Southward

第一章 人の章

「一番単純で一番大切な」

15-1

 眠っているセピアを胸に抱いたミュアは、二人が入ってくると不安な顔を隠さず、尋ねてきた。
「アピアは?」
 それで、首尾よく逃げ出して既に家へ戻っているのかもしれないという希望は打ち砕かれた。今一度探しに行こうかとニッカは迷ったが、外はいつの間にかとっぷりと暮れている。
「セピアはどうしたんです?」
 寝息を立てるには随分早い時間だ。ここまで来るのに、さほど疲れた様子も見せていなかったはずである。
「ニッカが飛び出していって、私、セピアは何してるんだろうって思って……上に来てみたら、誰もいなくて。びっくりして探してた時に、戸棚から音がして。開けたらいたの。寝てたの。それから、起きなくて」
 ニッカはセピアに歩み寄り、息を確かめたり、脈を取ったり、鼻を利かせたりしていたが、やがて結論づける。
「薬、ですね。ちょっと待っててください」
 そして、立ち上って部屋から出て行き、戻ってきた時には、手に小さな瓶とコップを持っていた。
「やっぱり、僕の荷物に触った跡がありました。それにこのコップ、微かですけど匂いが残ってます。使ったのはアピアでしょう」
「そうだ、これ」
 ミュアは寝台の上に転がっている袋を差し出した。動かすたびじゃらじゃら音を立てるそれは、開けなくても金子が入っていることは明らかだった。
「戸棚にあった。セピアの懐から落ちてきたんだと思う」
 つまり、アピアはセピアを眠らせ、その懐に金品を入れたあげくに隠すように戸棚に仕舞っていったのだ。それが意味するところは何となく察せられる。
「……アピアは最初から行くつもりだったのかもしれませんね」
 もちろんそれで自分の不甲斐なさが帳消しされる訳ではない。ニッカは唇を噛む。押しとどめる機会はいくらでもあったはずなのだし、そもそも追っ手をまけていればアピアはそんなことを考えなかったかもしれないのだから。
「とにかくセピアを起こしましょう。何か手掛かりを掴めるかもしれない」
 ニッカは言って、手にした瓶の蓋を取る。するとそこから鼻をつく匂いが流れ出した。
「気つけです。直接じゃなくて、手で仰いで嗅がせてあげください」
 鼻の良いニッカには相当きついらしく、彼は涙目になりながらミュアにそれを渡す。セピアに嗅がすと、彼は呻いて寝返りをうった。やがて、瞼がゆるゆると開き始める。
「セピア、起きれる?」
 ぼんやりとした顔で周りを見るセピアに、ミュアが優しく声を掛ける。
「ここ……?」
「人のいない村にたどり着いたの、覚えてる?」
 そして、セピアは自分を見つめる三つの顔を認識したようだった。彼の視線はもう一度部屋の中を横切り、瞳に理解の色が浮かぶ。
「そっか」
 彼はミュアの胸から体を起こして座りなおし、ぽつりと呟く。
「行っちゃったんだね」
 口をつぐみ、顔を伏せた彼は、そのまま泣き出すかと思われた。けれど、長い沈黙の後に上げられた顔には涙の跡はない。待つ三人を見上げ、彼は決意を帯びた瞳で話し出す。
「お話しします。アピアも……自分がいなくなった時には皆に全てを打ち明けるようにと言っていました」
 改まった口調はいつもの彼の喋り方とはかけ離れていたが、不自然なところはない。切り替えに慣れている様子だった。
「お願いします。僕を、壁まで連れていってください」
 そして、彼の頭は三人に深々と下げられた。

