Southward

第一章 人の章

「どこにもない奇跡、決まっていた別離」

14-1

 その壁は、神のめぐみ。
 その壁は、神のいらえ。
 その壁は、神のまもり。
 その壁は、神のなさけ。

 その壁は、我ら全ての前に立ち。
 けしてその先を覗くこと適わず。
 けしてその先へ越えること適わず。

 その壁は、我らと彼らを分けるもの。
 けしてこちらに入れてはならぬ。
 けしてあちらへ行ってはならぬ。

 我らと彼らは違うもの。
 忘れるな、我らと彼らは違うもの。

14-2

 そこは廃村だった。
 放棄されてからまだそんなに時は経っていないようで、建物の形はさほど崩れていないものの、人のいない荒れ様が所々を侵食していた。草は伸び、窓枠や扉が外れかけ、床には土埃が溜まっている。
 これは失敗したと思ったものの、今から次の村を目指す時間ではない。
「どこかの家を借りて、一晩過ごすしかないよね」
 追っ手のこともあり、野宿は出来る限り減らすようにしてきたが、こうなっては仕方がない。熱地を出てからいまだトーニナたちの姿は見えず、まけたのではないかと考えていたミュアはそう提案する。
「隣の村、結構近くないですか?」
 しかし、持ちかけられたニッカは乗り気ではなさそうだった。
「近くないんじゃない? 地図の感じだと半日はかかるでしょ、どれだけ急いでも夜中になっちゃうわ。ここなら、屋根と壁があるだけましだし」
「……そうですね」
「何か気になることでもあった?」
「いえ、特には」
「なら決まりね」
 彼の煮え切らない様子を疑問に思うが、思わせぶりなのはいつもの悪い癖なので、ミュアは流しておいた。シードやアピアはあっさり了承し、一行は状態の良い家を片付けて使わせてもらうことにする。シーツなど布類はぼろぼろになっていたし、家財道具はほとんど残っていなかったが、かまどや家具の一部は問題なく使用できた。それなりに一晩快適に過ごせそうだ。
 各々が自分で使う部屋を掃除している時、気づくとシードの姿がない。
「出てくの見た?」
 ニッカに尋ねても、首を横に振る。
「辺りを探検してるんじゃないでしょうか」
「一言ぐらい残していってほしいものよね」
「探してきましょうか」
「いいよ、夕ご飯までには戻ってくるでしょ」
 シードのふらつき癖もどうにもならない。これが例えばセピアだったら身の危険も案じるだろうが、シードに限っては心配するだけ無駄だ。
 実際、シードは気ままに村の中を散策しているだけだった。特に目的もなく、目についた場所へと近寄っては飽きたら離れていく。納屋の中など、見たことのない道具がいっぱい放置してあって、掘り返してみると結構気がまぎれる。舞う埃も気にせずに発掘作業を続けている彼に、後ろから声が掛けられた。
「面白いものでも見つけられましたか?」
 振り向くと、納屋の入り口に男が立っている。うなじにちりりと奇妙なざわめきが走り、シードは顔をしかめて問いかけた。
「何だお前」
 知らない人間のはずだが、どこかで会ったような気もする。最近か、それとももっと昔か。思い出せなく、もやもやする。
「少しお話がしたいのですが、お時間いただけますか」
 男は馴れ馴れしく、そう話しかけてくる。
「誰だか知らん奴の話なんて聞く暇はないな」
 シードの性格上、断るのは当然だった。男を無視して、壁に出来た穴から出て行きかける。
「おや、そうですか」
 しかし、彼の足は男の言葉に掴まれた。
「貴方のお母上に関係する話だと言っても?」
 その文句に、シードが立ち止まらない訳がないのだ。
「何だお前」
 睨みを利かせて再びその問いを口にする彼に、男は深々とお辞儀をしてみせた。
「ご挨拶が遅れました。私、ゼナンと申します。どうぞよろしく」

