「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

第五話「一年前」

5-1

 体の下に敷かれてうごめく感触は、しなやかで柔らかい。
 こすれる肌は次第に火照り、首元をくすぐる吐息も同じ熱さを含んでいる。抑えがたく洩れる声はすでに言葉になっておらず、それが余計にこちらの炎を煽り立てた。
 喉が渇く。
 そのせいか、先ほどからやけに自分の息の荒さばかりが耳につく。上がってくる声は、それに阻まれてほとんど聞こえない。けれど、それを誘っているのは自分だと思うと、余計に耳の奥がじりじりうずいた。
 そうだ。
 そうだ。
 こうやって。
 こうすれば。
 何かが自分の後ろで囁いている。見つめている。操っている。
 分かっているが、止めることはできない。
 興奮と不安は同じように昂ぶり、一層訳が分からなくなる。視界は白く濁り、ただ体だけが動き続けている。
 柔らかさ。肌。熱い息。嬌声。これは何だろう。これは……誰だ?
 途端、不安が興奮を上回った。ふとシーツを握っていた手を離してしまい、置きどころがなくなる。何かすがるものを求めて、手は辺りをうろつきまわる。
 やがて、それは見つけた。同じ形のものを。
 心が押し留める前に、体は反射的にそれを掴んだ。指の間に指を通し、自然な形で絡み合う。
 その感触に覚えがあると悟った瞬間、喉からは知らず知らずのうちに大声が上がっていた。

 起こされたのは、自分の声のせいだった。
 部屋に残る残響と、隅に控えていた衛士が自分に向ける表情で、タナッセはそれを悟った。立ち上がろうとする側付きの衛士を平気だと押し留めて、彼は自分の額に浮かんだ冷や汗を拭う。
 夢だ。
 窓の外で明らむ湖の光景、鳥の声、寝台に置き上がった自分の姿。さっきまでの出来事が現実でないのは確実だった。悪い夢、つまらない夢、けれど。
 生々しい感触と息遣いが蘇ってきて、タナッセは背を震わせた。べとついた肌が夜着にまとわりつく。
 何という夢を見ているのだ。
 不意に膨れ上がった嫌悪感に耐えきれず、彼は立てた膝に顔をうずめる。しかし、逆に自分の匂いが気になってすぐに顔を上げた。
 まずは身を清めて、着替えることだ。そうしているうちに気持ちも落ち着いてくるだろう。
 衛士に視線を送り扉を開けさせると、いつもの段取り通り控えていた侍従らが朝の支度に入ってくる。服を脱ぎ、汗を拭かせていると、どうしても自分の体が目に入ってくる。
 男の体。半年前に選び取った、成人の姿だ。
 別に後悔などしていないはずだが、どうしても先ほどの夢が頭の中をちらついて複雑な気持ちになる。細部まで覚えていないのは幸いだった。もしはっきりと覚えていたりしたならば、自分はきっと羞恥のあまりその露台から身投げしていたに違いない。
 タナッセは知らず知らずのうちに己の手のひらを見つめ、ため息をついていた。

5-2

 体がさっぱりしたせいもあって、広間での朝食を終えてお茶と果物を出される頃には、タナッセの気持ちも少しは上向きになっていた。
 普段ならば部屋で食事は取るのだが、あの寝室の近くにいるとどうしても夢のことを思い出してしまいそうなためにこちらへとわざわざ赴いた。いつもはわずらわしいと感じる方々からの視線や話し声も、今朝は気の紛れとなって有難く感じるぐらいだ。
 成人してから半年、かつては遠回しだった貴族の自分への態度も、近頃は段々と露骨になりつつある。何かあるのではないかと探る者、ついに王配狙いから脱落したと馬鹿にする者、それでも王子なのだからと媚を売る者、まだ機会は十分あると煽ってくる者……どいつもこいつも腹が立って仕方がない。
 分かるのは、例外なく誰もが自分を侮っているということだけだ。
 そんな彼らに相応しい対応を散々してやったせいで、最近は話しかけてくることすら少なくなってきた。遠回しにこそこそと嫌味を言ってくるばかりだ。自分に声をかけてくるのは、少数の救いようもない馬鹿か、あるいは……。
「えー、ないのー!」
 不意に甲高い声が広間に響き渡り、タナッセは顔を引きつらせた。それはとても馴染みのある声で、同時に今朝だけは聞きたくない声だった。
「だって、もう全部食べちゃったもん。まだ広間に行けば残ってるかもって聞いたから、来たのにさぁ」
 それは侍従相手にぷうぷう不満を述べ立てている。今のうちに逃げようかとの思いがタナッセの胸によぎるが、それはすぐに却下された。声の当人が広間の入口のところに陣取っていたからだ。
 ならば、どうにか見つからないうちに立ち去ってくれることを望むばかりだ。せめて今だけは顔を合わせたくなかった。タナッセはごく自然な風を装って入口から目を離し、目立たぬよう顔を背ける。そして、それが裏目に出た。
 騒ぎが収まった気配に、諦めてどこかへ行ったのかと胸をなで下ろした瞬間。後ろからいきなりそれはぶつかってきたのである。
「あー、まだ残ってるー。いいないいなー」
 肩から回された手がぎゅうと胸元を掴んできた。そのまま遠慮なしに重みを預けてくるせいで、服ごしにでもその体温は伝わってくる。凍りつくタナッセの耳元で響く声。抑えようもなく、蘇ってくるあの感触。
「ねー、それ食べないんなら、俺にちょ……」
 考えるより先に、口と体は動いていた。
「さ、さわるなっ!」
 立ち上がりざまに、思い切り振り払う。それが思った以上に強い力となってしまったのを、続いて起こった転倒音が知らせてきた。うろたえつつ振り向くと、床に尻もちをついたヴァイルの姿がある。こちらを仰ぐ顔は驚きと戸惑いの色を湛えて、凍りついていた。
 しかし、それは一瞬のことだった。見間違いかと思うほどあっさりと、その表情はおどけた不満顔の奥に引っこんでしまう。タナッセが口を開くより先に、ヴァイルは抗議の声を上げた。
「食べたいんなら、そう言えばいいじゃん! 果物ぐらいで、大人げないの!」
 そして、跳ねるように起き上がると、絶句するタナッセに続けざまに叩きこんでくる。
「けーちけーち、タナッセのけーち!」
 およそその立場に相応しくない野次を飛ばしながら、呼びとめる間もくれないままにヴァイルは広間から駆け出していってしまった。取り残されたタナッセは呆然とその背中を見送るしかない。そこかしこから洩れてくるくすくす笑いが、余計に彼のいたたまれなさを誘った。
 頬が熱くなってくるのを感じながら、タナッセは無言で踵を返す。それだけで察した衛士は彼について歩き出し、二人は廊下を足早に進んでいく。広間では、今起きたちょっとした事件を肴に、使用人たちがあれこれ囁いていることだろう。
「人が、せっかく……せっかく気分を変えようとした時に限って……!」
 ついついこぼれてくる独り言の原因は、羞恥だか怒りだか当の本人にも分からなくなってきていた。
 大体、ヴァイルが悪いのだ。
 近頃ますます生意気になって、どれだけ注意しても品格に欠けた立ち振舞いを直そうとしない。籠りで目を離したのが悪かったのか、ついには自分のことを俺呼ばわりしはじめる始末だ。まるで庶民の子どもではないかと、何度文句を言ったことか。周りも甘やかすからますます調子に乗る。
 奴は継承者なのだ、限度というものがあるだろうと、タナッセは歯ぎしりする。
「どっちが大人げないだ、あんな子どもじみた真似をしておいて、よく言えたものだ……!」
 しかし、腹立ちまぎれに唸ったその言葉は、タナッセにとっての刃だった。たちまち息を詰まらせて、タナッセは足を止める。
 その通りだ、奴はまだ子どもなのだ。
 そんな子どもに対して、夢とはいえ自分は……。
 蘇ってきた嫌悪は、起き抜けの時より重く澱んでいた。たちまち膨らんできたそれをあしらうこともできず、タナッセは壁によりかかってしばし落ち込むのだった。

