Southward

第一章 人の章

「全て良きことは小さく」

22-1

全て良きことは小さく我らの前に現れ、
全て悪しきことは果てなく我らの後に敷かれる。
人の行いは神の御業からいと遠かりて、
過ちはいつもその足を掴む。
果たせるかな、望みは遥か。
踏む道が何処へ続くか、知ることなく。
目を潰されて歩む者よ。
恐れと悔いはお前の友。
そしてお前は知るだろう。
誤らぬのは神のみなり。
誤らぬのは神のみなり。

22-2

「伯父上だ……!」
 舟に乗り込む人影を見つめるセピアは、そう断定した。
「間違いないですか?」
 随分遠目で、相手は顔を隠している。第一、セピアは自分より視力が良くないはずなので、ニッカは念を押した。
「癖があるんだ。落ち着かない時に、右の踵で床を何度かこづく癖」
 セピアはためらわずそう答えたので、間違いはないだろうとミュアとニッカも判断する。
「では、やはりあそこですね」
 まさか今の時期に、気分ばらしに湖周遊などするはずないだろう。三人が見やる視線の先には、小島が浮かんでいる。
 城の他はただ水だけ、という訳ではなく、湖には幾つか島影があった。そのほとんどがわずか木が数本生えているだけで、身を隠すことも出来ないようなところだが、唯一中規模の島があるのだ。今はほぼ使われていないが、そこには離宮があるのだとセピアは二人に話した。
「離宮って言っても、三部屋くらいしかない本当に小さなものだけど」
 かつて密議に使われていたなど、あまり明るい来歴の場所ではない。しかし、手を入れれば、石造りの建物は今でも使用に耐えるはずだ。数人を押し込めておくには十分なくらいには。そして、出入りするには舟が必要となり、人目にもつかないし騒がれても問題はない。
「問題は食料くらいですか」
 それもあらかじめ多めに運び込んでおけば、頻繁に補充しなくても済むし、水は周囲にいくらでもある。
「あそこに何人くらいいる訳?」
「僕でしたら、そうですね、人質が二人、見張りが同数必要として交替を考えて四人、あと世話係が二人、くらいを想定しますか」
「多くて十人ってとこかな」
「それ以上はきついでしょうね」
 つまり最大八人をこの三人で何とかする必要があるということだ。しかも相手には衛士が混じっているのは確実で、力の差は明白だ。
「やっぱり乗り込むのは無茶ですか」
 シードがいるならば考えても良かったが。
「じゃあどうするの? 城に入って、味方してくれる人探してみる? いっそ、堂々と告発しちゃうとか」
 王の居場所を掴んだならば、協力者も探しやすいはずだった。
「それもいいんですが……確実性に欠けるし、時間がないんですよね。ですから、ちょっと勝機を増やそうかと」
「何するつもり?」
 ミュアの問いに、ニッカはにやりと笑う。
「とっ捕まえませんか、戻ってきたところで」
 三人は自然と、湖の上を滑っていく小舟に目をやる。
「なるほどね」
 お忍びのためか、ナッティアに付き従う護衛は一人のみだ。二対三ならば、隙を突けば何とかなりそうな気がする。そして彼を人質に取れれば、かなり有利になる。
「じゃあどうやって不意打ちするかを……」
「ひゃっ!」
 それはくぐもった悲鳴だった。驚いて振り向くミュアとニッカの目の前で、セピアの体が宙に浮いている。もちろん彼が飛べるはずもない。
「よお、面白そうな相談だな」
 セピアの口を塞ぎ、吊り下げた彼はにこやかに話しかけてくる。
「不意打ちなら得意だから、混ぜてくれや」
 三人ともが一度だけ会った顔、そして二度とは会いたくないと思っている顔がそこにあった。