14-3

 開いた二階の窓から彼の姿が見えた。思ったよりも早いお出ましだった。アピアは寝息を立てているセピアを棚の下段にしまい、扉を閉めた。それから寝台の上に置いてある剣に目を留めしばし悩んだが、取り上げて腰に提げる。
 一階に降りると、ミュアが台所で夕食の準備を始めようとしていた。アピアは使ったコップをそこに戻し、声を掛ける。
「ちょっと薪でも拾ってくる」
「あ、助かるわ、お願い。あとシード見つけたら、早く帰るようにって」
「分かった。セピアをよろしく」
「いってらっしゃい」
 ミュアは何も勘付いていないようだった。小さく手を振る彼女に振り返し、アピアは外へと出る。そして、家の裏手へと小走りに急いだ。
「どうも。お元気でしたか?」
 回るなり、にこやかに声を掛けられ、アピアはそちらへと目をやる。待ち構えていたらしいゼナンが、隣の家の影から彼に手招きをしていた。
「あの家から見えない位置をご希望でしょう?」
 アピアは素直にその誘導に従い、彼の方へと近づく。その距離があと五歩ほどのところまで縮まった時、アピアの手は剣を抜き放ち、足は地を蹴りつけた。喉からは息が細く吐き出され、笛のような音を立てる。刃は下からの軌道を描く。
 次の瞬間、目の前の光景が霞んだ。地に肘をついている自分にアピアは気づく。腹部に重い痛みがある。たぶん、蹴られたのだ。剣は手から離れ、少し離れた場所に転がっていた。
「物騒なことはやめてほしいものですね」
 頭上から声が降ってくる。アピアは立ち上がろうとして、不意にえづいた。こみ上げてきたものは止められず、地面に吐瀉物が散らされる。
「無茶をしないでください。貴方に怪我をさせたら、こっちが怒られるんですから」
 息苦しさに荒く咳込むアピアへ、なだめるように言葉は掛けられる。駄目だ。アピアは乱れた息を整えながら、その目を固くつぶった。この男は相手を即座に無力化するやり方に長けている。リームとはまだ同じ舞台の上に立っていた。だが、この男とは立っている場所自体がまったく違う。
 それでも。
 アピアはようやく落ち着いてきた口元をぬぐう。ふらつく足を叱咤して立ち上がる。顔を上げ、ゼナンを睨みつける。
「いいか、僕以外の人間に手を出してみろ。そんなことをしたら、僕はお前らに絶対に従わないからな」
 そんな脅しにもなっていない脅しに怯む相手であるはずない。分かっていても、言える言葉は数少ない。
 ゼナンはそれに対して、大仰に眉を上げてみせた。
「承知いたしました……と言いたいところですが、それは残念。さっきもうお会いしてしまいましたしね」
 誰に、と尋ねる必要はなかった。あの家にいなかったのは一人しかいない。そして、その遭遇は最悪の結果に至るとしか思えないものだった。
「……何を、した」
「血の気の多い方は困りますね、本当に」
「どこだ!」
「ああ、あの緑の屋根のお家だったと思いますよ」
 途端に、アピアは剣もゼナンも捨て置いて、そちらへ走り出した。残されたゼナンは肩をすくめる。
「やれやれ。だから血の気の多い奴は困ると言っている。人の話は最後まで聞けと言われたことはないのかな」
 彼もまた、落ちている剣には目もくれずに、歩き出す。
「そんなつまらないこと、最初からする訳がないだろうに」
 目指すのは、アピアが出てきた家だった。開いた窓から、人影が見える。彼はその窓に近寄り、横の壁をノックして注意を促す。
 中にいた少女は、突然出現した見慣れぬ顔にぎょっとしたようだった。窓から一歩下がったところで、ゼナンはまた深々とお辞儀をして名乗ってみせた。
「はじめまして。私、ゼナンと申します。どうぞよろしく」