5-3

 結局、環境が悪いのだ。
 散々沈んだ後に、タナッセが出したほんの少しだけ前向きな結論はそれだった。
 自分はもう子どもではない。なのに、子ども時代と同じ環境で過ごしている。それがきっと良くないのだ、と。
 とは言っても、いきなり大きく変えられるはずもない。すぐに手をつけられることといえば、限られていた。
 結果、その日の午後にタナッセ付きの侍従たちは、予定外の仕事を命じられることとなる。彼らの主人は寝室の模様替えを指示したのだ。
「何の気まぐれだか知らないけどさぁ、迷惑だよね、いつもは少し位置変えただけで怒るくせにさぁ」
 隅で陰口を囁いている新入りの侍従に対して、たちまち叱咤が飛ぶ。
「ミヤリス・ディト=カリャサ。口を動かす暇があったら、手を動かせ」
 部屋の奥に陣取ったタナッセからすれば、彼女が隙を見てはお喋りに興じているのは一目瞭然だ。叱られた彼女はひやと肩をすくめ、何やらもごもご呟きながら作業に戻る。たぶん魔物耳とか何とか言い捨てているのだろうが、もう放っておいた。
 タナッセの指示に従い、寝台が位置を変え、必然的に細々したものも移動する。毎日こまめに掃除がされ整頓されているとはいえ、ずっと固定されていたものを動かしたのだから、手間もかかった。
「こちらはどうなさいますか?」
 本が収められた小棚の行先を尋ねられ、ふとタナッセは口ごもる。もちろん予め決めてあり、その位置こそが一番肝要であったのだが。
 ちらと、タナッセの視線がそこへ向けられる。緩んだ石壁、寝台がしつらえてあったところ。あんなもの、今やほとんど使っていない。ためらう理由などないはずだった。きっとあれが原因なのだ。微かに響く隣の寝息が良くない効果を及ぼしたに違いない。
「……あそこに置いてくれ」
 だから、結局タナッセはそう指示した。侍従たちは何の疑問も抱くことなく、それに従う。とりあえず本を全部出してから移動させようかと相談しはじめたので、さっさと済ませてしまいたいタナッセは傍らの衛士の名を呼んだ。
「モル」
 ぬっと進み出た彼は、さすがに軽々とまではいかないものの、本はそのままで棚を持ちあげ、指定した場所へ備えつける。こうしてしまえば棚板の裏に隠れた石には、もはや触ることはできないだろう。それでいい。
 誰にも気取られず作業を終えたことで安堵したタナッセは、息をつきつつ、何の気なしに窓の方へと目をやった。陽に温む穏やかな湖面はいつでも気を落ち着けてくれるはずだった。それを阻むかのように、露台にそれが佇んでいなければ。
 最初、見間違いかとぎょっとしたタナッセだったが、それが確かに存在すると分かって、余計に動転する。
 いつからそこにいたのか、ヴァイルは目が合うと言い訳するように呟く。
「……何か、がたごとうるさいから」
 こんな昼の内からヴァイルが私室に引っこんでいるとは思わず、響く音には気を払わなかった。どちらにせよ、これだけ大掛かりな配置換えでは隣に気配が洩れぬ訳にはいかないだろうが。
 いや、そんなことはどうでもよかった。問題は今のやりとりを見られたということで、しかし見られたからといって別に何も悪いことなど良く考えればしていないはずで、けれど妙に後ろめたい心地が襲ってきて、返事をしなければと思っても何を言えば良いのか皆目分からなくなっている。
 そんな混乱の最中でとにかく開いた口から飛び出してきたものは、言い慣れたお小言だった。
「お前っ……、ちゃんと入口から訪ねてこいと、何度言ったら……!」
 途端、ぷうっとヴァイルの頬が膨らむ。
「うるさいなー、もう! こっちのが早いんだからいいじゃんか!」
 続けて言い捨てると、たちまち身を翻して姿を消した。再び露台の手すりを乗り越え、自分の部屋へと戻っていったらしい。追いかける気力も湧いてこず、タナッセはただ肩を落とす。
「何だというんだ、まったく……」
 思い返せばここ半年あまり、似たようなことばかりだ。態度は悪くなるばかりだし、人の言うことはまったく聞かないし、話せば話すほど腹が立つ。加えて、今朝のようなことがまたあったのなら……。
 限界かもしれないと、タナッセが強く実感したのは、この時だった。

