Southward

第一章 人の章

「砂の中の神」

12-1

 耳鳴りに似たオンオンという響きが辺り一帯に満ちている。それは天井に跳ね返っては戻るさざめきの木霊で、いくら静寂の場といえどもこれだけの人数が集まれば自然と生まれる音だった。祈りが雨のように降り注ぐその下で、ミュアとアピアは並んでいる。
「今日には到着するよ、きっと」
「うん、ありがとう」
「励ましじゃなくて、そろそろ現れてもいい頃のはずなのよね」
 三日前に鳥文屋の一つでセピアからの連絡を見つけてからは、アピアの顔色も随分良くなった。旅路に問題がなければ、二人はそろそろ着くはずなのだ。シードが暴走していなければいいが。
 さすがに熱地の真ん中で合流できるとは思っていなかったので、無理そうならサレッタまで進んで待ち合わせをしようと別れる時に取り交わしてあった。あの後、トーニナたちはこちらを見失ったのか姿を現すこともなく、ミュアたちは町に入り、商隊に混ぜてもらって順調にサレッタ入りを果たすことができた。以来六日間、二人を待っている。
「今日も門のとこにずっといるの?」
「そのつもりだけど」
「何度も言うけど、替わるからね。無理しないでね」
「大丈夫だよ。一度倒れたくらいで大袈裟だな」
 困ったような笑いでアピアは答える。体調のこともあるが、あんなに人通りの多いところにいるとトーニナたちに見つかるのではないかと心配である。ミュアがそう告げると、少しためらった後にアピアは打ち明けた。
「それは……もう見つかってるから」
「え、じゃあ」
「それも大丈夫。彼らは目立つことは嫌うから、あんな場所じゃ何もしてこないよ」
 もちろんそんな言葉で安心できるはずもなく眉根を寄せたミュアに、アピアは苦笑いを返す。
「すっかり巻き込んじゃってるな」
「お互い様じゃない? アピアたちを無理に同行させたのはニッカなんだし」
「じゃあミュアは巻き込まれっぱなしってことになる」
「ああ、そっか。でも、そのニッカを巡礼に巻き込んだのは私だし」
 元を辿れば、これはミュアの旅だ。ミュアが求め、ミュアが決め、ミュアが導いてきた道程だ。
 今まで意識していなかっただけに、そう考えると奇妙な気分になる。
「うん、だから、お互い様」
 話しているうちに列は進みつつあった。天に穴が開いているためにどうしても溜まってしまう床の砂を踏み、二人は礼拝堂への道を歩む。
 サレッタの中心たる砂中神殿。
 市門が開くより早い時刻、光射す時間になると人々はそこに集まり、礼拝の順番を待つ。彼らは熱心で、その祈りはまっすぐに神へと向けられている。
 ここに来てまだ一週間も経っていないが、ミュアには彼らの気持ちが分かる気がした。ここで暮らすということは神と共に暮らすということなのだ。
 グラドネーラの何処に居てもそれは変わらないはずだが、やはりこの不毛な地では実感がまったく違う。この地の水は神の水、ここの地の陽は神の御姿。ただ生きているだけでそれが伝わる。自然、それが祈りとなる。
 ミュアはこのなりわいを見た時、感動に打ち震えたものだが、ニッカなどは一度体験した後、逆に神殿に寄り付かない。彼曰く、何故だかいたたまれない気分になるそうである。よく分からない。神がいることを疑う者はいないが、積極的に祈るかどうかはかなり個人差が大きい。シードなどは神殿に来ることすら心の端にかからないだろう。
 さっきから降り続けている響きが不意に遠くなった。複雑な形に切り取られた採光口が造り出す影が床に水面のような模様を作り出している。ミュアは顔を上げた。
 一層高くなった天井から砂と共に朝の陽光が落ちている。
 かつて地の底より掘り出され、同時に水をもたらしてサレッタの礎を造ったという神の巨像が煌く砂をまとってそこにそり立っていた。

