Southward

第一章 人の章

「赤い実・黒い実」

4-1

 木々の下に家は立ち並び、森から外れたなだらかな野には畑が広がっている。畑で育てているのは果実酒の原料となる黒葡萄で、適切な天候の下すくすくと育っている。
 ムディカ=トゥカ村に訪れる一年は、昨年と変わらずに神の恵みを受け、穏やかに続くはずだった。
 実際、たった一つのその事件を除いて、村は平穏だったのだ。そしてその事件も、起こった結果だけ考えれば、驚くほど珍しいものじゃない。村の老人は言う、自分が子供の頃にもあったし、今の大人たちが子供の頃にもあった話だ、と。
 そう、一人の少年が死んだ。
 ただそれだけ。
 当事者にとっては辛い話だが、ありふれた話でしかない。産まれた子供の全員が無事成人を迎えるなんて、よほど神の恩寵がある者に限られている。
 問題は、殺されたと言えなくもない状況だったこと。
 そして、殺したと言えなくもない相手。
 それがトーラー公爵の一人息子でさえなければ、あんな騒ぎになることもなかっただろう。
 アネキウス暦七五〇七年、今から五年ほど前の話だった。

4-2

 もちろんそれはかなり大きなニュースで、伝えられた途端に村は大騒ぎになった。特に構わなくていいと言われてもそんなことができるはずもなく、準備は村を挙げて行われた。
 なにしろ、来るのは公爵の息子、順当に行けば次の領主様だ。失礼があってよいはずがない。
「でも、どうしてこの村に?」
 ミュアの疑問は、誰もが一度は抱いたものだったろう。聞かれた父親はすらすらと答える。
「公爵様はお忙しいからね。王都にずっといなければいけない時もある。そんな時、トーラーのお屋敷にご子息様一人じゃ不安ということらしいよ」
「私は一人でもお留守番できるけどな。私と同い年なんでしょ?」
「おいおい、一人で留守番なんてしたことないくせに。それに広さが違うよ」
 父親は笑いながらミュアの癖毛をかき混ぜるように撫でる。結び目がぐちゃぐちゃになってしまうのを嫌がり、頬を膨らませてミュアはそれを避けた。
「だったら一緒にリーラスに行けばいいんじゃないの?」
「リーラスにもお屋敷はあるけど、やっぱりあそこはね、息が詰まるよ。木の家が一番だな」
 父親は昔、王都で働いていた時期があるらしく、話が出る度にそう締める。ミュアもその影響で、石造りの家が立ち並ぶ光景は一度見てみたいとは思っていたが、そこに住みたいとは思わなかった。大森林は恐ろしい場所であると同時に、恵みの宝庫だ。ずっと共に生きてきたし、これからもそうするだろうとミュアは信じている。
「ということで、公爵様はこの村にご子息を預けられるということさ」
 めでたしめでたしと言わんばかりに、父親がそう結論し、ミュアも一瞬納得する。しかし良く考えれば何かおかしい。
「待ってよ。何か聞きたいことと違う。他にも村はいっぱいあるじゃない、どうしてここなの?」
 どうして公爵の息子が屋敷を出るのかを聞きたかった訳ではないのだ。重ねて問うミュアに、父親はにやりと笑ってみせた。
「どうしてこの村を選んだかというと、公爵様はここの果実酒がお気に入りだからだそうだ」
 ついたオチは牧歌的なもので、ミュアは拍子抜けする。例えばお家騒動で暗殺者に命を狙われていて身を隠すとか、そういうことを少し期待していたのだから。それを告げると、父親に笑い飛ばされる。
「お前は物語の聞きすぎだ。そんなことはないよ。この国は平和だし、ご子息の他にトーラーを継ぐ人間はいないんだから」
 トーラー公爵家は新しい家柄だ。現在の当主は三代目で、現国王のはとこに当たる。そして、二代目にも三代目にも生存している兄弟はいない。つまり、家系は一本の線で結ばれていて、トーラーの家名を持つ近い親戚は存在しないのだ。
「もし万一……万一だよ。万一ご子息がお亡くなりになったとしたら、たぶん家名はなくなり領地は召し上げられて、他の家の領主がやってくることになるだろうね」
「めんどくさいことになりそうね」
「公爵様には良くしていただいてるからな。変な奴が交替でやってくるのは勘弁だ」
 とにかく最初の疑問は解決したので、ミュアは他に気になっていることをさらに尋ねた。
「どれぐらいいるの? どこに泊まるの?」
「質問が多いな。まあ、泊まるのはやっぱり兄貴の家になるんじゃないか。それか、離れを用意するか。どちらにしろ、お世話は兄貴のとこが主体だろうな」
 その言葉にミュアは歓声を上げる。
「うわ、ほんと。じゃあトスルんとこ遊びに行ったらいるんだ」
「いるってお前、珍しいペットじゃないんだぞ。くれぐれもご子息の前でそんなこと言うなよ」
 村長とミュアの父親は二つ違いの兄弟であり、気安い仲だった。トスルは二つ上の従兄弟で、年の近い兄弟のいないミュアにとっては、昔からの遊び相手だ。
「へー、楽しみだなあ。どんな子なんだろ」
 少しの違いはあれど、どの家でも似たような会話が交わされていただろう。子供たちが、自分と似たような年の“貴族様”に興味を持つのは当然の流れだった。それは大人も同様だったが、彼らは子供たちとは違い、責任ものしかかってくる。
 そして、大人たちには緊張を、子供たちには物珍しさを覚えさせたその人物はついに村にやって来た。

