Southward

第一章 人の章

「辿りついたその場所」

21-1

 ゼナンの佇まいに押され、アピアは自然と息を呑んでいた。
 おかしい。彼はここまでの雰囲気だっただろうか。嫌な感じが増しているように思える。それに、どうして袖を通していないのだろう。腕を隠して何をたくらんでいるのか。
 そういえば長い間ゼナンと相対していなかった気がする。車の外から覗き込んだりして姿をちらちら現していたものの、ホリーラを去る直前辺りから今に至るまで、言葉を交わしていない。思い返すと妙なことだ。
 そしてまた、シードの様子もおかしかった。
 彼から発される殺気はびりびりと肌を刺し、肩を掴む手の力は強く、抑えきれない震えがこちらの体も揺らしてくる。
「せっかくの仇討ちには、ここは狭すぎるな」
 発されたゼナンの一言で、アピアはその訳を悟った。
 薄々そうではないかと思っていた。だからこそゼナンとシードを近づけたくはなかったのだ。
 そして、シードがここに来た理由は。
「ものには相応しい場所というものがある。ついてこい、シンス=トーラー」
 黙りこくっているシードを促すよう、ゼナンは並ぶ柱の間に身を滑らせた。そのまま間髪入れず、手すりを飛び越える。
 ここは三階だったはずだ。シードが駆け寄ったために、アピアのその危惧はすぐに解消された。ゼナンは下の張り出した屋根や木の枝を利用し、難なく地上へと降り立っていたからだ。彼は挑発めいた仕草で、斜めにこちらを見上げる。
 アピアは即座の衝撃を予想し、身を縮めた。シードが追わないはずがなかった。自分の思いを遂げるのにためらうはずもなかった。けれど、風を切る音も着地した反動もいつまでもやってこない。不審にアピアは目を開く。それは、見下ろす視線と絡み合った。
 黒く大きな瞳は、はっきりと迷いの色を映していた。
 どうして。迷うことなんて何も。
「行って」
 何もあるはずないだろうに。
「大分良くなった。ここで下ろしてくれればいい。僕一人でも、もう追いかけられるから」
 アピアはたまらず、シードの無言へと語りかける。
「……そのために、ここまで来たんだろう?」
 怖かった。彼の躊躇が無性に恐ろしかった。そんなシードはあり得ない。
 彼の噛み締めた唇から低い声が洩れ出してくる。
「……でもいいんだ」
「え?」
 聞き取れなかったので思わずそう返すと、シードはぐいと顔を前に向けた。
「あんな奴ぁ、どうでもいいんだよ!」
 血を吐く勢いで、シードは吠える。どうでもいい訳があるはずない。それは、シードのひび割れた声が、血走る目が、痛むほど締めつける指が、固い表情がはっきりと告げている。あるはずがないのに、どうして。
「行くぞ!」
「でも……」
 途端、一層強く体を押しつけられ、アピアの反論は尻すぼみになってしまう。シードは乱暴な足運びで回廊を走り出す。
 角のところに近づくと、慌てて走り出す人の気配がした。曲がれば、留まってこちらを窺っていたらしいディーディスの背中が階段へと消えるのを見つける。
「待てって言ってんだろうが、くそ!」
 やがて、シードが苛立ちを露に吐き捨てた罵り言葉の響きも消え、回廊は元の静けさを取り戻した。