12-2

 かなり古いものだという。
 見渡す限りなだらかに砂が覆うこの場所で、これだけのものを作るための石材はどこから運んできたのか、いつ誰が作ったのか、一切は謎であり記録は残っていない。その面持ちは神らしく慈愛に満ちたものであるが、どこか険しさがある。光の加減によっては怒っているかのように見えるという。
 そんな他愛もないものを始め、像は数々の伝説に彩られている。これに異変が起きた時は世界が滅ぶ時とまで言い切るものさえある。
 取り囲む人々の祈りをその身に受け、像はただ沈黙して光の下に佇んでいる。
「見る度、ここまで来ちゃったなあって思うの」
 祈りを終えて回廊に出てきたミュアはそう嘆息した。
「全然覚悟が決まってないってことなんだよね。嫌になるわ」
 村から出た後、色々なことがあったが、それによって自分が成長したとはあまり思えない。結局、目が覚めるような経験を求めること自体が間違っているのだ。玉を磨くと輝くのはその内に既に光を持っているからであり、砂はいくら磨いても砂金にはならない、とは誰の言葉だったか。
「でも決まるまで旅してたら、おばあちゃんになっても続けてそう。皆と一緒にいるのは楽しいから、それも悪くないけどね」
 冗談めかしたミュアの言葉を、アピアは曖昧な笑みで受けた。
「アピアはさ、成人したら……」
 何するか決まってる、とごく自然に尋ねようとしたミュアは、そこで急に小屋で見たものを思い出し、言葉を詰まらせる。アピアが怪訝な顔をして、彼女は慌てて言い繕った。
「あ、成人したら、どっちを選ぶの?」
「男だよ」
 アピアは苦し紛れの問いに不審を抱いている様子だったが、突っ込んではこずにあっさりと答えた。
「へー、もう決めてるんだ。私だったら、ぎりぎりまで悩みそう」
「約束してあるからね」
「え、誰と、誰と?」
 話は思いがけずに興味深い方向へと突入し、ミュアは重ねて問いかける。
「幼馴染」
「うわ、そういうことね。そっか、いいなあ。約束かあ、素敵ね」
 目をキラキラさせるミュアを見て、アピアはぎょっとした様子だった。一人で盛り上がるミュアにおずおずと訂正を入れる。
「……あの、誤解されてるような気がするけど、そういうのじゃないから」
「え、でもその相手は女を選ぶんでしょ?」
「それはそうなんだけど……」
 アピアは言葉を濁す。
 ついつい答えたら、妙な展開になってしまった。詳しく事情を話す訳にもいかないし、それ以前に何だか聞いてもらえそうにない。
 別に問題はないか、とアピアは説明を諦めた。もうちょっと落ち着いた際にでも、さりげなく訂正しておこう。
 アピアは久しく忘れていた幼馴染の顔を思い出す。それにつれて懐かしさとも寂しさとも取れる感覚が胸を満たした。
 彼は平気だろうか。巻き込まれていなければいいが。
 接触してくる男たちは、いまだ切り札を出してこない。こちらだけでなくあちらも追い詰める手段になりかねないからだろうが、彼らもまた詳しい状況を知らないのかもしれない。今までの感触からすると、誰を捕まえようとしているのかすら分かっていない人間も混じっている様子だった。
「ね、アピア、あれ」
 物思いに沈んでいたアピアは、肩を叩かれてようやく入り口のところにいる顔に気づいた。ニッカもアピアたちの姿を認めたらしく、後ろを振り向いて何やら声をかけている。そして、彼の影から小さなもう一つがこちらを覗く。
 途端、アピアは人の群れを縫って駆け出していた。
「セピア!」
 苦労してその後を追ったミュアが入口にやっとたどり着いた時には、セピアは既にアピアの腕の中にいた。脇に控えるニッカにミュアは尋ねる。
「そんなに時間って経ってた?」
 神殿に並ぶために開門時間を割り込むのはいつものことだったが、開門と同時に入ってくるのは近隣の人々で、商隊などが現れる時間には間に合っていた。今日だけ殊更時間がかかったとは思えない。
「門が開いたのはついさっきですよ。どうも夜っぴて来たそうで」
 礼拝の間、念のためにニッカに待っていてもらって正解だったらしい。北門以外から入ってくることも考えたが、これはいらない心配だったようだ。
「何にせよ、一安心ね」
「そうですね」
 これ以上待たせたら、アピアは探しに行くと言いかねないところだった。一週間ぶりの再会を果たした二人はしばらく何やら話していたが、ふとアピアが顔を上げ尋ねてくる。
「……シードは?」
 そういえば立役者の姿はどこにも見当たらない。
「あー、シードでしたら、疲れたそうで」
「じゃ、宿へ先に?」
「いえ、呑みに」
 きちんと責務を果たしたシードを手放しで誉めてやろうと思っていたミュアの気持ちは、それで一気に盛り下がった。額に指を当て、彼女は呻く。
「どこでその二つが繋がるのよ」
「シードの中では繋がるんでしょう」
「全てと繋がるんじゃないの、シードは」
「その可能性は否定できませんが」
 シードと違い、まっとうに眠そうなセピアを連れて、一行はまず宿に戻ることにした。夜辺りには久しぶりに五人が揃うことになるだろう。

