「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

第三話「七年前」

3-1

 あー、兄ちゃんおこってるよー。
 足元を進む二つの影を見やりつつ、レーノは横に立つ兄の苛立ちを肌で感じとって心の中でため息をついた。
 でも、それは仕方がない。入ってきた奴らが悪い。どうせ隣村の奴なんだろうけど、何度もここは俺達の村の場所だって宣言してあるんだから。
「おい、そこのお前ら!」
 ついに兄は荒げた声を出した。樹下の人影はそれに反応してびくりと止まる。
「行くぞ」
 兄はそう言い捨てると木を滑り降りていった。レーノも慌てて後に続く。
 かわいそうに。ぼっこぼこにされるぞ、となり村のやつ。
 上から観察したところ二人のみで、自分たちとそう背も変わらない。兄は容赦しないだろう。今のうちにさっさと逃げるのが一番だ。
 けれど、呼びとめられた侵入者たちは逃げなかったらしい。下で待っていた兄と合流すると、彼はにやりと笑う。
「いい度胸だな、奴ら。こっちを待ってやがる」
 茂みの向こうで息を詰める気配が感じられた。今更そんなことしても無駄なのに。それにしても隠れ方も下手だとレーノは嘆息する。兄は茂みに手をかけ、一気にかき分けた。
「てめーら、前に言ったよなぁ、ここは俺たちの場所だから、はい……くんなっ……」
 兄が言葉を詰まらせた訳を、レーノはすぐに悟った。自分もまた、茂みの向こうに潜む二人組を見た瞬間、思わず息を呑んでいたからだ。
 ちがう。こいつら、となり村のやつなんかじゃない。
 上から見て予測していた通り、自分たちとそう変わらない年齢の二人組だった。大きい方が前に出て、小さい方をかばう形になっている。睨みつける目は、こちらの姿を認めた途端、驚きに見開かれたような気がした。
「な、ななな、な、何だよ、お前ら!」
 動揺した兄がまごつきながら問う。単純な兄でも即座に分かるほど、この二人は違った。
 最初は服のせいだと思った。二人は薄汚れてはいたものの、お祭りの時のような色鮮やかな衣服を身にまとっている。でも、それだけじゃないとレーノは考え直した。何と言うか、雰囲気が普通じゃない。
「お前達は……この辺りの子どもか?」
 大きい方が警戒を崩さないながらも口を開いた。その口調も聞いたことのない柔らかい響きだ。
「こ、こっちが聞いてんだ! 何のつもりで俺らの土地に……!」
「すまない。通してもらおうとしただけなのだ。許してもらえないだろうか」
「お……おう。そ、そうやって下手に出るなら考えてやるけどよ」
「寛大な処置に感謝する。加えて、少し伺いたいことがあるのだが……」
「な、何だよ」
 兄は相手の馬鹿丁寧で難解な言い回しに、すっかり勢いを殺がれてしまったようだった。近くの町の位置や方向など聞かれて、素直に答えてしまっている。声を上ずらせ、最初の問いなどどこへやら、だ。
 で、こいつら、いったいなんなんだよ?
 釈然としないまま、目の前の二人組をじろじろと見つめたレーノは、年長の裾を掴んで、ずっと黙りこんでいる年少の方に目を止めた。自分より一つか二つ下といったところだろうか、その顔色は悪く、表情も暗く沈んでいる。今にも泣き出しそうだ。視線に気づいたのか、ふっとこちらへと目を向ける。その瞳の深い色に、レーノは心臓が跳ねる感じを覚えた。けれど、すぐにうつむかれてしまい、その色は見えなくなる。
 何とかもう一度こっちを向かせようと、レーノはそわそわと上着の隠しを探る。と、鼻に爽やかな匂いが届き、ついさっき訪れた場所を彼は思い出す。とっておきだけど、仕方がない。
「おい。おい、お前、お前さ」
 声をかけると、びくんと反応してこちらを見る。
「お前、おなかへってんじゃねーの。これやるから食えよ」
 突き出したのは、リネク桃の実だ。普通は酸っぱくてそのまま食べられないけれど、自分たちだけが知っている秘密の木のてっぺん辺りだけ、すごく甘いものが取れるのだ。
 最初、差し出されたものをびっくりした目で見つめていた小さい方は、匂いに誘われたのかやがておずおずと手を差し出した。大きい方が物言いたげに睨みつけてきたが、止められなかったのでそのまま渡す。
「……ありがとう」
 お礼の言葉と共にこぼれた笑みを見た後の、
レーノの記憶は何故かはっきりしない。妙にふわふわした心地で、皮のむき方を教えて食べるところを見ていたような気もする。けれど、はっきりしたのは兄に頭を小突かれてからだ。
「おい、話が決まったぞ。さっさと服脱げ」
 すぐ近くでされていたはずの年長同志の話の内容を、レーノはさっぱり耳に入れていなかった。

 その後にしたのは、ひどく怖い思いだ。
 いくら自分の陣地だとはいえ、普段の魔物ごっことは訳が違う。下手に転んだりすると捕まる、と意識すると、逆に足がもつれかけたりする。時折振り向けば、木々の隙間に人影が見える。子どもじゃない。立派な大人が数人がかりだ。
「あと少しだ!」
 それでも、兄の号令に励まされてひたすら走る。茂みの中を通り抜け、丘の穴に潜り込み、木々の幹から幹へ隠れながら走る。一つ難所をくぐる度、追っ手の数は減っていった。
 そして、村の外れの野良小屋に飛び込むと、兄が近くにあった穀物袋をかぶせてくる。棒を手に小屋の前で打ち合っていると、森の中からばらばらと男たちが出てきた。
「おい、そこのお前ら!」
 彼らは高圧的に話しかけてくる。
「ここにお前らぐらいの子どもがやってこなかったか?」
「ああ、あの変な奴ら? あっち走ってったけど」
 でたらめな方向を指さした兄の言葉を疑わず、男たちは再び駆け去っていく。その背に兄とレーノは舌を突き出してやった。
「ざまあみろ、悪人どもめ」
 穀物袋を脱ぐと、兄は似合わない色鮮やかな服を着ている。自分もまた同じで、裾が短いのが恥ずかしい。
「で、兄ちゃん、あいつら何だったわけ?」
 あれよあれよという間に服を交換させられ、走らされたレーノが改めて聞くと、兄は首をひねった。
「分からん」
「何にも聞かなかったの?」
 どうやらいつもの通りに考えなしで、相手に言いくるめられたらしい。それじゃあ、あの二人がどこの誰だか分かりゃしないじゃんか、とレーノは内心ため息をつく。
 明らかに近くの子じゃなかったし、もう二度と会えないかもしれない。
「悪い奴に追われてるんじゃ、助けなきゃいかん。お前だってそう思うだろ?」
 鼻息荒く促してくる兄の能天気な言葉に、ついついレーノは嫌味混じりで返してしまう。
「そうだね。向かいのクリャナちゃんより可愛かったもんね」
 その直後、顔を真っ赤にした兄の拳骨が、レーノの頭に容赦なく振り下ろされたのだった。