21-2

 回廊を走り抜ける影を見やりつつ、ゼナンは呆れたように息をついた。
「……おやまあ」
 それはこちらを振り向くこともなしに、あっさりと反対側の端に見えなくなる。
「絶対に追ってくると思ったんだがな」
 どうやら計算違いだったらしい。自信があっただけに拍子抜けしてしまう。まさか怖気づいた訳ではあるまいに。
「復帰訓練くらいには役に立つと思ったが」
 風に踊る袖を払ってみる。右腕に治る見込みはなかった。このままでは壊死するのは必至で、切り落としたのは必然だった。
 やっと起き上がれるほどに調子が戻ってきたところへ、この来訪だ。
 だからといって、復讐など別に考えていなかった。いや、少し違うかと、彼は自分に突っ込む。意趣返しは考えている。そしてそれは、本人相手でなくても、自分の手を下さなくても全然構わないだけだ。もちろん自分自身で出来た方が気持ちよかっただろうが、まあ良い。
 自分は心が広いのだ。
 挑発に乗らなかった場合の手も考えてはあり、先ほどぼっちゃんにも指示を与えた。ゼナンは塔へと戻り、アピアが逃げないように扉を固めていた衛士たちにその手配を命令する。衛士たちはゼナンに指図されるのに納得いかない顔ながらも、基本的に従うようにと公爵から指示が出ていたこととディーディスの名のために、仕方なく動き出す。
 その様子をゼナンは冷ややかな目で見やり、自分はそれに加わらずに場を離れた。
 後はあのぼっちゃんの才覚だ。関わる気はもうなかった。自分が腕を失くした原因があのガキだとすぐに見抜いて、自分のところに来たのは評価するが。
 それよりも気になることがある。
「奴がいるということは……他のもいるな」
 あれが一人で、情報網に少しも引っかかることなしにこの城にたどり着けるとは思えない。間違いなくあの弟も同行しているはずだ。この城まで一緒に侵入しているかどうかは分からないが。
 しかし侵入しているとしたら、兄を放って別行動している目的は一つだろう。
 居場所は自分にも知らされていないが、今までの動きを観察していれば大体の見当はつく。
 ゼナンは塔を背に、ぶらぶらと歩き始めた。

21-3

 そして追跡行はついに終わりを告げた。ディーディスは上へと逃げ続けた結果、屋上へ続く扉をくぐったのだ。そこに抜け道など存在しないことをアピアは知っている。
「待って、シード」
 続いて扉を開けようとしたシードに、アピアはあらかじめ釘を刺しておくことにした。
「ディーディスはたぶん僕を渡せって言ってくると思う」
 吠えて以来、むっつりと押し黙ってしまったシードはその要請を聞いているのか良く分からない。
「そうしたら、素直に従って」
 ただ、そう言った時に眉がぴくりと動いたので、たぶん聞いているだろうとアピアはその意図を説明する。
「あれを投げ捨てられたら元も子もないんだ。隙を見て奪うには、近くに行かないと」
 湖に落ちたら回収の見込みはない。それよりは油断させておいて、奪って逃げることを考えた方が分が良く思える。
 シードは鼻を鳴らして不満の意を示したが、特に反論はしてこなかったので一応了承したらしい。だから、アピアも扉に手を掛けたシードを今度は止めなかった。
 押し開かれた先に広がるのは空だった。中央に神の写し身を戴き、燦々と晴れ渡っている。
 かつての物見塔もその任務を終えて久しく、普段訪れる者も少ない屋上は手入れも怠りがちらしい。ところどころ石畳が欠け草が生え、囲む壁も半ば以上が崩れたまま補修されていなかった。
 そんな中、ディーディスはこちらを向き、覚悟したように見据えて立っている。
「ディーディス、それを返してほしい」
 追い詰められたディーディスを刺激しないように呼びかけたアピアへ、彼は非難めいた目つきを向けた。
「お前は、サラリナートのことが好きなんだと思っていた」
 突然の発言に、アピアは一瞬言葉を失う。
「……まさか、そんなことのために彼を巻き込んだのか」
 続いて、憤りが湧き起こってきた。今回だけのことではない。曖昧な態度を取り続け、彼を惑わせ続けたのがそんな理由からだったとしたら、許せない。
「サラリナートは大事な友達、それだけだ」
 しかし、アピアの怒りと対照的に、ディーディスはひどく淡白な態度で頷いてみせた。
「ああ、分かっている」
 そして、彼の継いだ言葉は、先ほどよりも強くアピアを動揺させた。
「今は良く分かっているよ。お前、サラリナートにだって、そいつに向けるような顔はしてなかったものな」
 アピアは思わずシードを振り仰いでしまうが、彼はまったくこちらを見てはいなかった。ただ、ディーディスをひどく不機嫌そうな顔で睨みつけているだけだ。安心したような、残念なような、もやもやした気持ちを抱きつつアピアが顔をディーディスに戻すと、彼もまた憎々しげにシードを睨んでいる。
「アピアをこちらに寄越せ、異種族め」
 先ほどの淡々とした調子から一転、ディーディスがシードへと投げつけた言葉はあからさまな敵意に満ちていた。
「大きな顔をして、この国へ踏み込むな。傲岸な差別者の末裔が」
 シードの眉がさらに吊り上るのを見て、アピアは不安を覚える。先ほどのやりとりを彼はちゃんと理解しているのだろうか。
「嫌だね」
 はたして、その不安は的中した。
「誰が渡すか、お断りだ」
 きっぱりと、翻す隙すらなく、シードは拒否の返事をしたのである。自然、辺りに険悪な空気が流れる。衝突が避けられるはずもなかった。
「……少しだ。待ってろ」
 彼はアピアを床へと下ろし、己の拳を撃ち合わせる。対して、ディーディスも懐に首飾りをしまい、構えを取る。
「動きにくいな」
 舌打ちをしつつ、シードはさらに上着を脱ぎ捨て、その背中を初めて目の当たりにしたアピアは、小さく悲鳴を上げた。
「背……!」
「あ?」
 シードが怪訝そうに振り向く。
「ああ、面倒くさかったからちぎった」
「ちぎ……」
 絶句するしかないアピアを尻目に、シードはディーディスへの距離を縮め、たちまちの内に殴りかかっていった。

