Southward

第一章 人の章

「再び、巡礼のはじまり」

24-1

 夜が始まる前に、彼は城から去ろうとしている。引き止める理由を見つけられないまま、アピアは一人見送りに出ていた。陰り始めた太陽が木々の影を濃くしつつある中庭には、二人の他に姿はない。
「……恨んでくれて、構わない」
 サラリナートはアピアのその言葉に、小さく寂しげに笑って答えなかった。もちろん彼だって叶わないのは分かりすぎるほど分かっていたのだ。
 ディーディスは首謀者の息子で、時にはその代理も務めていた。罪に問われないはずがない。
 あれから二週間の時が過ぎていた。驚くほどあっさりとナッティアは投降し、散々かき回されたあげくに頭を失った一派は崩れざるを得なかった。静かな結末を迎えた今回のことは、必然的になかったこととされるのだろう。そして、そのためにはけじめが必要なのだ。
 沈黙に耐え切れず、アピアは言葉を継ぐ。
「今なら、サラリナートの気持ちが少し分かる気がする。無理だと分かっているのに、叶わないと分かっているのに、それでも……それでも望んでしまう」
 そう洩らしてから、それが今のサラリナートにとってどれだけ無神経に聞こえかねないか、気づく。青い顔をしたアピアに、サラリナートは再び微笑みを見せる。
「……うん、そうだね」
 そして短くそれだけ返事をし、地面に視線を落とした。
「ごめん、僕は……」
「アピアは……」
 言いかけた言葉を引き取られ、アピアは口をつぐむ。
「アピアは最後まで、ディーディスのこと、分かってあげなかったね」
 どう答えてよいのか分からない。
「一度くらいは話を聞いてあげて」
「会いたがらないんじゃ、ないかな」
「そんなことないよ」
 サラリナートはそう言うが、会ったところで今以上に何を話せば良いのか分からなくなるだけだろう。
 また、お互いに言葉を探る沈黙が落ち、今度はサラリナートがそれを破る。
「もう二度と会えないね」
「うん……」
 ナッティアに加担したとはいえ、サラリナートが実質行ったのはアピアを迎えにいったことだけだ。加えて彼は未成年で、城での騒動ではアピアに協力している。アピアにサラリナートを責める気持ちは少しもなく、サラリナートに表立って被せられる罪状はなかった。けれど周囲がもはや二人の接触を許すことはないだろう。これが間違いなく最後の会話になることを、アピアは知っていた。
 だから、黙っていてはいけないとも思うのだが、改めて何か言おうとすると驚くほど何も出てこない。サラリナートもまた同じようで、無理やりといった感じで気まずい間を埋める。
「……最初からこんな風にアピアと私が話せること自体、おかしかったんだけど」
「そんなことない!」
 反射的に出た否定の言葉は、中庭いっぱいに響き渡るほど大きな声音だった。
「僕にとっては、いつだってサラリナートは大切な友達だ。何があってもそれはずっと変わらない。変わるもんか。例えサラリナートが」
 戸惑うサラリナートにアピアはその勢いのままでまくし立てたが、名前を出したことで我に返り、にわかに調子が弱くなる。
「サラリナートが、どう思っていようとも、僕にとってはずっと……」
「同じだよ」
 前で握り締めた拳が、ふっと温かなものに包まれる。サラリナートの黒い瞳は、まっすぐにこちらへ向けられていた。
「私も同じだから。会えなくてもずっと友達だと思ってるから」
 一瞬、話してしまいそうになった自分に気づく。そんなこと、誰の為にもならないばかりか、良くない事態を引き起こすだけなのだと、身に沁みて分かっているはずなのに。
「アピア?」
 うつむいたのは、顔を見られたくなかったからだ。
 アピアは心配そうに覗き込んでくるサラリナートの背に手を回し、抱きしめる形にする。それは一層、彼を困惑させるだけなのだろうけれど。
「さよなら、サラリナート。どうか元気で」
 そんなありきたりの別れしか、もう告げられなかった。