22-3

「乗れ」
 有無を言わさぬ調子で、ゼナンの命令はなされる。セピアを拘束されたまま先に乗られては逆らう訳にもいかず、ミュアとニッカも渋々小舟に足を踏み入れた。すると、ゼナンはセピアを船底へと落とし、櫂を手にする。彼は片方だけの手で器用に漕ぎ出したが、すると自然三人に背を向ける格好になる。
 それをニッカは待っていた。彼はセピアへ手を伸ばし、呼びかける。
「セピア、飛び込ん……!」
 しかし、それは鈍い音によって途切れさせられた。舟は大きく揺れ、しぶきが降りかかってくる。
「何……!」
「何するって見た通りだがな」
 ミュアの抗議もまた、ゼナンは遮った。二人の間にいるセピアが息を詰まらせたようなか細い音だけを喉から洩らし、舟底に倒れて痙攣しているニッカの体にすがりつく。
 唇に浮かんだ笑みを隠そうともせず、ゼナンは問いかけてきた。
「何か説明が必要かな?」
 彼はニッカの横面に、水から抜いた櫂を容赦なく叩き下ろしたのだ。動きは素早く、打撃は痛烈だった。その威力は、横たわるニッカの腫れた頬や、口から垂れている血を見れば分かる。相応しい抗議の言葉も思いつかず、ミュアはただゼナンを睨みつけた。
「さて、質問もないようなので、出発しましょうか、王子様がた」
 ゼナンはそれをあっさり受け流し、次いでセピアに櫂を突きつける。
「お前は舳先で立っていろ」
 この状況で逆らえるはずもない。意識をまだ取り戻さないニッカをミュアに預けて、セピアは指示に従った。二人とセピアを隔てるようにゼナンはその間に立ち、舟を湖へと滑り出させる。
「……何で僕たちがいることが分かった」
 この状況では無理だと思いつつも、何とか逃げる隙を見つけようと、セピアはゼナンに話しかけてみる。
「予想はついているだろう? お友達が親切に教えてくれただけだ」
「シードは、たとえ殺されたってそんなこと言わないよ」
「現にこうして見つかってるのに?」
「シードと戦ったなら、そんな風に余裕じゃいられないと思うけど」
 それは後ろに気を配られないための、半ば苦し紛れの挑発だった。それに、もしシードとやりあったのなら、きっと彼はそれを持ち出さずにはいられないだろう。
「なるほどな。もう一本ももぎ取られてるだろうって言う訳か」
 くぐもった笑い声が頭の上から降ってくる。
「何、心配していただかなくとも、始末の算段はつけてきたよ。さあ、こっちももう到着だ」
 その言葉の意味を探る間もなく、島は目前に迫っていた。茂みに隠れて、見張りらしい男が弓を構えているのが分かる。警戒の視線で見つめる彼に、ゼナンは手を上げて挨拶した。
「よお、ご苦労さん」
「待て。ここには誰も入れてならぬと言われている」
「見りゃ分かるだろ? お土産付きだ」
 セピアは頭をこづかれるようにして、さらに前に出される。当然ながら、その顔を男は見知っているらしく、わずかに眉をひそめた。
「すでにお伺いを立てに出ているところだ。しばらく待て」
「さすがに仕事が早いもんだな」
「後ろの二人はなんだ」
「おまけ。結構面白い代物だぞ」
 言うなり、ゼナンは振り向いた。いまだ目をつぶったままのニッカを抱えたまま、ミュアは嫌な予感を覚える。
「まだお寝んねか。弱っちいことだ」
「……シードと一緒にしないで」
「そりゃそうだな。おい、そいつの頭の、取れ。で、お前は上を脱げ」
 従うしかなかった。耳が、羽が現れ、男の目の色が変わるのが感じられる。
「壁の向こうの化け物どもさ」
 ゼナンのせせら笑うような調子が不愉快だったので、むしろミュアは驚愕の目を向ける見張りの男を正面から見返してやる。すると、男は気圧されたらしく、戸惑ったように島の奥へと目を逸らした。
 そこへ、知らせに走ったらしいもう一人の見張りがちょうど姿を現し、指令を告げる。
「連れてこいってさ」