21-4

 何かが変だった。
 へたり込んで動けないアピアは、シードの攻撃がディーディスにことごとく躱されるのを見やりつつ、湧き上がってきた違和感に気を取られていた。
 さっきすぐに遁走したとはいえ、ディーディスはけして弱くもないし、臆病な訳でもない。今だって一度当たれば致命的なシードの拳をうまくさばいている。地下の遭遇でアピアの姿を認めていたのに取り戻そうとしなかったのは、シードのことを知っていたからとしか思えない。
 それならば何故、ディーディスはこんな逃げ場のないところへやってきたのか。
 道を間違えた? 焦っていた?
 そんなはずはない、とアピアは思う。彼は自分と同じくらい、この城のことを熟知しているはずだ。
 人目を避けたかった?
 それはあるかもしれない。城中全てが伯父に味方しているとは思えなかった。たぶん、彼が完全に抱き込んでいる人員はこの塔に配置されている者だろう。彼らはこの塔からアピアを出す訳にはいかないのだ。それにしても、ディーディス一人で相手をする意味はない。味方の衛士らを見つけ、複数人で取り押さえにかかってくるのが普通だ。
 自分一人で十分だと思った?
 ディーディスはそんな性格じゃない。彼は失敗らしい失敗をしたことがない。それは自分が失敗するようなものには手を出さなかったからだ。良く言えば、彼は自分の力量を客観的に量れる人間だ。その彼が、こんな大事な時に自分を過信するだろうか。
 では、答えは一つだ。
 彼は狙ってここへやってきた。ここに確実な手段があるからだ。
 じゃあ、それは何だ?
 その時鳴り響いた一際大きな破壊音に、アピアは反射的に顔を上げた。シードの拳が屋上を囲む壁を打ち砕いていた。破片がばらばらと地上へと降り注ぐ。
 このままシードを野放しにしておけば、ここで何か奇妙なことが起こっているのは、城中に知れ渡ることになるだろう。何一つ、伯父側の利になることがあるとは思えない。
「待った、分かった、返すよ」
 それに気づいたのか、ディーディスは手を上げ、懐から首飾りを取り出して、渡そうとシードへと差し出す姿勢を取る。あっけない幕切れにシードは不満そうな顔をしていたが、降参した相手に殴りかかる訳にもいかず、受け取るために彼に近寄っていった。
 それにしても、最初に対峙した位置からずいぶんと離れ、二人とも遠く、隅の方まで移動してしまっている。シードの動きが大雑把だったため仕方がないが、今もディーディスは微妙に位置を変えているように見える。
 そして、アピアはそれに思い当たり、遠くへと目を投げた。
 誘導している?
 視線の先には、居並ぶもう一つの塔。頂上に数人の人影があり、彼らは陽光にきらめく何かをこちらへ向けている。シードの無防備な背中へ、向けている。シードは気づいていない。気づく暇も。
 だめ。
 痛みもだるさも、全てどこかへ消え失せた。
 それはだめ。
 体は軽く、地面を押せばあっさりと起き上がることが出来る。
 それだけは、だめ。
 一歩、二歩、三歩。足は簡単に体を運ぶ。近い。
 ぜったいに。
 間に合う。
 ぜったいに、だめ。
 大丈夫。間に合う。