15-2

 セピアは水の入ったコップを手に、ぽつりぽつりと口を開いた。
「まず、僕らの素性からお話しするのが一番良いかと思います」
 上の部屋では、座る場所が寝台しかなかったので、四人は居間だった場所に移って話を続けることにした。ただし、シードは廊下の入り口近くの場所に陣取り、ミュアが振り返って何度も中に入るよう言い聞かせてもそこから動きはしなかったが。
「僕らが住んでいたのは、フィアカントというところです。そこは大きな湖の側の街で、リタントの中央に近い位置にあります。僕とアピアはそこから逃げてきました」
 そして、セピアはおもむろに自らの頭に巻いた布に手をかけた。それを引き上げ外すと、彼の額に浮き上がった印が露になる。
「僕らが追われているのは、この印のためです」
 そこでミュアがはっきりと体を固くしたのが、ニッカには分かった。彼女の誤解を解くべく、彼は割り込みを掛ける。
「ミュア、違うんですよ」
 父の手記には、記されていた。
 争った三足族への反発心ゆえ、この国において罪人の印は額に押すように決められたのではないか、と。
「ホリーラでは、額に印を打つのは罪人の証です。でも、リタントでそれが持つ意味は全く違ったものになる。ほら、見てください、あれは焼印ではないでしょう?」
 言われてみれば、印の周囲は焼けた痕もなく、引き攣れてもいない。
「触ってもいい?」
「どうぞ」
 了承を得たミュアは恐る恐る手を伸ばし、セピアの額を撫でる。予想したような凹凸はそこには全くなく、自分の額と同じように皮膚の感触しかしない。内側から透けているかのごとく、印は皮膚の上に浮き出ている。
「これ、どうなってるの?」
 尋ねると、セピアからは曖昧な笑みが返ってきた。
「良く分からないんです。ただ、これはこうあるものだとしか。生まれつきですから」
「アピアにあったのも同じもの?」
「全く同じものです。これは……」
 セピアは確かめるように自ら額を一度撫でてから、言葉を継いだ。
「これはアネキウスの選定印と呼ばれるもの。神に認められた後継者の証」
 そして、彼は真の名を告げる。
「僕の正式な名前は、セピア=セリーク=リタント=ファダー。リタント第十代国王、テーピアの息子にして、アピアと共に次期国王の候補となります」

15-3

 一瞬、ミュアはその言葉の持つ意味が呑み込めなかった。改めて思い返して頭の中で並べ直し、ある単語にようやくたどり着く。
「えーと、つまり……王子様ってこと?」
「うん、まあ、そんな感じ」
 しかし、突如判明した現実離れした状況に、残りの二人の反応は薄い。
「何で私だけ驚いてるのよ」
 ミュアは照れ隠しにそう言いながら男たちを見回したが、二人は平然とした顔でこう返してくる。
「いや、僕はたぶんそうじゃないかなと思ってましたし」
「それがどうしたよ。シリルと一緒だろ」
 怪しい情報を所持する人間と、ホリーラの王女を呼び捨てにする人間に尋ねたのが間違っていたとミュアは反省した。彼らにとっては充分現実的な話だったようだ。
 まあ言われてみれば剣の扱いに慣れていたり、妙なことを知っていたり知らなかったりと、思い当たる節はなくもない。シードと公爵令息という単語よりは、まだ結びつけやすい気もする。
「僕たちを追っているのは、トリプラト公、ナッティア=ファダー=トリプラト、父の兄、僕たちの伯父に当たる人です」
「それって、もしかして謀反なの?」
「……そうなります。突然でした。あの日の夜、僕らは自分の部屋で襲われたんです」
 その夜はいつもと変わらないはずなのに、どうしてか奇妙な胸騒ぎがした。浅い眠りから引き剥がされたセピアは、月の光でも見て落ち着こうとテラスへの扉をくぐる。途端、そこに立つ覆面の男と鉢合わせした。
 不意打ちにセピアは硬直したが、それは男も同じだったらしく、不自然な間が辺りに流れる。それを破ったのは、隣のアピアの部屋から響いてきた騒音だった。驚いて音のした後ろを向いたセピアを、男は慌てて羽交い絞めにする。
 それから起こった一連の出来事は、あまりに流れが急すぎてセピアは全てを覚えていない。覚えているのはアピアが隣のテラスに現れたこと、手すりを踏み切ってこちらに飛び込んできたこと、次の瞬間暖かいものが頭に降りかかりアピアが自分を奪い返していたこと、そしてテラスから湖面へと飛び込んだ時の水の冷たさだった。
「城は湖の中にあります。僕らは泳ぎの訓練を受けていたので、何とか岸までたどり着きました」
 城に戻ることは出来なかった。入るための道は一つしかなく、船も城側のごく限られた場所しか置いていない。
「あれは侵入者じゃない」
 アピアはしたたかに濡れた長い髪を絞りながら、そう洩らした。
「数人の顔を見た。衛士の中で見た顔だ」
 今戻れば、捕まることは確実だった。王都からも離れ、二人はしばらく様子を窺うことにする。そして、流れてきたのは城ではやり病が発生し、父も母もそして自分たちも倒れたという噂だった。
「僕らはセリーク侯爵領を目指すことにしました。今、伯父に対抗できる力があり、確実に味方になってくれるのはそこしかない」
 名で分かる通りに、そこは母親の実家だとセピアは補足した。
「でも、侯爵領はリタントの最南端にあるんです。そこに着くまでにたくさんの所領があり、それが全て味方である可能性はとても少なかった」
 だから、二人は決めたのだ。
 壁を越えて見知らぬ国を渡ろうと。

