第一章 人の章
「巡礼のはじまり」
1-1
天に開かれた穴より、陽の光は降り注ぐ。
建物の上に手を伸ばした木々の枝は打ち払われ、空はまっすぐにここにつながっている。彼女は床に出来た光輪の中央に佇み、空を振り仰いでいた。
祈りの場、誓いの場、神の場。偉大なるアネキウスにもっとも近いこの場所で。
「神の御姿を見過ぎてはいけません。目が潰れますよ」
傍らに控える中年の男が彼女をたしなめる。それに従って、少女は顔を天井より背けた。
その容貌にはまだ幼さが残っている。十三かそこら、つまり成人には一つか二つ足りないくらいだろう。しかし、男を見据える瞳の力は気圧されるほど強い。
「ミュア=テーレ=スピク、あなたのその決心は翻されることはないのですね?」
「はい、神官さま」
ミュアの返事は躊躇いを少しも含んでいなかった。頷きに合わせて、彼女の細かくはねた癖のある髪と背中に畳まれた透き通る羽が光を反射する。神官はその姿を見て引き止めるのは無駄に終わりそうだと直感したが、職務上彼女に話しかけた。
「今一度訊ねます。この村にて貴方の心を騒がす何事かが起こった、それ故にここを出るに至った、という訳ではないのですね」
聞いてはみたものの、それはないだろうとも彼は思っている。この村は平和だ。人の住む場所である以上、色々な軋轢は存在するけれども、少なくとも未成年の女の子が逃げ出したいほどの場所ではないはずだった。
同時に、その平穏さに倦んでいる様子も、目の前の少女には見られなかった。第一それならば、ほど近い王都にでも奉公に出ればよいだけのこと、わざわざ南へと足を向ける必要はない。
聖なる山へと辿りつくためには、大森林を、あの不毛な砂漠を超え、そして魔の草原へ近づく必要があるのだから。
「そんなんじゃありません。ただ……うん、ただ、不安なんだと思います」
「不安?」
彼女の答えの中の、ざらりとした感触を持つその単語を神官は繰り返した。彼女はまた頷く。
「うまく言えないんですけど、落ち着かないというか、何かがあると思うんです、南に」
「それを見つけるために、貴方はかつてアネキウスが歩んだ道をなぞろうと言うのですね」
「ええ、たぶん」
神官は心の中でひとつ息をついた。そういう時期はあるものだ。そして、それを抑え込んでもろくなことにならないのも、彼は知っている。
「分かりました」
加えて、立場としては、信仰の道を歩もうとしている者を留めることも出来ない。
神官は用意していた箱から、一枚の紙を取り出した。飾り文字で描かれたそれを、少女に手渡す。
「これが貴方の巡礼許可証となります。いってらっしゃい、貴方と共にアネキウスが歩まれますように」
これが、ミュアの巡礼行の、南への道行きの第一歩であった。
1-2
そして、その旅は大して進まないうちに終わりの危機に瀕することになる。
「巡礼許可証、譲ってもらえないかな?」
低く抑えたせいで聞き取りにくい声で、目の前のその人物は要求を告げた。どう見ても物盗りだ。正体を見せないために、全身をローブで包み、フードで顔も隠している。
大森林の縁の道に沿って歩いている時だった。村から離れ、人気が絶えたところで、その男は脇の茂みから飛び出して立ちはだかってきたのだ。どうも狙いをつけられていたようだった。
「世の中ってやっぱり物騒なのね」
ミュアの呟きに、隣の少年が肩をすくめる。
「まあ、時々は」
「んで、どうしよう」
つい先日、同行者となった少年は、また肩をすくめてみせた。渡すしかないんじゃないでしょうか、とその仕草は言っている。彼の容貌からすると、とても荒事には向いていなさそうなので、その結論も妥当なところだろう。
まだ彼がミュアと同じく有羽族であるなら、飛んで逃げてみるという手もあったかもしれない。けれど、彼の頭から覗いている獣の耳は、彼が生耳族であると傍目にも主張していた。当然、置いて逃げる訳にもいかないし、その前に物盗りの正体がこちらには分からないのだ。ローブの下に羽を隠している可能性は充分だ。
