Southward

第一章 人の章

「かつて居た場所に」

13-1

 乾いた大地の果てに、緑の茂みを見出した時の気持ちは何とも喩えようのないものだった。
 その予兆は所々に現れてはいた。足元は枯れ草の下生えが目立ちはじめ、風は緩やかになり、焼けつく熱は次第にその勢いを失くしていた。砂の粒は段々と大きくなり、湿り気を帯びてきていた。
 それでも、やはり鮮やかな緑を見つけた時の感慨はひとしおだ。今まで見てきた光景がいかに色褪せていたものかが分かる。
 熱地が終わったのだ。
 忘れかけていた草いきれの匂いが鼻の奥をつく。今まで見かけなかった虫たちの姿が増え始める。世界の輪郭はくっきりと眼前に映るようになる。
「ひゃー、涼しい」
 砂に足を取られないための分厚い靴を脱ぎ、ミュアは裸の足を草地の上に伸ばした。混ぜてもらった商隊は熱地の装備から着替えるために一時休憩をとっており、重装備から解かれた兎鹿たちも心なしか気持ちよさそうな顔をしている。
「どうします。ここで別れますか?」
 ニッカがやってきて、くつろぐミュアに確認をとる。ミュアは少し考え、決断した。
「うん……そうね。森の方が慣れてるし、そうしましょうか」
 商隊はこれから南に下って町を目指す。そちらについていっても、聖山へ行くのには遠回りではないが、南へ進んでしまうとその後の道程は浄められた平原を突っ切るものとなる。延々と続く平地は、後についてくる者をまくのには不向きな地形だ。それに森の中だと安心感がある。
「じゃあ、僕が商隊にはその旨伝えてきますので、ミュアは三人に」
「分かった。よろしくね」
 熱地用の靴をニッカに渡し、荷物の中から普通の靴を取り出すと履き替える。随分となじんだ感覚が足に甦り、帰ってきたのだ、という思いを改めて抱く。熱地にいたのは二週間程度の期間なのに、入る前の出来事がだいぶ昔のように思える。
「森沿いを進むのか」
「うわっ!」
 立ち上がろうとしていたミュアは、突然背後からそう声をかけられて、びっくりした。振り向くと、いつの間に来たのか、シードが腕を組んで立っている。
「聞いてたの?」
「悪いか」
「悪いなんて言ってないでしょ。何ぴりぴりしてるの」
「何でもねーよ」
 不機嫌を顔に表して佇むシードに、ミュアは辟易しながら返事をする。どうも熱地に入って以来、売り言葉に買い言葉になりやすい。自分の言い方も良くない部分があるとは思うが、それ以上にシードが過剰反応しているような気がする。
「シードは森でも構わない?」
「何処でもいい」
「ん、じゃあ商隊さんと済ませたい用事があったら、今の内にね」
 シードの返答は刺々しいままだったので、ミュアは受け流すことにした。たぶんそれが一番無難だ。
「さてと、アピアとセピアはどこかな」
「知らねーぞ、俺は」
 ミュアの独り言にも答えるシードは、やっぱり過敏に感じる。ミュアは聞かないふりをして、その場から立ち去った。お酒のことできつく言い過ぎたのが原因かと、彼女はしばし悩む。感情的には許しがたいが、今後もこの調子が続くようならある程度黙認した方がいいかもしれない。
 アピアとセピアの姿は少し離れた斜面にすぐ見つかった。二人並んで座っている。
「二人とも、ちょっと話が……」
 手を上げながら近づくと、セピアが振り向いて、口を塞ぐ動作をする。ミュアは首をかしげながら近づき、その意味を悟った。アピアが膝を抱えた格好でうとうととしていたからだ。
「ごめんね。商隊とここでお別れして、森沿いに行くつもりなんだけど、問題ない?」
 ミュアは声を潜めて、セピアに話しかける。
「うん……大丈夫じゃないかな」
「何か欲しいものがあれば、買っておくけど」
「あ、じゃあ、砥石があったら」
 セピアにはそぐわない要望であったが、用途は明らかだった。彼の腰にはいつからか短剣が吊り下げられていたからだ。ここ最近起こったことを考えれば分からないではないけれど、彼が光り物を持ち歩くという行為はどこか不吉な感じをミュアに与えてくる。もちろんそれを理由に頼みを断りはしないが。
「分かった、聞いてみる。あと、もしアピアが疲れてるんだったら」
 このままここで野営をしようか、と聞きかけたミュアの言葉は、寝ぼけた声に遮られる。
「ん、あ、平気平気、さぼってただけ、さぼってた……昨日の夜、天地盤の手を考えて……」
「アピア。ミュアだよ」
 名前を聞きつけたのか反応したアピアに、セピアがどこか強い調子で呼びかけた。途端、アピアは意識を取り戻したようだった。頭を振って、目を向けてくる。
「……あ、あ、ミュア。ごめん、ぼうっとしてたみたいだ。何?」
「商隊と別れて、森へ進もうと思うんだけど、いい?」
「ミュアが決めたなら、それで良いんじゃないかな」
 受け答えは柔らかく、怪しいところもなかったが、それが逆にミュアには嫌だった。最初からアピアには取り繕いの部分を感じていたものの、それは事情があるせいだと思っていた。でも、今や彼は全部を誤魔化そうとしているかに見える。
 同時に、自分の見方が変わっただけなのかもとミュアは思う。あの時以来、どうしてもアピアと話す度にちらつくのだ。見てしまったものは、なかったことには出来ないのだから。
 まるで車輪に砂が噛んだ鹿車のように、自分たちは軋みを上げ始めているのかもしれない。