15-4

「ちょっと待って。そこで壁を越えようと思いつくのが良く分からないわ」
 話はミュアの問いで中断された。
 例えば、自分が村から南へ行きたい時、大森林を縦断するのは無理だから壁を越えて回り込もう、とは絶対に思わない。どんなに急いでいても、リタントのことなど考えもしないはずだ。ミュアにとってそれはあまりに飛躍した決定だった。
 セピアは頷き、話を再開する。
「それは、こんなことが起こった原因に関係があるんです」
 それは全てが狂った原因。
「僕が言うのも何ですが、父は悪い君主ではなかったと思います。国にも大きな不満や混乱はなく、謀反の余地はなかったはずです。ただ一つ、父が進めていたある計画を除いては」
 どうして父親がそんなことを思いついたのか、周囲全てに反対されてもそれに執着し続けたのか、いまだにセピアには分からないが、誤りとも言い切れないその原因。
「それは、リタントとホリーラの国交回復です。十数年前から、父はホリーラへ使節を送り、交渉を進めていたと聞いています」
「なるほどな。知ってやがったからだな、クソ親父め」
 ミュアには、いつの間にか顔を覗かせていたシードが小さな声でそう吐き捨てるのが聞こえた。そして、最も大きな反応を示したのはニッカだった。彼はため息をつくと、呟くように尋ねる。
「……計算が合います。僕の父は、そうやって送り込まれた中の一人だったんですね」
「詳しくは分からないけれど、たぶん」
 セピアもまた頷き、唐突に差し込まれた話にミュアはきょとんとした。
「あ、そうだお前、半分三足族だって本気か!」
 しかも後ろから覗き込んできたシードに喚かれ、辟易する。この位置取りは大変失敗だったかもしれない。
「本気も何も事実です。お二人には話してませんでしたが。内緒にしててすみません」
 ニッカは追求をさらりと流し、セピアに続きを促した。
「僕の話はまたの機会にでもしますよ。それよりも、どうぞ話を進めてください」
 確かに今はセピアとアピアの置かれた状況こそが早く知りたい事項だ。シードも食い下がることなく、また戸口から離れて廊下の壁にもたれる姿勢に戻っていく。
「だから僕らはこの国のことをある程度知っていました。言われているようなひどいところじゃないって。それに、追っ手の目も眩ませられると思いました」
 実際、発見されたのは一月ほども経った後だ。セピアはもう見つからないままたどり着けるのじゃないかと思っていたほどだ。アピアは絶対に来ると考えていた様子だったが、それがセピアの知らないことを掴んでいたためか、用心深さのためかは今となっては分からない。
「でも、僕らがわざわざ壁を越える道を選んだのは、何より父のしたことが間違っていなかったと証明したかったためかもしれません」
 ホリーラという国と、かつて袂を分かった種族たちと、再び共に暮らすことに意義があるのだと心から認めるために。
「正直なところ、僕もそんなことしなくていいんじゃないかと思ってました。この国のこと、特に知りたくもなかった。でも、こっちに来て、何にも変わらないなって思って」
 あるものは違う。住む人々は違う。けれど、ここまでニッカ以外に自分が三足族だと見破られていないことが証明している通り、それはさほどの違いではないのだ。
「どうして僕らはあんな壁なんて作って、分かれなくちゃならなかったのか、今は不思議に感じるんです」
 ずっと壁は当たり前の顔をしてあり続けた。それ故に気づいている者は少ないのだ。そこにあるものは壁だということに。
 けして神が空から降らせたものではなく、かつて人の手によって建てられたものだということに。