物盗りは大男という訳ではなく、自分たちとあまり変わらない体型に見えたが、雰囲気からは確かに逃げるのは無理そうだ。ニッカの判断は正しい。
「あまり荒立てたくないんだけど」
さらに、こちらがはっきりとした態度を見せなかったせいか、相手はそう言って腰から細身の短剣を抜き放った。ミュアはそこで、手を挙げることにした。
「ちょっと質問」
しかし、それは降参の合図ではなかったが。
「なに?」
物盗りもそれには虚を突かれたらしく、幾分高い声の返事が戻ってくる。
「私と、ニッカの分と二枚あるんだけど、二枚ともいるの?」
「……どちらも出してもらう」
「何に使うの? これって売れるの?」
「答える必要はない。出すのか、出さないのか、はっきりしてもらおうか」
物盗りの答えに苛つきが混じってきたので、ミュアは問いを打ち切って、ニッカへと目線を移した。
「出そっか?」
「出すべきでしょうね。幸い、お互い村は遠くないですし」
「だね」
村に戻れば、神官に事情を話して再度発行してもらうことも可能だろう。十日も経たないうちに引き返すのは癪だが、命と引き換えの抵抗をする必要は少しもない。
二人の諦めは、物盗りにも伝わったらしく、辺りにはどこかほっとした空気が流れる。この奇妙で一方的な取引は、二人が許可証を差し出して終了するはずだった。
突然、その声が頭上から降ってこなければ。
「ちょっとお前らに聞きたいんだけどな」
驚いた三人が声の方を振り仰ぐと、辺り一体に座を占める木々の太い枝の上に、有羽族の少年が仁王立ちしていた。いつからそこにいたのか、彼は挑発的な表情で鼻を鳴らし、さらに問いかけてきた。
「どっからどう見ても、そいつが悪人だよなぁ?」
木の上の少年は、おもむろに腰に佩いた長剣を抜き放ち、ローブの男へと切っ先を向ける。ぎらぎらとした戦意がそこからは溢れ、どう見てもただで済みそうにはない展開だ。
「おい、悪人さんよ。叩っ斬ってやるから、覚悟しろや」
少年は誰の返事も待たずに一方的に宣言すると、にやりと笑った。
1-3
(あれは……)
ミュアはその時、樹上の少年の姿に気を取られていた。
(何処かで、間違いなく……)
無造作に揃えられた短い髪も、その下で弧を描いている太い眉も、意志の光が無駄に漲っているその黒目がちの瞳も、確かに見覚えがあった。けれど、最近じゃない。じゃあそれは何時の話だろう。
ミュアは無意識に一歩前に出る。途端、少年の姿が枝の上からかき消えた。
そして、鼻先に衝撃が来た。
「ちょっ、危ない!」
続いて背中から腕を引っ張られ、よろけたところで、ようやく彼女は状況を知る。木の上から、背中の透明な羽を広げることもないまま、少年が剣の一撃と共にミュアとローブの男の間に飛び降りてきたのだ。
「どうします、逃げますか?」
後ろへと引き寄せてくれたニッカが、そう尋ねてくる。それに反射的に彼女は答えた。
「待って!」
上からの一太刀を、ローブの男は後ろに跳ぶことで躱し、すかさず体勢を整えていた。対して少年は、そのまま地面を蹴って男の方へと突撃していく。金属がぶつかり合う耳障りな音が響き渡る。
「はっはぁ、避けやがったな!」
少年が嬉しそうに叫び、ローブの男はそれに答えない。少年の長剣は男の細い短剣に受け止められていたが、男の手は震えていて、明らかに力負けしている様子だった。
「それじゃ、もう一回くらいな!」
再び長剣が振り上げられ、振り下ろされる。木々の隙間から漏れる光の中を、煌きながら短剣が飛んでいく。ローブの男は空になった自らの手を押さえ、後ろへと跳び退った。
「終わりだな。観念しろや」
勝利宣言をし、少年はまた切っ先を指すように男へと向ける。
「まずはそのローブ、脱いでもらおうか」