24-2

 ミュアの訪問を受けて、ニッカは読んでいた本を一旦畳むことにした。図書室で話をする訳にはいかないので、二人は裏の中庭へと出る。別に聞かれて困る話ではないが、城の中だと注目を浴びて落ち着かないからだ。
 ミュアは用意されている木のベンチに座ると、軽いため息をついてぼやいた。
「毎日毎日、ニッカは図書室に入り浸り。シードは酒蔵室に入り浸り」
「今日もですか。こっちだって、未成年の飲酒は禁止でしょう?」
「管理人のおじさんと無茶苦茶仲良くなってるのよ。無法地帯ね」
 おかげでいつ行っても、まともに話が出来た試しがない。本人は素面だと言い張っているが、酒の匂いがぷんぷんする場所でちゃんとした話はやはりしにくい。
「何か話があるんですか?」
「羽のこととかさ」
「それは聞いても無駄なんじゃないですかね、あの様子じゃ」
 ようやく全員が再会を果たした後、シードの背中を見てミュアはぎょっとしたのだ。
「ちょっと待って。何、その羽」
「ああ」
 シードは頷いて、あっさりと答える。
「生えた」
「生える訳ないでしょ!」
「……いや、でも、実際治ってますしね」
 フォローなのか何なのか、微妙な言葉を挟んでくるニッカに問うような目を向けると、彼は言い訳を披露する。
「色々ありすぎて、突っ込むタイミングを逃してました」
 確かに、あまりにも普通に元に戻っていたので、うっかり流しかねないところだった。今となっては、逆になかったことが信じられない。
「何かあったの?」
 問われたシードは一瞬だけ視線を泳がせたが、やがてきっぱりと言い放つ。
「ない」
「ない訳ないでしょうが!」
 むしろ、何もないのににょろにょろ生えてきた方が怖い。答えになってないのでミュアはしつこく問い詰めたのだが、返ってくるのは「ない」の一点張りだった。
 もう一人の当事者だろうアピアは忙しくてなかなか捕まらないし、今に至るまで聞き出しは成功していない。
「まあ、人間、話したくないこともありますよ」
「シードを人間の範疇で語りたくないんだけど」
 やっぱりフォローかどうか曖昧なニッカのとりなしを、ミュアは切り捨てる。ニッカは肩をすくめて続けた。
「そうですか? そりゃ、無茶苦茶ですけど、こう思いもするんですよね。出来ても別におかしくないんじゃないかって」
「ニッカ、貴方相当毒されてると思うわ、あれに」
 ため息混じりにそう流してはみたものの、ミュアにもニッカの言うことが何となく分からなくもなかった。
 シードはおかしい。それは明らかだ。
 けれど、自分たちはそのおかしさに段々馴染んできてしまっている。
「回復といえば、足の調子はどうですか」
「もうほとんど普通に歩ける。ちょっと調整はいるけど」
 話題を変えてきたニッカに、ミュアは包帯を巻いた左足で地面を蹴って見せた。骨がちゃんとつながったのか、あの痺れるような痛みもようやく消えてきたところだ。大人一人をぶら下げ続けたのだから当然だが、骨と筋がかなり痛んでいたそうだ。
 それでも有羽族ということが幸いして、比較的早い時期から動き回ることができた。浮くタイミングを合わせれば、ほとんど体重の負担なしに杖を使うことができるからだ。おかげで回復も早かったらしい。
「……そろそろ頃合じゃないですか」
 だから、ニッカのその言葉に頷く。
「ん……ま、ね。いつまでもいる訳にはいかないし」
「僕らは結局、この国への侵入者ですから」
 隣国からの使者としてもてはやされていても、珍奇の視線が刺さるのはどうにも仕方がない。長くいるほど、ぼろが出る恐れもある。
「でもニッカは、もっとここにいたいんじゃないの。いる権利だってあると思うし」
 貴重な書籍が制限なしで読み放題の現状からは離れがたいだろう。
「まあ、いたいといえばそうですけど。でも、やっぱり無理ですよ。皆と一緒に戻ります」
「そっか」
 相槌を打って、ミュアは彼が手に持つ本へと目をやる。その表紙には、タイカ=ソールの名が刻まれていた。