5-4

「……で、結局ここまで逃げてきた、と」
 それはむしろ呆れ果てているとも思われかねない、抑揚のない言い回しをされていたが、そろそろタナッセにも分かってきた。
 確実に、今、この人はものすごく面白がっているところなのだと。
「お前、そんな話を人にして恥ずかしくはないのか。根性無しが」
「か、隠さず話せ、でなければもう来るなと強要したのは、ヤニエ師じゃないですか!」
 言い返しても涼しい顔をしているヤニエに対し、タナッセはちょっとした反抗を試みる。
「ヤニエ師こそ、修辞の専門家というのならば、もう少しそれらしい言葉選びというものが……」
「馬鹿者。言葉とはまず正しく伝わることが第一だ。修辞なぞ必要のある時だけ使えばいい。四六時中こねくり回すような真似は、幼児の泥遊びにも劣るわ。分かったか、頭でっかちの栗鼠鼻かじられ」
 しかし、あっさりと倍する勢いで反撃されて、ぐうの音も出なくなる。確かに言いたいことはがんがん伝わってくるが、いい年をした女の人がこれで大丈夫なんだろうか。
 ヤニエ伯爵の館の一室だった。
 ここに出入りし始めて一週間ほどになる。
 予め母から要請の文は届けられていたが、音に聞く変人伯爵が王子とはいえ素直に弟子入りさせてくれるとは限らない。緊張で身を固くしつつ、あの時から借り受けたままの教本を懐に門をくぐったタナッセを待ち構えていたのは、難解な修辞法の試験ではなく、そっけない一言だった。
 何でディットンくんだりまでやってきたのか教えろ、と。
 もちろんこんな経緯を詳らかに語りたいはずもなく、タナッセは普通にヤニエに師事したいがためだと、教本の礼を交えて熱心に訴える。
 その場はそれだけで終わり、明日も来ると良いと許可をもらえた。しかし、これで師事を認めてもらえたと思ったのは勘違いだったのだ。
 次の日に顔を出すと、彼女は再び言う。
 それで、どうしてここに来た、と。
 そんな日々が続き、のらりくらりと言葉を濁して逃げて続けたものの、ついに追い詰められてしまったのが今日だった。どうせ書いたものを読めば分かる、話さぬのなら好き放題に解釈するぞ、とまで来たら、これはもう脅迫といっていいだろう。
 仕方なく話した末が、この言われようだった。
「少し離れて頭を冷やす必要があるのではないかと、そう考えた末の結論です。別に逃げた訳では」
 もごもごと言い訳するタナッセを、ヤニエはじろりとねめつける。
「それで、頭は冷えたのか」
「たぶん、少しは」
「そうか。じゃあとっとと城に帰れ」
「ちょっ……別にそれだけではなくて、ヤニエ師にご指導を受けたいというのも大きな理由で、あの教本をお借りして以来、ずっと考えていたんです」
 冷たくあしらわれたタナッセは、焦ってそう述べ立てた。黙って突っ立っていると、本気で追い出してきかねないのだ、この人は。言葉が真すぎて、時々辛い。
「口説き言葉なぞ教えんぞ」
「頼んでません!」
「どうして頼まん?」
「どうしてと言われましても……」
 もしや自分は暇つぶしの玩具にされているだけなのではと、さすがにタナッセにも疑いが芽生え始める。そんな彼の心中を知ってか知らずか、ヤニエはさらりと言葉を継ぐ。
「お前、どうせ今まで書き溜めた分があるのだろう。今日はそれを置いて帰れ」
「それじゃあ……!」
 その意味するところを察して顔を輝かせたタナッセに、眉ひとすじも動かさず彼女は答えた。
「好き勝手解釈して楽しむ」
「止めてください」

5-5

 しかし、置いていかないという手はなかった。念の為、訪問の際にはいつも持たせてあった紙の束を渡し、タナッセはヤニエ邸を後にした。
 ディットンの街は、いつも通りの穏やかな活気に満ちている。王都のような騒がしさや性急さはない。そこにあるのは色濃く積み重ねられた時間の気配だ。立ち昇る過去の残り香の間を縫うように敷かれた道を、タナッセは進んでいく。
 連れているのは一人の護衛のみだった。今の彼にはそれだけで充分だったのだ。王都より遠いここでは継承権のない王子の顔など伝わっておらず、第一そんな王子に手を出しても見合った益はない。さらおうが害そうが、現王権への嫌がらせ以上の意味はないだろう。実際、王都にいた時も危害を恐れる出来事などほとんどなかったのだ。ヴァイルと共にいる時は別として。
 小回りの利かぬ鹿車も必要ない。彼の行動範囲はほぼ街の中央辺りで、いちいち引いてくる方が時間がかかった。それに、彼は古都の空気を肌で感じるのを望んでいた。
 だから、寡黙な衛士一人を引き連れて、タナッセは街を思うままに歩いている。見た目から貴族であることは明らかだったので、時には険呑な視線を送ってくる者もいたが、それ以上の行為はなかった。ここでは貴族という存在の影も薄い。もっと下町の方へ踏み込むのならば絡まれることもあろうが、そんなところへわざわざ赴く気もなかった。
 街に鐘の音が鳴り響く。夕刻を告げる神殿の報せだ。次第に日が陰り、夜がやってくるだろう。
 滞在のために用意された屋敷への道すがら、市が開かれている広場を通る。店じまいを始めている店先の展示に目を惹かれ、タナッセは足を止めた。
「……ああ、少し待て」
 そして美しい細工がなされた匙を購入し、その場を離れる。さすがに古都というべきか、優れた職人にも古い掘り出し物にも事欠かず、こういった店頭でも時折趣深いものが手に入る。だが、それでもタナッセの心は満足とは言い難かった。
「お帰りなさいませ」
 城からついてきた侍従頭に迎えられ、自室に入る。まず目をやった卓の上には、繊細な刺繍がなされた布の書皮や、丁寧な染付がなされた茶碗などが既に置いてあり、その横に先ほどの匙を取り出し並べてみる。それらを比べ眺めて、タナッセはしばし唸った。
 やはり、少し違う気がする。これで当たりだろうという自信がない。
 これらは自分のためものではなかった。
「お土産、ちゃんと買ってきてよ」
 見送りの時、飄々とした顔でそう言われたのだ。
「俺の気に入るもの買ってこないうちは、帰ってこなくていいよ。城に入れてあげないから」
 奴はごく軽い調子でそう命令してきた。一人城を離れる、こちらの不安も知らないで、城の主気取りで。
 素直に従うのは癪だったが、実際何も持って帰らないとうるさくてたまらないのは目に見えているので、こうして検討してみている。みているものの、改めて考えればなかなかの難問だった。王都で手に入るものでは駄目だろうし、だからといって本や芸術品の類では喜ぶまい。結局、こうして自分の目に留まるものを片っ端から購入しては、違うのではないかと唸る日々だ。
 そして、いつも最後にたどり着くのは、あれこれ考えても仕方ない、全部くれてやれば一つぐらい気に入るだろうという諦めなのだった。