男はこの後に及んでも、無言だった。静かにローブを結んでいる紐に手をかけ、ほどく。次にフードに手をかけようとし……不意に、少年へと突進した。
「なっ……」
その体勢からは、咄嗟に突くことしか出来ない。慌てた少年が突き出した剣はローブを貫き、しかしそこには手ごたえがなかった。剣に脱ぎ捨てられたローブが絡まり、少年はつんのめる。
そこへ衝撃が来た。
顎への、狙いすました膝の一撃。鮮やかに決まったそれは、今の一連の動きが完全に計算されたものだということを感じさせた。
少年は地面にうつぶせに倒れ、動かない。
「……少し意識が飛んでるだけだ。しばらく経ったら起きる。手早く済まそう」
そして、逃げ出し損ねたミュアたちの方を向き、ローブの男はそう呟いた。
いや、もうローブの男と呼ぶのは適当ではないだろう。その下から姿を現したのは、ミュアたちと同じ世代の少年だったからだ。
1-4
少年の頭に獣の耳はなく、背に透明の羽はなく、尻に尾はなかった。言わば、人間の基本的型だけを持つその物盗りの少年は、肩より少し伸ばした髪を後ろに払い、ミュアたちを脅すように大きな瞳で睨みつけた。
「事を荒立てるつもりはなかったんだ、おとなしく渡してくれれば。さあ、早くしてくれ」
力の優位を見せつけたとはいえ、物盗りの少年にもまた、言うほど余裕がある訳ではなかった。勿論、もし倒れている少年がまた襲ってきても、あの程度の動きならば勝てると思う。けれど、これは模擬試合ではないのだ。勝てば良いというものではない。
ローブを脱がざるを得なかった時点で、自分はかなりの危険を侵している。加えて、成人前であるが故に、自分の容貌が威圧には線が細すぎるのも承知している。勢いで押し切らねばならない。
「出してくれれば、何もしない」
物盗りの少年は、二人に向かって手を差し出した。
対するミュアは、突然始まって突然終わった小競り合いの結末に呆然としていたが、促されてようやく自分の置かれた状況に気づく。結局のところ事態はほとんど変わっておらず、有羽族の少年の乱入は大した影響がなかったということだ。
「分かったわ。渡せば、そのまま去ってくれるのね」
「約束する」
物盗りの少年が頷くのを見て、ミュアは懐の隠しに手を入れようとした。しかし、それは再び止められる。
「ちょっと待ってください」
ニッカがミュアの手を抑え、先ほどまでの諦めとはまったく違う、険しい表情で少年を睨みつけていたからだ。
「ミュア、渡しちゃいけない」
「……そうすると不本意だけど、力づくでってことになるよ」
少年の目が剣呑な空気を湛えて細められる。その攻撃を喰らえばひとたまりもないくせに、ニッカは引こうとせず、質問を厳しい声音で叩きつける。
「その前に、どうして巡礼許可証なんて必要なのか、聞かせてもらいたいのですが」
「答える必要を認めない」
「昔のように、誰しもが巡礼に出るなんてことは今はない。だからこいつだって、そんなに厳密な代物じゃない。それでもいくらかの恩恵はある。簡単な宿、簡単な食事、そして何よりも……身分証明。けどそんなのだって、別になくても旅は出来るし、普通そんなに怪しまれない。どうしてわざわざ巡礼許可証なんて奪おうとするのか。貴方はできる限り怪しまれたくないんだ」
そしてニッカは、ついにとどめの一言を言い放った。
「貴方は三足族だ。そうですね?」
1-5
三足族。
ミュアは突然現れ出たその単語を、信じられない思いで受け止めた。
何百年も昔にいたはずの種族。かつての諍い。かつての敵。けして超えられぬ壁の向こうのあの人たち。このホリーラにいるはずのない、いてはならない人間。
「馬鹿馬鹿しいっ!」
物盗りの少年は即座に否定の言葉を返したが、そこにはわずかな動揺の響きが混じっている。
「三足族なんているものか。僕はただの不出来子だ。そう言えば分かるだろう!?」
少年のその訴えに、しかしニッカはあっさりと首を横に振ってみせた。