15-5

「そうやって僕らは壁を越えて、この国に来ました。そして、皆と会ったんです」
 それから先は全員承知している通りだ。
「あの追いかけてきた人たちは、伯父さんとやらの手先なんですね?」
 ニッカが確認のため尋ねる。
「そうだってアピアは言ってました。伯父は……とても王になりたかった人です。これを機会に、王の地位を乗っ取ろうとしているのでしょう」
「あれ? でも、その伯父さんって、王様のお兄さんな訳でしょう。王様になりたかったなら、どうして弟に王位を譲ったの? 何か問題のある人だったとか」
 ミュアもまた、疑問に思ったことを尋ねた。概ねセピアの話は筋が通っているものの、所々引っかかる点がある。セピアはそれに戸惑うことなく答えを返した。
「上下とか、能力とか、人柄とか、血筋とか、そういったものはリタントの王位継承には一切関係がないからです」
 王位は人が与えるものではなく、神が与えるもの。
「理由はただ一つ、伯父には選定印が与えられなかった。それだけです」
 選定印を得たものだけが王位継承権を持ち、名にリタントを入れることを許される。即ちホリーラで言うような、何位の王位継承権などという表現は一切ない。
「リタントでは、王の息子だからと言って、後継者にはなれません。そして、選定印は一代に一人、生まれつきのもの。どうして出るのか、どうやったら出るのか、誰の元に出るのかは、全く分からないんです」
 なんなれば、それは神のご意思だからだ。
「つまり、例えば私みたいな全然王様とか関係ない人間でも、その印があったら王様になれちゃうの?」
「なれます。そういった例も存在します」
 セピアはきっぱりと言い切った。
「ただ、出やすい家系ってのはあるみたいです。ここ三代ほど、ずっとファダー家が王を継いでますから」
 それは奇妙な制度に聞こえる。セピアの額に浮かぶ印は、通常アネキウスを表す紋とは形も違うし、不思議なものではあるにしろ、それで王様を決めてしまっていいのだろうかとミュアは思う。
 けれど良く考えれば、王様の子供に生まれたからといって、王様に向いているとは限らないのだ。悪いと思いつつ、ちょっと廊下を気にしてしまう。血筋というのも当てにならない理由なのかもしれない。
「お聞きしたいのですが、さっき一代に一人と言いましたよね。でも、アピアにもあるんですよね?」
「僕らは特例なんです。昔一回だけ二人に出たことがあったそうですけど、僕とアピアみたいに兄弟で所持しているのは初めてだと」
「では、今その印を持つ、つまり王の資格があるのは、現リタント国王とアピアとセピアの三人、で宜しいですか?」
 セピアはニッカの問いに頷いた。するとニッカは眉をひそめて何やら考え込んでしまう。彼からの質問をしばらく待っていたセピアは、彼が口を開かないので話を続けることにする。
「これで、大体がお話しできたと思います。だから、僕はセリーク領に行かなければいけない。でも、僕は印があるだけの、何の力もないただの子供です」
 立ち上がったセピアの頭が再び下げられた。
「改めてお願いします。僕を今までのように同行させてください。聖山のすぐ近くの壁を越えればセリーク領です。僕は絶対にそこに行かなければならないんです」
 そこでようやくミュアの違和感ははっきりとした形を取る。今までのことを考えれば、いかにもおかしい。
「それは全然構わないけど……それよりも、アピアはどうするの?」
 これは、アピアを助けに行くための話じゃなかったのだろうか。セピアは当然自分たちにアピアを助けてほしいと頼むと思っていたのだ。その疑問をぶつけた時、セピアの瞳が揺れるのをミュアははっきりと見た。しかし彼は目をそらし、平坦に述べる。
「アピアは、城に戻されるでしょう」
「だったらその前に助けないとまずいんじゃないの?」
「……それはアピアの望みじゃありません」
 彼は努めて冷静な声を出しているようだった。
「僕らは決めてました。どちらかが捕まっても助けにはいかないと。残った方が必ずセリークにたどり着くのだと。だからアピアを助けにいく必要はないんです」