24-3

 その名を聞いた途端、テーピアは面食らった顔になったのだった。そこまではっきりとした反応を期待していなかったニッカもまた、戸惑ってしまう。
「テリカ=タイカ=ソールの息子とは!」
「ご存知ですか?」
「当然だとも。彼は私より年若かったが、私より何倍も優れた知見を持っていた」
「勅命を受けていたと……」
 ミュアより聞いたそのことを尋ねると、テーピアはためらいなく頷く。
「ああ。彼は私が壁の向こうへと遣わした。連絡が途絶えて久しくなるが……そうか、そのようなことになっていたか」
 最後は呟くような声になり、窓から見える湖へと視線を向ける。その遥か先には、壁が立っているはずだ。
 救出されてしばらく療養に専念せざるをえなかったテーピアだったが、回復は順調で寝室内での謁見が許可されたのだった。当然三人全員が呼ばれていたのだが、面倒な話を嫌ってか、シードは逃げてここにはいない。
 そして、改めての名乗りに、ニッカが求めていた答えが返ってきたのだ。
「まことアネキウスは偉大なる導き手なり! このような形で彼の使命が果たされようとは」
 部屋の片隅に控えるアピアに確認の目線を送ると、彼は大丈夫というように頷いたので、ニッカは続けて尋ねかける。
「差し支えなければ教えていただきたいのですが、父はどのような目的で壁の向こうへ派遣されたのですか?」
「彼は己の能力を揮える場所を求めていたし、その時の彼にはそれが必要であった。故、調査を任せたのだ。何も知らぬまま、壁を開く訳にはいかないからな。彼の報告は、我々に壁の向こうに関する多くの知識を授けてくれた」
 それは予想されていた答えで、しかし微妙な違和感にニッカは眉をひそめる。家に残された父の痕跡からしても、それは真実だろう。
「では、先ほどおっしゃられた使命とは?」
 けれど、さっきのあの呟き。何が、どのような形で果たされたのかが、分からない。
 わずかな間が空いた。
「……済まぬが、それは答えられん」
 戻ってきたのは、拒否の言葉だった。
「だが、けしてそなたが恥じるようなことではないのは、アネキウスに誓おうとも」
 そう出られては問い詰める訳にもいかないし、とっかかりもない。引くことにしたニッカへ、埋め合わせるかのようにテーピアは言葉を掛ける。
「城の図書室に彼が若き頃記した書物があったはずだ。話を通しておく故、興味があるのならば赴くが良い」
 そのようにして得た許可を最大限活用して書架を漁り見つけた本を、ニッカはずっと持ち歩いている。
「何か分かった?」
「いえ、特には。植物に特に関心を持っていたのは、家に残っていたものからも分かってましたしね」
 それでも自分のルーツがはっきりしたのは心強いものだろう。父方の親戚もいるらしいが、会うつもりはないとニッカは言い切った。
「向こうもこっちも困るだけでしょう」
 大体、壁の話はまだ秘密である。こうなってしまった以上、どこかから次第に国全体に洩れていくのだろうけれど。
「そういえば、何でお父さんの名字が変わってないの?」
 婚姻を行えば、両者の本家名を合わせて新しい名字とするのが慣例だ。
「まあ、簡単に言ってしまえば、アネキウスに認められた結婚をしていないからですよ、うちの両親は」
「あ……ごめん」
「別に謝ることじゃないです。疑問に思って当然ですから」
 ニッカは謝罪をさらっと流し、気まずいミュアに尋ね返してくる。
「ホリーラに戻った後、どうするつもりです?」
「途中だったし、やっぱり聖山へ行き直そうと思ってるけど。ニッカはどうするの? 帰る?」
 彼の目的が父の足跡をたどることならば、それは達成されたはずだ。
「いえ、僕もそのつもりで同行したんですし。お邪魔じゃなかったら、ご一緒させてください」
「それはもちろん歓迎だけど」
「どうせ帰る場所なんてもうないですしね」
「え?」
「村を出る時、家財は適当に処分してくださいって頼んだので。なくなってるのか、誰か他の人が使ってるのか」
 あくまで淡々と、彼はそう告げたのだった。

