、タナッセは思う。もう一人の教育係たるばあやにもまた別の見事さがあるが、今日は具合が悪いとやらで部屋に引っこんでいる。その代わりに自分がお目付け役として、この橋が見える露台に送り込まれたという訳だ。
 給仕されたお茶を口に、タナッセは目の前の従弟を見やる。一応席には収まっているものの、一口食べては横を向き、一口食べては立ち上がりたそうに橋の方へと視線を投げている。落ち着きがなさすぎだ。
「来た時には、衛士たちが知らせてくれる。そわそわせずに食べろ」
 一応注意すると、ヴァイルはぷっと頬を膨らませた。
「もー、へーかのまねみたいなしかり方しないでよ」
「べ、別に私は母上を真似している訳では……!」
 思わぬ反撃をくらって怯んだタナッセに、さらに追いうちがかかる。
「まねしてるもん。『よくにていらして、さすがへいかのおこだ』って、言ってたもん」
 ヴァイルには全く悪気はない。しかし、ヴァイルとは違い、タナッセはその言葉を額面通りに取ることは出来なかった。それが囁かれた場面まで想像できる。貴族の誰かが、含み笑いと共に漏らした一言に違いないのだ。
「……そうか」
 強張った唇でようやくそれだけ返事を紡ぎ出すと、さすがのヴァイルも様子がおかしいと気づいたらしい。眉をしかめて、何か問いかけようとしてくる。その時だった。
「来ました、ランテの鹿車です!」
 橋を見張っていた衛士の一言が、場をあっさり変えてしまった。ヴァイルは今しがたの出来事などすっかり頭から飛んだ様子で、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、一気に部屋を駆け出していってしまう。
「こら、待てっ!」
 こういう時のヴァイルの瞬発力は侮れない。衛士たちの足元をちょろりとすり抜けて、たちまち廊下へと姿を消してしまい、泡を食った衛士たちが後を追いかける。
 もちろんよほどのことがない限り城の中は安全だし、行った場所も分かり切っていた。焦る必要はなかったが、立場上ゆっくり追うのもばつが悪い。タナッセもまた、出来る限り急いで後を追うことにした。
 結局、追いつけたのは中庭だった。息を切らしつつ立ち止まるタナッセの目が映したものは、長身の男にしがみつく小さな従弟の姿だった。
「……ああ」
 男はタナッセの気配を捉えたのか、首を回して右から正面へと顔を向け直す。そのさりげない仕草がいつも思い起こさせるのだ。彼の右目が不自由なことを。
「どうやらまたこいつが迷惑をかけたようだね。いつもありがとう」
「いえ……」
 柔らかく微笑まれ、ついついタナッセは目をそらしてしまった。たぶん、どことなく母の面影があるせいだ。けれどそれは母が自分に向けたことのない表情で、何だかどきまぎしてしまう。
「めいわくなんかかけてない、いい子だったんだから!」
 その隙に図々しくも当の本人がぴょんぴょん飛び跳ねてそう抗議した。はははと男は笑うと、息子の頭に手を乗せてを優しく髪をかき回す。
「分かった分かった。ヴァイルは良い子だ、いつでもね」
 王弟にしてランテ当主、イルアノ・ニエッナ=ランテはこうして王城に訪れたのだった。

1-5

 次の日からヴァイルは部屋に訪ねてこなくなった。その理由は分かりきっている。招かれたお茶の席で、タナッセは改めてそれを確認させられた。
「こら、ちゃんと自分の席に座りなさい」
「いいもん、ここで食べられるもん」
「いつもヴァイルがどうしてるかが見たいんだけどな。きっと前より上手に食べられるようになってるんだろう?」
 そう言われて、ヴァイルは渋々父の膝から降り、自分の席へと着く。そうしてからも顔は右側……つまり、父親の方ばかり向けていて、ほとんど左側……つまりタナッセの方には向けられない。いないも同然だ。
 こうやって、ずっと父親にべったりだったのだろう。自分の存在なんて思い出しもしなかったに違いない。あれだけ待ち侘びた帰還なのだから仕方がないことではあるが、タナッセにとって面白いことであるはずがなかった。
「あのね、それでね、ミラネが鳥を持ってきてくれて、これがランテまで飛んでく鳥だって。だからおねがいしておいたの。ちゃんと飛んでとどけてねって」
「うん、ちゃんと届いたよ、ヴァイルの手紙。随分とたくさん文章が書けるようになったね」
「べんきょーしたもん、いっぱいいっぱい。おーさまになるためには必要なんでしょ?」
「偉いな、ヴァイルは」
 下手に口を出すと恨まれそうなので、散々添削をさせられたことは黙っておくことにして、タナッセは代わりにお茶を飲む。とはいえ、先ほどから飲み続けているので、さすがにお腹がたぷたぷしてきたような気がする。
「タナッセも勉強は頑張っていると聞いたけれど」
 イルアノはこちらに気を使って時折そうやって話を振ってはくれるものの、
「いっつも本よんでるよ、つまんないったら。そうだ、あのね、この前よんだ本はね……」