15-6

 セピアの言い分は、ミュアに釈然としない気持ちを抱かせたが、反論をするのを彼女はためらった。自分は部外者に過ぎない。当人たちにしか分からないことはある。それに、自分たちは確かに大したことのない子供の集まりで、迂闊に助けにいってセピアまで捕まってしまうことを思えば、少し時間はかかっても大人のちゃんとした味方を得て奪回する方が正しい道なのかもしれない。
 そう考えても、もやもやした気分は収まらない。自分は何かを見落としている。
「少し話がずれるんですけど」
 その時、突然黙っていたニッカが手を上げて発言した。
「僕がお話しさせていただいても宜しいですか?」
 誰にも反対する理由はない。無言の同意を得て、ニッカは喋り始める。
「さて、ミュア」
「え、私?」
 てっきりニッカ本人の話か、セピアへの質問が始まると思っていたミュアは、いきなり自分に振られてびっくりする。
「もしミュアがすでに存在する国の王様に今からなろうと思ったら、何をしますか?」
 しかも、素っ頓狂な質問をされた。
「何で?」
「いいですから」
「え、えーと……王様をやっつける?」
 良くはないが、仕方がないので考えて返事をした。我ながら単純な答えだが、ニッカは納得したように頷いて見せる。
「それが一つですよね。でも、やっつけた後がすごく大変です。もう少し平和的に考えたら、どうです?」
「ん、じゃあ、王様と結婚する」
 そう答えた瞬間、首筋を何か刺々したものが撫でた気がして、ミュアは思わず振り向いた。しかしそこには廊下の暗がりしかなく、首をかしげながらミュアは顔を元に戻す。
「それから? それだけでは王様にはなれませんよね」
「それから……王様を殺す、のかな?」
「ホリーラなら、それで王になることも可能ですね。でも」
 ニッカはこつりと自分の額を叩いてみせた。
「リタントでは、選定印がない者は王になれない。絶対に」
 ホリーラのように、配偶者にも継承権が与えられる訳ではないのだ。ミュアはその意味をしばらく考え、やがて不満げな顔になる。
「それじゃあ、どうやったって王様にはなれないじゃない」
「そうですね。制度を変えない限り無理です」
 そこでニッカは不意にセピアの方を振り向いた。硬い顔で二人の会話を聞いていたセピアはびくりと身を震わせる。
「もし、印を受けた人間が全員亡くなった場合はどうなるんです?」
「一度あったみたいだけど……その時はすぐに新しい継承者が生まれたって」
「なるほど。そして、その人間がどこに生まれるかは誰にも分からない、ですね?」
 セピアの頷きを得て、ニッカは立て板に水のごとく語り出した。
「つまり、王位を簒奪したい者にとってその選択は愚かだということ。継承者が自分の陣営に生まれるとは限らないのだから。即ち簒奪者にとっての選択は一つしかない」
 一拍の沈黙の後に、唯一の答えは述べられる。
「正統なる王を傀儡に仕立てること」
 言われれば、それしかないのは理解できる。けれどわざわざこんな風に勿体つけて言わなくとも、それは誰もが何となく分かっていたことのはずだ。それがどうしたと尋ねるミュアの視線に、しかしニッカは首を横に振る。
「いえ、僕が本当に聞きたいのはこの先なんです」
 座っているセピアの膝に乗せられた拳がきつく握られているのに、ミュアはその時気づいた。