13-2

 熱地を経験した後での草原の旅は、驚くほど楽なものだった。吹きつける激しい風もなければ、下から這い上がる熱気もない。視界が塞がれることもないし、足にまとわりつく重い砂もない。三日をかけて大森林の端までたどり着く道程は順調そのものだった。
「世界が変わって見えるよね」
 なるほど巡礼に砂中神殿の拝礼が絶対必要とされる訳だと、ミュアは納得する。いくら言葉を尽くそうとも、この感覚は伝えきれないだろう。
 とにかく最大の難所は越えた。あとは一路聖山を目指すだけだ。
 彼方に高くそびえる聖山の姿は日一日はっきりとしてきている。このまま旅が続くなら、一月もしないうちにたどり着けるはずだ。
「三足族さんたち、見かけないね。熱地でうまくまけたのかな」
 ミュアは隣を歩くニッカに話し掛ける。五人に戻った一行は、前の通りに勝手に進む先頭のシードと、後ろにつくアピアとセピア、挟まれるミュアとニッカという、いつもの配置に自然となっていた。今は今夜泊まる町への道を歩いている。
「まけているといいんですけどね」
 サレッタの出発時、急いで引き払うふりをして宿を移ってみたり、ばらばらに別れるふりをしてみたり、途中で一時的に商隊から離れてみたりと、色々試してみたのだった。その効果か、今のところ彼らの襲撃はない。
「……あの人たちさ、どういう人たちだと思う?」
 少し迷った後、ミュアはそう切り出した。
「壁を越えてきた三足族でしょう?」
「そうじゃなくて。分かってるくせに、ごまかさないで。ニッカはどう思ってるの?」
 牽制しあうような問いの応酬に、ニッカはついに諸手を上げてみせる。
「僕らが腹の探り合いをしても、何も収穫はないでしょう。そうですね、僕の考えはこうです」
 指を一本ずつ立てながら、彼は列挙を始める。
「一つ、全員がそれなりの教養の持ち主。少なくとも読み書きは出来るでしょうね。一つ、荒事に慣れているとは言えなさそう。けれど、まったく習いがないとは思えない。一つ、この国に来てそれなりの期間が立っている。少なくとも、一年」
 最後の項目は、ミュアにとってまったくの予想外だった。目を見張る彼女に、ニッカは説明する。
「あくまで憶測ですけどね。彼ら、来たばかりにしては慣れすぎているとは思いませんか」
 言われてみれば、熱地への装備など自分たちよりも手際が良かった。最初に見た時もマントを羽織って有羽族を装っていたし、目立たないように色々と工夫をしている。
「じゃあ、二人を追ってきたんじゃないってこと?」
「疑うのなら、そこから疑えてしまうんです。アピアとセピアは本当に壁の向こうから来たのかどうかさえ」
 ミュアの心臓が一つ跳ねる。そんなことは考えていなかった。二人がホリーラ生まれの三足族の可能性なんて。これだけ三足族が入り込んでいるのなら、ない話ではないのだ。それならば、あの印は。
「まあ、それはちょっとした冗談ですが。そこから疑ってたんじゃ、逆に何一つ見えなくなってしまいます。彼らが本当に三足族かどうか、とか」
 ミュアの顔色が沈んだのを見て取ったのか、ニッカは茶化すようにそう付け加えた。だが、きっと彼はそこまで疑ったのだ。まったく考えていなければ口に出すことはできない。
「ただ、少なくとも、アピアは彼らが追ってくることを知っていたと思いますよ」
 ミュアの返事を待たずに、彼は言葉を継ぐ。そして再び彼女に問いかけてきた。
「それは裏切りだと、思いますか?」
「そんなこと……」
 ニッカの口から飛び出したのはあまりに不穏な単語で、一瞬ミュアは口ごもる。
「そんなことは思わないけど。でも、こんな状態は長く続かないと思うの。出来るなら、打ち明けてほしい」
 けれど今そう迫れば、アピアには責めているように聞こえるだろう。どうすればきちんと話してもらえるのか、いまだ分からない。
「僕もそれには同感です」
 ニッカもまた頷いた。
「そのためには、たぶん……」
「こんにちは」
 その時、ふと後ろから聞き慣れない声がして、ニッカは口をつぐんだ。振り向くと、父娘らしき二人組が足早に一行の横を追い抜いていく。自分たちと同じように町を目指しているのだろう。
 ミュアの横を通り過ぎる時も、娘の方が軽く頭を下げて挨拶をしていった。大きな帽子の下にちらりと見えたのは、長い黒髪を一つに編みこんだ同い年ぐらいの少女で、ミュアも会釈を返す。少女はシードに挨拶している父親に小走りで追いつき、並んで道を進んでいく。
「人通りが多くなってきたみたいですね」
 町が近いのだ。ニッカは話題を一旦打ち切ることにしたらしい。確かにこれ以上の話は、落ち着いた場所でした方が良いだろう。
 ミュアは後ろの様子をさりげなく窺う。アピアはセピアの手を握り、硬い表情で歩いていた。