3-2

 下生えを踏みつける足音は遠く消え去り、茂みを鳴らすのは人の手ではなく吹く風だけになった。それでも慎重に気配を探りつつ、タナッセは潜んでいた茂みから身を起こした。何の反応もないのを確かめた後、つないでいた手を引いて小さな体を立たせてやる。
「大丈夫か?」
「……うん」
 ヴァイルは相変わらず浮かない表情をしていたが、顔色は少し良くなった。先ほどの出来事のせいかもしれないが、正直少々面白くない。
「さっきのは仕方ないが、知らぬ奴からもらったものをすぐに口にするんじゃない。何が入っているか分からないからな」
 そう注意すると、びっくりした目がこちらを見返した。
「でも、あの二人はべつに……」
「ああ、あいつらは悪人ではないだろうが。しかし、用心というものは必要だ。ここは城の外だ、何が起こるとも知れないのだぞ」
「……わかった」
 あまり納得のいっていない顔ながらも、ヴァイルは神妙に頷く。その様子は、一層自分がしっかりしなくてはとタナッセは思いを強くする。
「本当に、城へ戻る気はないのか」
 改めて問うと、一瞬硬直するも、再びヴァイルは首を縦に振る。その手は色褪せた服を止める帯を握りしめていた。子どもの腹には長すぎるそれは、縛り方が甘かったのかほどけかけている。タナッセが手を伸ばすと、ヴァイルはびくりと反応した。
「取ったりしない。直すだけだ」
 精緻な刺繍が施された飾り帯は、薄汚れていたものの見間違いようがない。あの日、旅立つ叔父が巻いていた、そしてヴァイルがかつて彼に贈ったものだ。加えて今の状況の原因を作ったものであり、半ば苦々しく思いながらぎゅっと締めてやる。ヴァイルは居心地悪そうにもぞもぞと動いた。
「なんか、かゆい」
 それはさっきから自分も気になっていることだった。服を取り替えてもらったはいいが、妙にごわついていて肌に触れたところがちくちくする。
「仕方がないだろう。あの服ではすぐに見つかってしまう」
「これが外ではふつうなの?」
「たぶんな」
 あの二人はうまく逃げおおせただろうか。頭はあまり良くなさそうだったが、信頼できそうな感じがした。だからこそ、最初は道を尋ねるだけのつもりだったのに、追われていることまで話したのだ。ちょうどよいことに二人の体型は自分たちとそうかけ離れていなかった。
「つかまって、ないよね?」
 何に思いを巡らしているのか勘づいたのだろう、ヴァイルが袖を握ってそう尋ねてくる。
「この辺りは奴らの土地らしいからな。大丈夫だろう」
 誰に物を言っているのか知らないからとはいえ、思い返せばあのふてぶてしさが妙におかしい。ミーデロンなどの慇懃無礼さより、はるかに好ましかった。
「さて、ゆっくりもしていられない。せっかく奴らが引きつけてくれたんだ、今のうちに離れておこう」
 聞いた位置関係から、方向を定める。本当は東へと向かい、城へ帰るべきだと思う。けれどヴァイルの希望はそうではなく、加えて素直に城の方へとまっすぐ向かえばすぐ見つかってしまう恐れがある。
「行くぞ」
 だから決めたのだ。進路は西だ。
 ランテの領地へ向かって、二人は歩き出した。

3-3

 その騒動に巻き込まれたのは、本当に偶然だったのだ。
 ミラネが去り、ばあやを亡くしたヴァイルのことを気にかけていたことは確かだ。けれど、生活の全てを共に出来る訳ではなく、それどころか共にいる時間はますます少なくなっていく一方だった。
 それは単純にお互い勉学に忙しかったこともあるし、貴族たちの牽制のせいでもある。そろそろヴァイルも婚約者を定めても良い年頃だ。最終的には後見人であるリリアノの裁可次第とはいえ、本人の心証を良くしておいて損はないに決まっている。彼らにとって何より邪魔なのは、最有力候補と勝手に決められている自分だ。奴らの思惑に従うのは癪だったが、自然にこちらからヴァイルに近づく機会は減っていった。
 第一、その日は元々ヨアマキス邸に呼ばれていて、そのまま城に帰らず屋敷で一泊する予定だった。ヴァイルを追って城から出た訳ではない。思えば、奴らは決行日をその外出にわざとぶつけたのだ。万が一にでも相談されないように。それが裏目に出たのは皮肉だと言える。
 ヨアマキス邸での外泊をタナッセは突如取りやめた。その帰路の途中で、遭遇は起こったのである。
「ふざけるな! 奴と会う気なぞ、あるものか!」
 そう言い捨てて屋敷を身一つで飛び出したのは、ヨアマキスの奴らの思惑を知ったからだった。母の体面もあり、親戚づきあいだからと渋々赴いたタナッセだったが、その会話の端々から何が行われるか悟ってしまったのだ。彼らが自分をヨアマキス陣営に確実に引き込もうとしているのは分かり切っていた。気に食わないのは、その方法だ。
 ぽろりと洩らされた、奴の到着が遅れているというその言葉。彼らは自分と父を引き合わせようとしている。
 途端、頭に血が上った。
 気がついた時には従者も置き去りのまま、外へと走り出していた。捕まれば何だかんだと引き止められる、そうこうしているうちに奴が到着してしまうかもしれない。我慢ならなかった。
 腹立ちのままに路地を駆ける。別に城までは遠くない。道に通じてはいなかったが、建物の合間から姿を見せる城にたどり着くのに、迷うことはないだろう。
「本当に会いたいというのなら、城まで来ればいいんだ……!」
 追手の気配を感じ、タナッセは裏路地へと飛び込んだ。今は誰にも会いたくない。連れ戻されたりしたら最悪だ。自分一人で城に戻ってしまうつもりだった。その裏路地で意外な相手とぶつからなければ。
 小さな影は突然横合いから飛び出してきて、十字路をまっすぐ突き進んでいたタナッセを跳ね飛ばした。腰を突くまではしなかったものの、よろけて壁に手を突いた彼に済まなさそうな声がかかる。
「あ、あの、ごめんなさいっ」
 あまりに耳に馴染んだ響きに反射的に目をやったそこには、やはり見慣れた顔があった。額は隠しているが見間違うはずもなく、向こうもまた、こちらの姿を認めて驚きに目を見開く。
「タナ……なんで……?」
「そ、それはこっちの台詞だ! 何でお前がこんなところを一人で……!」
 問いは最後まで口から出てこなかった。ヴァイルが胸の前で握りしめているものが目に入り、タナッセは息を呑む。その反応に、慌ててヴァイルは背中に隠したがもう遅い。
「それはどうした!」
 途端に膨れ上がった不安に突き動かされて伸ばしたタナッセの手を、ヴァイルは振り払って身を翻した。たちまち角の向こうに小さな姿は消える。
「こら、待て!」
 ヴァイルの態度は、タナッセの予感を確信へと変えた。先を行くヴァイルの脇からこぼれ出た帯ははためいて、縫い込まれた銀糸をその度にきらめかせた。あれはここにあってはならないものだ。
「どこへいく、ヴァイルっ!」
 その答えは路地の出口に待ち構えていた。息をひそめるように佇んでいた鹿車の扉が誘うように開き、ヴァイルは一瞬怯んだ様子で足を止める。しかし迫る気配に追い立てられてか、意を決して中へと飛び込んでしまった。タナッセもまた鹿車へと飛びつき、閉まりかけた扉へと身をねじ込ませようとしたが、その瞬間、腕を取られて中へと引きずり込まれる。窓が閉まったままの車内は暗く、中に何人いるかさえ把握もできないまま、口に何かを詰め込まれ顔を柔らかいもので包まれた。とっさに暴れようとしたものの、肩をがっちり抑え込まれて身動きがとれない。
 何が起きたのかは、少し考えれば明らかだった。しかし、どうすることも出来ぬまま、タナッセは鹿車の揺れに身をゆだねるしかできなかった。
 口を不自然に塞がれているせいか、段々と意識がぼんやりしてくる中、鼻を鳴らす音が微かに聞こえた気がした。