12-3

 路地裏の壁に肩を押しつけられながらも、アピアは相手を睨み返した。その口に浮かぶ下卑た笑いは、反撃されることなど微塵も考えていないようだ。
 視線を横に流すと、角に慌てて身を隠す影を発見する。ちゃんとついてきている。
 試してみるのも悪くはないか。
 そう判断し、アピアは攻撃を一旦保留にした。
 この町は栄えている分だけ陰もまた深い。つけいる隙を見つけた途端にそこに棲む住人たちは群がってくる。今、目の前にいる三人もその類だ。
「持ってるもん全部出せよ」
 裏も思惑も何もない。ただ金の臭いを嗅ぎつけてきただけに過ぎない。
 見えないように鎖を抜いたつもりだったが、彼らの嗅覚を甘く見積もっていた。かといって鎖を抜いた状態で店まで往復するのもやはりどうかと思うので、これは仕方のない事態と言えよう。寝ているセピアをミュアに任せ、一人で来て正解だった。
 路銀が尽きたのがそもそもの問題だった。もう手元に換えられるものは残っていなかった。あの状況だったし、元々宝飾品を身につける習慣はない。一瞬の判断で引っ掴んだもので何とかここまでやってこれたのだ。
 石だけあればいいとはいえ、首飾りに手をつけるにはためらいがあったが、選ぶ余地はない。鎖だけでもそれなりの値段になり、代わりに安価な鎖を購入して、石を付け替えた。作業は服の中でこっそり行ったけれど、思えば店の主人がじっと見ていた気もする。まだ高価なものを隠し持っていると思われたのかもしれないし、単に払った金が惜しくなっただけかもしれない。こいつらと店の主人はまったくの無関係かもしれない。
「お前らに恵んでやるものはない」
 そして、どれが正解だったとしても、こっちの答えは同じだ。
「それ以上不愉快な顔を近づけるな。さっさと立ち去れ」
 さて、助けに入ってくるか否か。
 怒るチンピラたちを無視して再び角に目をやったアピアだったが、しかし助けはそちらからやってこなかった。
「ソリーッツ!」
 不意打ちは頭上から訪れた。
 壁の上で足を踏み鳴らし、怒鳴るその声と共にぱらぱらと砂が落ちてくる。目眩を覚えながらアピアが声のした方へと顔を向けると、予想通り黒目がちの瞳と目線がかち合う。
「何してんだお前」
 その台詞を言いたいのはこっちの方だとアピアは思う。何ていうタイミングで姿を現すのだろう、この男は。
「……呑んでたんじゃなかったの」
「呑んでるぞ」
 何が誇らしいのか知らないが、無意味に胸を張ってシードは返事をする。
「せっかくいい気分だったのに、あの根性なしめ、途中で逃げ出しやがった」
 察するに、その相手とはセピアが言っていたもう一人の同行者だろう。本人は嫌がっていたそうだが、シードに引きずられてずるずるとサレッタまで連れてこられたらしい。ここに来てようやく逃げおおせたという訳か。
「で、お前は何してるんだ」
「見て分からない?」
「分からんこともない」
「理解したなら、さっさと探しに行けば」
 もはや空気はぐだぐだになっており、全てが台無しではあったが、アピアはとりあえずシードを追っ払いにかかる。これ以上ややこしい事態はごめんだ。
 しかし、アピアは失念していた。シードが自分の思うように動くはずがないことを。
「……まあ、お前でもいいか」
 洩らした言葉の意味を問い質す暇もなかった。その前にシードは壁を踏み切っていた。見事な飛び蹴りが、アピアの肩を掴んでいた男に決まっていた。
 続けて後二人の胸倉を掴み壁の向こうに放り捨て、アピアの襟首を引っ掴む。
「よし、行くぞ」
 気づけば、アピアはシードに連行されていた。行き着く先を悟って抗おうとするも、力の差がありすぎる。
「離せ!」
「やだね。お前もミュアにがみがみ言われてみろ」
「よ、酔ってるだろ!」
「んな訳ねーよ」
 全ての抵抗むなしく、アピアは路地を引きずられていく。