と、答える前に全部ヴァイルが引き取っていってしまうのだ。もうどうでもいいという気分で、タナッセは焼き菓子に手を出すしかない。これでは夕食が入らず、世話係に怒られることになるだろう。
 そんなやり取りを幾度か続けた後、おもむろにイルアノはカップを置く。
「さて、庭で遊ぶのなら、そろそろ行かないと。暗くなってしまうよ」
「あれ? もうそんなたった? じゃあ、行こ行こ」
 これでようやくこの気まずい空間から解放されると、タナッセは心中ひそかに安堵の息をつく。しかし、彼にもまた手が差し伸べられた。
「タナッセもおいで。いつもみたいに遊ぼう」
「私は……遠慮します。お邪魔でしょうし」
「いや、普段の様子が見たいんだよ。タナッセさえ時間が取れるならば、是非一緒に来てほしいな」
 そう穏やかに促されてしまっては、断れるはずもなかった。こうしてタナッセは二人と共に中庭へ向かうことになったのだが、気がつけばイルアノに片手を引かれて歩いていた。当然のごとくもう片方はヴァイルがしっかり掴んでいて、飛び跳ねるようにして進んでいる。何だかこの構図が妙に気恥しくて顔を伏せがちになってしまう。前にこんな風に歩いたのはいつのことか、思いだせなかった。そう、きっとあの人の手もこれに似た感触で……。
「おや」
 しかしタナッセがそう考えた瞬間、その声は廊下に響き渡った。まるで思いを見透かされたかのような登場に、幻聴ではないかと疑う。しかし、自分だけでなく叔父もヴァイルも足を止めていたので、本当に母がそこにいるのだと察せざるを得なかった。恐る恐る顔を上げれば、笑みを含んだ彼女の顔が自分を迎える。
「三人でお出かけか。うらやましいな」
「兄さんも一緒にいかがですか。何なら竿を用意させますよ」
「そうしたいところだがな。ここで行方を晦ませては、文官長に怒られてしまう。またの機会にさせてもらおう」
 ……そんな機会が来ることはない。
 タナッセにはそれがよく分かっていた。そんなことを望むのは無駄だし、望んではいけないことなのだと。
「子どもらの世話、よろしく頼むぞ」
 それを最後に近侍らを引き連れて歩いていく彼女の後ろ姿を、タナッセはぼんやりと見送った。そうだ、そんなことは分かっていた。あの手はつなぐためにあるものじゃないのだから。
「相も変わらず忙しいね。一日ぐらい休んでも、国が消えてなくなったりはしないだろうに」
 だから、揶揄するような叔父の言葉に、ついつい彼は反論していた。
「母上は王です。王がそれでは示しがつきません」
「ふむ?」
 それは思ったより強い口調になり、叔父の気分を害したかとひやっとする。そんなタナッセの気まずさを救ったのは、またも年少の従弟だった。
「行こーよ、暗くなっちゃうんでしょー!」
 もちろん当人にそんなつもりはなく、ただ単に待ちきれなくなっただけだ。それでも場の雰囲気は確かに変わった。
「はいはい、王様の仰せの通り、参りましょうか」
 後ろ頭を優しく叩く叔父の手が、気にしていないよと伝えてくるようだった。

1-6

 そしてその手は今、息子の短い髪の毛を撫でつけるようにとかしている。指が額にかかると、撫でられている当人はむずがるような呟きを洩らしたが、すぐにそれは穏やかな寝息に変わった。
「やれやれ、ようやく静かになった」
 膝の上に転がる息子から目を離して、イルアノは尋ねてくる。
「いつもこんな感じなのかな?」
「まあ、おおむね」
 肩をすくめて、タナッセはそう返した。人を無理やり連れ出した割に一人で大騒ぎしたあげく、ぐうすか眠り込んでしまうのはいつものことだ。そんな時は仕方がないので隣に座り、起きるまで持ち出した本を読むことにしている。時にはあまりに起きないので、城までおぶって戻ることもあった。三歳差とはいえ、軽々という訳にはいかず、たどり着いた時には疲れ果てている。今日は叔父がいるから、その点は心配しないでいい。
「そうか。タナッセにはきっといつも迷惑をかけているんだろうね」
「否定はしません」
 正直なタナッセの答えに、イルアノはハハと笑う。その様子は、再びタナッセの胸に複雑なものをよぎらせた。この叔父は、時折母とすごく似ているようにも見えるし、少しも似ていないと思わせる時もある。それが兄弟というものなのだろうか。
「悪いけれど、これからもよろしく頼むよ。ヴァイルにとっては兄弟みたいなものだからね、我がままも言いやすいんだろうし」
 単なる偶然だったのだろうが、まるで自分の心を見透かされたかのように出てきたその単語は、タナッセを動揺させた。
「……でも、私とヴァイルは少しも似ていません」
 そう口走った後で、会話の流れとして全然繋がっていないことに気づく。案の定叔父は怪訝な顔をしたが、すぐにそれを引っ込めた。そして、思いも寄らぬことを聞いてくる。
「額に印がないことは、タナッセにとって苦しいことかい?」
「わ……私は……そんな……」
 答える声は自分でも分かるほど上ずっていた。そんなつもりでさっきの答えを返した訳じゃない、誤解だ、そう言いたいのに言葉が続かない。