3-4

 その状態から解放されたのは、かなりの時間が経った後のことだ。
 放り込まれたのはかび臭い一室で、申し訳程度に寝台が置かれているような場所だった。ようやく顔を覆うものを外されたかと思うと、腰に何かがぶつかってくる。目を下にやれば、癖毛の頭が小刻みに震えていた。
「ごめ……ごめんなさい……」
 気にするな、と答えようとして、まだ口の中の詰め物が残っていることに気づく。タナッセは片手でそれを取り出しつつ、もう片方をヴァイルの頭の上に乗せた。
「大丈夫だ。何かひどいことはされなかったか?」
 尋ねながら、視線を動かし部屋の様子を観察する。正面の窓辺に一人、自分たちの斜め後ろの扉の前に一人、屈強な男たちが陣取って目を光らせていた。正面の男が歪んだ笑みを唇に覗かせる。
「ご安心を、お坊ちゃま方。少々手荒な真似はさせてもらいましたが、あそこで騒がれてしまうと小さいお坊ちゃまのご希望に添うことができなくなりますので、仕方なく。お行儀よくしていただければ、これからはより丁重におもてなしさせていただきます」
 空々しいその言葉に、タナッセは殊更わざとらしく眉をしかめてみせた。
「目的地はどこだ」
「小さいお坊ちゃまがご存じですよ。元々私たちはそのお望みを叶えるために尽力させていただいてる訳なんで」
 言葉づかいこそ丁寧でへりくだっているものの、目の光は鋭く、親しみもへつらいもまったく感じられない。尋ねても答えが得られないと判断したタナッセは、まずヴァイルをなだめつつ話を聞くことにした。男たちの視線を無視しながら、寝台へ腰掛けさせ、自分も横に座る。
「父さんの……とこ」
 そして辛抱強く待っていると、ようやくヴァイルの口からぽつぽつと事情が洩らされる。
「帰ってきたって……けがしてるって……連れてってくれるって……だから……」
 それを信じたのか、とつい口に出そうとしたタナッセは、かろうじてその問いを呑み込む。聞くまでもない。ヴァイルは信じたかったのだ、ただそれだけなのだろう。
「その飾り帯は誰が渡してきた?」
「テノックがひみつだって……父さんは本当は海になんか出ていってないで、命ねらわれてるからかくれてるんだって……」
「侍従頭が」
 ヴァイルが洩らしたその名前に、タナッセは唇を噛む。ヴァイルを連れ出そうと考えれば彼の目を盗んでは無理だろうと思ってはいたものの、あからさまに加担しているとは。それでも確認のため、加えて尋ねてみる。
「それで、侍従頭はどうした」
「外に連れてきてくれて、お店のうらから出て、ちょっとはなれたところで待ってる車にのりなさいって」
 もはや疑う余地はなかった。理由は分かりはしないが、侍従頭はヴァイルを裏切り、こいつらに売り渡したのだ。しかも父親という、ヴァイルの一番弱いところを使って。
「どこに連れていかれるかは聞いてないんだな?」
 重ねての問いに、ヴァイルは頭をふるふると横に動かす。万一洩れたら大変なことになるとでも言いくるめられたのだろう。ミラネやばあやがいれば、きっと彼のいつもと違う様子に気づいただろうに。
「……これからどうなるの?」
「大丈夫だ。大人しくしていれば、ひどいことはされない。そうだな?」
 あてつけがましく尋ねてみたが、見張りから返ってくるのはにやにや笑いだけだった。
 誰かはまだ分からないが、このお招きの主の狙うところは、ヴァイルの後見人の地位だろう。ならば、自分も含めて危害を加えることはないはずだ。今は静かに状況を見据えていくしかないし、それはタナッセにとっていつものことだった。とりあえず、今出来る唯一のことは体を休めることだ。
 出された食事を出来るだけ詰め込み、暗い顔のヴァイルを促して、寝台へと共に潜り込む。湿っぽく固い寝床が、ここは城ではないのだと改めて告げてきた。

3-5

 転機が訪れたのは、二日ほど経った時だ。
 前日から降りだした雨はその勢いを弱めることなく、急き立てるように鹿車を叩き続けていた。逆に兎鹿の足は進まぬ様子で、車内には苛立った空気が満ち始めている。
 逆らう様子を見せなかったせいか、あれ以降拘束もされず、タナッセはヴァイルの横に寄り添っていることができた。その時も、うとうとしているヴァイルの手を握りながら、今どこを走っているのか何とか手がかりは掴めないかと外の気配を窺っていたのだ。残念ながら聞こえてくるものといえば雨音と兎鹿を叱りつける御者の声ばかりで、収穫はありそうになかった。音と共に染み込んでくる冷気に身を震わせ、ヴァイルの肩からずり落ちた毛布をかけ直してやろうとしたその瞬間のことだった。
 襲ってきた一際大きな揺れが手元を狂わせ、毛布を掴み損ねたかと思うと、世界が傾いた。自然とずり落ちてきたヴァイルの重みを、タナッセの体は反射的に受け止め、強く引き寄せる。直後、息を詰まらせるほどの衝撃でその背中が叩かれて目の前が暗くなった。訳が分からないまま、ただ暖かさを逃さないように胸の中のものにしがみついていると、今度は何か強い力で引きずられ首が締めつけられる。抵抗しようにも体は自由にならず、苦しさで余計に気が遠くなっていく。
 朦朧とした意識を取り戻したのは、降りかかる冷たさと名を呼ぶ声のためだった。じわじわと広がる視界の中に、ヴァイルの顔が映り込み、そこに安堵の色が広がるのも認識する。見える範囲が広がっていくと同時に、感覚も戻り始めた。
 ぱらぱらと額に当たっているのは雨粒だ。ついた手の感触は柔らかく、むせかえる土の匂いが鼻につく。下半身から不快な寒さがじわりと染み込んできた。
「良かった……」
 そう言って胸にしがみついてくるヴァイルにはっきりしない返事をしながら、タナッセは自分の側を離れていく男の姿を目で追った。その先に見慣れぬものが転がっている。
 それが鹿車の底面だと悟るまでに、一拍の間を要した。それによってようやく今の状況を把握する。
 ぬかるみに車輪を取られ、鹿車は横転したのだ。どうやら車も含めて誰も大きな痛手は負わなかったらしく、男たちは集まって車を起こそうとしている。御者も含めて四人。自分が意識を取り戻すのを見て、側についていた男も加勢に出かけたのだ。自分とヴァイルは少し離れた木の下に放置されている。
「ねえ、タナッセ、あれ……」
 ヴァイルもまた、今の状況を理解したらしかった。小さくそう囁き、タナッセの注意を促す。そこには、一旦鹿車から解かれて木につながれている兎鹿たちの姿があった。先ほどの出来事のせいか、興奮した様子でうろうろしている。
「……行くぞ」
 今が好機だ。
 それだけでヴァイルも了解したらしく、途端にぱっと離れて駆け出した。痛む体を鞭打ち、タナッセもまたその後を追う。男たちがこちらの動きに気づく前に兎鹿へとたどり着き、その縄をほどく。
 兎鹿は騎乗に向かない。それは気まぐれな気性と、広いとはいえない背中が一因だ。けれど、子ども二人が操ろうとせずに兎鹿まかせにするのならば話は別だった。
 ヴァイルを先にしがみつかせ、自分もそれに覆うようにまたがる。最初は与えられた自由を分かっていない様子の兎鹿だったが、いきなりのしかかってきた重荷に腹が立ったらしい。振り払おうと、地面を蹴って走り出した。
「ガキどもが……!」
 そんな声が耳を打つ風音にかき消されていく。とりあえず、今のタナッセに出来る唯一のことは降り落とされないように兎鹿の長い毛を握りしめることだけだった。