13-3

 おびき寄せられているのは確実だった。けれど、行かない訳にはいかなかった。家々の間を抜け、角にちらつく姿を追う。わざとらしい誘いだ。案の定、町の裏手、人気のない森の中にたどり着く。
 囲まれるのを覚悟していたが、アピアを出迎えたのは一人きりだった。
「……アピア」
 そこに佇む少女は帽子を手に持ち、ためらいがちにその名を口にする。アピアにとってそれは見間違いようのない、懐かしい顔だ。
「サラリナート……」
 アピアは呆然と呟く。
「君が来るとは、さすがに思わなかった」
 その言葉にサラリナートは目を伏せた。それ以降どちらも本題を切り出せず、しばらく沈黙が続く。先に口を開いたのはサラリナートの方だった。
「私が来た訳、分かってるでしょう」
「彼のためだね」
 アピアは唇の端に笑みを浮かべる。
 分かっていた。サラリナートは彼のためなら何でもやるだろう。壁を越えて、異国の地に来ることまでも。そしてほぼ確信はしていたものの、不確定であった敵の姿は明確になった。
「違う、って言っても信じてもらえないね。そう、確かにそう。でもそれだけじゃない」
 サラリナートは訴えながら、アピアに一歩近づく。
「私がここまで来たのは、何よりも貴方のため。それは分かってほしい」
 それは信じたかったし、信じても良かった。問題はサラリナートを送り込んできた者の思惑だった。
「ねえアピア。もう止めよう。もう戻って。こんなことに決着をつけよう」
 友人の説得にほだされるなら良し、さもなくば、とその者は考えているはずだった。奴らは一枚カードを切ってきた。
「これまで二百年、私たちは問題なくやってきた。これから二百年だって同じように過ごしていける」
「それは、僕も……そう思ってた」
「なら、私と一緒に戻って。貴方以外に説得ができる人はいないんだから。そうでしょう?」
 サラリナートの言葉は、気持ちを裏切っていない。彼は本当にそう思っている。そして、彼は正しい。正しいが、もはやアピアはそれを認める訳にはいかない。
 サラリナートは帽子を投げ捨てる。白く細い指がアピアの手を包む。暖かさが伝わってくる。
 一生懸命なサラリナートの姿は、いつだってうらやましい。
「アピア、お願いだから」
「戻りたいね」
 洩れた呟きに、サラリナートの顔が輝く。しかし、アピアは首を横に振った。
「違うよ。こんなことが起こる前にさ」
 どこから誤ったのか、誰にも分かるまい。少しずつずれていった歩みは、皆を引き返せない泥濘に踏み込ませてしまった。
「もう戻れない、元の場所には。そういう方法をナッティア伯父さんは選んで取ったんだ。もう戻れない、誰一人として。分かってるだろう、サラリナート。分かってないとは言わせない」
 はっきりと告げた名を、サラリナートは否定しなかった。