4-3

「貴方たちの子供と同じように接してくれて構わない。私もシードも堅苦しいのは苦手でね」
 公爵は傍らに立つ少年の肩に手を置き、にこやかにそう述べた。
「まあ、そう言われてもなかなか難しいかとも思うが……しばらく経てば、たぶん分かるから。うん」
 当の少年は太い眉を寄せ、不機嫌そうに正面をねめつけている。見た目は父親に良く似ていたが、おおよそ愛想などとはほど遠そうな態度で、先行きの不安を掻き立てるには充分だった。大人たちが愛想笑いを振りまく一方で、子供たちは好き好きに感想を囁き合う。
「生意気そうな奴」
 トスルは、隣にいるミュアにそう呟く。彼にとっては、この中の誰よりも相手の人となりは重要な問題だ。離れを用意することにしたので同居は免れたが、家の中で一番年の近い子供として色々のしかかってくるのは間違いない。
「甘やかされてきたんだろーなあ」
 残念ながら、あまり相性は良くなさそうだった。トスルは頭の後ろで腕を組み、ため息をついている。これから一ヶ月間のことを思って憂鬱なのだろう。
 ミュアもややこしいことになりそうな予感はしていた。
 ミュアが抱いた少年の第一印象は、不安定だな、というものだった。どこからそう思ったのかは分からなかったが、ひどくバランスが悪い感じがする。今はぎりぎり均衡しているが、つつきどころを間違えれば爆発しかねない、一旦崩れたら取り返しのつかないことになりそうな、そんな危うさだ。
 村は不安な空気に包まれていたが、もちろんそれで取りやめになどならない。公爵は息子と付き人の女性を置くと、王都に向けて出発していった。
 ひとまず宿泊してもらう家に案内する時も、少年は何も喋らず、付き人が応対していた。
 やはり同じ屋根の下に住んでもらうのは失礼ではないか、という理由から、倉庫として使われていた村長宅の離れが改装され、提供された。そのためのお金は先にもらっていたし、せいいっぱい高級なものを取り揃えたつもりだが、やはり片田舎の村では限界がある。文句が出ないかとびくびくして見守る一同の前で、少年は中を一瞥すると何も言わずに入っていく。何をするのかと見ていると、皆がいるのも構わず、ベッドに入って寝てしまった。
「あ、あの、シード様はお疲れの様子ですので……今後ともよろしくお願いします」
 あまり気の強そうでもない付き人がフォローし、まあ一応気に入っていただけたのだろうか、というような腑に落ちない顔で、村民一同は解散する。
 こうして一日目は終わり、その後も少年の態度は終始変わらなかった。
 むっつりと押し黙ったまま、文句こそないが礼も要求もない、そんな彼をどう扱ってよいのか、誰もが決めかねていた。

