Southward

第一章 人の章

「イバラ」

6-1

 そうだ。
 分かっていた。
 分かっていたのだ。
 嘘ではないこと。
 嘘なんかつけないだろう、あの性格のこと。
 それを嘘という言葉で片付けたのは後ろめたかったからだ。
 どうして五年近くも話し合いが滞っていたのか。その原因は何なのか。
 はっきりとは聞いていないものの、想像はついていたはずなのだ。何か大きなことが、納まるのにそれだけの年月が必要なことが起きていたこと。
 本当ならば、憎まれるのは当然だ。
 ……今、母親が殺されていたら。
 それは現実味のない想像ではない。
 心が冷える、その想像。
 もし、そうなっていたのなら。

 僕はやはり奴らを許さないだろう。

6-2

 その日の朝になってようやく、シードの平和的有効的活用法をミュアは見出した。熱地に向かうに当たって買い込んだ荷物はこれまでよりも膨れ上がり、一行の足を鈍らせるのは確実だった。それの解決を図る画期的方法である。
 はっきり言ってしまえば、単なる荷物持ちとしての扱いだが。
「別にいいぜ」
 問題はシードの抵抗であったが、本人はあっさりとその扱いを受け入れ、特に重いものを集めた袋を簡単に背に負ってくれる。
「うわ、さすが。私じゃそれ持ち上げられないよ」
「まあな」
 褒めると、満更でもない様子だ。ニッカの言う通りに根は素直で、ミュアにもなだめすかしのタイミングが分かり始めてきた。
 昨日そのままいなくなるかと思われていたシードだが、朝になるとちゃっかり部屋から出てきて、一緒に行く気満々だった。シードに関しては色々心配するだけ無駄だということだろう。ただし、気がかりなことが一つある。
「あの、ところで、後ろにいらっしゃる方はどなた?」
 年の頃二十前後であろう、自分たちより頭ひとつ分ほど背が高く、細身だががっちりとしている体型の青年が、苦虫を噛み潰しているような困っているような複雑な顔をしてこちらを見ているのである。
「あー、リーム先生。ついてくるってさ」
「はあ」
「そのうち飽きるだろ」
 シードの答えは言葉足らずすぎて、結局どういうことなのか推測しか出来ない。ミュアの視線を受け、当の青年が近づいてきて、ようやく事態がはっきりする。
「はじめまして。リーム=デニテ=トッテアと申します。トーラー公爵家の衛士を務めております」
「ミュア=テーレ=スピクです」
 差し出された手を握り、ミュアも挨拶を返す。
「シード様の家庭教師を任されておりまして、ご迷惑でしょうが少しの間同行をお願いしたく思います。よろしいでしょうか?」
 嫌だと言えるはずもない。ミュアの了承を得て、リームは他の同行者に挨拶回りを始める。ニッカとの挨拶が終わるのを待って、ミュアは彼の横へ行き、囁いた。
「ね、シードを連れ帰るつもりだよね」
「少しの間、ですからね。そう宣言しているも同然でしょうね」
「シードは分かってると思う?」
「さあ。分かってても分かってなくても同じじゃないですか。彼が言う事聞いて帰ると思います?」
「思わない」
 シードが素直なのは自分の感情や欲求などに対してであって、他人からの命令にではない。本人が帰る気にならなければ、絶対に帰ることはないだろう。それは、ずっとリームがついてくる可能性が出てくるということだ。
「普通ならありがたいんでしょうけど……ちょっと問題ありですね」
 ニッカの視線の先には、握手を交わしているリームとアピアの姿がある。衛士とはつまり秩序の守護者だ。三足族だとばれれば、捕縛されても仕方がない状況になる。リーム自体は悪い人ではなさそうだが、それは秘密を呑み込んでくれる人間とは同義ではない。
 どうやら旅路にまた新たな火種が加わったらしい。
「昨日のでシードとアピアの喧嘩が収まるかと思ったらねー」
「そっちも怪しいものでしょう。戻ってきたってことは」
「そうなのよね」
 リームがシードから荷物を取り上げようとして断られているのを見ながら、ミュアは小さくため息をつく。
 まあ、とにかく荷物持ちに困らないのは確かなようだ。