3-6

 そして、逃亡の日々が始まった。
 兎鹿にしがみついていられたのがどれぐらいかは分からない。疲れ切った兎鹿が止まった時を見計らって、二人はそこから降り、森へと入った。
 それからはただ男たちの気配から逃げるように森をさ迷い、暗くなると茂みの中で休んだ。村の少年達と遭遇したのは、そんな時だ。
 彼らからの情報を元に、おおよその位置を掴む。城から南西に進んだらしきこの辺りは、あまり信頼できない貴族の領地だった。彼自身が依頼主であったとしても、驚きはない。
 これからどうするか、それを決めようとした時、ヴァイルが言い出したのだ。
「……城は、いや」
 飾り帯を握りしめながら、絞り出すような声で。
「海……見たい」
 もちろん、そんなことが許されるはずもなかった。今必要なのは安全な場所で、それは城以外にはありえない。けれど……城に戻れば、ヴァイルは間違いなく厳重に閉じ込められ、その願いはけして叶わないだろう。情が、判断を迷わせたのは確かだった。
 ここからフィアカントまでは、簡単にたどり着ける距離ではない。追っ手からすれば自分たちが城へ戻ろうとするのは当たり前で、逃げたと知ったら監視の目は厳しいだろう。そして、ランテ領までは遠いとはいえ、ここの西隣は侍従長を輩出した家筋の領地だった。その貴族が今回の仕掛け人である可能性は皆無ではないとはいえ、今いる場所の領主を頼るよりは安全な確率が高い。ならば、西に賭けてみてもよいのではないか、それが最終的な結論になった。
 そして今、タナッセは息をひそめて民家の壁に張り付いている。換気用の小窓から中の様子をちらちらと窺ったところ、人がいるようには思えない。行くしかなかった。
 半開きの扉に体を滑り込ませ、独特の匂いがする室内に首尾よく忍び込む。食糧や農具の備蓄小屋らしく、踏み込むと乾いた粉が足元から舞い上がった。急いで物色し、一番小さな干し肉の塊と一袋の干し豆、そして机の上に置いてあった小刀と陶器の瓶を懐に入れる。罪悪感に身を引かれつつも駆けもどると、茂みに待たせておいたヴァイルが不安げな目でこちらを見返してきた。
「さっさと離れるぞ」
 緊張で今更ながらに痛みはじめた胃を感じながら、タナッセはヴァイルを促す。
 東へ戻るにも西を目指すにも、当面の問題は水と食料だった。ここまでは何とか泉や野苺でごまかしてきたものの、これから先もそれでまかなえるとは思えない。第一それだけで足りるはずもなく、二人とも徐々に歩く足がおぼつかなくなってきていたのだ。
 少年たちの言っていた「となり村」にたどり着き、タナッセは覚悟を決めた。あの男たちの耳に入ることを用心すれば、人の前に姿を現す訳にはいかない。だったら手段は一つ、こっそりと借りることだった。もちろんそれが一般的に何と言われる行為か分かってはいる。それでも仕方がないのだと、どうにか自分の心に言い聞かせるしかなかった。
 いまだちくちくと痛む胸をもてあましながら、ヴァイルの手を引き先ほど通った泉へと戻る。そこで瓶に水を汲み、腹ごしらえをすることにした。
 とはいっても、あるのは豆と干し肉だけだ。小屋の中には他にも得体の知れない粉などが積んであったが、どうすれば食べられるか分からなかった。仕方なく、肉を少し削り、豆と一緒にそれぞれの手のひらに乗せる。口にすると肉は塩辛く、豆はぱさぱさしていて味がしなかった。
「……食べにくいな」
 自然とそう口についたタナッセに、ヴァイルも相槌を打つ。
「変な味……でも、なんか、おなかにじんわり広がる感じがする」
「そうか?」
「うん、本当に体の中に入ってきてるんだなって、そんな」
 言われてみれば、確かに口に入れた一つ一つがお腹の中に積もっていくような、変な感じがするような気もする。何となく神妙な気分で、二人は乾いた豆を噛み続けた。

3-7

 けれど、そんな呑気なことを言っていられるのも、最初の一日だけだった。
 太陽が出ている間は街道沿いに西へと向かい、人の気配を感じた時は脇に隠れ、月に代わられる頃になると道筋を外れて適当な茂みで休む。ヴァイルのくだらない家出につき合わされ、野宿の経験はあるから大丈夫だろうとの考えは甘すぎた。逃亡の当初こそ緊張感で体がついてきていたものの、長引くとどんな状態になるのか、城育ちの二人に分かるはずもなかったのだ。
「体いたい」
 ヴァイルから泣きが入ったのは、歩き出して三日目の夜のことだった。
「仕方がないだろう、他にどうしようもない」
 訴えられたタナッセとて、体の節々は軋むわ、足の裏はじんじん脈打っているわ、背中を何かに引っ張られているように重いわ、胃は絶えず引きつれたように痛いわで、ほとほと疲れ果てている状態だったのだ。言われなくても分かっていると思わず返しそうになり、どうにか呑み込む。
「……食事をして早く寝てしまえ。一眠りすれば少しは気分も晴れるだろう」
 どうしてもぶっきらぼうな物言いになっていくのを自覚しつつ、豆の袋を懐から出してヴァイルに手のひらを出すよう促す。しかしヴァイルはぼんやりとこちらを見返すばかりで動こうとしない。
「どうした。早く手を出せ」
 強く命じると、ヴァイルの瞳が戸惑いに揺れた。そして、その首はふるふると横に振られる。
「……いらない」
「何だと?」
「固いし、ぱさぱさしてつまるし、のどかわくし……食べられない」
 目を地面に落し、絞り出すようにしてヴァイルは言う。その様子は、タナッセの苛々を余計に募らせた。
「そんなことを言っても、これしか食べるものはない。何も食べずに歩ける訳はないだろう。我慢して食べろ」
 諭しても、ヴァイルはうつむいて黙り込んだままだ。食べるつもりはないと言いたいらしい。当然こんなものおいしい訳がないし、自分だって飽き飽きしているが、じゃあ他に一体どうしろと言うのだとタナッセは思う。
 その思いが口からこぼれ出た。
「ならば、何が食べたいと言うんだ」
 発された問いはいかにもとげとげしく、冷たく響いた。うずくまるヴァイルの肩がびくりと震えるのが目に留まり、タナッセの心にちらと後悔の念がよぎる。けれど、それもヴァイルの答えを聞くまでだった。
「……あの桃……おいしかった……」
 途端、自分でもおかしいと思うほどに、頭に血が昇るのが分かった。先ほど感じた後ろめたさなど吹き飛び、腹立ちがふつふつと臓腑を焦がす。人が恥ずべき行いに手を染めてまで手に入れたものを一体何だと思っているのか。
「じゃあ、あの村に戻るといい!」
 気がつくと、タナッセはヴァイルに指をつきつけ、そうなじっていた。一度吹きこぼれたものが戻るはずもなく、貯め込んだ不満は次々と唇から吐き出される。
「奴らの仲間に誘われていたろう、そんなにあちらがいいなら、さっさと行くがいい! そしてあの男たちに捕まってしまえ!」
「ちがっ……じゃ、なくて……」
「何が違う? 人の苦労も知らずに、よくまずいだの何だの文句がつけられるな!」
「じゃなくて、何か……何か……」
 出した大声とヴァイルのはっきりしない言い訳が、余計に興奮を煽る。
「第一だ、一体誰のせいでこんなことになっていると思ってるんだ! お前さえ、あんなくだらない話に引っかからなければ、今頃は……!」
 それは、確かに本音だった。幾度も胸をよぎったが、その度に呑み込んできた糾弾だった。そして……何があろうと、呑み込み続けなくてはならないことだった。
 自分を見返すヴァイルの瞳が見開かれ、顔色がみるみるうちに青ざめていくのを目の当たりにしたタナッセは、自分の頭からも同じように熱が引いていくのを感じていた。いくら悔やんでも、舌を離れた言葉は戻ることはない。それが自分の本心から出たものだと分かっているからこそ、尚更胸が詰まった。
 謝らなくては、と思う。なのに、舌はしびれたように重く動いてくれない。
 睨みあうような長い沈黙の後、先に動いたのはヴァイルだった。無言のままゆるゆる地面に体を横たえ、ぐたりと目を閉じる。それはこの気まずい時間を一旦流そうという表明にも思われて、タナッセは内心胸を撫で下ろす。
 朝になれば、自分の口もきっとちゃんと動いてくれるだろう。ヴァイルも空腹に耐えかねて意地を張るのは止め豆を口にするだろうし、そうなれば失言を謝って仲直りできる。今まで何度もしてきた喧嘩だって、そうだったのだから。
 タナッセは少し距離を開けた場所に同じように寝転がる。閉じたまぶたの下で、朝の光を思い描きながら。