「ごまかさなくてもいい。きっと誰よりも君の気持ちは僕が知っていると思うから」
 叔父はまた、眠りこける息子を撫ではじめる。彼の長い指が、額にかかった髪を払うと、そこには僅かに光を放つ奇妙な印が現れる。
 選定印。
 王の証。神の恩寵。自分には与えられなかったもの。
「その気持ちは兄さんには分からない。この子にも分からない。分かることは、ない。それは仕方のないことだけれど……時折とてももどかしくなる。そうじゃないのかい?」
「私は……」
 そんなことを、誰にも言えるはずがない。
 口にすれば、馬鹿にされる。侮られる。あの男の子どもだから当たり前だと、鼻で笑われる。母の耳に入れば呆れられるだろう。そんな性根だから、印が授けられなかったのだと。自分の子とはとても思えないと。
 それでも自分は、唯一の王の子なのだ。
 唇を噛み、うつむくタナッセの頭がぽんぽんと叩かれた。それでも頭を上げないでいると、あの指が髪の毛をかき回し始めた。その心地は、悪くはない。
「あの兄の子どもをやらなくてはいけないのは、どれだけ大変なことなのだろうね。僕は弟に過ぎないけれど、それでも……」
 ふと、イルアノは口をつぐんだ。それは何か苦いものを含んだ間に感じて、思わずタナッセは顔をあげて叔父の顔を窺ってしまう。彼はこちらを見ておらず、膝の息子を見ておらず……視線の先には木々を透かして覗く湖があったが、それすら見ていないように思えた。彼は見えぬ瞳を一体どこに向けているのだろう。
 どうしてか、知りたくないと思った。
「叔父上」
 彼の目をそこから引き離そうと、タナッセは声を掛ける。
「叔父上もあるのですか。自分に印があったら、と思ったことが」
 問いに反応してこちらに向けられた左の瞳に自分の姿が映っているのを確認し、タナッセはほっとした。
「……思ったことがない、と言ったら嘘になるね」
 そんな不安を知ってか知らずか、イルアノはそう答えて、苦く笑う。
「子どもの頃の私と兄さんは良く似ていたから、どうしてそこだけ違うのか理解できなかった。ランテの屋敷の使用人たちは分け隔てなく接してくれようとはしていたけれど、そこには紛れもない壁があったから」
「母上は昔からああいう感じだったのですか」
「兄さんは徹底的に祖父様の流儀を叩きこまれたからね。とはいえ、子どもの頃は他愛ない悪戯や失敗を良くしたものだけど」
「何だか想像つきません」
「人は誰しもそのままの姿で生まれてくる訳じゃないってことだ。王を作るのは印じゃない。それを取り巻く人々だよ」
 湖から渡ってきた風が、さわさわと葉を揺らして吹き抜けていく。それに刺激されたのか、ヴァイルがむずがる声を上げて、寝返りを打った。
「確かにこの子には印があり、タナッセには印がない。この子はいずれ王になり、タナッセはけして王にはなれない。それは覆せないことだけれど、それだけのことだ。その程度の覆せないことはいくらでもある。そう、この子が私の子であり、タナッセが兄さんの子であるようにね」
 その言葉にどう返せば良かったのだろう。気づいた時には、タナッセは膝の上で両の拳を握っていた。そのかすれた呟きが自分の喉から洩れるのを、どこか他人事のように聞く。
「私は……母に相応しい息子になりたいんです」
 口にしてしまえばそれは、叶うことのない望みだと思い知らされる。完璧な国王のただ一つの汚点が、印が顕れなかった自分という存在なのだ。玉座を継げない自分が認められることなどあるはずはなかった。
「子に、相応しいも何もないよ。例えヴァイルの額に印がなかったとしても、私にとって大切な息子であることに変わりはない」
「母上はそう思ってはくれないでしょう」
 王の仕事は忙しく、ほとんど顔を合わせることもない。会う時も、卓を挟んでの食事の場ばかりだった。タナッセはちらと視線を横に流す。イルアノの手は無意識にヴァイルの頭を撫で続けていた。
 叔父が気を遣ってくれているのは良く分かったが、その言葉を素直に呑み込めはしない。彼と母は、違うのだ。
「ふむ」
 タナッセの態度に、イルアノは困ったような笑みを洩らす。
「タナッセを見ていると、父のことを思い出すよ」
「父? つまり、私のお祖父様ですか?」
「そう。ファジル祖父様と違い、あまり話を聞いたことはないだろう。私がタナッセと同じ年ぐらいの時に亡くなったからね」
 確かに気に留めたことのない存在だった。貴族や使用人たちは元より、母の口からも話が出たことはない。
「ファジル祖父様には子どもが三人いてね、その誰もが印を授けられなかった。彼らはそれぞれのやり方で大きすぎる父に対抗しようとした。けれど……どうなんだろうね。彼らが望むように幸せであれたとは、私には思えない」
 イルアノの指はそこでぴたりと止まる。選定印の光をその肌に映して。
「だから、今はこう思っているんだ。印がないことこそ、可能性なのだと。私たちは王にはなれないが、それ以外のものならば何にでもなれる。でも、この子は王にしかなれないんだ」