「羽も耳も尾もまったくない不出来子なんて、存在しませんよ。小さくとも、必ずどちらかの特徴が出ます。僕のようにね」
物盗りの少年が息を飲む音がはっきりと聞こえた。
ニッカの横に並んでいるミュアは、悪いと思いながらも視線を下へと落としてしまう。そこには生耳族のもう一つの特徴、尾がなかった。生まれつき持っていないのだ。
この不出来子の存在ゆえ、子は成せるけれど有羽族と生耳族の婚姻は忌避される。ニッカが村を訪れたミュアの巡礼に同行する気になったのも、このためなのだろう。
「貴方は不出来子なんかじゃない。あの壁を越えてきた、三足族だ」
物盗りの少年はもはや答えず、ただ一歩後ずさった。逃げるか、それとも目の前の二人をどうにかした方がいいか、とっさに判断できなかったのだ。少年はそこで迷うべきではなかった。どうにかするなどという選択肢は、殺すことを覚悟しないうちは実質ありはしなかったのだから。
その迷いが、時間を生んだ。
彼を復活させるためのわずかな時間を。
それは最初、唸りのように聞こえた。横合いから不意に聞こえてきたその異様な音に三人が目をやると、気絶していたはずの有羽族の少年の肩が震えている。
やがてそれは段々と笑いの形を成していった。
不気味な哄笑。
「三足族! 三足族!」
同時に、有羽族の少年は吠え、起き上がる。
「ついに来やがったな、俺の前に!」
彼は近くに落ちている自分の長剣に目もくれずに、握り締めた拳をもう片方の手のひらに叩きつけた。
「ぶち殺す……確実に、殺す」
その口から洩れた呟きは乾いていた。
1-6
飛ばされた短剣を咄嗟に探してしまったのは、さっきの対峙の時とは違い、肌を刺すような殺気が有羽族の少年からは感じられたからだ。本気なのだ。
三足族の少年は、見つからない短剣を諦めて、身構えることにした。敵意はきついが、相手は頭に血が昇っている。素手同士の戦いならさばきようがある。それにしても、確実に決めたはずなのに回復が早い。今度はもっと強く蹴らなければいけないようだ。
「やだ、そうだ、そうじゃない」
一方、ミュアはニッカと一緒に巻き込まれないよう退がっている途中だったが、急に引っかかっていた答えに思い当たっていた。
「やっぱり間違いない。トーラー、あれ、シード=シンス=トーラーだ」
「トーラー……?」
「何ですぐ思い出さなかったんだろう、あんなに強烈だったのに!」
焦っているらしく、ミュアは独り言のようにせわしなく言葉を継ぐ。
「うわ、ちょっと、じゃあまずい、まずいまずいあれ!」
二人の睨み合いは、その時崩れつつあった。有羽族の少年、シードがついに殴りかかったからである。勢いに任せた直線的な動き。先ほどのやり取りからすると、あっさりいなされることは予想できた。
しかし、ミュアは必死で叫んだ。
「強盗さん、逃げて!」
ミュアの呼びかけに、反射的に受け流しから避けに変更したのが、三足族の少年の幸運だった。直前の変更だったため、彼の顔のすぐ傍を風が通り過ぎていき、彼の背にしていた幹へとその拳は叩きつけられた。
ゴン、という鈍い音と共に、木が揺れた。大森林の一翼を担う、この世界の誰よりも年降りた巨木の幹がしなり、そして、割れた。
揺らいだ枝が隣の樹木の枝と触れ、騒々しい音を立てる。狂ったバランスは戻ることなく割れ目は広がり、自重に任せて地へと落ちる。
木は倒れた。二人がかりで腕を回してもまったく届かないような巨木が、あっさりと、ただの一撃で。地響きが一帯に鳴り渡り、驚いた鳥たちが辺りの木から悲鳴を上げながら飛び去っていく。
「避けやがったな」
現実感のないその光景を呆然と見ていた三足族の少年は、それをやらかした人物が声をかけてきたことで、今のが見間違いでも幻でもないことを知る。
「……冗談じゃない」
「次は死ね」
もちろん、相手は冗談のつもりなど微塵もなさそうだった。