24-4

 そろそろ戻ろうとの提案に、シードは一も二もなく賛成した。さすがに酒びたりの日々にも退屈しきっていたらしい。
 逆にセピアはそのことを伝えると、たちまち沈んだ顔になる。
「あの……もうちょっと……せめて、落ち着くまで、ここにいない?」
 セピアの気持ちは分かる。ここを去るに当たって、一番引っかかるのが二人との別れだった。王の代理として事態の収拾に追われている二人とは、まともに顔を合わせる機会もほとんどない。このまま別れてしまえば、次があるかどうかは分からない。
 けれど、逆にそちらの方がいいのではないかともミュアは思わなくもなかった。下手に時間を置くと、離れがたくなる。そうなったところで、いつか別れなければならないのだから。
「でも、あまり長くいるのは良くないと思うの。だから……」
 そろそろ妙な噂も生まれてきつつあるようだ。廊下を歩いている時にこっそり近づいてこられて、万能薬を分けてほしいと持ちかけられたこともあった。その程度ならいいが、下手をすればいきなり刺されかねない。
 それ以前に、いつまで待てば落ち着くのかも分からないのだ。一年経とうが無理そうに見えもする。
「うん、そうだよね……」
 セピアだって、もちろんその辺りの事情は全部呑み込んでいるので、しつこく粘るような真似はしなかった。ただ、昏い目を地面に落としている。彼を励ますように、ミュアはその肩を抱いた。
「壁が開いた時には真っ先に来るから。何だかそんなに遠い日じゃなさそうじゃない?」
 今回の騒動によって、反対派のあぶり出しが出来たとも言える。日和見だった勢力もこの結果により、国王派へ傾きつつあるようだ。
 すぐとはいかないだろうが、少なくとも生きているうちにはきっと行き来は可能となるだろう。
 そして、いつか壁が崩される日さえ来るかもしれない。
 数ヶ月前には夢にも思わなかったことを、あっさりと受け入れている自分がいる。そこには興奮も、恐怖もない。そうだ、あれはどうだっていいものなのだ。
「ミュアは……」
 問いかけの声に、ミュアは改めて目の前の小さな少年の顔を見やる。
「ミュアは、死ぬのは怖くない?」
 唐突な問いは、ミュアに驚きとわずかな左足の痛みをもたらした。戸惑いながら、彼女は答えを返す。
「怖いっていうか、死にたくはないけど。どうしたの?」
「……戻ってきたら会えると思ってた人たちがいなくて。もう二度と会えないんだ。せっかく戻ってきたのに、違う場所みたいで」
 それは、ミュアにとってまったく実感のない出来事だ。すでに城中では病気のことは過ぎた悲劇として扱われており、来訪者の目からはその生々しさはすでに見えなくなっている。
 しかしセピアは、見知った顔がごっそりと抜けているのを、事あるごとに感じざるをえないだろう。傷跡はあらゆるところに鮮やかなのだ。
 死。突然の死。理不尽な死。
 気配を感じ、ふと目をやって、誰もいない空間に改めてその不在を知らされる。
「汝らいづれあの山を登りて神の御許に至らん。其は栄光の園、天の庭。安らぎと慈悲が全てを癒す」
 人はどこにいようとも、引き返せぬ聖山への道を歩んでいる。そして、目指すところが同じなのならば。
「大丈夫。また会えるよ」
 セピアの頭を胸に抱き、ミュアはそう力づける。自然、彼女の胸に顔を押し付ける形となったセピアの呟きは、彼女の耳には届かなかった。
「怖いのは、自分のことじゃないよ」
 口の中で、小さく、消えるほどの声で。
「僕のことじゃないんだ」