 ヴァイルに起きる気配はなかった。大口を開けて寝こけているその姿は能天気そのものだ。
「今日はね、実は一つお願いがあって呼んだんだ」
「……何ですか?」
「タナッセの余裕のある時だけで構わない。少しだけ、この子のことを気にかけてやってくれないかな」
 そんなこと、わざわざ言われなくとも今更だった。ため息と共にタナッセは返事をする。
「私が嫌だと言っても、そいつの方が押しかけてきますよ。いつものことです」
 突き放した物言いに、再びイルアノは困った笑みを唇に浮かべる。それはどこかで見たような表情で、タナッセの胸を鈍くうずかせた。
 あれは、どれぐらい前だったろうか。
 どうしても母に見せたいものがあった。それが何だったかは覚えていないけれど、持ち歩けるものではなかったのは確かだ。仕方がないので、自分は玉座の間の前で待って、やってきた母を連れていこうとした。
 考えれば、自分は馬鹿だ。玉座の間にやってくるということは謁見時間だということで、つき合ってくれるはずもない。それでも自分は粘り……母は同じ顔で苦笑したのだ。
 やっぱりこの二人は兄弟だ。それならば、いつか母の手が自分の頭に乗せられる時もあるのだろうか。
「お願いされなくても、世話ぐらいします。弟みたいなものですから」
 付け足した答えに、叔父はほっとした様子を見せる。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
 それは母には見覚えのない表情だった。
「さあ、そろそろ起こさないといけないか。暗くなってから戻ると侍従がうるさいからね」
 話しを終えたイルアノは、ヴァイルを優しく揺り起こす。それでもヴァイルは完全に目を覚まさず、結局イルアノが抱いて帰ることになった。
 後から考えれば、もうこの時叔父は心を決めていたのだろう。けれど、その時の自分がそんなことに気づけるはずもなかったのだ。

1-7

 部屋に飛び込んできた途端、ヴァイルはぎゅっと強く手を握ってきた。嫌な予感を覚えて外そうと試みたタナッセだったが、がっちり掴まれてそうはさせてもらえない。睨むようにこちらへと向けられた瞳にうっすらと涙がたまっているのを見つけ、彼は抵抗を諦めた。
「何だ。どうした。叔父上は今日は……」
「行こ!」
 こちらの都合など少しも聞かずに引っ張られ、部屋から連れ出される。仕事で構ってもらえずへそを曲げただけではなさそうで、仕方なくついていくしかなかった。こういう時のヴァイルは言っても聞かない。
 塔を出て、廊下を渡り、中庭へと入る。突き進むヴァイルはこちらを一度も振り返ることはなく、やれやれと息をつきながらタナッセは空を見上げる。朝から天気が良くなく、重い雲がかかっている。あまり奥へと入りこまない方が良さそうだった。
「どこへ行く気だ。服を汚すとまた叱られるぞ」
 一応声をかけてみたものの、やはりこちらを見ようともしない。手の甲に食い込む爪だけが、帰る気はないと無言ながらに告げていた。これはとことんつき合うしかなさそうだ。
 やがてヴァイルは庭につけられた小道すら逸れ、茂みの奥へと入ろうとする。さすがにそれはたまらず、タナッセは無理やり立ち止まった。前も追いかけっこ……というか追いかけられっこの最中に服を茂みに引っかけて破り、侍従頭に怒られたばかりなのだ。
「こら、せめてどこへ行くか教えてからにしろ。そうでなければ私は帰るぞ!」
 それでも引っ張っていこうとするヴァイルに対して、強い調子で通告する。と、ヴァイルの口からぽろりとその言葉はこぼれ落ちた。
「……と」
「待て。どこだって?」
「……そーとー!」
 ようやく振り向いたヴァイルは大粒の涙を浮かべていた。顔を真っ赤にしたその様子にタナッセは事態を悟るが、いきなり核心に触れるのは止めておく。
「外とはどこのことだ。ここはもう外だぞ」「ここのそとー!」
「城の外なんて、正門を通らず出られる訳あるまい。このまま進んでも、城壁にぶつかるだけだ」
「行くのー! いえで、いえでしてやるんだからっ! 父さんなんかきらいだもん!」
 思った通りの展開に、タナッセは何度目かのため息をついた。もうこれはほとんど儀式のようなものだ。
「叔父上が帰るのか」
 そして、ついに原因に触れることにした。
 やってくる時があれば、去る時もある。そのことはヴァイルだって承知しているはずだが、いざ父親が訪れるとすっかり忘れていつまでもいてくれると思い込んでしまうらしい。毎回毎回、彼はごねた。それになぜか自分も毎回つき合わされる。
 前回は食事を取らないことで抗議の意を示そうとし、三日間粘った。一日目に巻き込まれてふらふらになったので、二日目からはヴァイルがやってくる前に朝食をたっぷり取っておく作戦で何とか乗り切れた。結局イルアノは城から出ていってしまい、頑張っても仕方がないことを思い知らされたヴァイルは食事を摂ったという落ちだ。ちなみに本人は結構ぴんぴんしていて、振り回されたのは周囲ばかりだった。寵愛者とは無闇に丈夫だ。