13-4

 緩んだ指から、アピアは静かに自分の手を抜いた。一瞬、サラリナートの指は追おうとし、しかし途中でその動きを止める。
 アピアが一度決めたら絶対に翻さないことを彼は知っていた。それでも言わずにはいられなかった。
「まだ……まだ、間に合うよ。アピアさえ戻ってくれれば……」
 紡いだ言葉には精彩がなく、言った本人すら騙せそうにない。アピアは聞いていられずに、それを遮る。
「父上はどうしている。それに答えてほしい」
 どうしても欲しい情報だった。サラリナートならごまかしたりはしないだろう。
「あの……ご病気で……」
 目を逸らし、彼は呟く。言葉以上に態度は物を言う。いまだそういうことになっているのだ。
「サラリナートは姿を見たことがある?」
「大分お悪いそうだから……」
「そう。いつ死んだっておかしくないんだね」
 答えはなかった。
 サラリナートはうつむいたまま、固まってしまっている。その肩が震えているのを見て、アピアは自己嫌悪に陥った。苛立ちを彼にぶつけても仕方がない。
「ごめん。ごめん。君を責めたい訳じゃないんだ。サラリナート、君だって分かってるはずだ。僕を連れて帰ることが、何を意味するかを」
「……うん」
 逡巡の後に、サラリナートは小さく頷く。
「それなのに、君は」
「彼は間違っていないと思うの」
 間違ってはいないだろう。彼は間違うことすらせず、言われるままに流されているだけなのだから。サラリナートの想いを承知しているくせにこんな役目を押しつけて、自分はのうのうと過ごしているに違いない。何一つ責任を取る気がないから、優しくあれるだけだ。
 ディーディス。アピアは彼の名を口の中に吐き出した。今そこにいたら、澄ました顔を殴り倒してやるのに。
「アピアは、自分が間違っていないと思ってる?」
「思ってる」
 サラリナートからのささやかな反撃に、アピアはためらうことなく答える。自分がここにいることを否定はできない。
「でも、絶対に正しいとも思っていない。父上は急ぎ過ぎた」
「じゃあ……」
「サラリナート、戻る気はない。僕らはもう壁を越えたんだよ」
「越えたからこそ分かる。アネキウスのご意思にも逆らう真似だって」
「違う。あれはアネキウスの守護なんかじゃない。あれは……」
 歪みだ。
 アピアはせり上がってきたその言葉を、とっさに呑み込んだ。どうしてそんな表現が出てきたのか分からなかった。けれど感じる。あれはけして恵みなどではない。
 あれは何を遮ろうとしている?
「あれは神の呪いでしょう?」
 その声は、サラリナートの背後から不意に割り込んできた。続いて森の暗がりから男が姿を現す。
「従わない者は罰される、そう思いませんか」
 それは町へと続く道で、サラリナートと並んで一行を追い抜いていった男だった。身丈はアピアとそう変わらず小柄で、年齢がはっきりとしない顔には笑みを浮かべている。
 しかし、気がついた時にはアピアの手は腰の剣の柄に掛けられていた。全身の皮膚がぴりぴりと粟立っているのが感じられる。近づいてくるのがひどく嫌だ。
 アピアの緊張に、サラリナートは怪訝な顔をし、男は笑みを崩さない。
「警戒しないでください。ご挨拶だけですよ、今日のところは」
 男は馬鹿丁寧に帽子を取ってお辞儀をしてみせたが、アピアは手を柄から離さなかった。まったく気配を感じなかったが、いつから聞かれていたのだろうか。
「はじめまして、お目にかかれて光栄です。貴方がたをお迎えに参りました。ゼナンと申します、以後末永くよろしくお願いいたします」
 白々しい慇懃さに、礼を返す気にはなれない。代わりに横で戸惑うサラリナートに問うた。
「こいつは誰だ」
 こんな顔は今まで見たことがない。新しく雇ったのか、もしくは表に出てこない類の人間だったかだ。
「誰って……護衛として付けてくださった方だけど」
「ご安心くださって結構ですよ。ちゃんと申しつかっておりますから。お二人には傷ひとつつけずにお連れするようにと、ね」
 後者だ。アピアは確信した。この男は目的を果たす為には何をしようとも構わない人間だ。いつかそういう追っ手が来るとは思っていたが、奴らは共に二枚目のカードを切ってきたようだ。
「さあ、サラリナート様、今日はこの辺りで」
 ゼナンはアピアの返事を待たず、サラリナートの肩を抱いて踵を返させた。反射的にアピアは叫ぶ。
「サラリナート、そいつに気を許すな!」
 途端、思わぬ素早さでゼナンが振り返る。息を呑んで飛び退ろうとしたアピアは、すでに彼の手に自分の右手首が掴まれていることを知った。
「ひどい言われ方をなさる」
 爪が食い込むような力がかかる。とても振りほどけない。
「貴方も今すぐ一緒に行きますか?」
「……離せ」
 詰まりそうな息の下から、かろうじてその言葉だけが転がり出た。ゼナンの顔の微笑みがますます深くなる。
「ゼナン、無理強いして連れ帰ることはしないと……」
「承知しておりますよ」
 サラリナートの注意を受け、彼はアピアを解放し、今一度深々とお辞儀をしてみせた。
「お仲間の方々にもどうぞよろしくとお伝えください」
 そして、再びサラリナートを促して森の奥へと歩き出す。そこには控える鹿車とトーニナの姿が見える。
 アピアは震える右の指を左手で抑え、顔を覆うようにそれを額に押し当てた。