6-3

 ホリーラの地形は東に行く度に起伏が激しくなり、道行の速度も自然落ちてくる。一行はタイナーから南へ下り、大森林沿いに熱地の近くまで進むことにした。タイナーからそのまま東へと進む方法もあったが、見知った大森林の道の方が安心感があるだろうという考えがそれを決めさせた。
 しかし、その大森林も少し風景を異にしている。平地に木々が広がるという場所は少なく、高低差のある地面に木が段違いに生えていたりするのである。視界は通りにくく、下手な場所に踏み込むと崖などに行き当たってうまく進めないのが予想される。
「シード様、道を外れないでください」
 つまり、気になるものがあると勝手にそれを見にいくシードの習性は制限された。今まで野放しにしておいてもしばらくすれば戻ってこれたが、ここでは迷ってしまいかねない。従って、リームがすぐに襟首を掴んで引き戻すのである。
「そのよそ行きの口調やめろよ」
「二人きりじゃないんですから、けじめは必要です」
 そんなやり取りを繰り返す二人の姿を見て、ミュアが嘆息した。
「やっぱりシードって公爵様の息子なんだよね」
「何を今更。僕らがシードがそうだって判断していたのは、ミュアの記憶の根拠しかなかったんですが」
「その記憶をちょっと疑いかけてたのよ」
「それは分かりますが」
 よく考えれば、この一行は全員自己申告を受け入れることで成り立っている。ミュアの記憶とリームの出現で、シードの身元はある程度保障されたと言っていいが、ミュアの記憶が間違いでリームが偽者だったら、とまで考えるときりがない。全員が顔見知りの村で育ったミュアにはそういう関係が新鮮でもあり、少し怖くもある。
 思いを巡らせてしまうのは景色が違うからだ。むしろ、見慣れたはずの大森林のちょっとした違いが妙にひっかかる。
 木々は西と同じような顔をしてその青々した手を広げ、節くれだった根を地下に伸ばして反りたっているが、それはやはり村に生えていた木ではない。
 ここに自分の根はない。
 遠くに来たんだな、とふとミュアは思った。単純で、ニッカの言うように今更で、どうでもいい感傷で、もしかして誤解でしかなかったかもしれなかったけど、でもそう思った。
 まだ道は半分も進んでいない。
 まだこの世界には遠くがある。
 進む限りこの気持ちを引きずるのか、それともこれはいつか消え失せるものなのだろうか。
「ニッカってさ、聖山まで行ったらどうする? 帰る?」
「どこへですか?」
 問いは問いで返され、その冗談にも似たはぐらかしに憤る前にその言葉に引っ掛かり、そして気づく。
 戻るための道は巡礼に設定されていないという、ただそれだけのことに。