5-6

 そんな些細な悩みはありながらも、ディットンでの日々はつつがなく過ぎていく。留学の期間として自ら定めたのは一年間、短くはないが学ぶに充分とは言えない月日だ。
 ヤニエ伯爵は相変わらずの態度だったが、屋敷を訪問すれば少なくとも追い出されることはなく、こちらから質問すれば色々と答えてくれる。置いていったものに対しては「で、あれがお前の書きたいものか?」と聞かれたばかりで、些か不安ではあったが。話にならないような技量なのかと聞くと、「いや、面白かった」と言われたのは、一応褒められたと思ってもよいのだろうか。分からない。何が面白いのかは尋ねても教えてくれなかった。
 そんな感じで、結局師事を認めてもらったのかどうかさえ判然としない。「ヤニエ師」との意識しての呼び名は、否定されはしないものの聞き流されている気がしてならない。
 ともあれ、他にどうしようもなく、タナッセは今日も彼女の屋敷を訪れては詩をしたためるのだった。
「お前、ティパーリンが好きか」
 時折、目を通してはそうやって聞いてくる。
「は、はい。あの言葉選びの確かさと、それでいて時に大胆な組み合わせを行うところが、とても」
「だが、彼の手法はちぐはぐな独りよがりに陥る危険性がひどく高い。かけ離れたものを連れ添わせれば新奇な表現になるとは思わないことだな」
「はい……」
 思い当たることが幾つもあって、タナッセは表情を曇らせる。自分の詩はいかにも未熟で、彼女の指摘はいつも的確だ。それこそ自分もあの教本を諳んじられるほど読み込んだが、まだまだ身になったとは思えない。詩想らしきものがふと目の前を横切ったとしても、自分にはまだそれを掴み取れる力がないのだ。
 自分に力があれば、と思う。
 己の思うところを一つとして逃さず表し切れるような言葉を見つける力が。
 そうすれば自分はきっと、どんな場所でも胸を張って生きていけるだろうに。そう、あの城でさえも、きっと。
「おい、愚か者」
 と、物想いに耽るタナッセの頭はぐいと掴まれた。そのままうつむいていた顔を無理やり前に向かされる。待ち構えていたのは、師匠の底光りする瞳だった。
「一つ覚えておけ」
 彼女の低いかすれ声は、耳の深いところで跳ねて響く。
「言葉はお前を絶対に裏切るぞ。それも、最も大事な場面で、いいか、絶対にだ」
 彼女はおごそかに、その警告を彼へと告げた。
「お前はまだ無邪気にその力を信じている。だから私は予言を与えることしかできない。手ひどく噛まれて初めて、この言葉の意味を知るだろうお前に」
 口を差し挟む度胸などなく、気圧されたままタナッセはそれを受け取る。
「お前がその力を信じている限り、言葉はお前の味方になることはない」
 そして、託宣は終わり、タナッセの頭は解放された。そして今の出来事を尋ね直す隙を与えず、ヤニエ伯爵は続けざまに通告してくる。
「今日は帰れ。これから古神殿に赴く用がある」
 そう言われては、粘る訳にもいかない。先ほどの言葉を消化しきれないまま追いやられ、タナッセは釈然としない気持ちで街を歩く。まだ日も明るく、真っ直ぐに屋敷に戻るつもりにはならなかった。
 足は自然と店の集まる中央広場の方へと向いた。今日は確か市が出ているはずだ。何か良いものが見つかるかもしれない。ヴァイルの文句を引っ込めさせるような、珍しく面白いもの。そうすれば自分は堂々と……。
 ふと、タナッセは立ち止まる。
 彼の足を掴んだのは、不意に膨れ上がった疑いだった。
 それは当たり前のことだった。疑うはずのないことだった。ここに来たのは留学のためで、つまりそれは一時的で、定めた期間が過ぎれば自然と終わるべきことだった。
 だがしかし、それは自分で決めたことだ。ならば再び、決め直すこともできるだろう。
 ……自分は、城に帰りたいのだろうか?
 居場所とてないあの城に、本当に?

5-7

 力は得られなかった。
 ディットン行幸から戻った後、今に至るまでの五年あまりを要約すれば、それだけが浮かび上がってくる。
 自分は相変わらず弱いままだった。望むように強くなれないばかりか、望むことすら不相応なのだと思い知らされた。
 それが、誰の目にも明らかにされたのは、あの御前試合だ。試合前の余興とばかりに、ヴァイルに引っ張り出された、籠り明けのあの試合。
 散々に叩きのめされた。いまだ腕も細い三つ下の子どもに。
 いまだ成人も迎えない次期国王相手には手加減せざるをえなかっただろうという、同情的な見方があるのは知っている。自分だって出来ればそう思いたかった。だが、そうではないことは分かってしまっているのだ。
 確かに、最初はためらいがあった。籠り前までは追い抜かれそうだった背も、開けてみれば随分とこちらが伸びてしまっていたし、そのことが気に入らないのか、妙に突っかかってくるヴァイルにも戸惑っていた。そうこうする内に、いつの間にか彼はリリアノに持ちかけ、御前試合の前に自分たち二人の前座試合をするという許可まで取りつけてしまう。
「男選んだんだからさ、まさか逃げたりしないでしょ?」
 そんな挑発に、これで気が済むのならと乗ってしまったのが良くなかった。五年の成果を過信しすぎてもいた。元々勝つつもりもない、適当なところで手加減すればいいだろうと。
 そんな余裕は数回の打ち合いで打ち砕かれた。
 見る人が見れば分かってしまうだろう、自分が本気であり、それでいてヴァイル相手に手も足も出せなかったことは。試合後に向けられるようになった、衛士らの哀れむような視線からもそれは明白だ。何が鍛練だ、自分のしてきたものは遊戯みたいなものだったのだ。
 以来、武術の修練課程は打ち切った。伸びる見込みがないものに教師をつき合わせる必要はない。
 それにしても、ヴァイルは一体何がしたかったのだろう。きっと分かっていたはずだ、自分の力量が遥かに上であることを。つまりそれは……こちらに恥をかかせたかったということなのか。
 その目論見は見事に成し遂げられたといえよう。間違いなくそのことで肩身は一層狭くなったのだから。もはや王子としての威厳など、自分には欠片も認めてもらえないだろう。
 どうせ譲位が行われ、母が王でなくなれば出ていかねばならぬ身だ。そしてそれは、遠い未来の出来事ではない。少し早めたところで、誰も引き止めはしないだろう。
 考えれば考えるほど、タナッセの中でその思いつきは実感を持って膨らんでいく。
「帰ってこなくていいよ」
 そうだ、そう言われたのだ。
「俺の気に入るもの買ってこないうちは」
 そんなものを探していた自分が馬鹿みたいだった。
「……あのう、いかがですか」
 ふと、横合いからか細い声が呼び止めた。追想に沈んでいたタナッセは、それでようやく現実に引き戻される。はっと声の方を向くと、困った顔の青年がこちらを見つめていた。
 どうやら自分は店先でじっと立ち止まっていたらしい。職人らしき青年は迷惑したあげく、おずおずとそう切り出したようだった。確かにいかにも屈強そうな護衛を引き連れた貴族然とした人物に、文句はつけにくいだろう。
「あ……ああ、そうだな、えーと……」
 ごまかすようにタナッセはそう呟き、台の上を眺める。何か適当に買ってやれば良いだろうとの軽い気持ちだったが、中の一つに自然と目が惹かれるのを感じた。
 その店は、陶器の人形などを作成している工房らしい。名品の風格にこそ欠けるものの、精緻な細工が凝らしており、職人はなかなかの腕のように思えた。
 気になったのは手のひらに収まるような置物だった。意匠は鳥だ。その小さな翼を精一杯広げ、今にも空へとはばたいていきそうに見える。
「これを」
 予感に従い、ためらいなくタナッセはそれを選んだ。壊れぬよう布に包んでもらい、懐に入れる。重さも大したことなく、しばらく歩くとすぐに馴染んだ。
 結局、こうやって自分は土産を購入している。
 屋敷への道をたどりながら、タナッセは嘆息する。
 それはつまり、帰りたいと考えているからではないか。少なくとも今回は一年の約束で出てきた。なし崩しに出奔するのではなく、一度帰って報告をして、ここへ戻るかどうかはその後改めて決めるのがけじめというものだろう。
 そう結論づければ、すっとした。これから留学期間中、ずっとどうするか悩むこともない。終わった時に悩めばいいのだから。
 彼の不幸は、その結論が全くの無駄に終わったことだ。
 屋敷に戻った途端、侍従頭は彼へとうろたえながら告げる。
「タナッセ様、すぐに城へお戻りください! ヴァイル様が……!」