13-5

「お久しぶりです」
 頭を下げるトーニナを無視して、ゼナンは彼に尋ねた。
「坊ちゃんはおねんねしたか?」
「ええ、外に二名つけてます」
「そりゃ結構」
 鹿車の一つには簡易寝台が乗せてあり、そこにサラリナートを押し込んである。普段から比べれば不便な状況だろうが、彼から文句は出ていない。町に宿を取っても良かったが、下手に目標と接触させる機会を増やすこともないだろう。
「いかがでしたか?」
 焚き火を挟んだゼナンの対面にトーニナは座る。顔を合わせるのは実に九年ぶりほどだった。あの後、ゼナンは慌しく去っていったので、会う機会などなかったからだ。とはいえ、特に旧交を温める気はトーニナにはなかったが。二度と会わなくとも良かったとすら思う。
「子供の強がりってのは、実に可愛いね」
 ゼナンはそう言って、くつくつ笑う。その態度はトーニナが覚えているままだ。年月は彼に影響を与えなかったらしい。彼はちらりと視線だけをトーニナに寄越した。
「どうした、その顔は。俺は雇い主から言われたことはきちんと守るよ。知ってるだろ」
 もちろん知っている。だからトーニナは尋ねた。
「何を言われて来たんですか」
「公から一つ。あの二人、特に上の方を早急に五体満足で連れ帰ること。坊ちゃんから一つ。納得して共に来てもらうこと」
 彼が言われたこと以外は守るに値しないと思っていることを、知っている。
「どうした。何か言いたいことがあったら、言っておけよ。これでも少しは反省してきたんだ。謹慎生活が長かったからな」
 ゼナンはトーニナの内心などお見通しのようだった。彼のその言葉はまるで信用がならなかったが、自分もかつてのように未熟ではない。気圧されて言いなりになるのも気に食わず、一応反論を試みる。
「私は、多少強引な手を使ってでも、二人だけを拘束した方が良いと考えますが」
「理由は?」
「事を大きくすると、任務を達成できなくなるかもしれないからです」
「なに、ここは魔物が棲むという森だ。どんなことが起きても不思議はないだろう?」
「しかしそれは……」
 トーニナが目を伏せた一瞬だった。その額にぴたりと先の尖った枝が当てられる。触れはしないが、下手に動くと引っかかるほどの近い距離に。
「トーニナ、おい、トーニナさんよ。ためらうところじゃないんじゃないか?」
 その持ち主の顔には揺れる炎に照らされて影が躍り、その表情は笑っているようにも怒っているようにも見える。
「分かってるんだろ。あれを逃せば争いになる。リタントを二つに割る争いだ。たくさんの人間が死ぬ」
 だが、きっと彼は真顔で話している。
「異種族の子供の一人や二人が、それと比べられる代物かね?」
 言っていることは非常にまっとうだ。トーニナだって、最終的にはその結論に落ち着いていたのだと思う。
 理性はそう判断していても、感情はひどい嫌悪を掻き立ててトーニナに警告してきていた。
 この男は楽しんでいる。しかも、ひどく冷静に。
 彼が行ったのは最後の決断ではない。自分にとって望ましい決断に過ぎない。
 思慮に沈むトーニナの額に痛みが走った。突きつけられた枝がわずかに進み、その先端で皮膚を刺したのだ。
「何度も言わせるな。考えることじゃないだろう。ここで暮らす内に、心まで染められた訳ではあるまいに?」
 変わっていない。かつてこの国で共にいた頃と、何も。
「裏切りは一度だけにしておけ。癖になるからな」
 そして、この男にただ一つだけの指令しか与えなかった雇い主は、それを容認しているということだ。
 トーニナに選ぶ余地はなかった。