3-8

 そして、そうはならなかった。
 蘇った朝の光の下でさえ、状況は何一つ変わらなかった。
 ヴァイルは相変わらず青ざめた顔で頑なに口を閉ざし、朝食を入れようとはしなかった。最初は気遣っていたタナッセも、その依怙地さに再びむかむかしたものが胃を這いずり回るのを感じ始める。
「食べないというのなら、好きにするがいい。ただし辛いのは自分なのだぞ」
 謝るはずだった言葉は、いつの間にか脅しつけるような文句に変わっていた。胸の痛みは苛立ちに追いやられ、奥へと押し込められてしまう。
 これみよがしに食事をしてみせたがヴァイルは言うことを聞かず、結局そのまま出発することになる。それからがまたひどかった。
 ヴァイルの足取りはわざとかと思うほどのろく、ほんの少し進む度に喉が乾いたと瓶の水を要求する。まるで当てつけているかのようで、タナッセの苛々は頂点に近づきつつあった。五回目の要求の後、ついに彼は瓶をヴァイルに押しつける。
「そんなに飲みたいなら、自分で持っていけ!」
 無理に持たせて踵を返し、前へと進み始めた途端に、背後から耳障りな破壊音が響き渡った。振り向けば、呆然と立つヴァイルの足元に、いくつもの破片が散らばっていた。何も言われなくとも、取り落として割ってしまったのだと分かる。
 瓶は一つだけしかない。これから先、水が欲しい時に都合良く川や泉や井戸があるとも知れないのに。しかもそれを探すのは、まず間違いなく自分だ。
 しでかした本人は、何をやったのかも分からないような顔で、ぼんやりとこちらを見返してきた。謝る気配もなく、その目線は押し付けてきたお前が悪いと言っているようにすらタナッセには思えた。
 そう、城ではこれで許されるのだ。何しろこいつは大事な寵愛者様なのだから。廊下に置かれていた瓶を引っかけて壊した時も、侍従長は当のヴァイルではなく一緒にいた自分を責め立てた。これまでずっとそうだったし、これからもずっとそうなのだ。ヴァイルと共にいる限り、ずっとそうなのだ。
 憤りがタナッセの身を焦がす。彼はヴァイルに背を向け、一人で歩き出した。しばらく進んだ後に後ろの様子を窺えば、相変わらずの遅さでついてくるヴァイルの姿がある。
「……っ!」
 衝動に突き動かされ、タナッセは早足でヴァイルの元へと戻った。そして垂れ下がるその手を取り、強く引く。引きずってでも早く歩かせてやるつもりだった。
 手ごたえは、ほとんどなかった。
 抵抗も、重みも、感じられなかった。
 引く力のままにヴァイルの体はゆらりと傾き、そして戻らなかった。
 土埃が上がり、衝撃が腕に響く。そうなってやっと、今何が起こったのかタナッセは気づくことができた。
 従弟の小さな体が道の上にうつぶせて転がっている。
「お、おい……何を……ヴァイル? ヴァイル?」
 呼びかけに答えはない。揺らしても反応はない。放心したままその横にかがみこみ、あおむけに直してやると、現れた半開きの瞳にはまったく生気が見られなかった。体は細かく震えており、額に手を当ててみれば尋常ではない熱さが伝わってくる。
「まさか……ずっと……」
 ヴァイルには確かに結構我がままなところがある。ぐずって周りを困らせることもあった。けれど、改めて思い返してみれば、昨日からの様子は明らかにおかしかったのだ。
 頭を冷やしてやる水はもう手元になかった。安静にさせてやる場所も辺りにはない。このまま放っておけばまずいことになるのは、さすがにタナッセでも理解できた。
 力の抜けた体をどうにかおぶい、彼は走り出す。急き立てる苛立ちは、ヴァイルに対してではなく、自分に対するものにいつしかすり替わっていた。

3-9

 入った途端、乾いた草の匂いがタナッセの鼻をくすぐる。扉を閉めた反動で、手にした桶からこぼれた滴が靴にかかり、冷たさが染み込んでくるのを感じた。天井を覆う不揃いの板の隙間から差し込んでくる陽の光は弱く、夜が近いことを告げてきていた。
「ヴァイル」
 小屋の隅に積まれている藁の小山に近づき、タナッセはその名を呼んだ。返事はない。黄金色の乾いた草の隙間から、癖毛の頭が覗いているのが見えた。
 桶を床に置き、額から落ちた布を拾い上げる。それを汲んできた水につけて絞ると、眠るヴァイルの顔に浮かぶ汗を拭いてやった。額を触ったせいか、冷たさのせいか、閉じていたまぶたがゆるゆると開く。
「分かるか?」
 覗き込み、問うと、囁くようなかすれ声で名を呼ばれる。
「タナッセ……」
「そうだ。気分はどうだ?」
「頭……重い」
「熱がかなり出ているからな。今、水をやろう」
 起き上がれる状態でもなさそうなので、もう一度布を桶につけて軽く絞り、口に含ませてやる。あまり飲めている様子はなかったが、唇のひび割れは少しだけましになった。
「いつから調子がおかしかった? ずっと無理をしていたのか」
「熱……分かんない……」
「早く言ってくれればもっと……」
 そう口走ったものの、タナッセにとってもここ最近の自分の状態が疲れのせいか空腹のせいか体調が悪いせいかなど、分かりはしなかった。ましてヴァイルはこんな風に寝込んだことなどないのだ。
 自然と思っていた。自分が耐えられるのならば、ヴァイルもまた大丈夫なのだと。何しろ彼は、誰よりも強く優れた寵愛者なのだから。
 もう一度布を水で冷やしてしぼり、額に乗せてやる。僅かに輝く選定印の光が遮られると、そこにあるのは朦朧とした小さな子どもの姿だった。
「さ、まずはゆっくり寝ろ。一晩経てば、きっと熱も下がって楽になる。そうしたらまた海を目指そう」
 寒くないよう、藁をかき寄せて肩まで覆ってやる。ヴァイルはどこか不安な光を宿す瞳でタナッセを見上げ、口を動かした。
「海……」
「そうだ。さっさと治さないと置いていってしまうぞ」
「おいてかないで……」
「いかないから、今は大人しく寝ろ」
「……いてか……」
 熱はすぐにヴァイルを眠りへ引き込んでいく。呟きが寝息に変わったのを確認してから、タナッセは深く息をつき、辺りを改めて見回す。
 街道の近くに立つ野良小屋だった。藁を保管するためにあるのだろう、今は人の出入りもないようだ。あるものといえば乾いた藁の山といくつかの農具だけだったが、屋根と暖かい藁と桶があるだけでも、二人にとってはこの上ない恵みとなった。
 意識のないヴァイルを背負って走り、自分もまた倒れる寸前で何とかここまでたどり着いた時には、思わず神に感謝してしまったくらいだ。一時しのぎにしかならないとはいえ、水を確保できるだけでもありがたい。しかし、薬も充分な食料も手元にはなく、これ以上できることがないのは辛かった。
 自分が病に倒れた時は何をしてもらっただろうと、改めてタナッセは思い出す。医士の診断、暖かな寝床、栄養のある食事、頭を冷やし汗を拭くような世話……かつて当たり前に与えられたものが、今はどれだけほしいものか。自分にできることといえば、ヴァイルの自然な回復を祈るばかりだ。
 そんな思いを巡らせていたタナッセは、意識の端にふと嫌な引っかかりを覚えた。熱と結びついた思い出。同じように自分は何かを祈った。何を……何を?
 閃きが答えを連れてきた瞬間、耳障りな音がすぐ側で弾けた。それが自分の唇から洩れていると気づいた頃には、それは抑えきれない大きさになり全身を震わす。こんな滑稽な結末を、笑わずにいられようか。ようやく神はこの出来損ないに情けをかけてくれる気になったらしい。
 病床で為した祈りは、ついに御許に届き、叶えられたのだ。
 ヴァイルの苦しみを、自分は神に要求したのだから。