21-5

 後ろを、何かが走り抜けるのが分かった。
 不承不承ながらも、ディーディスの差し出す首飾りを奪い取ったシードは、横顔を叩いた風にふと振り向く。
 刹那の出来事だった。
 何が起きたか分からなかった。
 幾つも鳴り響く空を切る鋭い音。その元が見えないのは、視界が大きく塞がれているからだ。遮っているのは人の体。大きく手を広げ、向こうを見せまいとするように。それが揺れる。嫌な音がする。先ほどと全然違う湿った音。一つ、二つ、三つ。鼻先に何かがかかる。嫌な匂い。目の前が霞む。あの時の。そして、つい最近にも、鼻がばかになるくらいに。
 本当は、何が起きたか分かっていたのだ。分かりたくなかっただけだ。
 向けられた背中から突き出て、陽光に煌く突端。垂れ落ちる赤。空を隔てて向こうに建つ塔の上に立つ、幾つかの人影。振り向いた瞬間に全てを捉えて、理解していた。
 けど、そんなことあって良いはずない。
 だって、それなら、何のために、ここに。
 ずっと、自分は、そのために。
 あの時からずっと。
 まとまらない思考は、飛び込んできた音によって中断させられた。
「シード、ごめ……ね」
 それは途切れて言葉にならない声。それは最期の。
「あり……」
 告げ終わる前に、その体は前へとつんのめった。そこの壁は崩れている。その先は何もない。
 落ちる。
 途端、凍りついていた体が突き動かされた。足は自然に地を蹴り、手は自然に前へと突き出る。
 助からないのは悟っていた。例え捕まえようとも、矢は致命的なところを射抜いている。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。考えもしなかった。自分の羽が今は役に立たないことも。
 もう知っていたのだ。
 心だけが自分を導き、それは絶対に自分にとって正しいのだということを。
 そうだ、あの時に自分は。
 体と共に足踏みしていたその気持ちも走り始める。
 ただ、あの時。
 くだらないほど小さかった自分が、侵入してきた奴らを殺したいなんて思うはずなんてなく。復讐なんてものよりも先に。
 三足族なんてどうでもよかった。
 今だって、どうでもいい。
 嬉しかったのは、三足族と聞いたからじゃない。
 一緒に行くことを決めたのは、三足族だからじゃない。
 喧嘩を売ってきたからだ。
 自分の力を見た直後なのに、正面から、ためらいなく。
 そんな奴は初めてだった。
 だから強く。
 強くいてもらわなくてはならなかった。
 男じゃないなんて反則だし、庇ってみせるなんてもっと反則だ。
 だって、自分は、ただ。
 あの時からずっと。
 ただ、自分を庇う彼女を助けたかっただけだったのだから。
「アピア!」
 シードは手を伸ばした。
 自分が今いる場所も、今置かれた状況も何も考えていなかった。届かないことだけを恐れ、ためらいが訪れる余地などありはしなかった。
 ごく当たり前に、突端を踏み切って、彼は飛び出していた。

