「冠を持つ神の手」外伝1

八年前、七年前、そして一年前

エピローグ

6-1

 雨音は柔らかく、絶えず流れるそれはほとんど静寂と変わらぬようなものだった。湿った空気が肌を撫で、生じた寒気にタナッセは身を震わす。 
 小雨とはいえ、こんな天気に屋根の外に出るなど、酔狂と言ってよいだろう。当然のことながら、ここに来るまでに他に人影など見かけることはなかった。
 雨除けのフードを下ろして、息をつく。この程度の雨なら、枝が防いでくれるので振り込んでこないのは分かっている。
 折れた大木の幹が、タナッセを迎えていた。地面に敷かれた苔のじゅうたんは、湿気のためか生き生きと色づいている。そこへ腰を落ちつけ、タナッセはもう一度息をついた。
 一人になりたい時には、ここを訪れる。
 何の具合か、居心地が良い割に本当にここには人が来ない。他人の視線から逃れるには適した場所だった。
 とはいえ、晴れた時には油断ができなかった。ヴァイルの姿をここに見つけ、引き返したことが幾度かある。彼もまた、同じような用途でここを利用しているのだろう。顔を合わせるのも気まずく、邪魔をしては悪いと出ていくことはしなかった。
 雨の日にははち合わせたことはないので、安心できた。だから、わざわざここまでやってくるのだ。
 何をするでもなく、ぼんやりと過ごす。胸の奥でいくつもの想いがふつふつと湧いては消えていく。
 自然と思い出すのは、ここでヴァイルと夜を明かした時のことだ。思えばあの頃は幸せだったのかもしれない。
 今、あの時のことをヴァイルに尋ねてみたら果たしてどんな答えが返ってくるのだろうか。もし、今も印から解放されたいと願っているとしたら……。
 己の考えをそこで止めて、タナッセは首を振る。そんなことを考えたとして、何になるというのだろう。そうだったとしても、ヴァイルは王となり、自分はここを出ていく。その事実は変わることはないのだから。
 ただ、気が重くなるだけだ。
 ヴァイルと己の未来を想って。
「何だか辛気臭いことしてらっしゃいますねえ、王子様」
 ふと、聞き慣れぬ声がしじまを揺るがした。丁寧さを装った口調に含まれた不穏な響きに、側に控えていたモルが即座に反応し、剣の柄に手をかける。
 タナッセもまた立ち上がり振り向くと、その目はすぐに声の主を捉えた。フードを深く被り、顔も見えぬ黒い男。発散する雰囲気からして、まともな人種とも思えない。もちろん心当たりなどあるはずもない。
 下がるタナッセと、前に出てくるモルを見て、男は馬鹿にしたような笑い声を上げた。
「そんなに警戒なさらなくても平気ですって。何もしやしませんから。それよりも……」
 フードの落とす影の中に、覗く男の口は横に大きく引き開かれる。
「お悩みの王子殿下に、是非聞いていただきたい面白いお話があるんですがね?」

 残された最後の一年が、もうすぐ始まろうとしている。