13-6

 促されて、トーニナは懐から紙の束を取り出し、ゼナンに渡した。しばらくゼナンはそれに目を通し、火の弾ける音だけが辺りに響く。十年近く溜められた情報は簡略にまとめられていても結構な量で、半分読み飛ばすようにして彼は紙をめくっていった。しかし、最後の数枚だけはなめるように読む。彼の眉はある地点でしかめられた。
「おい、タイカ=ソールってのは何だ」
「何だと言いますと?」
 問いかけの意図が不明瞭だったので、トーニナは聞き返す。すると、ゼナンは何かを納得したような顔をし、邪慳に手を振る。
「あー、いい、いい。何でもない。あと、一人だけ家名がついていないが?」
「宿帳にいつも名前しか書いてなかったもので……」
「で、調べはついてないのか」
 ごまかせないかと思ったが、ゼナンはそれほど甘くなかった。言い訳のようにトーニナは補足する。
「完全に信用できる情報ではないものですから」
「言え」
 ゼナンの口調は一切の口答えを許していない。トーニナは出来るなら言わずに済ませたかったその名を口にする。
「トーラー。シンス=トーラーです」
 瞬間、ゼナンの顔から表情が消えた。
 いつも表情から感情が読めない人ではある。しかし、顔からありものの面相を剥ぎ取った今の方がよっぽど何を考えているのか分からないと感じる。その名前が彼の胸中に呼び覚ますのはどんなものなのか、想像するだに恐ろしい。トーニナが額に汗を滲ませて次の展開を待っていると、ようやく彼は口を開いた。
「わざと伏せたな」
 その言葉と同時に顔が崩れる。唇に笑みが戻ってくる。
「まあいいさ。なるほどなるほど、渋っていた訳だ。なるほどね」
「確認は入れました。公けにはなっていないようですが、近頃姿が見えないことは確かな様子です。まだトーラー領からの連絡を受け取っていないため、そちらにいる可能性は低くありませんが」
 一応予測ルートの町に鳥文を入れるよう手配は済んでいるものの、間に合わない場合も届かない場合もあるのはトーニナも職業柄良く承知していた。移動しながら鳥文を使用するのは色々と無理が出てくる。
「そんな確認なぞいらんさ」
 ゼナンは横に積んである枝を炎に放り込みながら、そう呟く。
「引っかかったのは、そのせいか」
 にわかに炎は大きくなり、ぱちぱちと火の粉が辺りに爆ぜた。夜の明かりにしては強すぎる焚き火にトーニナは眉をしかめたが、何も言わなかった。火の粉が体にかかるのも気にせず、ゼナンは炎を見つめている。
「お前もそろそろ寝ろ。しばらくは様子見だからな。ああ、坊ちゃんのお守りは今後お前に任せる」
「分かりました」
 命令に従い、トーニナは鹿車の方へと戻ることにする。立ち上がって去っていくその背中をゼナンは見送り、また枝を焚き火へと放った。
「トーラーに、タイカ=ソール……」
 彼は喉の奥でその名を繰り返す。
「こいつはすごい。誰のお膳立てだ?」
 思った以上に楽しめそうだった。ゼナンは期待に目を細めて立ち上がると、目の前に燃え盛る炎へ思い切り足を振り下ろした。幾度も幾度も蹴り入れて、ついには勢いの弱まって小さくなった炎を踏みにじる。
 彼が去った後には、ぐしゃぐしゃに散らされた焦げ跡が残っているだけだった。