4-4

 そして、必然的に最初の衝突が起こる。
 森を一人でふらふらしていたシードに、子供組の年長グループが因縁をつけたのである。
「お坊ちゃんはパパのところに帰ったらどうよ?」
 いきなり悪意をもって言葉は投げつけられた。
「つまんないんだろ、こんな村」
 リーダーのノトゥンはもうすぐ成人で、大人と変わらない体格をしている。七つほど違うシードより二回りも三回りも大きく、それが地位の壁を超える度胸を彼に与えたのだろう。それだけでは飽き足らず、彼は村の外れの大岩の上に腕を組んで立ち、仲間の四人も同じように岩に登ってシードを見下ろしている。典型的な威嚇の隊形だ。
 言われたシードといえば、首から上だけを彼らに向けてやはり黙ったままである。
「聞こえてんのか。耳が悪いのか、頭が悪いのかどっちだ!」
 露骨な挑発が繰り広げられる。面食らったのは、そこに偶然通りすがってしまったミュアとトスルだった。ここは神殿へ続く道で、二人は文字を習いに行く途中だったのである。
「何やってるの、ノトゥンの奴」
 慌てて飛び出そうとするミュアの腕を、トスルが掴む。
「いいよ、やらせとけば。ノトゥンさんも無茶苦茶やらないだろ、相手が相手だし」
「あのね、トスルだっていつもあいつらに色々ちょっかいかけられてるじゃないの」
「だから分かるんだって。止めに入ったりしたら、余計ややこしいことになるんだから」
 トスルにはこういう日和見なところがある。ミュアには歯がゆい部分だったが、言って直るものでもない。
「お前らと喧嘩なんかできるか」
 言い争っているその時、聞き慣れない声が耳に飛び込んできて、二人は自然と会話を止めた。声のした方に目をやると、そこにはシードの姿がある。ついに言葉を発した少年に、その場にいる全員の目が向けられていた。
「俺のことはほっといてもらおう」
 言い切ったシードに、しかしノトゥンは怯まなかった。嘲笑じみた調子でこう返す。
「弱いからってご命令ですかぁ?」
 殴り合いに発展するのは必至だった。だからシードが岩へと一歩近づいた時、そのまま飛んで殴りかかっていくと誰もが思っていた。けれど、彼はそんな当たり前のことはしなかった。
「死ぬぞ」
 一言呟くと、その場で拳を振り上げたのである。
 次の瞬間、重く鈍い音と共に岩が揺れた。岩に乗っていたノトゥンたちはよろけ、隅にいた者など転げ落ちた。何が起こったのか分からず、皆が目を丸くする。
「喧嘩したいなら来いよ」
 その中で一人だけ状況が分かっている少年はそれだけ言い捨てると、また歩き出した。今度は止めるものはいない。
 岩には大きな亀裂が入っている。放射状に広がるその模様の中心には、握った拳の跡がついていた。ぽかんとそれをしばらく見つめた後、事態を皆が徐々に悟っていく。
「すげー!」
 はしゃぐトスルに、ミュアが突っ込む。
「いやちょっと待ってよ、すごいけど、あれいいの? 何ていうか、あれって人として許されるの?」
 それとも、あれが貴族の普通なんだろうか。そうだとしたら世界って広いなあとミュアは妙な感慨に耽る。彼女の夢想を破ったのは、いきなり押しつけられた勉強用具の袋だった。
 気づけば、トスルが駆け出そうとしていた。
「待ってよ、どこ行くの?」
「追いかける」
「神官さまの方はどうするのよ」
「いいよ、文字なんて」
 元々勉強に乗り気でないトスルにとっては、さぼる口実を見つけたようなものだ。無言で顔を見合わせるノトゥンたちに気づかれないように、道から外れた木立の中を彼は走っていき、その後ろ姿にミュアは忠告する。
「喧嘩しに来たと思われて殴られないようにねー。あれじゃほんとに死ぬわよー」
 了解の合図に手を挙げて、彼は森の向こうに姿を消した。