 そんな彼が今回選んだ抗議方法は、家出らしい。
「よりによって何で家出なんだ」
 呟けば、胸を張って言い返される。
「ミラネがきかせてくれたんだもん。いたずらおーじのぼうけん!」
「出所はそれか」
 それは他愛のないお話で、いたずら王子が叱られて家出したちょうどその時、お城が魔物に襲われてしまうというものだった。難を逃れた王子は最後には無事お城を取り戻す。
 いらぬ物語を吹き込んだものだと、タナッセは嘆息する。
「言っておくが、ここの城壁には穴なんて開いてないぞ。万が一開いていたとしても、出る先は湖だ。外には出られない」
 まっとうな指摘をしてやると、ぷっとヴァイルは頬を膨らませてみせる。
「それでもいえでするもん。父さんなんかまものに食われちゃえ!」
 どうしようもない。しばらくこの“家出ごっこ”につき合い、飽きるのを待つしかないだろう。何度目か分からないため息をつこうとしたタナッセの鼻に、冷たいものが弾けた。間をおかず、音を立てて天から水滴が降り注ぎはじめる。かなり本格的に降りそうだ。
「これでは家出は無理だ。帰ろう」
 焦って手を引くも、それ以上の力で引き返される。絶対に帰らない、ヴァイルの瞳はそう告げていた。
「……分かった。分かった分かった。じゃあとりあえず雨宿りだ。ずぶ濡れになっては家出どころではない」
 なだめるように言い聞かせてようやく、ヴァイルは動き出した。さらに茂みをかき分けて奥へと進んでいく。そうしている間にも雨脚は徐々に強まってくる。
「おい、どこかあてはあるのか」
「ない」
「ないってお前な……」
 とにかく城から遠ざかりたいのだろう。途中、大きめの木の下でやり過ごせるか試してみるも、思いのほか枝が開いていたらしく、雨がそのまま通ってきてだめだった。靴を泥で汚しながら、二人は進み続ける。
 そんな中だった。
「あっ」
 小さな声を上げ、ヴァイルが立ち止まった。何があったかとタナッセは肩越しに見てみるも、そこは単なる少し拓けた場になっているだけで、ぽつんと大木の根があるばかりだ。昔何かの原因でへし折れてしまったのか、半ば朽ちかけている。
 ここがどうかしたのかと問おうとし、一歩前に踏み出したタナッセは、従弟の声の理由を知った。
 そこは、どうしてかぼんやりと暖かかった。雨も時折大粒のものが落下してくる他はすり抜けてこない。見上げれば、周囲の枝が張り出してちょうど屋根のようになっているらしい。偶然だろうが不思議な空間だ。
「ここならしばらく大丈夫そうだな」
 これ以上強くなればどうなるか分からないが、他の場所よりはしのげるだろう。ヴァイルは何故か立ち止まったままだったが、今度はタナッセが手を引いて彼を導く。
 大木の根元には苔が生えていて、少し湿っぽいものの絨毯のようだった。二人はそこに並んで座る。
「寒くないか?」
「うん……だいじょぶ」
 濡れた体は体温を奪う。けれど拭くものもなく、身を寄せ合ってやり過ごすしかない。雨は止む気配もなく、天頂から音ばかりが降り注いでくる。
「どうした。静かだな」
「うん……」
 さすがに疲れたのだろうか。打って変って覇気のない様子に心配になったタナッセが顔を向けようとした時、肩にことんと重みがかかる。すぐ目の前で癖のある髪の毛が揺れていた。
「……どうした」
「おはなしして。おはなしききたい」
 相変わらず要望が唐突だ。小さく息をつき、タナッセは聞き返す。
「何の話がいい」
「いたずらおーじのぼうけん」
「聞いたんじゃないのか」
「おしまいの前にねちゃったから」
「はっきり覚えてないぞ」
「いいよ」
 黙っているよりは気も紛れるだろう。仕方なしにタナッセは話し始める。
「今ではないいつか、ここではないところに、とある王様が治める小さな国がありました……」
 あらかじめ言っておいた通りに、細かいところは覚えていないので、適当に話をつなぐ。城に帰れなくなった王子は国境近くまでさ迷い、隣の国の王子と出会う。二人は意気投合するものの、いたずら王子のいたずらのせいで結局喧嘩別れしてしまい、そして……。
 記憶を頼りに何とかそこまで話した時、寝息が耳に届く。横目で確認すると、案の定ヴァイルは寝入っていた。これでは永遠におしまいまでたどり着けないだろうと、タナッセは密かに笑う。
 まだ雨は止む気配を見せない。頭上から響く単調な雨音は、確かに眠りを誘ってきた。耳をくすぐるヴァイルの寝息のせいもあり、タナッセもまたゆるゆると意識が闇に呑み込まれていくのを感じていた。

1-8

 重い瞼を開けさせたのは、寒気だった。
 背中を走った冷たさが全身を震わせ、無理やりに眠りから引き剥がしたのだ。
 タナッセは首を振り、ぼんやりとした視界を元に戻そうとした。その額をまたも冷たい感触が叩いてくる。それは頬を伝い、胸元まで入り込んだ。
 雨が強くなっているのだ。木々の天蓋も役に立たないほどに。そればかりか、辺りは妙に暗い。雲のせいだけではなく、太陽が弱まってくる時刻なのかもしれない。