1-7
叩き折られた木が、周りの木々の枝を巻き込んで倒れていくのを、ミュアとニッカも唖然として見つめていた。
「ああもう、どうしよう……」
頭を抱えてしまったミュアに、ニッカは確認をする。
「あの人、知り合いですか? というか、人間ですか?」
「知ってるってほど知ってるって訳じゃないけど、人間ではあるんじゃないかな……一応、貴族様だし」
「あ、やっぱり。トーラーって公爵家の」
「うん、そう。うちの村の領主筋。そういうこと」
確か、五年ぐらい前だったはずだ。
父親に連れられて村を訪れた少年は騒ぎを巻き起こし、あの腕一本で岩すら割ったのだ。
「……何でそんな人がこんなとこにいるんですか?」
「知らないわよー。本当、どうしよう……」
今のうちに逃げるのが一番良いんじゃないかな、とニッカは思わなくもなかったが、それを口に出すことはしなかった。なにしろ三足族だ。村を出てすぐに遭遇し、しかもそれが強盗だなんて、運が良いのか悪いのか判断に困るが。
ミュアたちが逃げ損ねている間にも、二人の戦いは続いていた。地がへこみ、土と下生えが舞い、茂みが薙ぎ倒される中、三足族の少年はひたすらシードの猛攻を避け続けている。
「逃げるばっかりかぁ!?」
挑発に乗っている暇もない。一度でも喰らったら、どうなることか分かったものじゃない。もはや撤退するしかないが、言われた通りに躱しているばかりではその隙は見出せそうにはなかった。
「そろそろ死ねや、おい!」
「僕は君に殺されるつもりはない!」
そこで、三足族の少年は討って出た。変わらず単純な攻撃を避け、蹴りを無防備な横腹に叩き込む。一瞬、シードはぐらついたが、倒れない。
「軽いな」
効いていない訳ではないにしろ、腕力の差は歴然としていた。また急所に的確に当てるしかないのを悟り、三足族の少年は奥歯を噛む。この間合いの取り方ではかなりの不利だ。
「なんでそんなに僕を殺したい?」
だから問いかける。転機を作るためには、何でもする必要がある。
「僕は君に何もしていないはずだ。どうしてそこまでしようとする!」
最初のように、悪事を働いたからだと言われれば、返す言葉はない。けれど、今の彼はどう見てもそんなことは忘れている。発散されているのは憎しみばかりだ。
「何もしてないだぁ……?」
悪いことに、その問いかけは逆効果だったらしい。彼の気は一層どす黒くなり、表情は険しくなる。激昂が空気を震わせて伝わってきた。
「先にやってきたのはお前らだろうが!」
これ以上木を倒されて目立つのは勘弁してほしかったが、襲いかかってくる拳は躱すしかない。体をひねって攻撃を背にしていた木へと受け流した三足族の少年は、その時自分の後方にあってはならないものを見た。
こちらを驚いた目で見つめる、小さな姿。
「セピ……」
その声を遮って、めりり、と横の木が大きな音を立てた。
1-8
倒れる。
容赦ない打撃を受けた幹は裂け、勢いのままに向こう側へと傾いていく。その先には、何が起こっているのか分からないまま、目を丸くした小さな少年が立ち尽くしている。
三足族の少年は、一瞬の迷いすら持たなかった。
地を蹴り、駆け、小さな少年に飛びつく。その直後、枝を折り葉を鳴らし、哀れな木は地面へと落下した。木の葉と土埃が舞い上がり、そしてそれが落ち着いた後に、うずくまっている二人の姿が現れる。幹の直撃を避け、枝の隙間に何とか飛び込んだのだ。
「隠れててって言ったじゃないか」
三足族の少年は、腕の中の相手に囁きかける。すると、相手もうるんだ茶の瞳で彼を見返してきた。
「でも、ひどい音とか、地響きとか……アピアが危ない目に遭ってるんじゃないかと思って……」
「セピアはそんなの心配しないでいいから」
そう、僕はセピアを何を置いても守らなくてはならない。
アピアはそれを言葉にこそしなかったが、一層強く抱きしめることで示した。その僅かな平穏は、二人の上に影が差すことで破られる。