15-7

「僕が聞きたいのは、次の正統な王は誰か、ということです」
 しかしニッカが言い出したことは、すでに答えられた質問の繰り返しにしか思えなかった。ミュアは彼に突っ込みを入れる。
「それはさっきから散々聞いてるじゃない。アピアかセピアなんでしょう?」
「そうです。もっと正確に言えば、次の正統な王はどちらか、ですよ」
 ニッカの回りくどく詰めていく癖は、ここに来て遺憾なく発揮されているようだ。
「王が二人立つということはないですよね。この場合、どちらが即位するのが妥当とされるんですか?」
 即座に答えられる問いだと思われたそれに、セピアはひどく答えにくそうだった。
「前例がないから」
 それは明らかに逃げだ。決まっていないはずがない。
「けれど、一般の継承と同じに扱うこととなると思うのですが」
 通常ならば、相続は長子が行う。リタントでもその形態は変わらないはずだ。
「ならば、アピアの継承が正当とされるはず。それが証拠に、あの追っ手たちも貴方よりアピアの確保を優先していた。アピアを渡したまま、貴方が起てば……それは反逆と看做されるのでは」
「それは私たちが口出しすることじゃないんじゃないの」
 国王が捕まっている以上、たとえアピアとセピアが両方セリーク領にたどり着いたとしても、現国王を追わんとする反逆者扱いをされるだろう。この状況においては、大人しく捕まり乗っ取られる以外の方法を取ろうとすれば戦になるのは避けられず、嫌なことだとは思うけれど他国の人間が止めろと言える立場ではない。
「僕が言いたいのはそういうことじゃなくてですね、アピアだってそれは当然分かっていたということなんです。正統な後継者と反逆者では、よほど問題があったり勢力差がない限りは正統な方が有利でしょう。無理強いされた即位だと主張しても、反逆者の戯言だと片付けられる可能性が高い。それなのに自分が捕まる道を選ぶなんて、いかにもおかしい。それにミュア、熱地でのアピアを思い出してください。あれがお互いが捕まったら諦めると決めていた態度に思えますか? だから、ひょっとして、アピアは最初から……」
「……そうだよ」
 ニッカの演説は、押し殺した重い声に遮られる。セピアは全身を震わせながら、一言一言無理やり喉から声を搾り出しているように見えた。
「父上はもう殺されてるかもしれない。生きていても、アピアが連れ戻されたら、きっと殺される。アピアが次の正統なる王だ。あいつらは即位と婚姻を迫るだろう。けど、それには時間がかかる。僕がセリークにたどり着いて、安全を得るくらいの余裕と隙はきっと出来る」
 かすれてほとんど聞き取れないような声で、彼は最後の言葉を告げる。
「そしてアピアがいなくなれば……僕だけが、正統な王なんだ」
 それが意味するところを分からない者はいなかった。それ故、必死にその事実を呑み込もうとしている彼に何も言うことが出来なかった。
 ただ一人を除いて。
 ミュアは先ほどから背中にのしかかる重苦しい圧力が気になっていた。ずっとうなじを刺し続けていたちりちりとした気配は、ここに来て一層刺々しさを増し、耐え難いまでになっている。
 しかもその発生源はゆらりと動き、こちらへ近づいてきたのだ。見なくとも、剣呑な空気が直に背中に当たるようになったことから分かる。振り向いてそれを確かめることは出来なかった。
 目が合ったら、殺される。
 根拠なくそう思わされる重圧だったからだ。
「おい」
「ひっ!」
 呼びかけは自分へのものではなかったが、ミュアは思わず椅子ごと横に飛びのく。
「もう一度言ってみろよ。誰が、何だって?」
 戸口を塞ぐように手足を広げたシードは、ほとんど獣じみた凶暴さを身にまとって、唸るようにそう問うてきた。