12-4

 テーブルの反対側にその少年は座り、通りがかった店員に平然とお茶の注文をした。
「どうも」
 彼は軽く会釈をして話しかけてくる。
「大変そうですね、見張りも」
 知らぬ振りをして眉をひそめてみても、彼はまったく怯まなかった。確信は揺らがないようだった。
「アピアはもうここには来ないと思いますよ」
「……知っている」
 手に持ったカップを置き、ついにトーニナはニッカに答えた。
「そりゃまあ尾行くらいつけてますよね」
「何をしにきた?」
 それは当然発されるべき問いだったので、答えも余裕を持って返される。
「お茶を飲むついでに、お話をしに」
「人を騙しておいて良い度胸だな」
「そう言われるのは心外ですね。僕は嘘なんてついてませんよ。あ、ありがとうございます」
 ニッカは店員からカップを受け取り、付いてきた香辛料をそこに入れるとぐるぐるかき回す。
「引き渡すのは構わないけど、あの時はそのつもりがなかっただけです」
「ぬけぬけと言う。今もそのつもりはないのだろう」
「さて、どうでしょう」
 北門のすぐ横に位置するこの茶屋の前は、商隊たちが行き来する時間を迎え、にわかに騒がしくなりつつあった。こんなところで派手な真似も出来ず、それを承知しているので少年はここを訪れたのだろう。
「貴方たち、何者なんですか?」
 彼は直截に尋ねてくる。トーニナにはそれに答える気はない。
「それはこっちの質問だ。お前らはあの二人をどうするつもりだ?」
「どうもこうも。一緒に旅してるだけですけどね」
「まだ知らないと言い張る気なのか」
「本当に知らないんです、残念ながら。知っていたら、僕はここにいませんよ」
 少年の言葉だけだったら信用はしなかっただろう。しかし一昨日、同じ場所に座ったアピアもまた言っていたのだ。
 彼らには何も話していないのだから、巻き込まないでほしいと。
 正直、惜しいことだとトーニナは思う。父親が道を踏み誤らなければ、まっとうな跡継ぎであっただろうに。だからこそまだ説得の余地は残っているし、そのための確保命令なのであるが。
 彼の望みに従い、心証を良くしておいても損はあるまい。
「……お前、名前は何と言った?」
 この前も聞いたはずが、聞き流していた名をトーニナはもう一度尋ねる。
「ニッカ。ニッカ=タイカ=ソールです」
 何故かその名はわずかに記憶の底を刺激した。しかし、些細な引っかかりだったので、トーニナはそれを無視してしまう。
「ではニッカ。一つ、忠告をやる」
 トーニナの言葉に、少年の目が警戒の色を帯びて細められた。
「私たちが出張っているうちに、あの二人からは離れた方がいい。本当に何も知らないならな」
「それはどうしてです?」
「私たちは間に合わせだということだ」
 トーニナは自嘲的な笑みをその唇に浮かべる。
「元々こういったことには不向きでね。だから、今だってこうやって構えているのだよ。それは彼だって知っている。そして、これからはそうもいかないこともね」
 アピアには告げてある。やがて来る応援の存在を。巻き込みたくないのなら、こちらに従うべきだということを。
 彼は視線を落とし、迷っている様子だった。
「だから、嘘をついていないというのなら……自分の命が一番大事だというのなら、今のうちに別れておくのが一番だ。子供をむざむざとひどい目に遭わせる気は、私にはないのだから」
 それは脅すためのはったりではなく、トーニナの本心であった。