4-5

 トスルに打算の気持ちはあったのだろう。公爵の息子と仲良くなれば親には誉められるし、彼を馬鹿にするノトゥンたちへの牽制にもなる。
「あいつ、面白い」
 けれど、夜になってわざわざミュアにそう報告にきた彼は、それ以上の収穫をシードに見出したようだった。
「話は出来たの?」
 外の木に腰掛けるトスルに、窓枠に肘を突いた姿勢でミュアは囁き返す。別に中に入ってもらっても良いのだが、何となく玄関を通るのが面倒くさい時に二人はこうやってよく話した。
「少しなー。どうして王都に行かないか、聞いた」
「何で?」
「前に、王宮の訓練場を壊したんだってさ」
「はー。だって石造りなんでしょ」
「昼間みたいに、床とか壁をやったらしいよ」
 何だかとんでもない話で、ミュアはむしろ感心してしまう。突然こんな田舎に連れて来られてむくれているのかと思ったが、ひょっとしていつもあの調子なのだろうか。
「それでさ、明日はこの辺りを案内する約束したんだけど」
 トスルは言外にミュアも来る、と聞いている。興味はあったが、ミュアは首を横に振った。
「明日は神官さまと文字練習の約束しちゃったから」
「そんなん後でいいじゃん。読み書きできるからって何が楽しいんだか」
「次の村長は読めなきゃダメでしょ」
 領主からの下達を読み解いて皆に伝えるのは村長の仕事だ。
「じゃあミュアは関係ないだろ。大体さ、そんなに熱心に習って何するつもり? 神官にでもなるの?」
「まあ、それも考えてはいるけど」
「本気でー?」
 上に兄と姉がいるので家を継ぐ必要はないし、選択肢の一つとして神殿入りも考えてはいた。どちらにせよ、読み書きできて不自由なことはない。
「だから、また今度ね。どこ案内するの?」
「えーと、泉と、穴と、茂み辺り」
「危ないことはないと思うけど、気をつけてね。怪我なんてさせたら怒られるわよ」
「分かったよ。じゃ、そろそろ帰る」
「じゃあね、おやすみ」
「おやすみ」
 トスルの姿が枝から消え、ミュアは窓を閉める。
 そして、それが動いている彼の姿を見た最期となった。

4-6

 それはたぶん事故だった。
 でも彼は何一つ弁明しなかった。
 見苦しく言い訳しないでも許されるご身分だからさ、何とも思ってないんだよ、と言う者もいる。それもある意味正しいだろう。
 彼はあの時きちんと釈明すべきだったし、それをしないまま、なあなあで済まされたのは彼の身分故だったのだから。口をつぐむことで罰を望んでいたとしても、それは有り得ないのが明白なのだから。
 いつもと変わらぬ日だった。陽光は柔らかく畑に降り注ぎ、木立の影は涼しく、風は爽やかに吹き抜ける。ミュアは木板に走らす手を止め、神殿の窓からふと外を見やった。
 その時、だん、と誰かが地面を蹴る音がした。それはやがて連続して鳴らされ、こちらに近づいてくる。その剣呑な響きに神官も思わず外へと顔を向けたが、襲来は思わぬ方向から来た。
 響きは止まり、次いで礼拝堂の扉が打ち鳴らされた。最初こそノックに聞こえる間隔が空いていたその音は、次第に激しさを増す。固まっている神官とミュアの耳に、一際けたたましく恐ろしい音が届いたかと思うと、それはぴたりと止んだ。
 二人は恐る恐る廊下に出る。何故かもうもうと土煙が立ち込めており、視界がはっきりとしない。差し込む光がその中に奇妙な人影を浮かび上がらせている。上半身ばかりが膨らんだひどくアンバランスな体型だった。両手をピンと下斜めに伸ばし、よく見るとそれは肩につながっていない。それどころか、肩からは大きな瘤のようなものが盛り上がっている。
 しかし、その異様さは煙幕が納まると共に薄れていく。それが一人の人間でないことが確認できたからだ。
 自分より一回り大きい体を背に負った、少年がそこに立ち尽くしていた。
 入り口の両開きの扉は鍵が掛かったまま、床に寝ている。叩いているうちに掛け金の部分が壊れて、中に倒れこんだらしかった。こんな真似が出来るのは一人しかいない。
「助けて……くれ」
 昨日初めて聞いた声が礼拝堂の高い屋根に反射する。その声は昨日の強さも刺々しさも含んでおらず、ただ困惑と疲労が滲んでいた。
「どうなさいました?」
 慌てて神官が彼らに駆け寄っていく。
 けれど、ミュアには分かってしまった。
 駆け寄らなくても、何故だか鮮明に。シードの肩から見える頭、茶色の短い癖毛は誰なのか。どうして彼の手足はあんなに突っ張っているのか。
 何よりもはっきり分かるのは、もはや神より他に彼を助けられる者はいないだろうことだった。