15-8

 奴が嫌いだった。
 奴の目が嫌いだった。
 あの全てを捨てた目が嫌いだった。
 苛々した。
 むかむかした。
 殺してやりたいと思った。
 奴は三足族で。
 くそ生意気で。
 癇に障る物言いをし。
 強くて。
 強くいてもらわなくてはならなかった。
「……アピアは、いつだって正しいから」
 それなのに、勝手なこと言いやがって。
「それが一番良い方法なんだ」
 何が自分が原因だ。何が自分は弱いだ。嘘つけ。嘘つきめ。三足族め。卑怯者め。
 そう言えば、俺が。
 畜生。
「そうすれば伯父上の建前はなくなる。戦なんて起こさないで済む。だから」
 何が殺せばいいだ。
「だから、奴を殺すのか」
 勝手にいなくなったあげく、奴は死ぬ。こいつの知らないうちに。俺の知らないうちに。知らない場所で。いなくなる。何だよ、そりゃ。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!
「シード、そんな言い方……!」
「そういうことだろうが。違うのかよ?」
 目が覚めたら、傍にいたはずの人間がいない。永久に、いない。
 その時の気持ちを知っている。
「違わない」
 そんなことを呑み込めるはずがないのも。
「僕らは、リタントのために生きなくちゃいけない」
 どんなに言葉を重ねても。
「それが印を受けた者の義務だから」
 どんなに月日を重ねても。
 胸糞悪い。
 葬列の鐘すら鳴ったことを知らず夢は目の前で歪み続け体は熱く血は流れ何が起こったかも何が理由なのかも何かが囁きこれで終わらせてはいけないとやるべきことがあると糞食らえだ押し込められた感覚鎌首をもたげそれは俺の名じゃない奴らを追うためにこれは悪い夢だ全て悪い夢だ世界はそんな捩れた夢に侵されようとだから眠っていてはいけない起きなくてはいけない。
 起きた時に、暖かな肌が、ざらつく石に変わっていようとも。
 それは悪い夢で、繰り返し訪れては癒えきらない傷を掻き毟る。
 苛々する。
 どうして自分がこんな気持ちにならなくてはいけないのか、分からない。
 三足族のせいだ。
 壁なんて越えようとしたのが間違いだ。
「ああ、そうか。そうかよ」
 三足族に関わったこと自体が間違いだ。
「じゃあ俺はここでお別れだ」
 そうすれば、もう嫌な思いはしなくていい。