「おい、起きろ。起きろ」
 何度か揺さぶると、不満そうな声を上げつつも、ヴァイルは目を開いた。瞼を手の甲でこすりつつ、見上げてくる。
「何?」
「何、じゃない。もう帰るぞ。気は済んだだろう」
 そう促した途端、ぼんやりしていたヴァイルの目に緊張が走った。
「やだ」
「嫌だってお前な、日が陰った後も戻らなければ叱られるぞ」
「しかられてもいいもん」
「叔父上が心配するぞ」
「しんぱいしないもん」
「“ばあや”と“ミラネ”が心配するぞ」
「……あとでごめんなさいするもん」
「大体だ、こんなところで夜を過ごせるはずがないだろう」
 少し弱気になったヴァイルに一気に畳みかけるようにして、タナッセは言を放つ。
「夜になれば庭には犬が放される。すぐに見つかってしまうだけだ」
「犬は雨ふったらにおいかげないんだよ。おしえてもらったもん」
 余計なことばかり良く覚えている。次は何と言って説得しようと考えを巡らすタナッセの頭にばらばらと大粒の滴が降ってきた。
「つめたっ」
 ヴァイルにも同じようにかかったらしい。身をすくめる従弟に、追い打ちとばかりに言い募る。
「ほら見たことか。ここにいたらびしょ濡れだ。とても一晩なんて我慢できんぞ」
「ううー」
 不満げにヴァイルは立ち上がり、雨の当たらない場所を探すが、こうも本降りになっては無理だろう。さっきだってようやくここにたどり着いたのだ。
「さあ、いい加減あきらめて城に戻るのだな。今ならさほどしかられないで済むぞ」
 タナッセが勝利を確信したその時。
「あった!」
 ヴァイルの弾んだ声がそれを打ち砕いたのだった。
 彼は先ほどから木の裏側に回りこんで何やらごそごそしていたのだが、ぴょこと顔を出して手まねきしてくる。しぶしぶ回り込んでみると、そこには立派なうろが口を開けていた。その半分にヴァイルは手足を縮めて収まっている。
「ほら、ここならぬれないよ」
 空きの部分に彼が何をはめたがっているのかは明らかだ。長く長く息をつくと、タナッセは同じように身を縮めて、その隙間へと潜り込んだ。断ったところでヴァイルはここから出て城には戻らないだろうし、それなら外にいても自分は濡れ損なだけだ。
 木の中は思った以上に暖かかった。伝わってくるヴァイルの体温のせいだけではなさそうで、肌が接していない反対側も冷えることはない。朽ちかけているとはいえ、大木という生き物の中にいるせいだろうか。
「本当にここで夜を過ごすつもりなのか」
「いえでだもん」
「仕方ないだろう、叔父上がランテ領に戻らなくてはならないのは。しばらく我慢すれば、またこちらに戻ってくる」
「…………」
 それを指摘すると、たちまち不機嫌そうにヴァイルは黙りこんでしまった。たぶん本人も分かっているのだ。こんなことをしても無駄だということは。もしかしたら、数日は出発を延ばせるかもしれない。けれど、それだけのことだ。
「気持ち良く送り出した方が、叔父上にとってもお前にとっても、逆に辛くはないだろうに」
「だってっ!」
 不意にヴァイルは声を張り上げるが、しかしその後に言葉は続かない。
「だって……」
 同じ単語を繰り返し、再び黙り込む。
「何か……あったのか?」
 促すと、きつく噛みしめられていたヴァイルの唇がわずかに緩んで、言葉がこぼれた。
「……あのね、父さんがね、やしきにかえらなきゃいけないのはわかるの」
「ああ」
「だからね、言ったの。じゃあぼくもいっしょに行くって。やしきに行くって」
「それは……」
「でも、だめだって。ぜったいにぜったいにだめだって」
 当然、そう言われるだろう。大事な寵愛者をほいほい城から出すはずもない。自分が言ったならどうだろうか、とタナッセはふと考えてしまい、慌ててそれを頭から追い出す。そうしているうちにも、ヴァイルは不満を吐き出し続けていた。
「父さんはいやなの。ぼくといっしょにいるのいやなの。だからすぐにいっちゃうの。ここにいてくれないの」
「そんなことあるはずないだろう」
 数日前の中庭での会話を思い出す。嫌っている相手をあんな風に優しく撫でる人間はいない。
 けれど、ヴァイルはぶるぶると頭を振った。狭いうろの中では肩にぶつかってきていささか迷惑だ。
「父さんはおこってるの。ずっとおこってるの。ぼくがいるから、母さんといっしょにいれなかったから」
 訴えるその声は小さく震えている。
「たまにとてもこわい目で、こっちを見るの」
 そんなものはヴァイルの気のせいだろう。光を失った目は感情を読みにくい。何かの加減でそう見えてしまっただけなのだ。
 問題は、ヴァイルがそう思い込もうとしていることだった。この状態のまま無理に帰しても、きっとこじれるばかりだ。
 頭が冷えるまで、とことんつき合うしかない。タナッセは覚悟を決めた。
 地面を探り、ヴァイルの手を見つけて握り込む。言葉ではない意志表示をしようと思ったら、この狭い中ではそれが精一杯だった。ヴァイルは一瞬驚いた顔でこちらを見たが、すぐにぎゅっと握り返してきた。暖かい小さな手。