14-4

 名を呼ばわっても返事がない。部屋を回っても姿が見えない。耳の奥がじんじん鳴っている。
 ゼナンに騙されたのならまだ良い。もし返事が出来ないような状態にされていたら。
 玄関まで戻った時、外で音がしたような気がした。覗くと、家の横に納屋が造りつけられているのに気づく。もしかしたら、あそこに。
「シード?」
 彼はいた。薄暗がりの中で、入り口に背を向けて立っている。呼びかけは聞こえているはずだが、振り向かない。
「……大丈夫?」
 様子のおかしさに、アピアは声をかけながら近づいた。踏む地面は湿っているらしく、一歩ごとにぎゅうとへこむ。シードは動かない。アピアは嫌な予感に駆られる。
「シード」
 肩を叩こうとした刹那、シードの体がそれを避けるようにぐるりと回される。そして、振られる腕。その軌道はアピアの首を捉え、アピアの体は納屋の壁に叩きつけられる。
「お前、知ってたのか」
 暗く、冷たい声がする。首を押さえる指は震えている。恐怖ではない、怒りの震え。うつむき加減の彼の顔は見えない。ゼナンが彼に何をしたのか分からないが、彼らが追いついていることを話さなかったのは確かだ。アピアは謝ろうと口を開く。
「あいつらが、追ってきてることは……」
「んなこと聞いてねえ!」
 しかし口を開いた途端に、喉が締めつけられ、足が宙に浮く。吊り上げられたアピアは、下から睨みつけるシードとようやく目が合った。そして悟る。ゼナンが彼に何を吹き込んだのかを。
「母さんを殺した奴らを送り込んだ奴を知ってるってのは、本当かって聞いてるんだ!」
 息が苦しかった。でもそれ以上にそんな目で見られるのが苦しかった。分かっていたはずなのに。覚悟していたはずなのに。知られたら、けしてシードは自分を許さないであろうことを。なのに、自分は何を期待していたのだろう?
 答えないアピアに、シードの指の力は一層強くなる。初めて会った時に倍する殺気が辺りに満ちる。アピアの喉から呻きが洩れる。手足は意志と無関係に時折びくりと動く。視界は朦朧とし始める。
「言え」
 言えない、その名前は。その人は悪くないのだから。
「どこのどいつがあんなことの原因を作りやがったんだ!」
 確実なことを知っている訳ではなかった。それは、ただの推測。でもきっと間違っていない考え。
 八年前に、シードの母親を殺すような事態を引き起こしたのは、きっと。
「……僕だ」
 そんな答えがシードを納得させる訳がない。
「っざけんな!」
 一瞬、背に感じていた壁の冷たい感触が離れ、すぐまたそこに叩きつけられる。視界は明滅する。
「本当のことを言え! 言わないつもりなら、お前を……」
「殺せばいい」
 その言葉に、締めつける力が弱まるのが分かる。かすれた声を絞り出し、アピアはその先を継いだ。
「いつだって君はそう出来た。君が僕に負けるはずがない。掴まれただけで、僕は君に何も出来ない。いつだって君はそう出来た。君は強い。全てにおいて僕なんかよりずっと強い。もういいだろう? もう止めよう。もうごまかしは止めよう。もう遊びは終わりにしよう。もう、僕は」
「うるせえ!」
 怒声と共に、アピアの体は地面へ投げ捨てられた。衝撃で息が詰まる。首はずきずきと熱い。体が重い。手足の力は入らない。どちらにしろ、立ち上がる気力など湧いてきそうになかったが。
「二度とその面見せるな」
 それを最後に、シードは踵を返したようだった。冷たい地面に頬をつけたまま、アピアは遠ざかる足音を聞いていた。彼の気配を感じられなくなった時にも、首の痛みはまだくすぶったままだった。