3-10

 気がつけば、小屋は闇に沈んでいた。
 どれぐらい笑っていたのか、それともいつの間にか眠っていたのかよく分からない。ただどんよりとした疲れが体中にまとわりつき、喉はからからに乾いていた。
 タナッセは桶の中の水をすくって含む。温い感触が体に染みて、ようやく頭が動き出す。
 最初にしたのは、ヴァイルの様子を確認することだった。いまだ眠りの中にいるらしいが、呼吸は浅く辛さは和らいでいないように思えた。半ば乾いている額の布を取って濡らし再び戻してやる時、触れた額からは変わらぬ熱が伝わってくる。これでは汁気たっぷりのものを食べたくなって当たり前だろう。けれど自分が与えられるものは、ぱさついた豆と塩辛い肉片だけなのだ。
 それでも、食べなければ弱っていくばかりだ。目を覚ましたヴァイルに豆をすりつぶして水で練ったものを与えてみたものの、呑み込めず喉を詰まらせたので一口で諦めた。結局水を飲ませることしかできず、藁の寝床に戻すしかない。
 やつれた顔は先ほどよりその陰を深くしているようで、見ているタナッセはいてもたってもいられなくなる。
 もしかしたら、この小屋の周りに何か果物が生っているかもしれない。民家があって、食事を分けてもらえるかもしれない。当てもなく立ち上がりかけたタナッセだったが、下に引かれる感触でその動きを止める。見ればヴァイルの手が服の裾を掴んでいた。
「や……」
「どうした?」
 自然と握り返すと、指は冷たく震えている。
「寒いのか?」
 問えば、少しの間の後に頷きが返ってきた。城でならすぐに湯たんぽでも持ってこさせるところだが、当然ここにあるはずもなく、火を燃やす道具もない。タナッセの持つ暖かいものといったら、一つしかなかった。
 藁の中に潜り込み、半ば抱えるようにして寄り添ってやる。
「さ、こうしていてやるからゆっくり休め」
「うん……」
 ヴァイルはそう返事したものの、すぐには寝付けないらしくもぞもぞと動いていたが、やがて胸に額を押しつけるような姿勢で安定したらしい。丸めた背を撫でながらしばらく様子を見ると、ヴァイルから伝わる細かい震えは徐々に収まってきた。
「眠ったか?」
 確認のために発したタナッセの問いかけには、しかし返事が戻ってくる。
「……ねえ、タナッセ」
「何だ」
「タナッセは、城に……帰りたい?」
 その問いは、タナッセに昨晩のやり取りを思い出させた。舌の奥に苦い味を覚えつつ、彼は答えを迷う。どう返せばあの失言を取り戻せるのか、考えなくてはならなかった。
 そしてタナッセは首を振る。
「いや……」
「どうして?」
「私は……あそこは、好きではない。だから、戻らなくても平気だ。海へ行こう」
 海に行きたがるヴァイルの機嫌をとった答え。それと同時に、口にした思いがあまりにしっくり心にはまるのに、内心タナッセは驚いていた。そうだ、これは自分の本心でもある。昨夜だって、自分は城を懐かしんで取り乱した訳じゃない。今だって、欲しいのは十分な食料や寝具で、城という場所ではないのだ。
 だから、ヴァイルは心配することはない。ここに置いて帰ったりはしない。
 そう伝えるように背中を優しく叩くと、ヴァイルは眠くなってきたのか、消え入るような声で囁く。
「ん……そっか……」
 それを最後に、静寂が訪れた。腕の中の温かみを感じながら、タナッセは改めてかつての出来事を思い返す。
 中庭で、今とは違い平和に眠りこけていたヴァイル。傍らでその頭を撫でていた叔父。もういない、叔父。
 彼は自分がいなくなった後を心配して、ヴァイルのことを頼んでいったのだろうか。あの時は何も考えずに返事をした。けれど今、叔父が現れて同じ頼みをしたならば、自分は同じように頷けるのだろうか。
 答えは出せなかった。
 たどり着く前に、じんわりと染み込んできた眠気に負け、タナッセの意識は闇に沈んでいった。

3-11

 何か、とても嫌な夢を見ていた気がする。
 けれどその記憶は、目を開けた瞬間に四散して、どこにも見当たらなくなった。ただじっとりとした不快な感覚だけがいまだ皮膚にまとわりついているようで、タナッセはそれを払い落とすように身を震わせ、朝の気配に誘われるように藁の山から抜け出した。
「う、ん……」
 それに反応したのか、背後で小さな呻きが上がる。桶を手にしたタナッセは、起きかけているヴァイルへと声をかけた。
「新しい水を汲んでくる。ちょっと待ってろ」
 ついでに小川で顔を洗い、近くに何か果物でも生ってないか確認してくるつもりだった。しかし、小屋の扉を開ける前にタナッセの足は止められる。背後で立ち上がった気配を感じたために。
「……か……で」
 振り向いたタナッセの視界に、起き上がろうとするヴァイルの姿が飛び込んできた。よろめくその体から髪や服にへばりついた藁屑がはらはらと舞い落ちるのが、天井から差し込む光に照らされて良く分かった。
「……ないで……っ」
 そのままこちらへ歩み寄ってこようとしたらしかったが、二歩も進まないうちに膝が折れる。なしくずしに床に崩れ落ちるその姿を見て、ようやくタナッセは自分が何もせず突っ立っていたことに気づいた。呪縛が解かれたように桶を床に置き、慌てて駆け寄る。額に当てた手のひらが感じるものは、昨夜と変わらぬ熱さだった。
「何をしている。まだ寝ていろ」
「平気……行く……行く……」
「どう見ても平気じゃない。何をそんなに……」
「行くか……おいてか……で……」
 しがみつくヴァイルの震えは、寒さからだったのか、恐れからだったのか。それは分からなかったが、この行為の理由はタナッセにも十分伝わった。誤解を解くべく、優しく言い聞かせる。
「水をくんでくるだけだ。出発する訳じゃない」
「……てかな……」
「大丈夫だ。すぐ戻る」
 どうにか落ち着かせたヴァイルを藁の寝台に戻し、改めてタナッセは小屋の外に出た。強まりつつ太陽の光に照らされて、足元にうずくまる影は暗く重かった。
 このままでは、だめだ。
 時を追うごとに、不吉な予感は強まりつつある。一晩を過ごしても熱が下がる気配はない。それで何も口に入らないとなれば、回復するはずもなく弱っていくだけだ。
 足早に小川へと向かいつつ、タナッセは辺りの木々に目をやった。けれど、そこには青々と茂る葉があるばかりだった。
 果物など見つからない。アネキウスはそんな奇跡を与えてはくれない。
 何かが耳の側で囁いた。
 それはお前が本当に望んでいないからだ。全知たる神はお前の心の全てを見通していらっしゃる。
 違う、という反論の心の声は、嫌になるほど弱々しく響く。囁き声は止まることなく言葉を重ねる。
 お前は思っている。あれは卑劣な盗人だと。お前が与えられて然るべきものを横から奪っていったのだと。
 違う。
 お前はあれが邪魔なのだ。消し去ってやりたいのだ。だからこんなところで……。
 違う!
 タナッセは頭を振り、責める声を振りほどく。そして力任せに桶を小川へと叩きつけ、水を汲み上げた。
 だめだ。このままではだめだ。ここにいてはだめだ。
 限界だった。もう自分に出来ることは何もなかった。自分には何の力もなく、何も持ってはいなかった。
 助けを求めなくてはならない。それしか方法はない。弱り切っている小さな従弟を救うためには、それしか。
 小屋にたどり着く頃には、タナッセはすっかり決心を固めていた。陽の光はますますその明るさを強め、彼の影を色濃く地面に焼きつけていた。

3-12

 影とは、罪の証だ。
 走りつつ、タナッセはそう考える。
 かつて一人の男がいて、彼は魔につけこまれた。その悪心が形となり、神の光の元でまろびでる。一度犯した過ちは取り返すこと適わず、二度と離れぬ染みとなり人につきまとう。
 地を蹴り、前に進めば影もまた同じようについてくる。唯一の道連れだ。
 タナッセは一人だった。一人で走り続けていた。側に従弟の姿はなかった。置いてきたのだ、あの小屋に。
 仕方のないことだった。
 助けを求めにいくことを告げた時、ヴァイルはぼんやりとした眼でタナッセを見返した。よく意味が分かっていない様子だった。朝のこともあり、タナッセは噛んで含めるようにして説明する。
 このまま二人で進むのはもう無理だ。だから、味方を呼びにいくと。
 とはいえ、街道を通る商人たちや近くの村の人間に正体を告げる気にはなれなかった。彼らは城で見る人々とはどこか違って怖ろしかったし、どんな態度に出るか見当もつかなかった。二人で歩いている時も、厭らしい目つきで近づいてこられた時があった。彼らはとても信用できない。
 元から、タナッセには考えていることがあった。歩いてきた結果、領境はすぐそこまで迫っていた。急ぎで行けば一日かからず境の街につくだろう。善悪分からぬ通行人や農民に賭けるより、そこにいるはずの警備の衛士らに頼った方が確実だった。
 だから、タナッセは走っている。一人きりで、出来うるかぎり速く。
「や……いや……」
 ヴァイルは案の定嫌がった。けれど、残していくしかなかった。背負って連れていくことも考えたけれど、それは目立つし、自分の体力のことを思えば共倒れするばかりだと、タナッセは判断していた。この小屋にたどり着いた時だって危うかったのだ。
「や……怖い……怖い……」
 すがりつき震えるヴァイルをなだめ、言い聞かせる。夜が来る時までには戻ってきてみせる。心配することはない、眠っていればすぐ過ぎると。
 それでも不安は消えないようだった。寝かしつかせて藁で包み、すぐに水が飲めるように側に桶を置いた後で確認すると、まだ震えは止まっていなかった。どうしたものかと思案するタナッセは、自分の服の下の冷たい感触に気づく。食料と共に盗み出した小刀は、肉を削るためと万一の時の護衛用に身につけていた。
「ほら、これをこうしておいてやるから。大丈夫だ」
 ヴァイルの頭の下、藁の中に小刀を突っ込んでやる。こうすると悪い夢を見ないですむ、古いまじないだと誰かから聞いたことがあった。それでなくても、もしもの時に身を護る手立てになるかもしれない。もっとも、今のヴァイルに抵抗できる力などないだろうが、少しでも気休めになればいい。
 安心させるように額を撫でてやると、ヴァイルはとろんとした目でこちらを見返すだけで、もう何も言わなかった。眠気が襲ってきたのだろう。今が好機だと、そっと側を離れ、出口へと向かう。扉を閉めつつ様子を窺ったが、立ち上がる気配もなく静かなままだった。
 そして、タナッセは走っている。飢えと渇きと疲れが全身にまとわりつき、一歩ごとにその重みは増してくるようだ。流れていくはずの景色は悲しいほど遅く、足踏みしているような気分になるが、それでもじりじりと進んでいる。
 城では、武芸の修練も課されていた。受けながらも、内心無意味だと思っていた。力仕事が必要なら、衛士を使えばいい。第一その衛士たちですら、力の奮いどころもなく、日がな警備や見回りをしているだけなのだ。そんな心持ちで、何かと理由をつけては怠りがちだった鍛練を、今この時だけはしっかりこなしておけばよかったと後悔していた。
 息は切れ、耳の奥は痛いほどに鳴り、吐き気は喉をつまらせ、足に力が入らなくなる。 けれど、止まれなかった。止まる訳にはいかなかった。止まれば二度と動けなくなる。止まれば心が折れてしまう。止まれば……影に追いつかれる。
 戻ると言ったのだ。
 日が陰るまでには、きっと。
 世話ぐらいすると請け負ったのだ。
 弟みたいなものなのだから。
 だが、それはお前の本心か?
 追いかけてくる昏い問いかけを振り払うように、タナッセは走り続ける。
 やがてその向かう先に、そそり立つ石壁が現れ始めた。