5-8

 焦燥の中に、帰路は過ぎた。
 兎鹿の足は我慢できないほど遅く、過ぎる風景は何一つ変わっていないように思えた。昼夜を問わず飛ばさせたものの、連絡がうまくいかないところもあり、一週間あまりを費やした。
 想像は最悪の方へと流れやすく、通過点で受け取ることの出来た鳥文ばかりがそれを少しだけ和らげてくれた。
 正門につくと同時に、タナッセは鹿車から転げ降り、執務室へ向かって走る。
「母上!」
 そして、対面の手続きもせぬままに、そこへとなだれ込んだ。
「戻ったか。早かったな」
 立ち上がった母の顔には疲れは見えたものの、思った以上に平静だった。ついつい噛みつくようにして、タナッセは問う。
「ヴァイルは、ヴァイルはどうなって……!」
「まあ待て。まずは気を落ちつけよ」
 なだめる母の態度は薄情にも思え、思わず嫌な疑念が胸を横切りもするが、無理に腰を落ち着けさせられ、水を飲ませられた頃には、タナッセの頭にも幾分冷静さが戻ってきていた。事件は一週間以上前に起こったことなのだ。今の今まで動揺しているはずもなく、うろたえているのは、城を離れていた自分だけだ。それに気づくと、自分は当事者ではないのだ、と強く感じられてしまい、タナッセは唇を噛んで言葉を呑み込む。
 どうして、よりにもよって自分がいない時にこんなことが。
「安心せよ。ヴァイルは大丈夫だ。完治にはしばらく時間がかかるだろうが、快方に向かっているのは間違いない」
「何が……起こったのですか。試合中の事故だと、文には書かれていましたが……」
「ふむ。そうだな……」
 リリアノは僅かな逡巡をその表情に覗かせたが、すぐに意を決したらしく語り出す。
「お主が出ていってしばらくの後、ヴァイルがごねてな。御前試合に出たい、前のように前座扱いで構わないから衛士と手合わせさせろ、と。もちろん突っぱねたものの、しつこく食い下がってきたので、衛士らには迷惑とは思えど、許可を出してしまった。それでヴァイルが満足するならば、とな。王となればそのような我がままは許されぬのだから」
「それで、こんなことに」
「いや、初回は問題なく過ぎた。手加減されているとはいえ、一回戦はなかなか見事な動きでヴァイルが勝ち抜いたほどだ。さすがに二回戦では軽くあしらわれていたがな」
 大きなため息と共に、リリアノは言葉を継ぐ。
「しかし、それが良くなかった。次も当然出たがり、はねつける理由は見当たらなかった。また適当な相手があてがわれるだろうと、我は再び許可を出した。そして一回戦のことだ。ヴァイルは相手の猛攻に剣を取り落とし、決着がついたと思った瞬間……」
 タナッセは御前試合に引っ張り出された時のことを思い出す。
 踏み荒らされて立ち昇る土の匂い、衛士たちから発散される熱気、上から注がれる目線、打ち合わせられる鋼の音。あの時、自分が諾々と従わなければ、あるいは。
「剣の勢いは止まらず、ヴァイルの肩へと振り下ろされた」
 こんなことには、ならなかったのではないか。
「それで、ヴァイルは……」
「すぐに手当を受け、今は無事だ。後で……ああ」
 その時、話を割るようにして、リリアノの側付きが彼女の耳に何事か囁きかける。表情からして悪い知らせではなさそうだと見守っていると、彼女は幾分柔らかい光を目に湛え、こちらへと向き直った。
「目を覚まし、今なら対面できそうとのことだ。到着して疲れもあるだろうが、一度顔を出してやるといい」
 勧められなくとも、そうするつもりだった。退出の挨拶をし、タナッセは塔へと足を向ける。どちらにしろ、自室の隣なのだから。