24-5

 結局、帰還の話をしてから実行までには一週間ほど準備時間が必要となった。きちんとしたもてなしをしないまま帰す訳にはいかないと引き止めるテーピアらと、辞退するミュアらのすり合わせた地点が、城中のみで晩餐会を開くことであったからだ。
 何とか国中から呼び寄せる舞踏会からそこまでスケールを小さくするのに成功して消耗するミュアに、ニッカは論評してのけたものだ。
「別に僕らのためだけじゃありませんよ。体面の問題もありますし、自分たちは勝利して健在だという主張、あと、壁の向こうにいるのはちょっと違うけどほら同じ人間ですよって、一番分かりやすく見せつけられますからね」
 何とも返す言葉なくニッカを見やるミュアに、彼は肩をすくめてみせる。
「王様をやるってことは、大変なことだと思いますよ」
 思惑はともかくにしろ、すると決まれば、ミュアだってそれなりに楽しみだったりもする。何しろ、衣裳からしていつも着ているものとは破格の差だ。好きに使っていいとは言われていたものの、気後れして入れずにいた衣裳部屋へアピアに伴われて入った時も、目を輝かさずにはいられなかった。
「本当は、採寸して一から作るものなんだけど、時間が足りないから、背中や裾なんかを縫い直すだけになるけど」
 置いてある衣裳は、衣裳係が見本として作ったものや、仕立てたはいいが使用されなかったものがほとんどらしい。それでもミュアにとっては十分豪華で華美な代物だ。
「一からなんてとても作れないから、こっちの方がありがたいかも」
 薄物を幾重にも重ねた羽織物など、想像の範囲外だ。最初から作ってもらったところで地味な出来にしかなりそうにない。
「ね、これ、どうかな?」
 嬉々として衣裳を漁っていたミュアだったが、やがて一着選び出してアピアに示す。しかし、アピアは首を横に振った。
「これは男性用だよ。仕立て直しの時間を考えると、一応女性用から選んだ方がいいかな」
「あ、そうなんだ。うーん、何か区別つきにくいな。ホリーラじゃこういうの、男の人は着ないよ」
 よく見れば、確かに胸や腰辺りの裁断が平坦だ。いざ着ると形がおかしくなってみっともないだろう。ぶつぶつ言いながら棚に戻したミュアは、ふとあることに気づいて振り向く。
「考えてみたら、アピアたちは女の子の服着てもいいんだよね」
 正面から見据えられたアピアは、思わぬ奇襲に怯んでしまう。
「ね、アピアの服はどんなのなの? もっと豪華? 女の子っぽい?」
「え、う、僕はまだ未成年だし、いつも大体着てるのがあるから、それで……」
「それって今のと似たような格好?」
「うん、まあ、こんな感じの」
 仕立てや素材は上等だが、造りはごく控えめな格好だ。晴れ着といっても、たぶんもうちょっと飾りがつくぐらいのものだろう。
「えー、つまんない。別におかしなことじゃないんでしょ、こういうの着ても」
 ミュアはたっぷりと布が重ねられた一着を差し出し、アピアは思わず後ずさって逃げる。
「変ってことはないけど……そういうの、慣れてないから、ちょっと」
「じゃあ今回やってみようよ」
 仲間が欲しいミュアの誘いは強引だった。なにしろ、ずっと女の子一人の状況で過ごしてきたのだ。意識せずとも、そういう方面の鬱憤が溜まっていた。
「大丈夫、大丈夫。絶対似合うって」
「笑われるから」
「笑う人なんていないでしょ」
「馬鹿にされて呆れられるよ、きっと」
「だから、そんな大人気ない反応、一体誰が……」
 言いかけて、ミュアはふと気づく。しそうな奴はいる。一人だけ。
「……ひょっとして、意識してたりする?」
 問えば、アピアはぴたりと黙った。しかし、目が泳いでいる。
「あー、そういうことか。あー。へー。なるほどねー」
「ち、違……」
「え、何が違うの?」
 にやにやしているミュア相手では、口を開けば開くほど分が悪くなる。
「じゃあ余計に着ないとね。悪いようにはしないからさ。どれがいいかなー」
 既に十分悪い、と思いつつも、アピアはその言葉を呑み込むしかなかった。