3-13

 気がついた時には、広い背中の上で揺られていた。心地よいその調子に身を任せながら、タナッセは目覚めたばかりのはっきりとしない頭を徐々に働かせる。
 辺りには夜の気配が漂いつつあった。自分を背負っている男と並び、他にも二人ばかりが走っているようだ。どこへ向かっているのだろうとタナッセは思い、そこでようやく意識ははっきりした。
 はっと身じろぎするとそれが伝わったらしく、背負い主の頭がわずかにこちらへと向けられる。
「お目覚めになられましたか、殿下。そろそろおっしゃられていた場所かと思いますが……」
 その礼儀正しい口調に誘われ、タナッセの頭の中に幾つもの記憶の欠片が去来する。
 自分は街にたどり着いた。門兵に己の身分を告げた。彼らは戸惑いながらも、警備の仲間を呼び集めた。その中から数人が出て、タナッセの証言を確かめるべくその場所に向かうことにした……。
 今にして思えば、どこまで詳細かは分からぬものの、二人組の子どもを確保せよとの通知が城から出ていたのだろう。みすぼらしい身なりの子どもとはいえ、現れて話した内容は看過できぬものだった。この三人は確認のために遣わされたのだ。額の印さえ検めれば、真実かどうかはすぐに分かるのだから。
 それにしても、とタナッセは思う。自分という荷物を負ってさえ、衛士たちの足は速い。どれぐらい眠っていたかは分からないが、自分が街に着いたのは昼もかなり遅くなってからのはずだ。自分にこの力が、足があったならば、ヴァイルはとっくに手厚い看護を受けられていただろうに。
 唇を噛んだ彼の視界に、見覚えのある光景が近づいてきていた。タナッセはここだと男たちに告げると、小屋の前で地面に下ろしてもらい、彼らより先に入ることにする。
 ヴァイルは怯えていた。いきなり男たちが踏み込んでくれば、変な思い違いをするかもしれない。まず自分が顔を見せて安心させるべきだった。
 よく覚えていなかったが、自分は色々と口走ったらしい。気の利いたことに衛士たちは桃や葡萄を渡してくれた。これでやっとヴァイルを楽にしてやれると、タナッセは晴れ晴れとした心地で扉を押し開ける。
 そして、その瞬間、彼の明るい気持ちはあっけなく吹き飛んだ。
 最初に感じたのは匂いだった。異様な、けれど確かにどこかで嗅いだことのある匂い……ふとタナッセの脳裏にユリリエの顔が浮かぶ。そうだ、足を引っかけられて転び、強かに鼻を打ちつけた時のことだ。尋常でない量の鼻血が出てしまい、口の中に広がる生臭さはしばらく消えなかった。それと同じ感じだ。
 ついつい思い出を振り返っていたタナッセは、少し遅れてその意味に気づき、身を凍らせる。血。誰が。誰の。
 暮れかけの弱まった光が差し込む土床に、赤い色が広がっていた。桶がある。その縁に同じ色の模様が散らばっている。藁の山は崩れている。気配はない。人の気配は。
 両の唇を離しても、声は出なかった。視界が揺らぎ、足元がふらつく。ここから今すぐ出ていきたい。心はそう喚くのに、何故か自分は一歩ずつのろのろと前に進んでいる。地面についた跡。引きずるように。奥へ。奥へと。
 一番奥まったところに積んである藁の山から、それは覗いていた。小さな革の靴。見たことのある。靴だけなら目立たないだろうと、交換しなかった。さらに進むとその先が見える。繋がっている、肉の足。そしてそれは腰へと繋がり、胴へと繋がり……。
「……ヴァイル」
 ようやく声が出た。呼ばれた名前に反応はなかった。地に引かれた朱の筋は伏せた顔へと続き、匂いはいっそう鮮明に鼻を刺激した。
 転んだ。鼻を打った。血。間の抜けた話。あの時も笑われた。そうだ。そうに決まっている。
 突然、無性におかしな気分が胸の内に膨れ上がってくる。こんな時にくだらないことを。まったく、こいつはいつも突拍子もないことをするのだ。振り回される方の気持ちも知らないで。一度言い聞かせてやらなくてはならないだろう。それが年長者の務めというものだ。
 タナッセはそう決心しながら、こちらを向かせようとヴァイルの肩に手を掛ける。
 もちろん、そんな状況のはずはなかった。そんなことは分かっていた。馬鹿げた夢想は、現れ出た顔を見た途端に打ち砕かれた。正確には、その額。
 いまだつながったままの皮が、共にこそぎ取れている肉片の重みでぶらりと揺れる。印を狙うように開いた傷口。その隙間から血に汚れて覗く肉の表面に。
 タナッセは緑の淡い光を確かに見た。
 瞬間、反射的に動いた彼の手は、はがれかけている皮を元の位置に戻すように覆っていた。伝わってくるぬるい感触。熱。生の気配。
 ヴァイルはまだ死に連れ去られてはいない。顔は血に塗れ意識はないが、抱き寄せた体は脈打ち鼻や口からは息が洩れている。
 ……誰が……誰がこんな……。
 外にいる衛士たちを呼ぶことも忘れ、へたり込んだままタナッセは己にそう問う。既に得ているくせに、自覚できない答えを求めて。
 タナッセはもう気付いている。
 血と脂で汚れた小刀が、すぐそこに落ちていることに。投げ出されていたヴァイルの赤く染まった指の、その爪の隙間まで血と皮が入りこんでいることに。