12-5

 何も飲んでいないのにすでに胸焼けしそうになりながら、アピアはカウンターに腰掛けていた。昼だというのに満員で、店の中はあらゆる種類の酒の匂いや焚かれる香、果ては人や獣の体臭までが交じり合い、独特の臭いに満ちている。今までに経験したことのない臭気だ。
「どこでこういう所を見つける訳?」
「商人のおっさんに教えてもらった」
 落ち着かないアピアに比べて、シードは奇妙に馴染んでいる。店の主人に話しかけられ、強くてうまい奴、という曖昧な注文を出していた。アピアはとにかく早く出たくて仕方がない。シードと横に並んで座っていても、特に会話が弾む訳でもない。
 シードの機嫌を損ねてでも出ようとアピアが立ち上がりかけた時、ちょうどグラスが二人の前に出されてしまった。口をつけずとも分かる強いアルコールの匂いが鼻をつき、アピアは怯む。思わずシードを見やると睨み返された。呑まない限り帰してもらえそうにない。
 嫌がらせをされているのだと思った。しかし、アピアの目の前で、シードは同じグラスをあっさりと呑み干して新しいものを注文している。見ているだけで頭が痛くなる。
「どうした、呑めよ。結構いけるぞ」
 その口調にはまったく他意はなさそうだ。それだけに性質が悪かった。
「こ、こんなの……」
 何とか回避しようとアピアは逃げ口上を探す。
「こんなの呑んでたら体を壊す。止めておいた方がいいと思うけど」
「うるさいな。ミュアみたいなこと言うなよな。酔ったことなんて一度もない」
「そんな訳はないだろう」
 むっとしてアピアは言い返した。こんな呑み方をしてまともでいられるとは思えなかった。自分を連れてきたのだって、まず平生ではありえなく、自覚していなくとも酔っているとしか思えない。
 しかし、シードは言い放った。
「効かねーよ、俺には。何もかんも効きはしねー。酒も、毒も、薬もだ」
「どうして?」
「そんなこと知るかよ。あの時からだ」
 そして、アピアはそれが口に出してはいけない問いだったことを思い知る。
「お前らが母さんを殺した時だよ」
 その話を遮れるはずもない。
「あの時、俺らは二人だった。屋敷の庭だったからだ。といっても、生垣くらいしか仕切りはなかったんだけどな。壁なんてなかった。壁なんて。だから簡単に入ってこられた。血だらけだったよ。必死だった。母さんはそいつに駆け寄った。俺はもちろんそいつが自分から言い出すまで、分かりゃしなかったよ、そいつが三足族だなんてな」
 シードは思いつくがままに言葉を並べているようだった。アピアは相槌すら打てず、ただ喋らなくても済むようにグラスに口をつけた。
「続けて五人ぐらい奴らはやってきた。五人か。少ねーな、今となっちゃよ。くそ。何であの時俺はあんなに小さかったんだ? 納得いかねえ。母さんはそいつを渡せっていう奴らの要求を呑まなかった。当たり前だ。俺は逃げろと言われた。出来なかった。捕まった。腹をえぐられた。あっさりとだ。目覚めたら全部終わってた。母さんは死んだって言われた。俺は生きてた。もう埋めたって言われた。何せ半月寝てたからな。でもそりゃないだろ。追われてた奴も追ってた奴も見つからなかった。それで終わりだ。全部終わり。親父は何か知ってやがる。けど言いやしねえ」
 感情の塊は、吐き出すことで収まることはなく、より一層心の奥に渦巻いただけだ。何度思い返しても、その理不尽さに胸が焼かれるだけだ。
「覚えとけ。俺は、お前らが大嫌いだ」
 言い切った後、場には沈黙が落ちる。シードは舌打ちをし、あらぬ方を向いて酒を喉に流し込む。
 こんな話をするつもりはなかった。しかし溢れ出した言葉は止められなかった。それに今はっきりさせておかないと、何かが決定的におかしくなる気もしていた。それが何かは分からなかったけれど。
 ただ一つだけ、酒がまずくなったのだけは確かだった。

12-6

 いくら重苦しい空気が流れようとそれは二人の周囲だけで、酒場の大半はそんなことには気づきもせず陽気な喧騒で満たされている。
「……ていいよ」
 その声はざわめきの中ではあまりに小さく、かすれていて、シードの耳にはほとんど届かなかった。
「何か言ったか?」
 聞こえてしまった以上無視する訳にもいかず、シードはアピアの方へ向いた。しかしアピアはうつむいており、髪に隠れてその顔はまったく見えず、シードの問いにも反応しない。聞き間違いだったのかとシードが思った時、アピアはふいと顔を上げ、彼を見やった。目が合う。
「全部終わったら」
 そして、再びその言葉は零れ落ちた。
「僕を、殺していいよ」
 虚を衝かれた。
「……何だそりゃ」
 だからシードはそう吐き捨て、咄嗟に顔を逸らす。
 嫌な感じだ。落ち着かない気持ちになる。苛々する。今までもこんなことがあった。でもそのことを考えたくなかった。
「訳わかんねえこと抜かすなよ。大体だな、お前に許されようがされまいが俺は……」
 酒を呷りながら小さく文句を唱えて調子を整え、シードは改めてそれをぶつけてやろうとアピアの方へ向き直る。しかし、アピアはもうこちらを向いてはいなかった。カウンターに突っ伏して、動かなくなっていた。
 シードは含んだ酒を噴き出しそうになるのを何とかこらえる。肩を揺すって呼びかけると、寝息が返ってきた。手を当ててみても頬は冷たくなく、うっすら紅潮してさえいる。どうもいつもの発作でも、具合が悪い感じでもなさそうだ。
「ひょっとして、酔ってんのか、こいつ?」
 前に置いてあるグラスはほとんど減っていないように見える。飲んだとしても一口か二口程度だろう。いくら強い酒といっても、その程度で潰れるとは思えないが、狸寝入りにはとても見えなかった。
「何なんだ、畜生」
 悪態をついても聞く相手はいない。
 ここに放置して帰る訳にもいかなかった。シードはため息を吐き、勘定を済ますとアピアを小脇に抱えて店を出た。
 泊まっている宿の名前と位置はニッカに聞いてある。連れて行って部屋に放り込んでおけば問題はないだろう。