4-7

「あいつが殺したんだ」
 告発は、ノトゥンから行われた。
「トスルが食べるよう、仕組んだんだよ!」
 その訴えは丁重に黙殺されたが、誰もが考えてみたことだった。
「あいつのせいだ、俺は見たんだ!」
 トスルの命を奪ったのは、ニセブドウの実だった。森に自生する、美しい赤色をした実。鮮やかで美味しそうなそれは、しかし猛毒をその内に秘めている。
 村の者は幼い頃にその危険性を叩き込まれるが、熟す前の黒葡萄に似たそれをうっかり口にしてしまう者は珍しくない。今回もそういった過ちとして扱われるだろう。
 だが、それと“本当のこと”は別だ。“本当のこと”は村に密やかに伝わっていく。
 二人はニセブドウを見つけ、トスルは警告する。けれど、シードはその警告を聞こうとはせず、それどころかトスルに強要するのだ。お前がまず食べろ、と。
 それが一番納まりの良い物語だった。そして、誰もそれを否定できなかった。
 もしかして、一番可哀想なのは付き人の女性だったかもしれない。また黙り込んでしまった少年と、村の静かな敵意の間に立たざるをえなかったのだから。しかも泊まっている場所はまさに息子を失った家なのだ。
 王都へと事件を伝える使いが出され、その返事が来るまで事態は宙ぶらりんのままである。彼女からすればすぐにでもトーラーのお屋敷に帰りたかったことだろうが、勝手に判断する訳にもいかない。
 トスルの葬儀が執り行われて、また村に噂が広がる。敵意は強くなる。
「ミュアちゃん、あのね、確かにあの子は自分から食べたりしないと思うの」
 形見分けに呼ばれたミュアに、伯母はそう打ち明けた。離れが見える窓だけが閉められて、部屋には半分だけ陰が落ちている。
「私もそう思う」
 ミュアは頷く。トスルは臆病だった。危険があるかもしれない実を食べてみせるなんて説得力がない。
「でもね」
 躊躇の後、お茶を口に含みながらさらに伯母は切り出す。
「……誰かに強要されたからって食べることもないと思うの」
 ミュアは今度は無言だった。けれどその考えは分かる。トスルの臆病さは出来る限り危険を避ける方向に発揮されているのだ。人に命令されたからといって、毒の実を食べるというのもまた彼らしくない。
「だから、やっぱり事故なんでしょうね」
 結局はそこに行き着くしかなかった。無責任な噂にすがるのもまた、伯母は良しとしなかったのだろう。
 ミュアも伯母に倣ってお茶を一口飲み下す。今までもやもやしていたものが、ゆっくりと自分の中で固まりつつあるのを彼女は感じていた。

4-8

 王都からの使者は、丁重なお悔やみと見舞金、そしてシードをトーラーに戻すようにという指令を村にもたらした。慌しく準備は進み、それに合わせるようにして噂も再燃した。その最後の追い討ちの場面へ、ついにミュアは居合わせた。
 村の外れに溜まって囁き交わしている彼らの輪の中に臆せず入り、その男の正面に立つ。
「ノトゥン」
 ミュアはわざと彼の名前を呼び捨てにした。その無礼さへの怒りで目を剥く彼に、ミュアは怯まず続ける。
「もう止めなさい。シードは悪くない」
 しかもそれははっきりとした命令口調であった。
 ノトゥンは面食らったらしく一瞬黙り、しばらく迷っている様子だったが、そこでとぼけるような真似はしなかった。彼はただミュアを睨みつけ、憎々しげにこう絞り出す。
「……お前、従兄が殺されて悔しくないのかよ。それとも貴族様に尻尾振ってんのか?」
「悔しいわよ。悔しいわ」
 ミュアは即答した。今だってまざまざとトスルの死に顔を思い浮かべることができる。不自然に強張った表情と、その口の端から漏れる赤い泡と、鉤のように曲げられたまま硬直した指の映像が頭を離れない。夜風が窓を叩き、開けた後でそこには闇しかないのを知った夜もあった。
 けれど、その悔しさは誰かに向けられるものではない。
「じゃあ何で庇うんだよ。あいつらは何をしても金で解決できると思ってるのさ。今回のことで良く分かったろ。あいつらは俺らのことなんて虫けらくらいにしか……!」
「ノトゥン」
 ミュアはまくし立てる彼を抑えるように、今一度彼の名を呼び捨てた。そして、繰り返した。
「もう止めなさい。貴方は悪くない」
 途端、怯えるような沈黙が辺りを包む。ノトゥンの取り巻きの挙動がおかしくなり、本人も隠しようがなく目が泳ぐ。それを見て、ミュアは確信することができた。
「シードに食べさせたのは貴方ね」
 それは、この村の子供の誰もが一度は経験すること。よく似た黒い実と赤い実を使った通過儀礼。
 ノトゥンはこう言ったに違いない。
「度胸試しだ」
 ゆっくりと慎重に噛み締め、そこにぴりぴりとした違和感を覚えたら即座に吐き出せば平気だ。噛み過ぎると口の中が一日痛む羽目になるが、それぐらいのこと。
 でも、黒葡萄なのにニセブドウと間違えて吐き出したりしたら、そいつは臆病者だ。
「まさか、怖気づいたりしないだろ」
 差し出される赤い実の房。熟れている最中なのか、それとももう熟しているのか、すぐには判断できない鮮やかな赤。
 シードはたぶんためらわなかった。もぎ取り、放り込み、噛み、飲み下した。それがたまたま毒性の低い実だったのだろう、彼は平気だった。
 不幸なのは、それを見て勘違いしたトスルなのだ。
「……きっと、誰も悪くない」
 念を押すようにミュアは呟く。
 やっぱりそれは事故で、ただどこか掛け合わせが間違ってしまっただけなのだ。