「おい」
いつの間にか、すぐ後ろにシードが腕を組んで不機嫌そうに立ちはだかっていた。
「何だそいつ」
アピアは急いで彼に向き直り、背にセピアを庇う体制になる。この状態では蹴り上げられればひとたまりもなく、威嚇するように睨みつけながらも、アピアはそれを覚悟した。
しかし、蹴りはやってこなかった。
「あー、もう止め止め! ちょっと落ち着いてよ!」
救いの手が後ろからやってきて、シードの腕を引っ張ったからだった。当事者のくせに放置されがちなミュアがついに割って入ってきたのだ。
「何だお前」
「何だじゃないわよ、そっちが勝手に乱入してきたくせに」
「邪魔するな」
シードが振りほどこうと腕を動かすと、つられてミュアもよろけるが放しはしなかった。喰らいついたまま、彼女は命令する。
「止めなさい、シード=シンス=トーラー!」
シードはてき面に反応して、動きを止め、彼女を不審気に見やった。
「お前、どうして俺の名前を……」
「そっちは覚えてないでしょうけど、こっちは覚えてるのよ。ムディカ=トゥカ村の、ミュア=テーレ=スピクって言えば分かる? 分かったなら、ちょっと離れてて」
叩きつけるように言ってやると、シードは豆鉄砲を食らったような顔をした途端、舌打ちをして渋々その場から離れた。心底疲れて息を吐いたミュアと、庇う姿勢のまま固まっていたアピアの目が、そこで初めて合う。
あまりに複雑な立場の入れ替わりに、お互いどう切り出せば良いのか分からずしばらく見つめ合っていたが、やがてアピアの方が力を抜いた。
「……すまない」
座りの悪い気持ちで礼を言う。脅して持ち物を奪おうとした相手に対して、大きな顔をして振舞えるはずもない。ミュアは座り込んでいる二人に手を差し伸べる。
「大丈夫?」
「どうして僕らを?」
「いや、どうしてっていうか、勢いで。そっちの子は?」
「……弟だよ」
「なるほど、二枚か」
二人の見た目はあまり似ていなかったが、言われてみると雰囲気は似ていなくもない。額に巻いている布もお揃いのものだ。
「三足族の人が壁を越えてくるなんて、何が訳があるんでしょう?」
ミュアは問い、二人は無言であったが、何よりもその行為が肯定の証だった。
「言えないようなことなの?」
「恥ずべきことではない」
「本当に?」
「アネキウスに誓って」
神の名を伴って返された誓いには、曇りは見受けられない。もはやミュアには強盗行為を咎める気はなくなっていた。
「で、どうします。そちらの方、怪我してるようですし」
もう一人の当事者であるニッカもそこに触れる気はないようで、やってきて呑気にそう聞いてくる。言われてみれば、枝にでも引っ掛けたのか、セピアの上腕から少しだが血が出ていた。
「僕の家に戻りましょうか。ここから一日かかりませんしね」
1-9
包帯を巻き終わると、小さな少年はその癖毛の頭を礼儀正しくぴょこんと下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとう。本当に申し訳ない」
続いて、横に控えているアピアも頭を下げる。
「消毒しただけだから」
ミュアは薬箱のふたを閉じつつ、照れ笑いをした。そこへいかにも不機嫌な呟きが割り込んでくる。
「三足族にそんなことしてやる必要ねーよ」
机を挟んだ壁に寄りかかって睨みを利かせているシードだった。彼はさっきよりはましなものの、いまだ殺気じみた気配を発しており、たちまち部屋にぎすぎすした空気が満ちる。
「あの、どうしてシードがここに?」
勘弁してよ、と内心ミュアは思っていたが、ニッカは奥に引っ込んだままだし、この場をとりなせるのは自分しかいない。何とか突破口を開くべく、まずシードに話しかけてみる。
「三足族を逃がすかよ」
「えーと、でも、何か用事があったりするんじゃないの。公爵様の頼まれものの途中とか」