24-6

 そのために、当日のミュアの視線がアピアには痛かった。しかし、着ないと何度も言ったように着ないのだ。責められる謂れはない。
 幸い、ミュアは次から次へと話しかけてくる人々の相手をするのに忙しく、こちらを構いに来る暇はないようだった。せっかくの機会とあって、今まで遠巻きに見ていた者たちが押し寄せているのだ。皆が壁の向こうの人間に興味津々なのは当たり前で、今一人の羽持ちであるシードはあの性格で話しかけにくい。自然、質問はミュアに集中している。
 ニッカは同じ条件にあるはずなのに、どう要領良く立ち回ったものか、喧騒から外れて数人の文官と何やら議論めいた話をしているようだ。その分がミュアに押しつけられている訳だが。
 自分もミュアに助けられているな、とアピアは思わないでもない。いつもよりご機嫌伺いの数ははっきりと少なかった。彼らが必死なのは、あまり長く顔を出さない自分のせいなのだろうけれど、鬱陶しくて仕方がないのも事実だ。
 まあ、今だって少ないといっても、ひっきりなしではある。こういう場ではそれが仕事だし、両親が本調子でない分引き受けなければならない。別れのためか、セピアも近頃元気がないので心配だ。
 そんなことを思いながら、適当に会話を流している時、アピアはふと視線を感じて目を上げる。そして、その先の壁に立つ人物と顔をかち合わせ、思わず怯んだ。不機嫌をそのまま形にしたような表情で、シードが睨みつけてきていたからだった。むしろ敵意に近いものすら感じる形相だ。
 こういう場が嫌いなのは理解できるが、殺気を発散されても困る。どうにもできない。我慢してほしい。
 それ以前に、シードが参加していること自体が不思議ではある。絶対、拒否されると思っていた。思えばシードとまともに顔を合わせたのも久しぶりだ。面と向かって話したとなると、あの騒動以来一度もない。会ったところで、きっと話すこともないのだろうけれど。
「どうされましたか、アピア様」
 目の前の相手に怪訝な顔で問いかけられ、アピアは我に返る。何でもないと笑ってごまかして会話を切り上げ、再び壁に目をやると、既にシードの姿はかき消えていた。室内を見回しても見つからない。帰ってしまったのだろうか。
「アピアー、誰探してんの?」
 突然、背中にのしりと重みがかかった。声と、呼び捨てにされたことと、柔らかい感触と、首筋をくすぐるたっぷりの布の肌触りで、相手はすぐに分かる。
「ミュア、どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、やっと逃げ切ったとこ」
 彼女の呼気に含まれるお酒の匂いに、アピアは顔をしかめる。
「……ちょっと飲んでるよね」
 未成年だから勧めないように言っておいたのだが、性別がある上に、シードが遠慮なしにかぱかぱ飲むものだから、説得力はなかったようだ。
「お祭りの時は例外だもん」
「お祭りなんだ、これ」
「似たようなものでしょー」
 似たようなもの……だろうか。首をひねるアピアに、ミュアはいっそうもたれかかってくる。
「もー、疲れた。飛んでみせろ飛んでみせろって、こんなとこで飛べる訳ないっての」
「何かごめんね」
「アピアが謝ることじゃなーい」
 シードのこともあるし、そろそろミュアやニッカも退散させた方が良さそうだ。明日発つというのに潰れさせてはまずいだろう。
 そう、明日でお別れだ。改めて突きつけられたその事実がアピアの心を重くした。最期なのに、こんな風に慌しいまま終わっていく。
「ああ、そうそう、そうだ!」
 しかし、感傷的な気持ちは、急に耳元で叫ばれた驚きで霧散した。問うようにミュアへ振り向くと、彼女は正面から視線を受け止めて答える。
「セピアが呼んでる」
「セピアが?」
 特に用件を、それも直接や侍従経由ではなくミュアを介して伝えられるようなものを思いつかず、アピアは首を傾げる。お腹でも痛くなったのだろうか。
「こっちこっち」
 ミュアに引かれるままについていくと、そこは会場に面したテラスだった。月明かりと、鎧窓からわずかに洩れる中の光だけが辺りを照らしている。
 そして、そこには確かにセピアがいた。ただし、一人ではなかったが。
「じゃあ、そういうことで」
 固まるアピアを置いて、ミュアはあっさりと踵を返した。同時にセピアも奥から駆けてきて、アピアの横をすり抜けていってしまう。
「ちょ、セピ……」
 呼びかけは明らかに聞こえているはずなのに、無視された。連れ立って会場へ戻っていく二人の背中を呆然と見送っていると、後ろから不満そうな声が掛けられる。
「で、何なんだ」
 目をそらしたからといって先程のようにいなくなるはずもなく、アピアは観念して仏頂面の少年へと向き直った。