5-9

 けれど、ヴァイルの部屋へと訪れたタナッセを迎えたのは、再会への喜びでもなければ起こしたことへの悔いでもない、いかにも不満そうなぼやきだった。
「うわ、本当に帰ってきちゃったの?」
 聞き間違いかと驚いて足を止める彼に、にべもない言葉が次から次へと投げつけられる。
「知らせなくていいって言ったのにさ。こんなの大したことないんだから、真に受けて戻ってくるなんて、馬鹿だよねー」
 不意に話を振られた傍らの世話係は、困った顔で曖昧に笑うしかない。ごまかすように椀から潰した苺とクリームをすくって、主人に差し出す。こちらを見ようともせずにその匙をくわえるヴァイルの姿を、タナッセは呆然と見ていた。
 寝台に積み上げた背もたれで半身を起こしているヴァイルの顔には確かにやつれた様子が覗いていたものの、生意気な言葉を吐き出し平然と好物を摂っているその態度は、いかにもふてぶてしく見えた。文で知らされていた様子とは大違いだ。
「まあ、そうやって顔出して義理は果たしたんだしさ、そんなに頑張ってご機嫌伺いしなくても誰も陰口叩かないって。安心したでしょ、自分がいない時だったから、あれこれ邪推されないでさ」
 しかも、こちらが一言も発していないうちから決めつけてくる。戻ってきたのは、自己保身のためだろうと。
 己の指先が震えているのにこの時やっとタナッセは気づいた。体を巡る熱すらその動きを止めてしまっていたらしく、沈むように足元へと引いている。それが失われた訳ではないと分かったのは、ヴァイルの次の挑発のためだった。
「もういいから、さっさとディットンに戻ったら?」
 何を言われているのか呑み込んだ瞬間、タナッセの頭に血の気が一気に上った。目も眩む心地を味わうと共に、口は勝手に動いていた。
「き……貴様、貴様、ひ、人がどんな思いでここまで……!」
「だから、俺は頼んでないの。勝手に連絡されたの」
「ふふ、ふざけた理由で試合になぞ出て、貴様は自分の立場というものが分かって……!」
「あーあー、ほら、だから嫌だったんだ、知らせるの。そうやっていちいちうるさく言うに決まってるんだからさ。せっかく気分よくなりかけてきたってのに」
「黙れ……黙れ!」
 自分でも分かるぐらいに声は上擦っていて無様で、それが一層タナッセを興奮させた。対するヴァイルの小憎らしい落ち着きようが、さらに炎を煽り立てる。
「貴様は、貴様が……貴様、貴様の……!」
「あのさ、何言いたいんだかさっぱり分からないんだけど。そういうの勉強しにいった訳? なら、もっとちゃんと勉強しに帰った方がいいんじゃない?」
「ふざっ、ふざけるな!」
 事態は悪くなる一方だった。止めようもなく使用人たちはおろおろと見守り、一触即発の空気を察して、部屋の隅の護衛たちに緊張が走る。確かにそのまま舌戦が進んでいたら、ついにはタナッセはヴァイルに掴みかかったかもしれない。
 このどうしようもない空気を変えたのは、やってきた一人の使用人だった。
「すみません。診察の時間なのですが。どいてもらえますか」
 彼は臆することなくそう声をかけ、戸口を塞ぐタナッセを無造作に押しのけて部屋に入ってくる。慇懃無礼に扱われるのは慣れているとはいえ、ここまで邪険にあしらわれたのはさすがに珍しく、タナッセは呆気にとられて入ってきた人物を見やった。
 若い男だった。自分の担当ではないので名前までは覚えていないが、何度か顔を見たことはあるし、何より医士の服を着ている。ここへ何のために現れたのかは明らかだった。
「あ、医者先生だ。そんな時間だっけ?」
「面会は許可いたしましたが、お身体に障る相手はお控えなさるよう申し上げたはずですが」
「俺が呼んだんじゃないもん。それに、あっちが勝手にわめいてただけだから平気だよ」
 自分を無視して会話を始めた二人を見やるタナッセの中で、冷水を浴びせられたかのように激昂はたちまちしぼんでいく。代わりに現れた、取り乱した自分への嫌悪や羞恥、そしてヴァイルの先ほどの態度への不審の念に沈むタナッセは、使用人たちが部屋から出ていったことに感づかなかった。
「あのさ、聞いてなかったの。診察の時間だから。ばいばい」
 そう促され、ようやく医士とヴァイルの他には、自分と護衛だけが部屋に取り残されていることに気づく。どうして使用人たちを部屋に残さないのか不思議に思いつつ、タナッセは素直に別れを告げる気にはならなかった。ここで粘らなければ、二度と面会できないような気がしていたのだ。
「……まだ、話が終わった訳ではない。別に支障はないだろう。ここで終わるのを待っている」
 途端、返ってきたのはわざとらしいほど大きなため息だった。それを受けて、背を向けて治療道具を開いていた医士が、顔だけを半ばこちらへ向けそっけなく言い放つ。
「治療の邪魔なんです。ご退出いただけますか、王息殿下」
 食い下がるとっかかりさえ見当たらない。不満ではあったものの、引き下がるしかなかった。唇を噛み、部屋を出るタナッセの後ろで、扉は音高く閉まる。
 それはまるでヴァイルからの拒絶を形として突きつけられたかのようだった。