6-4

 日が落ちる気配を感じ始めたら、夜営の準備に取り掛からなくてはならない。森の中央部から離れつつあるこの場所でもその奥は昏く、月明かりだけで夜を迎えるのは無謀すぎる。道から外れすぎない場所に火を起こし、陽に見立て、神の加護の範囲とする。その小さな儀式が闇に対抗するには必要だった。
 そして準備の中、夜営から距離を取った場所で二人は相変わらず睨みあっていた。
 ただし、今回この状況を導いたのはシードではない。
「話があるんだけど」
 準備を手伝うリームの監視から離れたシードがうろうろしているところに、アピアがそう声をかけたのである。声をかけたはいいが、実のところアピアは困ってもいた。そういえば面と向かって、きちんと話をしようとしたことは今までなかったのだ。何となく足を進めて、行き止まりとなったここで彼は覚悟を決めることにした。
「ちょっと確かめたいことがあって……」
「俺が間違ってた」
 迷いながらも切り出したアピアの言葉は、唐突に遮られる。謝罪にも聞こえるその切り込みは、けれど彼の表情で否定される。唇の端を吊り上げて笑みを作り、シードは続けた。
「確かにお前に手加減する必要はねーわ。俺が間違ってた」
「だから別に喧嘩するつもりで呼んだんじゃ……」
 しかし、その牽制はまったくシードの耳に届いていないようだった。呼び出された時点で戦う気満々の彼に、聞く耳を想定したアピアが甘かったのだ。
 急いで間を取り構えたアピアに、シードの拳が襲い掛かった。
「この、馬鹿っ!」
 罵倒は事態を収める役には立たない。一度始まってしまったものは、終わるまで続けるしかない。
 突っかかってくるシードをいなし、隙の出来たところに反撃を叩き込む、何度目になるか分からないやり取り。これだけやり合っていると、動きが読まれてくる部分があって、アピアも前ほど余裕を持てなくなってきている。シードと比べずとも、自分の打撃は絶望的に軽い。決着までかかる時間は段々と長くなっている。辺りには夕闇の匂いが立ち込め始める。
 その時、ふとアピアの頭にある考えがよぎった。
 それは魔が差したとしか言いようのない瞬間だった。思うこと自体が危険なのだ、シードに一度殴られるべきなのかもしれない、などということは。
 その結果起こることを正しく認識していた体は逃げようとした。迷いがそれを引き止めた。避け方は不完全に、体勢は不安定になった。拳は当たらなかったが、それに引きずられてきた体まで躱すことはできなかった。
 ぶつかり、もつれた体はその勢いのまま、後ろへとよろめく。そして、アピアはどうして自分がここで足を止めて話を始めたのか、思い出した。
 その先が、崖になっていたからだ。

6-5

 結構な高さを落ちた。
 幸か不幸か、落ちた箇所にちょうど棘のある蔦の茂みがへばりつくように密生していて、その中を抜けるように落ちたので地面に叩きつけられることはなかった。ただし、当然のことながら肌がむき出しの部分は棘に引っかかれて傷だらけになっており、ちくちくとした痛みが全身を走る。服も細かいかぎ裂きの破れが幾つも出来てしまい、ぼろぼろだ。
 一瞬の意識喪失の後、アピアは自分の状況を確認すると、ため息を吐きながら茂みから這い出した。その間にも髪の毛が棘にからまったりしてうんざりする。
 共に落ちたシードも同じ気持ちのようで、それは彼の戦闘意欲をてき面に殺いだようだった。
「生きてたか」
 先に外に出ていた彼は、腕に刺さった棘を抜いて捨てつつ、僅かに視線をアピアの方に向けた。抜いた場所に膨れ上がった小さな血の珠が幾つかこぼれ落ち、地面に爆ぜる。しかし、アピアの目を惹いたのはそれではなかった。
「その羽って平気なの?」
 シードの背の羽もまた、棘の蹂躙を免れるはずがない。細かい破れがたくさん出来たその有様は、自分にはない部位だけに気になってしまう。
「あー、やっぱ破れてるよな」
「うん、大きい傷はないみたいだけど」
「治るのには時間かかるな」
 シードは忌々しげに舌打ちをした。
 有羽族の羽は面倒くさい部分らしい。強度はさほどなく、鍛えられるはずもなく、保護ができるパーツがついている訳でもなく、破損した場合には回復が遅い。
「他のところで一番似てるのは髪の毛かな」
 ミュアに聞いた時、彼女はそう喩えて教えてくれた。
「ちょっとしたよれや折れなら自然に治るけど、切られたりしちゃったらなかなか生え揃わないのよ」
 シードの羽も自然治癒を待つしかないのだろう。痛みはなさそうなのが救いではあるが。
「戻る道探すか」
 シードは一通り棘を抜き終わると、そう宣言してさっさと移動を始めようとする。茂みをかき分け、道なき道へ踏み込もうとする彼にアピアは声をかけた。
「わざわざ探さなくても、君は飛んでいけばいいんじゃない?」
 落ちた地点には茨がはびこっているものの、少し外れれば昇るのを遮るものは木々の枝くらいだ。しかし、シードはアピアを睨みつけて言い捨てた。
「この状態じゃ制御がうまくいくか分かんねー」
 そして、振り返らずに姿を消してしまう。どちらにせよ飛ぶことなどできないアピアは上へと続く道かよじ登れる場所を探すしかないので、彼の後を追うことにする。
 その時、ちくりとした痛みが胸を刺した。
 嫌な予感に駆られ、反射的にアピアは胸に手をやる。果たしてその勘は当たっていた。
 探った指先には何の手ごたえも返ってはこなかった。