22-4

 戻ってきた男が、そのまま先導役を務めるらしかった。彼にセピアを引き渡すと、ゼナンはミュアに向かって顎をしゃくる。
「お前は来い。それは置いていけ」
 ニッカの頭を静かに下ろして舟を降りたミュアは、その襟首を掴まれるようにして引っ立てられた。
「よし、じゃあ、行こうか」
「おい!」
 ニッカとゼナンを見比べながら、残る見張りの男が咎めるような口調で呼び止める。得体の知れないものを押しつけられて、不安な様子だ。
「拘束して、適当に転がしておけばいいだろう。そのうち引き取りに来るさ」
 対するゼナンはさらりと流し、さっさと行くように案内役の見張りを促した。しかし、案内役もまた首を横に振る。
「連れてこいと言われたのは、セピア様だけだ。お前や異種族もここで待て」
「へえ。お前一人で連れていって、途中で逃げられたらどうする。それに……」
 その時だった。湖を挟んだ向こう、城に立つ塔の屋上から瓦礫が転げ落ちたのは。ゼナンを除く全員がぎょっとしてそちらへと目をやる。
「そう、それに、あそこで今何が起こってるのか、知らせにも来たんだがね」
 にやにや笑いながらそう言いくるめるゼナンを押し留める判断は、見張り役の彼らには下せなかった。かといって、また聞きに行って戻ってくるのも時間がかかりすぎる。
「よし、分かった。一緒に来い。ただし、一旦外で待ってもらう。それでいいな?」
「はいはい、それぐらいは譲歩してやるよ」
 了承したゼナンは、塔から目を離さないミュアを無理やり島の奥へと向けさせ、その耳元に小さく吹き込む。
「そうだとも。あれはお前の思った通りのものだ」
 ミュアの身じろぎを見逃さず、彼はさらに言葉を重ねた。
「だが、すぐに終わる」
 そして再び案内役を促し、セピアと共に先に行かせる。ミュアを追い立てるようにして、自分はその後に続いた。
 湖岸に残されたのは、見張りを続ける一人の衛士と、舟に伏して動かないニッカだけになった。
「……気に食わない奴だ」
 木々の向こうにゼナンたちの姿が消えると、彼は舌打ちをしてそう洩らす。公の直属か何か知らないが、偉そうにされる謂れはない。しかもこれで王子を双方確保したという手柄を立てたことになり、一層大きな顔をするに違いない。ひょっとしたら、これを機に政権に食い込むつもりかもしれない。
 今回のことは、長すぎるファダー家の王位独占で硬直しかけている政権、つまり貴族たちの座をひっくり返す唯一の機会と言えるだろう。これを逃せば少なくとも二十年、いや、さらにファダー家に選定印持ちが生まれたり、生まれなかったとしてもこれだけ続いたファダー家が新しい候補者を抱き込んだり拒否したりすれば、どれだけこの体制が続くか知れたものではない。音頭を取るのが結局ファダー家出身のトリプラト公ということは引っかかるが、乗らない手はなかった。
「それなのに、見張り役とはな……」
 確かに重要な役割ではあるが、地味すぎる。かといって、壁の向こうに行くことなど考えたくもない。あんな異種族がいるようなところになんて……。
 そう思いつつ、男はちらりと湖へと視線を向ける。しかし、そこに思っていた異種族の姿はなかった。それに加えて、舟もない。見間違いかと慌てて振り向いた彼は、水尾を曳き岸から離れていくその姿を見つける。
「なっ!」
 いつの間に回復したのか、あの少年が漕いでいるのだ。見つかったことを悟り、慌てた様子をしていたが、慣れていないらしくひどくよろよろしている。とはいえ、もう手が届く距離ではない。
 見張りの男はそこでようやく弓を手にしていることを思い出し、舟に向けて引き絞った。逃がす訳にはいかない。手柄どころか大失態だ。それにしてもふらついているので狙いにくいし、殺してはたぶんまずいだろう。矢を射るところを城から見られ、この島に注目されたら輪を掛けてまずい。
 その迷いが影響したのか、一射目はかすりもしなかった。急いで二射を行うも、これも舟に刺さっただけだ。
 三射目は肩に当たった。しかし、少年は一度は倒れかけたもののすぐに立ち直って漕ぎ始め、やがて矢の届かない距離に入ってしまう。
 男は迷い、報告に行こうとも思ったが、持ち場を離れて国王派の侵入を許したら、それこそ最悪の状況だ。王子が逃げた訳でなし、相棒が戻ってくるのを待つべきだと判断するしかなかった。