「……寒くないか」
「だいじょぶ」
「寒くなったら言うんだぞ」
「うん。ね、おはなしして」
「何をだ」
「いたずらおーじのぼうけん」
「……どこまで聞いたか、覚えているのか」
「もうひとりのおーじと会ったとこ」
「けんかを始めたのは?」
「たぶんそのへん」
「そうだな、ええと……いたずら王子と隣の王子はついにけんか別れをしてしまう。隣の王子は言うんだ。『おれが王様になったら、お前の国なんかやっつけてやる』。いたずら王子も言い返した。『何を、おれが王様になったら、お前の王冠をうばって海に投げ捨ててやるからな』。そして……」
「あのね、このおはなし、へんだよね」
 いきなり腰を折られて、タナッセはむっとするも、次のヴァイルの言葉に息を詰まらせた。
「だって、おーじはおーさまにはならないよ。そうだよね」
「そう……だな」
「いたずらおーじには印があったの? となりのおーじにも?」
「いや、そうではない。昔は、このおはなしの国には印はなかったんだ」
「え。なんで。どーして」
「何でと言われても……そういうものだったんだ」
「じゃあ、だれがおーさまになるの。おーさまになる人は……」
 そこで、ヴァイルは気づいたようだった。小首を傾げて、タナッセの顔を覗き込んでくる。
「……おーじ?」
 ついにこの時が来たのだと、タナッセは知った。

1-9

「タナッセは……おーさまになりたいの?」
 その問いにどう答えれば良かったのだろう。その時の自分は本当はどのように思っていたのだろう。
 いくら思い返しても分かることはない。ただ、返した言葉だけは良く覚えている。
「私は、王には……王なんて……」
 頬に刺さるヴァイルの目線を痛く感じながら、そうやってもごもごと呟いただけだったのだから。
 印があれば、自分は名実共に王の……母の息子として認められるだろう。誰にも陰口を叩かれず、誰にも冷ややかな視線を送られず。その思いが言葉を濁らせた。
 はっきりしない態度に、ヴァイルは沈黙で答えた。沈んだ空気がうろの中に満ち、息が詰まりそうになる。思わず飛び出しかけたタナッセをすんでのところで引き止めたのは、いっそう強く握り返された手の感触だった。
「……あのね」
 耳元で囁く声は、真剣な響きを帯びている。
「父さんは言ったの。つれていけないって。ばあやは言ったの。そとはあぶないからって。ミラネは言ったの。それはぼくがおーさまになるからだって」
 当然、そうやって引き止められるだろう。ヴァイルはまだ小さく、さらうのも害するのも容易だ。城以外に彼に安住の地はない。
「印があるとおーさまになって、印がないとおーさまにはなれない。そうだよね」
 声は出ず、タナッセは相槌をうつことしかできなかった。ただでさえくっついている状況なのに、ヴァイルの気配はより一層迫ってくる。
「じゃあ、これいらない。タナッセにあげる。これあげる」
 もはや耐えきれず、タナッセは横へと顔を向けた。途端、間近からヴァイルの瞳にねめつけられる。そして、そのすぐ上には、選定印。およそ尋常でないと知らせるように柔らかに光る、神の御徴。
 それが、ぐい、と己の額に押しつけられた。
「おい待て、何を……!」
「あげる。これ、あげる!」
 ヴァイルはさらにぐりぐりとこすりつけてくる。汚れじゃあるまいし、そんなことで移るものか、と言いたいが言えない。勢いに押されて後頭部が何度も壁に当たる。
「こら、止めろっ、もう止めろっ!」
 訳の分からぬ状況に悲鳴じみた抗議の声を上げると、ようやくヴァイルは力を緩めた。何とか元の状態に立て直すも、不自然な体勢で妙な力を加えられたせいで首が痛む。ヴァイルが再び顔を覗き込んできて、半泣きの声を出した。
「……うつってない」
「当たり前だろう。馬鹿かお前は」
 タナッセはついついため息を吐きつつ、そう返してしまう。視界の端で、くしゃとヴァイルの顔が歪み、しまったと思うがもう遅い。
「だって、印があるから父さんが、なければつれて、だって、だっておーじがおーさまで、だから……」
「分かった。分かった、悪かった。私が悪かった。だから泣くな」
 ヴァイルの気持ちを考えれば、きつくあしらって良いものじゃない。握った手は離してもらえなかったので、無理やりに体をひねってもう片方の手で頭を撫でてなだめる。
「じゃあ、印、もらって」
「それは出来ない」
「どうして」
「それはお前のものだ。お前だけのものだからだ」
 まだ納得していない態のヴァイルに、根気良く言い聞かせてやる。
「神はお前を選んだのだ。お前が王になる。私ではない」
「おーじなのに?」
「王子なのにだ。お話はお話、現実は現実だ」
「うん……そっか……」
 しゅんとしおれるヴァイルに、余計な慰めの言葉をかけるのは止めておいた。これはどうしようもないことなのだから、ヴァイル自身が呑み込まなくてはならない。印は消えたりしないし、新たに授けられたりはしないのだ。