15-9

 そう言い放った途端、シードは戸口から腕を外し、踵を返した。
「え、ち、ちょっと、シード!」
 そんなことは聞いていないミュアが驚いて引き止めようとするが、彼はつれなく返す。
「俺はもうお前らとは一緒に行かないって言ったろ」
「待ちなさいってば!」
 明かりのない廊下の暗がりに彼は消え、やがて荷物を持って戻ってきた。
「じゃあな」
 そしてミュアの制止も聞かず、短い挨拶と共に家を出て行こうとする。ニッカの問いかけがなければ、彼はそのまま森の中に消えていったことだろう。
「アピアを助けに行くんですか?」
 それは殊更シードの神経を逆撫でする質問だった。
「はあ? 何で俺がそんなことしなきゃいけねーんだ!?」
 てき面に反応し、シードはニッカに噛みつく。
「理由は十分にあるじゃないですか」
 対するニッカは平然とした顔でそう受けた。シードにとってはそんな風に思われているというのが面白くなく、完全に否定してからでないと去る気になれない。
「三足族を助ける理由なんて一つもないね。一体どんな理由があるのか、教えてもらおうじゃねーか」
 いつもの通り小難しい屁理屈でねちねち攻めてくるだろうと、シードは高をくくっていた。そんなことで誤魔化されはしないと身構える。それ故に、がら空きになっていたのだ。
「貴方がそう望んでいるからですよ」
 一番単純で、一番大切な、その部分が。
「違いますか?」
 即座に違うとは返せなかった。
「……畜生」
 悪態は負け惜しみにしかならなかった。
 ニッカを突き刺すような視線で睨みつけ、シードは彼に手を伸ばす。
「そいつを寄越せ」
 ニッカは膝に乗せていた剣を手に、シードへと歩み寄る。そしてさも当たり前のようにこう告げた。
「僕も行きますから。シードだけじゃ、見当違いの方向に走っていっても気づかなさそうですし」
「余計なお世話だ。俺一人で十分だから、来るなよ」
「自分でやったことの責任ぐらい取らせてください」
 シードはそれに答えず、ただ鼻を鳴らした。それからぐるりとセピアへ首を巡らせる。
「おい、セピア」
 そして、初めてその名で呼びかけた。
「お前はこのまま、そのセリークとやらに行って、それでいいのかよ?」
 問われたセピアは目を逸らす。
「けれど、それがアピアの望みで……」
「あんな奴がどう考えようと俺は知らん」
 シードは腕を組み、さっきまでの苛つきが嘘のように落ち着いた態度で重ねて問い質した。
「お前自身の気持ちはどうなんだって聞いてんだよ。奴を死なせて、うまく王様になって、それで良かったと思えるのか?」
 それは、聞かれるまでもないこと。
「嫌だ!」
 少しの躊躇いもなく、セピアは叫んでいた。一度口に出してしまうと、思いは堰を切ったように溢れ出す。
「嫌だ、やっぱり嫌だ、いなくなっちゃうなんて嫌だ、もう会えないなんて嫌だ!」
 幾度も幾度も言い聞かされた。これが一番正しいやり方なのだと。
 だから、覚悟しろと自分にずっと言い聞かせてきた。泣こうが喚こうがそれは覆らない。それはただアピアを困らせるだけの、子供じみた真似だ。平静に送り出すのが自分の務めなんだと。
 でもやっぱり。
 これは泣いても良いことだ。泣かなくちゃおかしいことだ。覚悟も納得もいらない。
 ただ、嫌だ。
 大粒の涙をこぼし、しゃくりあげ始めたセピアの頭を撫でるように優しく掴み、シードは囁く。
「よし、行くぞ」
 セピアは頷き、シードは彼の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
 一方、呆れ果てた顔をしているのがミュアだった。彼女は両手を腰に当て、大きなため息と共に諌めの言葉を吐く。
「貴方たちね、今から追いかけて間に合うと思う? 相手はまず間違いなく車使って全速力よ。無茶とか無謀って言葉を聞いたことはないの?」
「聞き飽きた」
 ひらひらと手を振り、シードはミュアの小言を聞き流す。
「大体、お前についてこいとは言ってねーよ。お前は心置きなく巡礼を続けてくっ」
 突然鼻先を思いきり弾かれて、シードは言葉を詰まらせた。全く痛くはないが、妙に腹立たしい。
「何しやがる!」
 突っかかってくるシードに、再び弾く形をとった右手を突きつけつつ、ミュアは一つ一つ言い聞かせるように話した。
「いい? 私は最初からそのつもりで話を聞いてたのよ。どっか行けなんて、貴方が言うことじゃないでしょうが」
「結局どうしたいんだよ、お前は」
「一緒に行くって言ってるの。セピアを変な感覚に染められたら、堪ったものじゃないわ」
「僕は心配してもらえないんですかね」
「ニッカは自己責任よ」
 そしてミュアは三人それぞれに指を突きつけながら申し立てる。
「大体ね、忘れてると思うけど、貴方たち全員、勝手に私についてきたんだからね」
「行きたいなら最初から素直に言いやがれ……」
「何か言った?」
 面倒くさいのでシードは首を横に振って知らないふりをすると、ニッカの手から元々自分のものだった剣を奪い取った。それを腰に提げながら、誰に言うともなく宣言する。
「急ぐぞ。奴らが壁を越える前にふん捕まえてやる」
 引き止める者はもう誰もいなかった。