22-5

 目眩が治まらない。
 加えて、洒落にならないくらい肩が痛い。
 抜こうと矢に手を掛けてみるも、触っただけで気が遠くなりそうだったので諦めた。一本で納まって良かったと考えるべきか。
「シードじゃないんですから、こういうのは勘弁してほしいですよ……」
 ニッカはぼやきながら、それでも舟を進めるべく櫂を動かした。追っ手はなさそうだし、城から迎撃されることもなさそうだ。たぶん島と城の往復に限っては、見咎めることはないように手配がされているのだ。
 セピアに一応こつだけ聞いていたとはいえ、まともに練習したことはない。ふらふらと頼りなくはあるものの、それなりに前に進めただけでも幸運だった。進めずその場で回っているうちに取り押さえられたり、射殺されたら笑い話にしかならない。
 意識を失ったのは、さしたる時間ではなかった。しかし、隙を窺うために気絶したふりをして、ミュアと打合せしたのである。結論は、やはり自分たちだけではどうにもならなさそうだ、ということだった。
 シードを捕まえるなり、城で何とか味方を見つけるなりしなくてはならないだろう。
「……とはいってもセピアがいない今、後者は絶望的ですよね」
 見も知らない者の戯言を鵜呑みにするような人間はいないだろう。いたとしても、あまり味方になってほしくない。
 まずはシードと合流するべきだ。うまくいっていれば、アピアも一緒にいるかもしれない。
 ニッカは自然と目前の塔へ目をやった。先ほどの騒ぎは間違いなくシードの仕業だろう。ならば、どうやって塔へ侵入するかが悩みどころだ。
 その時だった。
 行く手で、何かが爆発した。
 身構える暇もなく、衝撃に体を押されてニッカは転倒する。耳が鳴り、息が詰まり、思考は乱れる。意識はまた闇に呑まれそうになったが、ここで気絶する訳にもいかず、彼は必死で舟のへりにしがみついて状況を確認しようとする。そして、己の目を疑った。
 風景は何一つ変わっていなかった。建物も木も草も、そして何より湖は変わらず凪いでいて、さざ波一つ立っていなかった。しばらく待っても、城で騒ぎが起こっている様子もない。
 じゃあ、ついさっきの経験は、自分を押し倒したものは一体何だ?
 自分一人が幻聴でも聞いて、ぶっ倒れたとでもいうのだろうか。まるで、音が質量を持って、耳の穴を突き抜けていったかにも思えたのに。いまだ耳鳴りは残り、めげそうになっているというのに。
 しばらく混乱し、そしてニッカはよたよたと立ち上がった。
「……保留」
 あまりに舟の動きが不審だと目をつけられかねず、今は考え込んでいる場合ではない。とにかく岸までたどり着くことだと、無心に櫂を動かすことにする。その甲斐あって、相変わらずよたつきながらも舟を何とか桟橋まで導き、彼は地上へと降り立つことに成功した。
 しかし、目眩はいっそうひどく、痛みは鼓動と同期したかのように鼓膜を鳴らし、足元はおぼつかなかった。二、三歩進んだところの茂みにたまらずへたり込む。
 ——ロを、早く、見つけなくては……。
 頭をかすめた言葉もはっきりとせず、ニッカはそのまま茂みの中へと倒れこんだ。