 代わりに、念を押しておく。
「見つけられたらちゃんと帰るんだぞ」
「うん……」
「朝になっても帰るからな」
「ん……」
 雨音は止むこともなく、訪れる人の気配もない。狭いうろの中で、二人は身を寄せ合って冷たさからお互いを守る。
 まるで皆が魔物に食べられてしまったような静けさだと、タナッセは思う。
 いたずら王子は立派な王様になって、めでたしめでたしと物語は幕を閉じる。じゃあ自分は何になれば、めでたしめでたしと幕を閉じてもらえるのだろう。
 印があれば。
 それは、どうしようもないことだ。自分が呑み込まなくてはならないことなのだ。

1-10

 鳥の声が聞こえる。
 その高らかなさえずりの意味するところを思いつくのに、少しの時間がかかった。雨音はしない。うろの口から柔らかな光が差し込んできている。
 目をこすろうとして、その手が繋がれていることに気づいた。従弟の寝顔がすぐそばにある。
「おい、朝だ。朝だぞ、起きろ。起き……ぶしゅっ」
 起こそうとして掛けた声は、くしゃみで中断された。慌てて顔を前に向け、連続して出てくるそれを押しとどめようとしていると、迷惑そうにヴァイルが唸る。
「うるさ……」
「ご挨拶だな。朝だ、もう帰るぞ」
 憤慨して促せば、ようやく今の状況を思い出したらしい。手を離したので、うろから先に這い出す。
 地面はしとどに濡れていたが、雨は上がっていた。立ち上がれば、足元に冷たい靄がまとわりついてくる。背筋を寒さが這い上がってきて、タナッセは再びくしゃみを催した。昨日散々ぶつけられたせいか、その度に頭のどこかで痛みが走る。
 枝葉を通して見ているからはっきりしないが、陽の光はまだ弱々しく感じた。朝も早い時間なのだろう。
「おなかすいた」
 同じく這い出してきたヴァイルは、開口一番そう洩らす。誰のせいでこんなことをしてると思ってるんだ、と思わず文句を言いそうになったが、何とかそれは呑み込んだ。
「気は済んだな」
「うん……」
「よし、では帰ろう」
 差し出した手を、ヴァイルは素直に握り返してきた。
 それから先のことは、取り立てて思い出すほどのことではない。
 城に近づいたところで探索中の衛士に発見され、連行された。ヴァイルは侍従頭に散々に叱られ、疲れ切った顔のばあやとミラネに迎えられて、かなりへこんだ様子だった。もちろん自分も懇懇と説教され、二人して母の元へと引っ立てられた。玉座で待ち構えていた彼女は自分を一瞥すると、にやりと笑ってみせた。
「気は済んだか」
 自分は巻き込まれただけだと主張したかったが、無駄そうなので止めておいた。
 それを最後に解放された自分たちを、イルアノが待っていた。叔父は塔への道のりで自分に謝り、ヴァイルをたしなめた。その時、気付く。彼が着ているのは旅装束だ。今日出発するつもりだったのだろう。そして、それは翻らない。
 ヴァイルは馬鹿だと思う。共に過ごせる最後の夜を、あんなことで潰してしまったのだから。
 送り届けられた扉の前でふと立ち止まって見やると、親子はしっかりと手をつないだまま、隣の部屋へと入っていく。出発までの時間、きっとああやって過ごすのだろう。
 どうしてか、ため息が洩れた。
 そして、その後が最悪だった。度々感じていた頭痛は外から来るものではなく、内から来ていたらしい。湯浴みをして服を着替えて食事をしているうちに、それは耐えきれないほど強くなり、タナッセは日も高いうちに寝台に潜り込むことになった。熱が出ていた。
 考えてみれば当たり前だ。濡れたあげくに屋外で一晩を過ごしたのだ。体調を崩さない訳がない。
「えー、何で寝てるの、何でー!」
 しかも頭ががんがん痛むというのに、この状況に陥れた張本人が訪れて、耳元に甲高い声を響かせる。叔父が出ていって、ようやくこちらのことを思い出したという訳だ。
「ヴァイル様、きちんと謝るんですよ」
 世話係が促すも、叔父が行ってしまった不機嫌を引きずっているせいか、素直な態度を見せない。
「ぼく、平気だもん。こんなのタナッセが弱っちいだけだもん」
 ひどい言い様ではあるが、抗議する気力すらない。結局世話係に怒られて渋々謝っていったが、余計に苛立ちをかきたてられるばかりだ。
 腹立ちまぎれにタナッセは祈ってやった。頭も体もまともに動かない状況ではそれぐらいしかすることはなかったために。
(神様、貴方は不公平だ)
 それは祈りというよりは直訴だったけれども。
(印のことはもう言わない。けれど、せめてあいつだって己がやったことの報いぐらい受けてもいいはずだ。
 どうか奴も自分と同じ目に合わせてやってください、神官たちが言うように貴方が公平だというのなら。でも、そんなことは起こらない。貴方はとんでもなく不公平だからだ、我が父母たるアネキウス)
 そして、神への文句を並べ立ててほんの少しだけすっきりした彼は枕へ顔をうずめる。

 そう、思い出すほどのことではない。
 ……ないはずだったのだ。