6-6

 かき分けてもかき分けても人の手の入った場所に出ることはなく、地面が上り坂になる様子もない。シードは一旦立ち止まり、空を見上げた。陽の色は赤みを増しており、しばらくすると光を失っていくだろう。このまま進んでも闇の中で立ち往生する確率が高い。
「仕方ねーな。おい、どっか開けたとこに……」
 振り向いて、ようやくシードは自分が一人で進んでいたことに気づく。
「何だ、ついてきてないのかよ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、彼は来た道を戻ることにした。かき分けた跡を遡れば良いだけだったので、迷うこともなく元の場所へと辿りつく。
「めんどくせーけど、飛んでみるか。お前はどっかから帰れよ」
 そして、いるはずのアピアに声をかけたが、返事は戻ってこなかった。何だよどっか行ったのか勝手な奴だな、とまたひとくさり文句を言っていたシードだが、ふとそれを目に留め、口を閉じる。彼は無言のまま、そちらへと駆け寄った。
 茨の茂みに両腕を突っ込んだ姿勢のまま、アピアは地に倒れていた。顔色は青白く、頬は冷たく、その様子は以前の夜のことを容易に思い起こさせた。
「おい、何やってんだお前、おい!」
 しかしあの時とは違い、数度頬を叩くとアピアは目を開いた。最初はぼんやりとしていた瞳が次第に焦点を結び始める。彼は首を振り、起き上がってかすれた声で答えた。
「……何でもない」
「明らかに何でもなくないだろ」
 シードの突っ込みは無視され、アピアはよろめきながらも歩き、傍の壁面に寄りかかるように姿勢を変えて座り込む。うつむき、黙り込んで動かない。
「おい」
 シードは彼の前に腕組みをして立ちはだかった。
「すごく嫌なんだけどな、置いてったらミュアがうるさそうだしな。上に連れてってやる」
 その申し出に、アピアはふっと顔を上げてシードを見るが、返事なしでうつむいてしまう。覇気のない様子に段々シードは苛ついてきた。
「聞いてんのか?」
 責めるように問うと、アピアはまた顔を上げ、シードは彼に手を差し伸べる。
「ほら、行くからちょっと掴まれ」
「うるさい」
 けれど、その手は弾かれた。
「君だけで行けばいい」
 拒否の言葉は思った以上に強い調子で述べられる。
「放っておいてくれ。僕は平気だ。別に助けてくれなんて頼んでない」
「ああ、そうかよ」
 そうまで言われてシードがおもねるはずもない。彼は鼻を鳴らしてアピアを睨みつける。
「三足族なんて心配した俺が間違ってた。好きにしろや」
 憤りのままに吐き捨てると、シードはアピアに背を向け、羽を広げた。
「……一つだけ頼みがある」
 そこへかけられた小さな声に、ぶっきらぼうに言葉を返す。
「何だよ」
「セピアに、こんな時にごめんって謝ってたと伝えてほしい」
「気が向いたらな」
 これ以上問答を続けていたら殴り倒しかねなかったので、シードは生返事をして地面を蹴った。少しバランスが怪しいながらも、さほど問題なく飛ぶことができる。やがて崖下の光景は張り出した枝葉に隠れて見えなくなった。
「アホか。そのまま死ね」
 苛々で詰まりそうな喉から罵倒がこぼれ落ちたが、何故だかそれは一層胸の中の棘を伸ばしただけだった。