22-6

 全身に走った痛みと、すぐ近くで聞こえた獣じみた悲鳴が、意識を再び呼び覚まさせた。その声が自分の口から思わず転げ出たものだと理解するのにしばらくかかる。
「声、出さないで」
 うつ伏せた背中に、そんな囁き声が降ってくる。言われなくとも、口を開いたところで今出てくるものは呻きぐらいのものだろうが。それでも音を出さないように耐えていると、やがて肩をぎゅうぎゅうと締め付けられる感触がして、わずかに楽になる。そうなってようやく、相手を確認する余裕が出来た。
 そこには同い年くらいの、見知らぬ少女が座っていた。三足族だろうから、正確に言えばまだ性別はなく少年なのだろうけれど。
「貴方、アピアと一緒にいた人よね?」
 ニッカの瞳に浮かんだ疑問の色を感じ取ったのか、彼は開口一番にそう問うてきた。
「どうしてそれを?」
「貴方たちとは直接顔を合わせていないけど……アピアを連れ戻しに行ったの、私だから」
 道理で剥きだしのままの自分の耳を気にしない訳だ、とニッカは得心する。何となく相手の立場も分かってきた。
「転向でもされたんですか?」
 彼以外に人もいない。すぐに取り押さえられたり、引き渡されたりはしなさそうだと推し量り、重ねて尋ね、様子を窺ってみることにする。返事はすぐに戻ってきた。
「してない。やっぱり壁なんて開かなくていいと思ってるから」
「そうですか」
「貴方たちは、壁を開きたいからアピアに協力してるの?」
 問われ返して、ニッカは頬をかいた。
「まあ……そうではありませんね」
「じゃあ、どうして?」
「うーん、個人的には他の目的もありますが、大筋は仲間だからでしょうね。後は勢いです」
 思えば、アピアが連れ去られてから、ひどくなし崩しにここまで進んできたものだ。改めて考えると呆れてしまう。
「同じよ」
 その言葉を受けて、目の前の少年は視線を落とし、呟いた。
「アピアは大事な友達だから、それに何が良いことなのか分からないから、貴方を助けるの」
 彼は次第に、答えるというよりはひとりごちるように言葉を継ぎ始める。
「……アピアが戻っても、何にも良い方向に行かないの。何も変わらない。もうアピアには会わせてもらえないし」
 包帯を握る手が震えているのをニッカは見つけて、黙って聞くことにした。
「でも、そんなこと、分かってた。私はただ……」
 その時、横手から異様な音が鳴り響いた。それは葉ずれの音に聞こえたが、木々を鳴らすほどの風は今吹いていない。方向からして、ちょうど二つの塔の間辺りだ。
 ニッカは試しに立ち上がってみた。矢が抜けたせいか、どうにか痛みはましになり、歩いてはいけそうだ。それを確かめると、共にいる少年を促す。
「とりあえず、あそこに行ってみましょうか。たぶんアピアがいます。あ、ご存知かもしれませんけど、僕はニッカと言います」
「サラリナート」
 名乗りあい、二人は行動を開始する。サラリナートの誘導で塔へと続く道を行くと、案の定中庭へ出る扉に見張りが立ち塞がっていた。
「おい待てお前ら、塔に近づくな、うつっても……」
 そう言って二人を押し留めようとした見張りは、ふとニッカの頭に目をやってぎょっとした顔になる。その隙を逃さず、二人は彼の脇の下をすり抜けた。
「あ、ま、待て!」
 制止の言葉を背に、また妙な音がした城の裏手へと駆ける。そしてそこにあったのは、下手をすれば滑稽画にしか見えない光景だった。