5-10

「一体、何がどうなって……」
 分からない。あそこまで嫌がられる訳も、敵意をぶつけられる訳も。
 何か気に障ることをしたのかと思い馳せようが、入った瞬間からああだったのだ。思い当たる節などあるはずもない。怪我をして気が立っているにしても、使用人たちへの態度はごく普通のものだった。それに態度がおかしいのならば、母も一言ぐらい注意を与えてくれるはずだ。
 第一、八つ当たりにしても妙だ。明確に自分への悪意を感じたのだから。
 いくら考えても、分からない。別れの挨拶は、あの土産の請求だった。ディットンから送った文は経過報告ぐらいで、ヴァイルへ個別に連絡は取っていない。それにすねているのかとも思ったが、むしろ文通などヴァイルが嫌がる方だろう。もちろん文の約束などしていない。
 分からない。何かひどい考え違いがなされているのではないだろうか。例えば……今回のことが、自分の差し金などというような。
「モル、戻るぞ」
 そして、タナッセは決心した。やはり今引き下がっていては駄目だ。ヴァイルの調子も悪くないようだったし、誤解があるならば早いうちに解いておいた方が良い。
 どうやって入るのかと目で問うモルに、タナッセは笑みで返してみせた。
「何、あれのやり口を散々見てきたのだぞ。真似させてもらうまでだ」
 ヴァイルの部屋の扉番に命じると、呼び鈴を鳴らさせる。顔を出した侍従の不審そうな御用聞きに、タナッセは高飛車に言い放った。
「どうやら飾りピンを落としたらしい。寝室だろう、入らせてもらうぞ」
 ならば後で届けるとの侍従の言葉は耳に入れない。そんな必要はない、すぐ拾って出ていくと無理やり体をねじ込み、その勢いのまま寝室の扉へと向かう。押し止めようとした使用人たちは、モルが自然と牽制してくれる。
「ヴァイル、入るぞ。落し物を拾わせてくれ」
 返事を待つことなく、タナッセは自らの手で寝室の扉を押し開いた。
 途端、息を呑む気配がした。吸いつけられるがごとく、タナッセの視線は寝台のところで治療をしている二人へと向けられる。部屋に満ちる薬草の香りと、そこに僅かに混じる血の匂い。
 ヴァイルは上半身をはだけて、ぐったりと背もたれに体を預けていた。その色を失った顔の中で、こちらの姿を捉えた瞳が見開かれている。そこに映る自分もたぶん同じような表情をしているのだろうと、ふとタナッセは思った。
 ヴァイルの体には線が引かれていた。左肩から右脇腹へかけて、引き攣れて伸びる赤黒い途。その周りは薬のせいなのか黄色く染まっており、それが一層異様さを引き立たせていた。床に落ちた包帯にはところどころに黒い跡が染みつき……。
「見るなっ!」
 悲鳴じみた怒号で、タナッセは我に返った。はっと見やると、ヴァイルはいっぱいに涙を溜めた目でこちらを睨みつけてきている。
「見るな、見るなっ!」
「ヴァ……」
 名を呼びつつ歩み寄ろうとしたタナッセの額に、何かが当たった。包帯の塊だと認識する間もなく、今度は固いものが足元で跳ねる。続けて右肩に痛みが走った。
「見るな、出ていけっ、出ていけ!」
「ヴァイル、待て、止めろ!」
 ヴァイルが近くにあるものを手当たり次第投げつけてきているのだと悟ると同時に、肩を掴まれ後ろへと戻される。衛士に庇われて半ば塞がれた視界で、ヴァイルが若い医士に押さえつけられてもがいているのが見える。
「ヴァイル様、落ち着いて。傷が……!」
「嫌い、嫌い、タナッセなんて嫌い! 出ていけ、出ていけ、出ていけ!」
 喚き暴れるヴァイルをどうにか抑え込みつつ、医士はこちらへと顔を向けた。殺気すら感じさせる視線がタナッセを射抜く。その訴えるところは言葉とならなくとも伝わってきた。
 釈明の余地すらなく、タナッセは衛士に連れられて自分の部屋へと戻る。確かに自分で歩いてきたはずだが地を踏む感覚はなく、気がつけばほとんど倒れ込むようにして寝台に腰かけていた。
 今のは、何だったのだろう。
 生々しい傷、薬と血の匂い、色を失った顔、そして、血を吐くような叫び。
 今も耳の奥にこだましている、胸を切り裂く拒絶の言葉。
「私は……何をした?」
 何かを間違えたのは分かる。けれど、それが何かが分からない。どうすればよかったのか、分からない。
 帰ってこなければよかった? 見舞いに行かなければよかった? 話し合おうと戻らなければよかった?
 そんな選択肢はありえない。選ぶ余地などあるはずもない。
 理不尽だ。
 ふと、苛立ちがタナッセの心をよぎった。それと呼応するように、何かをぶつけられた肩がずきりと痛む。
 強い言葉に打ちのめされたものの、いきなり突っかかってきたのはヴァイルの方だ。どうして見舞いに駆けつけて責められなくてはならない。おかしい。自分は間違ってなどいない。どうして反省などしている。むしろこちらが怒ってしかるべきだ。何が嫌いだ。こちらこそ。
「お前など、嫌いだ」
 こぼれ出た言葉は、驚くほどすんなりと胃の腑に落ちた。熟れきった果実のようにたちまち潰れ、じわじわと腹の底に広がっていく。
 そうだ。ずっとそう思っていた。
 才能に恵まれ、皆に愛され甘やかされ、そして何より神に認められあの玉座を約束され、母と同じ道を歩む。どうして憎まずにいられようか。この醜い気持ちに気づかぬふりをし、ごまかすように同情し気遣う真似をした。それがこの結果だ。
「お前など……お前など……」
 肩が痛い。胸がざわめく。喉が詰まる。息が苦しい。せり上がってくる、言葉。自分の、偽りなき心。
 それを吐き出してしまいたいのか、呑み込みたいのか分からず、タナッセは反射的に胸元を両手で掴んだ。途端に、手のひらは妙に固いものを握り込む。自然と浮かんだこれは何だという疑問が図らずも心の手綱を引いた。懐に手を入れ取り出し、現れ出たものに彼は打ちのめされる。
 小さな鳥の置物。忘れていた。あの知らせがもたらされた日、隠しに入れたまま顧みることもなかった。思い出す余裕などなかったのだ。取るものも取りあえず鹿車に乗り、ただひたすらこの城まで駆けてきた。身を焼く焦りと心痛が、タナッセに蘇る。
 確かに自分はヴァイルを憎んでいるのかもしれない。だが、この労りの気持ちもけして嘘ではないはずだ。
 眩んでいた頭は徐々に冷めていく。己の浅慮に目がいくようになる。
 顔を出した時のヴァイルの態度はいただけないが、かといってあの強引な侵入はやりすぎだったかもしれない。気が鎮まれば、自分の目撃したものの意味が染み渡ってくる。
 思った以上にひどい傷だった。
 大したことのないように振舞っていたが、そんな訳があるはずはない。あれでは気持ちがささくれ立っての八つ当たりも、仕方がないのかもしれない。
 気にいるかどうかは分からないが、こうやって土産も持ってきた。今日は訪れても入れてもらえないだろうから、明日、これを渡して謝り、そして問おう。
 これで城へ戻ることを赦してもらえるだろうか、と。