14-5

 夕闇の時刻が来る。神の瞼が閉じ始める。暖かな光は消え失せ、冷たい風が地を撫でる。
 どこへ行っても同じ夜。どこへ行っても同じ闇。
「……父上」
 いつの間にか頬を涙が伝っていた。拭っても拭ってもそれは溢れてくる。
「父上、父上、父上」
 アピアは唸りに似た独り言を繰り返す。
「どこにもないんです、神の国も魔術師の国も。どこにもないんです、そんな方法なんて。奇跡なんて起こりはしないんです」
 壁を越えようがそこは人間の住む土地で、壁を越えようがそこにはただ普通の人の営みしかなく、壁を越えようが決められた運命が変わるはずもない。
 壁は神の意思だと、彼は言った。
 壁は神の呪いだと、奴は言った。
 壁は歪みだと、自分は感じた。
「越えるべきではなかったと、私は思っています」
 熱に灼かれるあの街で、追っ手の男はそう洩らした。
「勘付いていらっしゃるかもしれませんが……我々は本来なら貴方側の人間だったのです。我々が壁を越えたのは、貴方の御父上に命じられてのこと。その時は誇りに思いましたが、今は誤りであったと感じているのです」
 聞きながら、壁を越えた時のことを思い出していた。容易に蘇る、あのおぞましい冷たさ。
「もはや良くお分かりでしょう。こんなことは無用な混乱を呼ぶだけだと。一体我々の誰が望むでしょうか……壁を越えることなど」
 けれど。
 どうして父を責められよう。
 自分の望む言葉を間違うことなく与えてくれた父を。彼を逸らせたのは、自分の絶望なのだ。子供だったことが何の言い訳になろうか。
 どうして母を責められよう。
 一晩中自分の手を握り、泣きながら謝り続けた母を。彼女が謝ることなど、何一つありはしないのに。
 どうして弟を責められよう。
 冷たい仕打ちを続けた自分を、二心なく慕ってくれた弟を。彼がいなければ、きっと自分は既に磨りきれていた。
 どうして神を責められよう。
 この世界に今少しいても良いと赦してくれた神を。今も神の恵みは胸にぶら下がっている。自分には過ぎた恩恵だ。
 責められるべきはただ一つ。
 この後に及んでさえも、覚悟しきれていない自分の浅ましさだ。事実を受け入れられない自分の弱さだ。
 時は来た。
 自分の手で幕を引かなければならない。それ以上のことはもう望まない。
 再び顔を拭うと、涙は出てこなかった。冷え切ってきしきしする手足を地面につき、アピアは体を起こす。外には夕方の強い風が吹いていた。家への道の途中に、剣が落とされた時のまま放置されている。アピアはそれを拾い、家へと目をやる。
 開いた窓の向こうに、ミュアとニッカの姿が見えた。

14-6

 男の声を聞いた気がした。家の裏手で鏡をいじっていたニッカは、眉をひそめて耳をそばだてる。しかし気のせいだったのか、それらしき音は捉えられない。
 とりあえず作業は一時中断することにして、彼は家の中に入る。
「手伝いますよ」