4-9

 通達が下りてから二日と経たない内に、シードの出立の準備は整った。その早さは公爵側と村側の意向が合致した結果であったが、出立の朝にまた一騒動持ち上がる。
 当のシードがふらりと出て行ったまま、出発予定時間を過ぎても戻らなかったのだ。当然ながら総出での探索となる。
 その中、ミュアは親から離れて森の奥へと向かう。心当たりの場所があったからだ。
 果たしてシードはそこにいた。彼は泉の脇に生えている赤い実を手にとって見つめていた。その横顔にミュアは声をかける。
「それはニセよ」
 房だけもぎ取れば見分けがつきにくいが、生えている状態なら葉の裏に赤い筋が入っているのですぐ分かる。突然現れた彼女に、シードは怪訝な目を向けた。
「何だお前」
「何だと言われても。村の人間です」
「そうか」
 それで納得してしまえたらしく、シードの瞳から警戒の色が消える。
「貴方を皆が探してるんだけど。帰らないの?」
「帰るぞ」
 機嫌が悪いようにも見えないが、やり取りはぶっきらぼうだ。元々そういう性格なのだろう。
「トスルはさ、貴方にここを案内するって言ってたのね」
「ああ」
「ここだったの、貴方たちが実を食べたのって」
「ああ」
「死ぬのは、怖くない?」
 一人で探しに来たのは、これを聞いてみたかったからだ。毒かもしれない実をあっさりと口に入れる神経が理解できなかった。その行為がトスルを殺した面もあると思わなくもない。
「別に」
 言葉での返事は簡単で曖昧だったが、行動は明確だった。彼はいきなり赤い実を無造作にもぎ取ったのである。
「ちょっ……」
 ミュアの制止は間に合わず、シードは手の中の赤い粒をばらばらと口へ放り込んだ。そして、ほとんど噛みもせずに飲み下す。
「まずいな、これ」
 呆れたことに、その後の第一声はこれだった。
「は、吐きなさいよっ!」
 慌ててミュアが背中を叩くが、間に合わないのは明白だ。即効性なのですぐに痙攣が始まるだろう。まさか自分で死を選ぶほど追い詰められているとは思わなかった。
「何でこんなこと……!」
「確認しただけだが」
 それはあまりにも平然とした声だったので、ぎょっとしてミュアは動作を止める。目の前の少年は震えてもおらず、泡を吹いてもおらず、硬直してもいなかった。何一つ変わらない顔色で、そこに立っていた。
「効かないか」
 息を吐き出して、彼は呟く。ミュアはそこからどう尋ねて良いものか分からず、ただこう聞いた。
「……死にたいの?」
「いや。俺、こんなじゃ死なないし。死ぬことなんて考えたこともない」
 答えはやけにきっぱりと、しかし憂鬱げに返された。
「でも、他の奴は死ぬもんな」
 その意味をミュアが取れずにいる内に、彼はさっさと村へ向けて歩き出してしまう。一言の挨拶を残して。
「じゃあな」
 追うのも何だか変な気がして、ミュアはその場で彼を見送った。やがて木立の向こうに彼の姿は消え、彼女は一人森に取り残される。すぐ傍にはたわわに実った赤い粒が揺れている。
 ニセブドウ。神に祝福された人々に嫉妬した魔物が作り上げたという、その伝承。
 ミュアはそれを一粒取り、ゆっくりと噛み締め、そして吐き出す。舌の上に走ったぴりぴりとした刺激は、しばらく消えなかった。