5-11

 寝台を動かしていなかったのならどうなっていただろうと、タナッセは後に思う。
 たぶん自分は誘惑に勝てず、石を外して隣の部屋の様子を窺ったに違いない。そして、その異変に気づいたのだろう。けれど、繋がる道は封じられ、隣り合わせた部屋といえどもその距離はひどく遠い。露台を飛び越える気軽さも、既に子どもではない身に発揮できるものではなかった。
 出来るのは、まっとうな訪問だ。時間を計り、機を見て、隣の部屋へと向かう。廊下を歩くその手には、小鳥の置物を握っている。文句を言われる前に先手を打って差し出し、こちらの流れに乗せてしまうつもりだった。
 けれど、そんな思惑はあっさりと砕け散る。
「……何しにいらっしゃったんですか」
 敵意は寝室ではなく、部屋の入口で既に襲ってきた。
 薄く廊下につながる扉を薄く開き、そこから顔を覗かせた小さな侍従の睨みは、皮膚に刺さるかと思うほどの強さだ。顔を出すなり投げられた問いは、とても王子に対するものとは思えない。
「見舞いに決まっているだろう。何をしている、そこを通せ」
 戸惑いながらも発した命令は、驚くほどの強さで撥ねつけられる。
「通しません。通すものですか」
「貴様……誰に対してそんな態度をとっているのか、分かっているのだろうな」
「分かってます! 当たり前でしょう、タナッセ・ランテ=ヨアマキス殿下! 貴方こそ、自分の立場を分かってらっしゃるの!」
 その瞬間、彼女の中の何かが決壊したのが見てとれた。みるみるうちに瞳から涙が溢れ、喉を詰まらせながら彼女は訴える。
「せっかく、せっかく、あそこまで回復なされてたのに! 三日ほど前まで何も喉を通らなくて、ようやく果物だけでも食べてもらえて、起き上がれるようにも、やっと、やっと、なのに……!」
 次第に嗚咽へと崩れていく言葉を、タナッセはただ受け止めるしかない。何が起こっているのか分からないまま、ぼんやりとした不安だけが積み重なっていく。問い詰めようにも、彼女の耳は呼びかけを受け入れようとはしない。
 と、扉の隙間が大きくなった。高い位置にかけられた細く長い指が、扉を引き開いたのだ。そして、侍従の後ろから彼は姿を現す。いつもと変わらぬ涼しい顔をした若い医士の姿に、ようやく事態を説明してもらえそうだとタナッセは胸を撫で下ろした。
 その安堵も、後ろに控えるモルが何故か前に歩み出てくるまでだった。指示にない動きに当惑するタナッセに、声はかけられる。
「王息殿下」
 それは、むしろ平坦な調子の声音だった。他者が聞いても、ごく当たり前の呼びかけにしか思えなかっただろう。しかし、当の本人たるタナッセには感じられた。昨日向けられた殺気は気のせいではなく、よりいっそう凄味を増して突き刺さってきていると。
「ヴァイル様は現在安静が必要な状態です。わざわざ訪れていただき恐縮ですが、面会は許可いたしかねます。お引き取りください」
 けれど、彼が見せる態度はあくまで冷静で、説明は整然としたものだった。それが一層うそ寒く、タナッセの舌を鈍らせる。それでもモルに庇われつつ引き下がらなかったのは、彼の意地だった。気力を振り絞り、医士へと問う。
「待ってくれ。ヴァイルは一体どうなって……」
「激しい動きのために、傷が開きました。楽観は許されない状況です。どうぞお引き取りください」
 激しい動きの原因とは何か、彼は告げない。それが余計に深い怒りを表しているようで、タナッセは凍りつく。もちろん分かっている。昨日のあの一件のせいだと。
「わ、私は……」
 震える声で言い掛けた言葉はそこで途切れる。
「お引き取りください」
 その空白に、すかさず医士は畳みかけてくる。
「私は、そんな……」
「お引き取りください」
「そんな、つも……」
「お引き取りください」
 言葉は届かない。ここでどれだけ重ねようとも、扉の奥にいるヴァイルには伝わらない。
「そんな……」
 立ち尽くすタナッセの目の前で、隙間は細くなり、消え失せた。どれだけ鈴を打ち鳴らそうとも、もう開かれることはないだろう。
「ただ、私は……」
 その時、嫌な感触が腕を這い上がってきた。知らず知らずのうちに握りこんでいた拳の中で、何かが踊っている。はっと息を呑んで開くと、指の隙間から細かな欠片が滑り落ちていく。
「ただ……」
 己の手のひらの中にあるものを見つめながら、タナッセは悄然と呟く。
 羽ばたく鳥の翼は根元より折れ、もはやどこへ行くこともできぬその体と共に力なく転がっていた。

5-12

 ヴァイルの元に、神の国の迎えが訪れることはなかった。
 一度は崩れた体調もやがて持ち直し、しばらくの後には庭などでその姿を見かけ、気がつけば前と変わらぬように走り回るようになっていた。
 その経過の詳しいところをタナッセは知らない。あれ以来、部屋に訪れようとはしなかったからだ。全ては彼の感知しないところで進み、ヴァイルの相手をした衛士が城から追われるように去ったことも、戻った故郷で死んだらしいことも、全ては終わってから噂で洩れ聞くばかりだった。
 なし崩しのままに、ディットンは引き払うことになった。ヤニエ伯爵に暇を告げることすらできなかった無礼を詫びた文を出すと、それはどうでもいいからこれからも作ったものを送ってきてみろと返事が来る。相変わらず彼女は親切なのか突き放しているのかよく分からない。
 回復したヴァイルとは、次第に顔を合わせる機会も増えた。ヴァイルの態度は、ディットン留学前よりもより険を増したように思える。何でこの城にいるのかと言わんばかりの調子を言葉の端々に匂わし、そのあまりにも不遜な振舞いに、ついこちらも応戦してしまう。
 いつしか城では、王子と寵愛者の不仲が知れ渡るようになっていた。
 それも良いのかもしれないと、タナッセは思う。
 自分が関わると、ヴァイルは傷つく。それが良く分かってしまったのだから。ならば、この距離はむしろ好ましいのかもしれない。ヴァイルもそれを望んでいるのならば、尚更に。
 気がつけば、ヴァイルの成人まで二年を切っていた。城は譲位の準備を始め、浮足立った雰囲気が流れ始めている。そんな中に、間もなくその地位を失う王子の居場所など、あるはずもない。不仲の噂は貴族らの耳にも入り、裏で囁かれていた揶揄は今や隠すことすらされなくなりつつあった。そのような場面に遭遇する度、悪意の言葉が胸に澱み溜まっていくような気分になる。
 いつしか、譲位の日を指折り数えている自分を見つける。後ろ指を差されることなく、ここを出ていけるその日を。
 日を重ねる度、解放の日が近づく安堵と、本当にそれでいいのかという不安は、ますます大きくなっていく。
 かつて、この城には二つの家族が暮らしていた。一人ずついなくなり、今はもう三人しかいない。そして、もうすぐ。
 ヴァイルだけが取り残される。
 たった一人で、ずっと。
 その役目を終えるまで。
 だが、それは仕方がないこと、当たり前のことなのだ。ヴァイルは唯一の選定印の持ち主であり、神に選ばれた次の王なのだから。
 神の執り成しに、どうして自分が逆らえよう?

 もはや選べる道は他にない。
 息を殺し、ただひたすらタナッセは待ち続ける。
 やがて訪れる、この城を出ていく時を。