 そして、台所を覗いて声を掛ける。途端、窓を向いていたミュアが、びくりと全身を震わした。
「あ、ニ、ニッカか。じゃああの、パンを焼いてくれるかな」
 あからさまに動揺しているミュアの顔色は目に見えて悪い。何かがあったのだとニッカは察する。
「でも、まだ薪がないから火が起こせないですよね。拾いに行きましょうか」
 けれど、いきなり問い詰めるのは止めておいた。ミュアが落ち着いて、自分から打ち明けるまで待った方が良い。
「そっか、薪。うん、それはいいの、今アピアが取りに行ってくれてるから。えーと、それじゃあ、お水をもうちょっと汲んできて」
「了解です」
 井戸に近い家を選んだので、すぐに水は補充できる。何しろ廃村の井戸なので、最初は病気などを警戒したが、家の様子からしてもそういった急な理由で村が放棄された訳ではなさそうだったので普通に使うことにした。汲んでいる時、向こうの家の隙間をシードが横切っていくのを見つける。ニッカは声をかけようかと思ったが、険しい顔でさっさと歩いていってしまったので、機会を逃す。
 家に戻ると、ミュアは無言で干し肉を削っていた。ニッカも荷物から鍋を出し、水を移して準備を始める。
「アピア、遅いですね」
 辺りには薄闇の帳が降り始めていた。近くを周って落ちている枝を集めるだけなら、こんなに時間はかからないはずだ。
 まだ大丈夫だろうと思っていたが、ひょっとしたらまずい事態なのかもしれない、とニッカは考える。第一、ここが廃村になっていることが計算違いだった。人通りの多いところを選んでいけば牽制になるだろうと思っていたのに。
「……三足族の人が来た」
 不意に、ミュアがぽつりと洩らした。彼女は手を止めて、足元に目を落としている。
「二人のことを警告していった」
「どう言ってきたんです?」
「正体を隠しているって。信用するなって」
「あいつらの言うことを信じるんですか?」
「違うの、それだけじゃないの」
 言い募るミュアの様子は、ただ妙なことを吹き込まれただけではなさそうだった。大体、アピアたちが素性を隠しているのは言われなくても分かっており、そんなことぐらいでミュアが揺らぐはずもない。ニッカは責めるのを止め、無言で先を促す。
「……私、見ちゃったの。あれは確かに」
 ミュアは一瞬ためらったが、次にはニッカの顔を見てはっきりと告げる。
「アピアの額にあったのは、確かに囚人の印だったわ」
「ミュア、それは……」
 詳しいことを聞こうと、ニッカが口を開きかけた時だった。彼は窓の向こうに、佇む人影を見た。声が届くには十分な距離。そして目が合った途端、その影は身を翻した。
「待ってください!」
 突然出された大声に驚いたミュアに構わず、ニッカは窓へと駆け寄り、その下枠を乗り越えた。足を引っ掛けて転びそうになったが、何とか体勢を整えて外へと跳び出す。
「待って!」
 呼びかけに答えることなく走る影を、ニッカは全力で追いかけ続けた。