6-7

 シードの姿が木々の向こうに消え、アピアは改めて霞む目を茨の茂みへと向けた。途中で引っ掛かっているのは間違いないのだ。見つけなければすべてが終わる。
 諦めたくない。
 そう思う気持ちに嘘はないけれど、痛みは鋭く強く、手足の先は細かく震えている。
 こんなところでセピアを置いていく訳にはいかない、とも思うが、見つけたところでどうやって取ればいいのかと考えると目の前が暗くなる。
「ごめんね、セピア。……父上、母上」
 誰にも届かない呟きは後悔しかかき立てない。
 もっと強く父親を止めるべきではなかったか。こんな異国の地に来なくとも、他にやりようはあったのではないだろうか。そもそも、こんな体に産まれてきたこと自体が一番の誤りだったのだ。
 シード怒ってたな、と先ほどのやり取りを思い出す。打ち明けて、助けを求めようとも考えはした。でもそれはやっぱりだめだ。ここにいたのがミュアやニッカだったら、ひょっとしてそうしたかもしれない。でもシードにだけは言う訳にはいかない。
 それにしても、心配したのか。
 本人はたぶんそんな言葉を口走ったことには気づいていないだろう。何だか妙におかしくて、小さく笑う。
 瞬間、差し込む痛みが左胸を貫いた。どんどん間隔が狭くなってきている。
 空の陽は光を失い、地より闇が染み出し始め、もはや茨は一つの黒々とした塊にしか見えなくなった。終わりだ。ある意味、待っていたこの時。
「……我が導き手、我が守護者アネキウス、貴方の眠りに安らぎあれ、貴方の御力はいついかなる時も地上に満ち……」
 夜のための、神の眠りのための祈りを呟きながら、アピアもまた重い目蓋を下ろす。それと共に闇が訪れる……はずだった。
 突然頭上でけたたましい音がして、眠りを妨げなければ。
「何……?」
 顔を上げるのも辛かったが、音は止むどころか激しさを増したので気になって仕方がない。壁に頭を預け、目を開き、そこでアピアは一瞬痛みを忘れた。
 薄暗闇の中で茨の茂みが大きく蠢いていた。音の正体は、葉や茎が激しく擦れ合って出しているものだったのだ。それにしても揺れている場所が不自然すぎる。崖の上の方とか、地面の生え際とかならともかく、何故か半ば辺りが騒がしい。何かが崖上から落下してきたとも考えたが、棘に引っかかっているにしても落ちるのが遅すぎる。
 アピアが怪訝に思った途端、その音は急に速度を増した。重い物が接地した音がすぐ傍で響き、アピアは顔を逸らして身を縮める。その時、何かが胸にぶつかった。
 最初は小石が飛んできたのだと思った。しかし、その途端膝から暖かさが這い上がってきて、体が楽になる。信じられない思いでその熱源に目をやると、あの石が、失くしたはずの首飾りが膝の上に落ちていた。
 反射的にそれを掴んだ後、アピアは落としていた目線を前へと向ける。
 そこにシードが立ちはだかっていた。物凄く不機嫌そうな顔でこちらを睨みつけていた。彼の半ば広げられた羽は一層ぼろぼろになり、破れが拡がっていた。
 アピアは何も問えない。ただ、呆然と彼の姿を見つめている。
「あー、こんちくしょう、分かったか!」
 しばらくの気まずい沈黙の後、突如シードが爆発した。唾を撒き散らしながら、怒鳴り散らす。
「こんなところであっさり死なれちゃ、こっちの気が済まないだろうが! てめー、覚えとけ、ぶっ殺してやるからな!」
 支離滅裂だが、言いたいことは分からなくもない。分からなくもないが、どう反応すれば良いのか分からない。
「……一発も当てることができないくせに」
 つい口走ったのは、その台詞だった。お礼を言うのも謝るのも何だかためらわれて、自然に出てきたのがそれだった。
「何だと、おい」
 当然シードは不機嫌さを募らせ、手を伸ばしてくる。殴られるのを覚悟してアピアは体に力を入れた。けれど、来たのは衝撃ではなく、浮遊する感覚だった。
 目を開けると、シードにまるで砂袋のように小脇に抱えられていた。
「戻るぞ。お前の戯言には付き合ってられねー」
 それはこっちの台詞だ、とアピアは思いはしたが、さすがにそれは口に出せず、やっぱりどう返事をしていいのか分からない。
 でも、彼がさっき何をしたのかは分かる。
 彼は飛んだのだ。あの茨の中を。
 馬鹿だ。底抜けの馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。大馬鹿だ。馬鹿シードだ。
 馬鹿を飽きるほど頭の中で繰り返し、ようやくアピアは認めたくなかったその事実を受け止める。
 この馬鹿は、結局のところ救いようもなく善良なのだろう、と。