22-7

 シードが取り囲まれて、唸っている。それはまあ当たり前の状況だ。問題は彼が手にしている得物だった。
 塔の三階に達しようかという木を引っこ抜いたらしい。すでに振り回した後らしく、あちらこちらに細かい枝がちらばっていて、周囲は慄いている。そりゃ、あれを相手にするのは難儀だろうと、ニッカは彼らに同情した。それでも果敢に立ち向かおうとする者もいるが、なぎ払う形で牽制されてなかなか手が出せないらしい。
「ねえ、あそこ、アピア!」
 隣で呆気に取られていたサラリナートだったが、いつの間にか立ち直ったらしく、中庭の一角を指差してニッカにそう囁いてきた。そちらを見やると、確かに木々の隙間に横たわる姿があり、木立に紛れてそれに近づこうとしている人影がある。なるほど、シードと対峙している彼らは囮らしい。あんなのの相手をするよりは、さっさとアピアを確保して離脱した方が賢い。そしてもちろん、ニッカとしてはそうしてもらっては困る。
 潜んでいた茂みから立ち上がり、彼はシードへと注意を促した。
「シード、後ろを!」
「さわんなって言ってるだろうがぁっ!」
 アピアへ迫る影を見つけた途端、シードは抱えていた木を前方の男たちに投げつけて転進し、ものすごい勢いで駆け出し始め、その勢いのまま飛び蹴りを繰り出す。そんな大雑把な攻撃が当たるはずもなかったが、それた蹴りが当たった木は見事に折れたので、本人の意図はともかく脅迫には適切だった。泡を食って逃げ出す人影を、シードは吠えながら追い掛け回している。
 そのどさくさに紛れて、ニッカはアピアへ近づくことに成功した。
「まるで、子熊を守る母熊ですね」
 声に反応して向けられたアピアの瞳は最初不安の色を宿していたが、ニッカの姿を認めて安堵へと変わる。
「シードの働きはいかがでした?」
「……あまり城を壊さないでほしいな、と今思ってたところ」
「努力目標でしょうか」
 達成見込みはなさそうだ。投げつけた木も塔の外壁に当たり、その一部を崩していたりする。より一層、無駄に力を増しているような感じがするのは気のせいだろうか。
「てめえっ、だから寄るんじゃねえっ!」
 そんなことを考えていると、シードの怒鳴り声がまた響き渡る。声の方を見やったニッカは、こちらへ突進してくるシードを発見した。一旦逃げようかどうしようか考えていると、地響きは直前でぴたりと止まる。
「ああ、何だ、ニッカか」
 ぎりぎりで何とか認識してくれたらしい。
「さっき声かけたじゃありませんか」
「そうか?」
 反射的に振り向いただけで、誰の声かは判別していなかったようだ。とりあえず安全は確保されたので、ニッカは近くの茂みに手招きして、そこに待機させておいたサラリナートを呼び寄せた。
「誰だ?」
「アピアのご友人だそうです」
「へえ」
 相変わらず感情の沸点は低い割に、興味は薄い。その説明だけでシードはあっさり納得して、周囲に睨みを利かせる。四人に増えたとはいえ、実質戦えるのはシードだけだ。しかし、少なくともアピアを任せて討って出られるようになった訳で、多少こちらが有利になったのは間違いなかった。

22-8

 場は膠着状態にあった。
 取り囲まれた側は情報交換に忙しく、取り囲んだ側は手を出す契機を見出せないままでいる。
「どうした、その顔と肩」
「計画通り、と言いたいところですけど、単にしくじりました」
「平気か?」
「ものすごく痛いので、帰りたいです」
「よし、帰れ」
「無理です」
 お互い真顔で本気だかどうだか怪しい会話を繰り広げるシードとニッカを横目に、サラリナートは横たわるアピアの頬に手をかける。
「アピア……ごめんね……ごめん」
 そしてぼろぼろと涙をこぼす幼馴染に、アピアは優しく問いかけた。
「どうしたの、サラリナート。泣くことなんてないよ」
「ひどいこと、されてるんでしょう」
「されてないよ」
「服、破れてるし、血がついて……」
「ああ、大丈夫。怪我は……うん、してないし。これは勘違いが起きただけだから」
 実際、少なくとも現時点では伯父も自分が傷つくのは困るはずで、今まで丁重に扱われていた。今回は色々と間が悪かっただけだ。
「……裏切り者って責めてくれていいのに。そうすれば、きっと私、開き直れた」
「だって、サラリナートは誰も裏切ってないじゃないか」
 それを裏切りというなら、最初に伯父を、そして国の人々の信頼を裏切ったのは自分たちだ。
「たぶん誰一人、裏切ってなんかいないんだ」
 もしくは、誰もが何かを裏切ったのだ。
「おい、奴ぶっ殺しにいくぞ。いいな」
 そこで突然、シードが顔をぬっと出してそう告げてきた。目線で問い返すと、隣にいたニッカが一通りの説明をしてくれる。ゼナンの出現、父母の場所、そしてそこに至るまでの経緯。
「舟どこだ」
「待って。それじゃ駄目だ」
 さっさと動こうとするシードを、慌ててアピアは引き止める。
「乗り込んでも人質に取られたらどうにも出来なくなる。だから、向こうがそれを出来ないようにしなくちゃいけない」
 そしてアピアは起き上がろうとしたが、それは果たせなかった。
「ごめん、意識ははっきりしてるんだけど……さっきから全然体が」
 全てを言い終わる前に、シードがその体を軽く掬い上げる。彼にとってはそれくらい負担にもならない様子だ。
「で、何するんだ」
「……宝器庫に戻りたい」
 決意の色を瞳に、アピアは宣言した。
「城を、掌握する」