14-7

 森に入ってしばらくしたところで、その追跡劇は終わりとなった。それは先を走るアピアが足を止めたからで、ようやくニッカは彼に追いつくことができた。
「いやもう、走るのも苦手なんですってば」
 木に体を預けて息を整えながら弱音を吐くニッカに対し、アピアは背を向けたまま一言発する。
「ニッカ、戻って」
「アピアも一緒なら戻ります」
「いいから、戻って」
「良くないから戻りません。ミュアは嘘に惑わされて、誤解しているだけです。僕が考えるに、その印は、貴方はたぶん……」
 聞く姿勢にないアピアに、とにかくこちらを向いてもらおうとニッカは言葉を重ねた。本当は確証を得てから話したかったが、仕方がない。しかし彼の努力は、割り込んできた声に潰される。
「嘘などついていないがね」
 それは初めて聞く声だった。その男が木の陰からのそりと現れた瞬間、辺りの空気が張り詰める。ニッカにすら、これがトーニナの言っていた応援だとすぐ分かった。ミュアに余計なことを言いにきたのはこの男だろうとも。
「何と吹き込んだ」
 アピアの険を含んだ質問に、ゼナンは薄い笑みを浮かべる。
「お前が印を刻まれた囚われ人だと、それだけだよ。何か違うことを言ったかな?」
 もって回った言い様は、ごまかしの手口だ。身に覚えのあるニッカはアピアに警告しようとするも、その前に彼は頷いてしまう。
「……ああ、嘘じゃない」
「俺は嘘が嫌いでね」
 嘘でないものが、全て真実である訳ではない。この男は嘘ではないということを免罪符に、真実を捻じ曲げるのを好む人間だ。ニッカは腹の底に不快感が渦巻くのを感じる。つまり、自分と同じ人種ということだ。
 ニッカは決然と歩み寄り、アピアの肩に手を置く。そして強い調子で彼に促した。
「アピア、それ以上聞く必要はありません。帰りましょう」
 話せば話すほど良くない方へ導かれるのは明らかだ。多少強引にでも、アピアをこの場から離れさせた方が良い。最悪、引きずってでもだ。
「アピア」
 動こうとしない彼の名を再び呼びつつ、ニッカはふと視線を上げる。ゼナンはニッカをまっすぐ見ている。目を細め、微笑ましく見守っているようにも思わせるその表情。しかし、瞳の奥のひどく冷たい光に気づき、ニッカの背筋には怖気が走る。この男は自分が絶対的に上位にいると信じ切っている。
 ゼナンの口は再び開かれる。今度はアピアではなく、ニッカに向かって。
「タイカ=ソール、もういい。ご苦労だったな」
 一瞬、言われた意味が分からず、きょとんとするニッカに彼は畳み掛ける。
「もう気遣うふりなどしなくていいと言ってるんだよ」
 そこから滴る悪意に身構えた時には、もはや手遅れだった。そしてそれは、完全なる嘘ではないのだ。
「お前の情報がなければ、大事な彼らを見失っていたかもしれないからな」
 真実ではないと言い張っても、どれだけの信頼が得られようか。
「父親と同じく、よく働いてくれた」
 裏切りはあっさりと暴露された。同時に、求めていた情報の欠片がゼナンの口から飛び出たことが、ニッカを動揺させた。肩に置いた手を震わせたのは、自分のそれなのか、アピアのそれなのかは判断できなかった。
「ちが……僕は……」
「彼は実に見事に双方を騙し通していたからな。きちんと受け継いでいるのが分かり、実に頼もしい心持ちだよ」
 ニッカの弁明は弱く、ゼナンはそれを揉み消した。彼は二人に近づき、ニッカの手首をつまんでアピアの肩から下ろす。そのまま彼の手は、首にかかるアピアの髪をかき上げた。
 ニッカはそこに、赤くはっきりと残っている指の痕を見る。
「何度言ったら分かるのかね、このお子様は。怪我をさせたら怒られるのはこっちだって」
 ここまで高圧的な物言いをされても、アピアはゼナンの手を振り払いもしなかった。ゼナンはがらりと口調を変え、アピアに囁く。
「お可哀想に。誰にやられたんですか? 大事なお体を傷つけた輩には、相応の報いが必要ですね。そうでしょう?」
 その大仰で表面だけ丁重な言い回しは、むしろ侮りの色を強くした。
「さあ、戻っていただけますね、アピア様」
 アピアから返事はない。
 いけない、とニッカは思う。今すぐこの男からアピアを引き剥がさなくては。しかし、近寄ろうとしたニッカの動きは、睨みによって牽制される。
 暴力の匂いを隠そうともせず、ゼナンはニッカを威圧する。
「お前も一緒に来るな?」
 それは問いかけではなく、強制のために投げられた言葉だった。