12-7

 幸い、宿は迷うことなく見つけることができた。しかし、部屋には入れなかった。薄く開いた扉の隙間から、ミュアの姿を見つけてしまったからである。
「アピア、遅いなあ」
 眠っているセピアに付き添っているらしい彼女は、そう呟くと今まで覗いていた窓から目を離す。見つからないように、シードは慌てて扉から遠ざかった。アピアを置いて呑み直しに出ようと思っていたのに、捕まったら台無しだ。
 そこで新しい部屋をとって、そこに置いていくことにする。起きれば自分で部屋に戻るだろう。
 アピアの体を無造作にベッドに放り投げると、手足はだらしなく横に広がった。意識が戻る様子はない。戻ってこないとミュアたちが騒ぐ前に何とか起きてくれないものかという願いは、叶いそうになかった。
 上にシーツもかけずに、シードはさっさと部屋から出て行こうとする。ミュアと鉢合わせないように、まず廊下の様子を窺う。
「面倒くさいなあ、くそ」
 怒られるのも、酒について一層口煩くなるのも確実で、シードはこれからを想像して呻いた。迷惑かける訳じゃなし、酒くらい好きに呑ませてほしい。
 そう思った瞬間、ぐったりしているアピアの姿が視界の隅に入り、思考が一旦詰まる。これは迷惑だろう。たぶん。
 言い訳すら封じられ、シードの苛々は一層増す。屋敷を出て、好きにやっていけると思ったのに、口うるさく責め立てられ、結局魔物退治も何も出来ていない。不本意なことだらけだ。考えれば考えるほど、分からなくなってきた。
 何で自分はこいつらと一緒にいなきゃならないんだ?
 ざわついていた心は、突然凪いだ。
 シードは開きかけていた扉を閉め、ベッドへと引き返す。
 三足族。
 あの森で、その言葉を聞いた時の気持ちを思い出す。目の眩むような怒りと興奮。口の中が乾く。それだけじゃない。自分は確かに、ひどく嬉しかったのだ。
「俺は……」
 ようやく、あの時に欠けたものが取り戻せると。
 アピアの胴をまたいで膝を二つともベッドに突き、腕を伸ばす。両の手のひらはアピアの首を捉え、シードはその感触に不機嫌そうに眉をひそめた。
 細い。
 これでは必要なのはほんの少しの力だけだ。
「……殺していいんだろ」
 アピアの頭がシーツに沈み込む。指に骨が当たる硬い感触が伝わってくる。抵抗はない。声も上がらない。
 わずかに、力をこめるだけ。
「畜生」
 そしてシードはまた聞く者のいない悪態をつき、上半身を起こした。喉にかけられた指がゆるゆると離れる。
 こいつじゃない。
 そんなことは最初から分かっているのだ。
 自分と同い年のこいつがあの時の奴らじゃないことなんて。すでに埋められてしまったものは二度と取り返しがつかないことなんて。
 それでも、自分は。
 シードはベッドから体を降ろした。全身の動きがぎこちなく感じる。それを振り払うように大きく息を吸う。吐く。乾いた熱い空気が胸に入り、口の中がじゃりじゃりする。
 何かが自分の中で焦げついていると、シードは感じた。自分の中の怒りの炎が消えかけているのだとも思った。
 まだだ。まだそれを絶やす訳にはいかない。
 喉の渇きが彼に行動を促す。彼は踵を返し、酒場へと向かう。
 それが焦燥なのだとはけして気づかないままに。