「……お前、親父に知らせるつもりじゃないだろうな」
シードの矛先が今度はミュアに向けられ、その言い様に彼女は嫌な予感を覚える。そして、それは的中した。
「俺はもうあの家とは何の関係もないからな。よく覚えとけ」
それって家出ってことですか、と突っ込む気力もない。無茶苦茶だ。いかにもやりそうな彼ではあったが、何も自分の出発直後に鉢合わなくてもいいではないか。それは、突然出現した三足族についても言えることだが。
ホリーラとリタント、それを分ける壁。
二百年ほど前、戦争があったらしい。争いを続けるうちに境が自然と決まっていき……やがて、そこに壁が作られた。人の手によって積み上げられた、土と石の壁。それが完成した時、ようやく戦争は終わりを告げたのだ。以来、そこを越えた者はいないとされている。その戦争の原因は……。
「君も三足族は魔物と手を組んだ、と思っている口か?」
ミュアが頭を抱えているうちに、険悪な雰囲気は一層増してしまったらしい。顔を上げると、まさに一触即発の様相で、アピアとシードが睨み合っていた。
「あ?」
「言っておくけど、それは勘違いだ。魔法使いを駆逐したのは戦争のずっと前の話だ。三足族の中に、怪しげな術を使う者なんて一人もいない」
「何の話してんだよ、お前。そんな昔の話なんてどうだっていいだろーが」
「じゃあ、どうしてそんなに憎む。目障りだって言うなら、通報でも何でもすればいい」
「アホか。俺が殺すって言ってんだ」
「殺せるものなら殺してみれば。さっきから一発も当てることができないくせに、口だけはでかいね」
「何だと。よし、外に出やがれ」
「あーあーあー、ちょっとちょっとちょっとー!」
放っておくと悪い方にしか行かないので、ミュアが仲裁するほかなかった。二人の間に入って手をぱたぱたと振る。
「いい加減にしてよね、二人とも」
「アピア……」
セピアも兄の袖を引いて諌めてくれたのと、ニッカが奥から姿を現したことで、シードはまた不機嫌そうに押し黙り、何とかその場は収まった。
「何やってたんですか?」
ニッカの問いに、ミュアは力なく首を振る。
「いや、何て言うか……そっちこそ何やってたの。どうにかするって言って、ずいぶん時間かかったけど」
「調達してたんですよ、これを」
言って、彼が机に広げたものは二枚の巡礼許可証だった。ちゃんと印も捺してあるのに、名前と出身地、年齢の欄が空白になっている。ミュアの物問いたげな視線に、ニッカは肩をすくめる。
「まだ家財道具が処分されてなくて助かりました」
何も考えたくない気分に襲われ、ミュアは外の風景でも楽しんでおくことにした。その横で、ニッカがペンを持って兄弟に尋ねている。
「さて、出身地は適当に捏造するとして、お名前と年齢は?」
「アピア……アピア=セリーク=ファダー。弟はセピア。十三と十だ」
飾り文字で書き込めば、巡礼許可証の完成だった。しかし、ニッカは書類を渡さず、その上に手を乗せ二人を見つめる。
「ひとつ、条件をつけても良いですか?」
アピアは口を開くことなしに、警戒を増した目でニッカを見やった。その無言を答えとし、ニッカはさらに言葉を継ぐ。
「目的地を教えてもらえませんか」
「それが条件?」
「これは前振りです。無理にとは言いませんが」
アピアはしばし考える様子を見せたが、やがて壁に貼ってある地図の一点を指差す。
「ここだよ」
それはホリーラ南端に一際高くそびえる山にして巡礼の最終地、聖山であった。
「なら、道のりは同じですね」
そこでニッカは微笑み、ようやく条件を口に出す。
「僕たちに同行してもらいます。それが呑めないのなら、これは渡せません」
そして、そのやり取りを耳に挟みながら、僕たちというのには自分も当然含まれていて、この先も厄介からは逃れられそうにないんだろうなとミュアは覚悟していた。
アネキウス暦七五一二年青の月のことである。