21-6

 そして、彼はそれを見守っていた。
 空から地へと叩きつけられるまでのわずかな間。そこで起こったことを知っているのは彼だけだった。
 少年の手が届いたのを見た。
 落ちるにまかせるまま、強く抱き寄せるのも見た。
 そして、それまでのはずだった。
 少年の背の羽はその力を発することはできず、地上は無情にも固く二人の体を待ち受けている。
 もちろん助けに入るつもりだった。ここで二人も減らすのはあまりにも痛い。多少不自然だろうが仕方がなかった。
 出来なかったのは、目が合ったからだ。
 彼が動こうとした瞬間に、少年は何を感じたのか、首をぐいと上げた。そして黒い瞳が彼を見据えた。
 本当にこちらの姿を認識していたのかどうかははっきりとしない。その目の光の強さで、彼が勝手に判断しただけだ。
 助けるのは余計な真似なのだと。
 彼の判断はたぶん正しかった。手を出していたならば、それは起こらなかっただろうから。
 空は終わる。
 地は近づく。
 少年は声にならない声で吠える。
 心は正しく、それに応えた。
 あまりに荒々しく、噴出すばかりの奔流。安定した肉があればこその、力任せの業。
 一瞬で、羽は編まれた。
 不必要なものは溶け去り、補われた。
 地は彼らを捕まえ損ねた。
 目が眩むように感じ、彼は顔をしかめる。為されたことよりも、発散されたものの方が大きすぎた。これは当てられかねない。そして、さすがに響く。
 ざわりと地が動くのを、彼は感じ取った。彼らは間違いなくこの出現に勘付いたのだ。
 だが、もはやこの時に至るのは時間の問題だった。だから、穏やかに問うてくる声に耳を傾け、彼は返事をする。
「……父様。ええ、平気です。順調だと思います」
 改めて、導き手たる自分を思い出す。同時に、選ばれた理由も。
「僕とは違う」
 彼は呟いた。そう、彼らは正しく己を知り、進むだろう。
 何一つ果たせずに果てた、自分とは違う。
 額に痛みが走ったような気がした。そんなことがあるはずはないのだけれど。
 彼は南へと顔を向ける。
 そちらからやってくる風が、彼の体を吹き抜ける。それは彼の髪の毛一本も揺らしさえしないものだ。
 そして再び、彼は顔を下へと向けた。
 地にたどり着き、草の上に横たわる二人の姿が見える。こちらはしばらく大丈夫だろう。
 だから彼は今ひとつの方へと目を移すことにした。空を蹴り、彼は姿を消した。

21-7

 雨が降っている。
 頬を叩く感触が、それを告げていた。その感覚を覚えていた。
 あの時。
 壁を越えたあの時も、雨は降り注いでいた。
 恵みの水、地を洗い浄める力、世界を包む神の愛の証。けれどそれは冷たく重く、まるでお前は間違えているのだと嘲笑うかのように。
 お前はただ逃げたいだけなのだと。
 だが、どこへ行こうがお前は。
 分かっている。でも。
 楽しかった。
 遠くから名を呼ぶ声が聞こえる。握った指の隙間に、何かを押し込められるのが分かる。硬質な、それでいて暖かな気配。
 また、雨が頬で弾けた。
 ……それが冷たくないことに、気づいた。
 誘われるように瞼が開く。
 霞む目の端に映るのは、雲ひとつない、ただひたすら抜けるような青い空。
 その明るさに眩んでいると、影が落ちる。誰かが覆いかぶさるように、覗き込んでいる。
 今までに見たことのない顔をした、彼。
 そうか。僕は。
 思い出す。けれど、何故かあるはずの痛みはなかった。
 服は確かに破れ貫かれているのに、その下の傷は消えていて、胸に乗った手の指だけ動かして探ってみても見つからなかった。
 その理由は分からない。
 まだいいのだろうか。もう少しだけ、ここにいても。
「……ごめんね」
 口からこぼれたのは、その言葉だった。
 かすれた声は届いたらしく、跳ねつけるような返事がやってくる。
「うるさい」
「ごめんなさい、シード」
「あやまんな」
 ぶっきらぼうな口振りなのに、いつもの勢いはそこにない。
「俺が殺していいんだろうが」
 どこか、ぐらぐらした響き。
「じゃあ、俺が殺すまで勝手に死ぬな」
 出会ったときのことが頭に浮かぶ。殺してやると叫んだ彼の激昂を。
 それはたった二月ほど前のことだったのだ。
「……勝手に死ぬな、この馬鹿」