6-8

 かなり怖い体験をしてしまった。
 よく考えれば、あの羽で二人分の体重、しかも重さのバランスが不安定な体勢をうまく支えきれる訳がない。それに、有羽族の標準は知らないが、シードの飛び方はかなり大雑把な気がする。体勢を崩して落下しかけること数度、落とされかけること数度、シードの舌打ちを聞くこと数え切れないほどの後、ようやく崖上にたどり着いた時には、アピアは何度アネキウスの名を心の中で唱えたかしれなかった。
「なんだお前、まさか落としたとか言うなよ」
 シードは呆れた声でそう言うと、顔色の悪いアピアの手を取り、指を開かせる。
「あるじゃねーか。ほら、戻るぞ」
 そして、さっさと野営地点に彼は戻ろうとするが、それを沈んだ声が後ろから呼び止めた。
「待って」
「あ?」
「どうして知ってる?」
「何がだよ」
「どうしてこれのことを知ってるんだ!」
 アピアは握った右手を差し出し、シードに問う。勢いに呑まれて今まで気づかずにいたのが迂闊だった。自分は一言だって触れていない。シードはこの石の必要性どころか、存在すら知っていないはずなのに。
 アピアの問いに、シードはあからさまに失敗したという顔をした。それをごまかそうとしたのか、次に顔を変な形にしかめたりしていたが、アピアの無言の圧力についに口を開く。
「言えるか。約束だからな」
 言い切った後に、彼は特に約束したこと自体の秘密を求められた訳ではなかったことに思い当たった。アピアに知っていることがばれた以上、石のことを忘れたとは言いがたい状態だ。
「あー、違ったな。約束はもう破っちまってるのか。くそ」
「どんな約束をしたの?」
「それのこと忘れて、お前に聞くなって」
 そんな約束ができる相手は一人しかいないから誰との約束かは聞くまでもない。そして、何となく約束が交わされた状況もアピアは察していた。そういえばあれ以来、セピアの様子は少し変だった気がする。
「それ、何なんだよ?」
 約束を破ってしまったことに気づいたシードは、開き直ったのかそう聞いてくる。しかし、アピアはその問いに答えなかった。答えられなかったというのが正確なところだ。何だと問われても、自分も知らない。
「無くなったらお前死ぬのか」
「死ぬよ」
 はっきりしているのはそれだけだ。自分の命はこの小さな石で、かろうじてこの世界に繋がれている。
 アピアは不意に腕を突き出し、シードの鼻先に首飾りをぶら下げてみせた。
「これを奪って、その馬鹿力で遠くにでも放りさえすれば、君の願いは叶う。やりたければやればいい。君が見つけてきた物だ」
 金色の鎖の先に、あの不安を誘う七色の光を放つ石が揺れている。シードは咄嗟に手を出すようなことはせず、そこでアピアは条件を付け加える。
「……やらないのなら、誰にも言わないでくれ」
「つーか、兄弟揃ってお前らな」
「どっちだ?」
「弟は頭下げたぞ」
「殺したいんだろう?」
 重ねて決断を迫るアピアに、シードの忍耐は限界を迎えたらしい。彼は石を持つ腕自体を弾き、怒鳴り返した。
「うるせー! んなことしたら、俺がつまらんだろうが! お前は殴り倒さなきゃ気がすまないんだ、分かったか!」
 対するアピアは表情を変えずに腕を戻し、手のひらの中に再び石をしまい込む。そして、呟くようにこう宣言した。
「分かった。今後、いつでも君の好きな時に勝負は受ける」
「ったりまえだろ。おい、それよりさっさと帰るぞ。怒るだろ、ミュアが」
 夕暮れの時間はとっくに過ぎ、夜が森を支配している。二人は野営の場所へ向けて、何となしに連れ立って歩き出した。