14-8

「駄目だ」
 拒否の返事が出たのは、問われたニッカの口からではない。
「一緒には、行かない」
 それはずっと黙り続けていたアピアが発したものだった。
「お前の言いなりにはならない」
 そう宣言した途端、彼はニッカへと振り返り、その手を掴んだ。そして、そのまま走り出す。
 取り残されたゼナンは、しばらくそれを見送ってしまったが、やがて肩をすくめる。
「おやおや」
 それから、彼は森の暗がりに控えさせておいた男たちへ手を振った。現れた彼らに指示を与える。
「おい、あれ、捕まえとけ。俺はお子様の説得を続けるから」
 四人ほどの男はばらばらと走り始め、ゼナンも早足でその後を追う。
 そうとも、もっと頑張ってもらわなければならない。彼は足を進めながら、口の中でそう呟く。そうでなければ、面白くない。磨り潰していく過程こそが一番楽しいのだから。
「アピア、このままでは」
 木々の隙間から追っ手の姿が見え始め、ニッカはアピアに注意を促す。足の遅い自分を連れたままでは、すぐに追いつかれてしまうだろう。アピア一人ならば、まだ。
 ニッカはそう考え、分かれて逃げることを提案しようとしたが、その前にアピアが立ち止まる。そして、何かをニッカに押し付けてきた。
「これを持って」
 手渡された途端、重みがニッカの腕を下げさせる。シードの剣は鞘ごと彼の手に移されていた。
「適当に振り回すだけでいい。怯ませられれば、それで十分だから。村は近い、きっと何とかなる」
 そして、アピアはニッカを庇うように、追っ手の来る方へ体の正面を向けた。
「先に行って。僕はしばらく留まる」
「そんなこと出来るはずないでしょう!」
 承諾できるはずもない提案にニッカが声を荒げたが、それに返されたのは厳しい指摘だった。
「足手まといだ。先に行ってもらわなければ、僕が逃げられない」
 返す言葉はない。共に逃げても、共に留まっても、自分がアピアの足を引っ張る。ならばアピアの言う通りに、先に逃げるのが一番ましな手なのかもしれない。
 理性はそう判断する。けれど、感情がニッカの足を鈍らせる。この状況を招いたのが自分であるが故に。
 ニッカは首を横に振る。
「アピアが先に行ってください。僕は彼らに情報を渡した。僕はあいつの言う通り、裏切り者です。僕の方がここに留まるべきだ」
 話している間にも、男たちはどんどん近づいてきていた。今すぐ判断しなければ、追いつかれる距離だ。
「信じている」
 焦るニッカの耳に、その単語は唐突な響きで飛び込んできた。思わず顔を向けると、アピアもまたニッカを見つめ返していた。
「ニッカ、僕は信じている、君を、君たちを。だからお願い、先に行って。あいつらは僕にひどい真似は出来ない。でもきっと君には違う」
 ここに留まろうが、自分には何も出来ない。ニッカは悟らずにはいられなかった。すぐに捕まり、アピアを脅すための材料にされるだけだ。
 今、自分に出来る最も良いことをするべきなのだ。
「……すぐにシードを連れてきます。無理をしないでください」
 ニッカは反対する感情を抑え込み、アピアにそう告げると、剣を手に走り出した。アピアは微笑みをもってそれを見送り、男たちに向き直る。
「止まれ!」
 発された命令は、意外な大きさで辺りの空気を震わせた。その勢いに男たちの足が一旦止まる。彼らを睥睨するアピアは、両足を肩幅に開いて臨戦態勢を見せる。
 そこへゼナンが追いついてきて、呆れた声を出した。
「何で律儀に止まってるんだ、お前ら。さ、追った追った」
 払う仕草で追いやられ、男たちは再び進もうとするも、やはりアピアに睨みつけられて戸惑ったように足を止める。
「私の言うことを聞けないというのか」
 ぴりぴりとした緊張が満ちる場で、アピアの威圧を気にしていない風なのは、ゼナンだけだった。彼はにやにや笑いながら、問いかけてくる。
「えらく強気に出たな。何で俺らがお前さんの言うことを聞かなきゃならないんだ?」
 アピアは怯まない。彼の手は額に巻かれた布に掛けられ、それを剥ぎ取った。
「この印と我が名において」
 そこにはミュアが見た印が消えることなく刻まれている。複雑な形を描き、僅かに発光しているような奇妙な痕。
「アピア=セリーク=リタント=ファダーの名において、お前たちに命じているのだ」
 彼は改めて自らに冠された名前を、男たちに叩きつけた。
「彼を追うことは許さない」
 次に来た沈黙を打ち払ったのは、場違いな爆笑だった。ゼナンは腹を抱えて笑いながら、男たちに指示を出す。
「お前ら、戻れ」
「しかし……」
「いいから、戻っとけ。逃げた方はもういい」
 納得いかないながらも、ゼナンがそう言うなら仕方がない。男たちは追い払われて、森の奥へと消えていく。一人残ったゼナンは目元の涙を拭い、いまだ戦う姿勢を崩さないアピアに声を投げた。
「強がりもそこまで来れば上等だ」
 そして、ゼナンはアピアへと手を差し伸べる。
「さ、行くのだろう?」