3-14

 踏み込んできた衛士たちに付き添われ、街まで連れられてきたのをタナッセは覚えている。清潔で落ち着いた部屋へと通され、駆けつけてきた衛士長や自分の侍従頭と対面し、言葉を交わしたことも。けれど、それが一体どれぐらいの時が経ってからなのか、自分がその間何をして過ごしていたのか、細かいところの記憶はまったくはっきりしない。
 記憶と時間が連動しはじめたのは、彼女が部屋に訪れてからだった。
「タナッセ……」
 名を呼ばれ、強く抱きしめられて初めて、タナッセはそれが母だと認識した。その途端、突然訪れた思いもかけない状況に、思わず身が強張ってしまう。その緊張はリリアノにも伝わったらしく、身を離した彼女は曖昧な困ったような笑みを唇に乗せていた。
「ああ……突然すまないな。体の調子はどうだ?」
 気遣いの言葉はぎこちなく、タナッセはふと自分が取り返しのつかないことをしてしまったのではと思う。けれど、もう遅い。
「あの……特には、別に……」
 ごまかすように、もごもごと返すのが精一杯で、まともに母の顔を見返すこともできなかった。うつむいたつむじに母の声が掛けられる。
「そうか。お主の体調さえ良ければ、明日にでも城に戻ろうと考えている。支障はないか?」
 自分は別に、と答えようとしたところで、改めて気づかされる。母がわざわざここまで出向いたのは、自分を迎えに来た訳ではないことに。そして、その対象のことをわざと考えまいとしていた自分に。
 はっと顔を上げると、母と目が合った。同時に瞳に飛び込んできたのは、彼女の額に輝く光。あの時の匂いが再び鼻の奥をついたような気がして、一瞬目の前が眩む。
 ずっと口に出せなかった名前が、その弾みにぽろりとこぼれ出た。
「ヴァイルは、その……」
 あれからどのぐらいの時が過ぎたのだろう。数回食事はしたような気がする。自分が聞かなかったせいか、使用人たちは何も伝えてこなかった。だから大丈夫だ。大丈夫なはずなのだ。
 タナッセの不明瞭なその問いに、リリアノは小さな頷きを返す。
「もちろん共に連れて帰る。弱ってはいるものの、寝かせたまま移動させる程度なら可能そうだからな」
 彼女の答えは、容態に差し迫ったところがないということを意味していて、タナッセは安堵を覚える。が、同時に抑えようもなく心の奥がざわめくのに耐えてもいた。赤い爪と指が、皮膚の裏から覗く光が、瞼の裏にちらつく。
「どうする。お主、同じ車に乗っていきたいか?」
 だから、問われた瞬間に拒否してしまったのだ。
「いえ!」
 滑稽なほど甲高い声は部屋の中を跳ねまわり、発した本人の耳さえ突き刺した。リリアノの眉がひそめられるのを認め、タナッセは頬が熱くなってくるのを感じる。きっと薄情な奴だと思われているのに違いないのだ。
「タナッセ。予め言うておくが、今回の件を気に病むことはない。お主は十分な働きをした」
 タナッセの心中を知ってか知らずか、拒絶の響きが消え去って後、リリアノは落ち着いた声音でそう説き聞かせ始める。しかし、彼女の語る内容は、彼の記憶とは食い違うことだった。
「むごいことだ。お主が助けを呼びに出た隙に、狼藉者が追いついてヴァイルを害そうとは。不幸な巡り合わせとしか言えまい」
 驚いて見返したリリアノの瞳には、ためらいの色は見られなかった。それでタナッセも悟る。そういうことになるのだと。
 誘拐犯が傷を負わせただけで放置するはずもなく、医士が見れば傷の不自然さは明らかだろう。リリアノが彼らの報告を受けていない訳がない。だが、彼女はその犯人を認める訳にはいかない。
 彼女は王なのだ。
 改めて突きつけられた事実に、タナッセの内でうごめいていた不穏な予感は冷えて刺々しく固まっていく。ここにいるのは、けして自分を気遣ってのことだけではない。今回の件に関し、口外しないよう釘を刺しにもきたのだ。王候補が己の印を剥がそうとするなど、あってはならないことなのだから。
 でも、それじゃあ。それじゃあヴァイルは。
 湧き上がってきた言葉は、それ以上つながらず、口から溢れることもなかった。今更自分が何を言えるというのだろう。弱り切ったヴァイルを置いて、一人だけ走り去った自分が何を。
 そう、お前はあれが邪魔だったのだ。
 再び囁いてくるその声への反論は、弱々しく消え入りそうなものだった。

3-15

 城まで乗っていく車は、ヴァイルとも母とも別のものを選んだ。さすがに王直々のお出ましとあっては警護も厳しく、取り立てて何が起こる訳でもなく城への旅路は終わる。
 道中、時折ヴァイルの姿を目撃することがあった。それは大抵鹿車へ出入りするところで、ぐったりと衛士に抱えられているばかりだった。お互い声が掛けられないような状況に胸が痛んだが、同時にタナッセは安心してもいた。対面できたところで、どんな顔をすればよいのか分からなかったのだ。
 フィアカントに入り、鹿車の窓から湖の向こうにそびえる城を見た時、タナッセは奇妙な違和感を抱く。何も変わらぬ姿であったはずだが、そこはまるで見知らぬ場所のように一瞬思えたのだった。
 実際、城はどこかよそよそしい表情でタナッセを迎えた。出会う人々はタナッセに対して同情と気遣いを見せつつも、どこか探るような目で接してきた。最初は彼らの態度から受ける違和感に戸惑いつつ、自分の思い過ごしだと片づけてきたタナッセだったが、その理由を知った時には怒りと失望で目が眩む心地になったほどだ。
 彼らは疑っているのだ。今回の件に、自分が関わっていたのではないかと。被害者ではなく、加害者として。
 侍従頭は、ヴァイルを連れ出してそのまま行方を晦ましたらしい。彼の裏切りの理由はいまだ分からず、それ故に噂は様々な形をとって流布されていた。そこに混じるのが、タナッセの同行を怪しむ声だった。
 確かに、自分とヴァイルが共にいた経緯は嘘くさい。偶然と言われても信じられないという気持ちは分かる。だからといって、ヴァイルをあんな目に遭わせようとしたなどと思われているとは。
 自然、タナッセはヴァイルの元を訪れにくくなった。部屋に籠りがちになり、まだ体調が整っていないと公の場に出ることを避けるようになった。それが余計に邪推を呼ぶとしても、疑いの眼差しの前で平然としている自信はなかった。
 ヴァイルの容態は使用人づての伝聞か、壁を通してもなお伝わってくる隣の部屋の様子かで察することしかできない。もはや命の心配をする段階ではなかったものの、額の傷は浅いとは言えないようだった。
 露台に出て外の空気を吸っている時、隣からの話し声を耳にしたことがあった。耳を立てると、それは泣きじゃくる年若い侍従をなだめるやり取りだと分かる。
「……たし、もう耐えられないんです。部屋つき、下ろさせてください……」
 彼女は訴える。これ以上ヴァイルの姿を見ていられないと。もう限界なのだと。
 治療には、どうしても痛みが伴う。あの状態では、覆っているものをはがして傷を洗い、薬を塗るだけでどれだけ辛いか想像に難くない。
「それでも……痛いって泣いてくれればいいのに、嫌がって暴れてくれればいいのに……ヴァイル様はじっと我慢されていて、悲鳴も上げなくて……それが逆に痛々しくて、私、私……」
 彼女の途切れ途切れの嗚咽を聞くタナッセの口からは、自然とため息が洩れていた。最近、ヴァイルの部屋付きが相次いで辞めていた。原因は、侍従頭の余波だけではなかったということだ。
 切れ味が鋭いとはいえないあの小刀で幾度もためらいながらつけられた傷。タナッセはうすら寒い気持ちであの時の光景を何度も思い返す。肉に覗いた印の光は、いっそ禍々しくさえあった。けして失われはしないと見せつけてくるように。
 そして思い返す度、タナッセには分からなくなってくる。果たしてこの記憶は本当なのだろうかと。
 あの時、自分たちは二人きりだった。ヴァイルは弱り切っていた。自分の懐にあの小刀はあった。自分は、ヴァイルのことを。その額の印を。本当は、自分が。
 そんなことはしていないと、心の冷静な部分が叫ぶ。けれど悪夢の中でヴァイルは怯えた顔を自分に向け、うなされて飛び起きたその手には冷たい柄の感触が残っているのだ。
 もはや逃れられないとタナッセは知る。
 この冷え冷えとした疑惑は、事あるごとに自分を苛むだろうと。

 その年に失われた多くのものはけして戻ることはなく、当時のことを覚えている者はあれは節目だったと口を揃えて申し立てる。
 王弟の出奔、寵愛者の誘拐事件、そして国王のディットン行幸を終えた後、王城はすっかり様変わりしてしまったと。
 後に五代国王史にはこう書かれることとなる。
 ——ここに安定の時期は終わり、次代の王に向けての準備の時が訪れたのだ。