14-9

 どれだけ走ったのか分からない。普段したことのない全力疾走でふらふらになりながら、ニッカは村へ転がり込んだ。しかし、ここでへばってしまう訳にはいかないのだ。
 空には星が目立ち始めている。シードも家に戻っているはずだ。早く連れていかなければ。
 しかし、家へと走り出したニッカは、途中で人影を認める。それは間違いなくシードの姿で、何故か彼は緑の屋根の家辺りをうろついている様子だった。ニッカは彼へと駆け寄り、呼び止める。
「どうしたんです。何かあったんですか?」
「何にもねーよ」
 彼はいつにもまして不機嫌な顔をしていた。触れどころを間違えば、爆発するような状態だ。けれど、いつものように治まるのを待ったり、お酒に付き合ったりしている時間はない。
「一緒に来てください」
 半ば強引に、ニッカはシードの手を引っ張って早足で歩き出した。
「何だ、どこ行くんだよ」
「森です。急いでください」
「何があるんだ」
「早く行かないとアピアがあいつらに……」
 説明しかけた瞬間、突然後ろに引っ張られてニッカは倒れかける。シードは立ち止まり、今にも噛み付きそうな表情でニッカを睨みつけていた。
「行かねー」
「どうしてですか」
「……俺には関係ないことだろ」
 そして、ニッカの手を振り払い、村の中へとのしのし戻っていこうとする。
「シード!」
 ニッカは諦めず、シードの前へ回り込んで彼を押し留めようとした。いつもと違うニッカの様子に、シードは目を見張る。
「助けないのは、アピアが三足族だからですか!?」
「そうだ。そうに決まってんだろ。今更何言ってんだ。何で俺が」
「じゃあどうしてセピアは助けに行ったんですか!」
「あん時は……ああ、畜生、どうだっていいんだ、そんなのは。奴は隠してやがったんだ、知ってたくせに! だから俺は悪く……」
「僕だって、貴方に隠し事くらい沢山してますよ。例えば、僕は半分三足族です」
 シードの動きが止まった。ニッカは念を押すように重ねて言う。
「僕は生耳族と三足族の間に生まれたんですよ。そして、僕はサレッタからあの三足族たちに居場所を知らせてました。情報と引き換えにね」
「てめえ!」
 胸元を掴まれても、ニッカは怯まずシードを見返した。
「何でそんなことしてやがる!」
「知りたかったからですよ」
 自分の行動はいつだってそこにたどり着く。結局、父と自分は同じ人間なのだろうと、ニッカは思う。
「父親のこと、自分のこと、彼らのこと、そして、アピアとセピアのこと。知らなきゃ何も出来ないと思っていたからです。あんな奴が来ると分かっていたら、やりはしなかったのに」
 それは言い訳でしかないことも分かっている。トーニナから警告を受けた時、断念すべきだったのだ。大丈夫だと思っていた。自分なら、皆に隠し続けることも、三足族たちに協力するふりをして欺くことも、出来ると思っていた。あまりにくだらないのぼせ上がり。
「あいつか」
 ニッカの指す奴が誰だかすぐ分かり、シードは舌打ちする。
 あの、物腰も喋り方も最低の印象しか残さなかった男。
 殴りかかっても良いようにあしらわれ、腹の立つことを囁かれ、最悪の気分の時にアピアがやってきたのだ。
「シードも会ったんですか?」
「反吐が出るような奴のことならな」
「なら、分かるでしょう。あいつにアピアを渡しちゃいけない。きっと取り返しがつかないことになる。お願いです、シード、一緒に来てください」
 あの男は気に入らない。殴れるのなら今すぐ行ってやる。
 シードは思う。
 だが、どんな顔をして奴の前に出ればいい? あの目。大嫌いなあの目。むしゃくしゃさせるあの目。あの目を向けられたのは何回目だ?
 殺せと言われたのは何回目だ?
「シード!」
「ごちゃごちゃうるせえ! いい加減にしやがれ! 行きゃいいんだろ!」
 全てを振り払うように、シードは叫んだ。こんな言い争いは真っ平御免だ。
「いいか、今回だけはお前に免じてやる。けど、俺はお前らともう一緒に行かない。ここでお別れだ。いいな」
 そう言われては、ニッカは迂闊に頷けなかった。頷けば、アピアが助かればシードはいらないと言っているに等しい。返事を待たずに凄い速さで歩き出したシードを追いながら、彼は尋ねる。
「ちょっ……別れてどうするつもりです?」
「好きなようにやる。大体、一緒にいる意味なんて何処にあったんだ」
 頑なに口を結び、ただ前だけを見て進むシードは何を言っても聞きそうにない。
 ニッカは一旦諦めることにした。シードの説得は後でも出来る。急を要するのはアピアの救出の方だ。せっかくやる気なのだから、それを殺がない方が良い。
 しかし、そのやる気は空回りすることになる。逃げてきたはずの場所にはもはや誰の姿も見当たらなかった。
 場所を間違えたかもしれないと、周辺をいくら探そうが呼ぼうが、何一つ返ってくるものはありはしなかった。