24-7

 だけど、別に話すことなんてない。向こうだってそうだろう。
「あの……どうだった?」
「つまらん」
 何を聞いているのか我ながら良く分からない苦し紛れの問いかけを、シードはあっさりと切って捨てる。
「あ、うん」
 何を想定しての返しかも分からなかったが、シードにとってはこの状況自体が気に食わないのだろう。
「さっさと出てくぞ、こんなとこ」
 出ていけば、二度と来たがらないに違いない。
「シードは、ミュアたちについていくの?」
「そりゃな」
 くだらないことを聞くなと言わんばかりに鼻息を吐くシードに、アピアは苦笑する。
「シードなら平気だと思うけど、気をつけてね。そっか、聖山か。皆と一緒に見たかったな」
 手すりに肘をつき、南を見やる。今思えばひどく短い旅だった。自分の旅はもう終わったのだ。
「何言ってんだお前。これから見に行くんだろうが」
「え?」
「お前、ちゃんと準備してんだろうな。あれとか失くさないようにもっとしっかり仕舞えるようにしとけよ、面倒くさい」
「え、ええ?」
 だから、シードの言葉が意味するところを察し、アピアは戸惑った。
「ちょっと……ちょっと待って。ひょっとして、僕も行くと思ってるの?」
 恐る恐るそう尋ねると、たちまちシードの眉が跳ね上がり、本気で思っているのだとアピアは悟る。
「逃げるつもりか」
「いや、つもりも何も……」
 どう言えば通じるものか、困ってしまう。
「だって、僕はここに……皆は巡礼の最中だったんだし……」
「元々巡礼なんて興味ねーよ。お前がいなかったら、ついていきゃしなかったんだ」
 一瞬で頭に血が昇ったのが自覚できた。
 シードはそんな意味で言ってない。
 少し考えればそれはあまりにも当たり前のことだったが、うろたえた心はなかなか落ち着いてくれなかった。
「あ、まあ、そうだよね。シードは僕を殴り倒すんだものね。一生無理だけど」
 アピアはそれを隠すように矢継ぎ早に言葉を重ねる。一方、シードはいかにも気分を害したという調子で鼻を鳴らした。
「うるせー。だから、一緒に来いって言ってんだろ」
 いつもと変わらぬ彼の態度に、徐々にアピアの動揺は鎮まっていく。
 馬鹿馬鹿しい。例え、万一、そういう意味があったと仮定しても、自分に選択の余地などありはしないのに。胸の奥に凝り固まる重みは、浮き足立つ心を地に引きずり下ろす。
 この、けして消えはしない重さを忘れるなんて、どうかしている。
「行かない」
 アピアは一言で、シードの誘いを跳ね除けた。
「は?」
 対するシードはそっけない返事に目をむいて見せる。
「まともに考えてよ。行ける訳がないことは分かるだろう」
「何でだよ」
「何でって……あんな騒動の後で僕が好きに出歩くなんて不可能だ」
「勝手に出てけばいいだろ。俺もそうしたし」
「それ自体が間違いだって言っている。大体、壁を越えることだって緊急だったからで、勝手に入ればそれは侵入だ。国同士の問題になりかねない」
「そんなのどうでもいいことだろうが」
「良い訳ないだろう」
 売り言葉に買い言葉になりつつあると気づいた時にはもう遅く、責める言葉は止まらなかった。
「君は無責任に過ぎる。果たすべき責務というものが存在するのが分からないのか」
「分かんねーよ」
「話にならない。行けないものは行けないんだ」
「来い」
「行かない」
「何でだよ。来い」
「しつこい。行かないものは行かない」
 そしてシードは苛立ちを露にアピアを睨みつけつつ、ついにこう宣言したのだった。
「勝負しろ」

24-8

「何でこうなる訳?」
「僕に言われても知りませんよ」
「もうちょっとこう何かさあ……せっかくお膳立てしたのに甲斐がないっていうか」
 酔いのせいもあってか、ぶつぶつと文句を言い続けるミュアを放っておいて、ニッカは場の中央へと目を向けた。
 そこでは、動きやすい服装に着替えたシードとアピアが対峙している。
「剣でもいいよ。そっちの方が負けた言い訳が立つんじゃないか」
「うるせえ。お前なんて拳で十分だ」
「どっちでもいいけど、城はあまり壊さないでほしいな」
「知るか」
 両者共、突然我に返って仲直りなんてことは望めなさそうだ。
「……まあ、何と言いますか、そういう幸せもあるんじゃないですか」
「何がよー」
「久しぶりにシードが楽しそうなので」
 邪魔が入らないように訓練場の入口は衛士に固めさせてあるため、篝火の明かりの中に立っているのは五人だけだ。また審判を引き受けさせられたセピアが、困った表情で二人の顔を見比べている。
「ルールは一つ! 降参した方が負けだ!」
「それで構わない」
 シードの単純極まりない勝利条件の提示に、アピアは頷く。そして、セピアに開始を促した。
「あれ? でもそれって、シードが絶対に降参しないんじゃ」
 ミュアの抱いた疑問は解決されなかった。口を差し挟む暇もないまま、勝負の開始が告げられたからである。
 合図と共に、シードは雄たけびを上げながら突っ込んでいく。相変わらず学習ということをしないようだ。もちろんそんな攻撃が当たるはずもなく、わずかに身をそらすことで躱され、すれ違い様に背に肘打ちを叩き込まれる。しかし、少しよろけただけで、彼はすぐに体勢を立て直す。
「効くか!」
 吠えるシードに、アピアはため息をついてみせた。
「まったく、いつもながら丈夫なだけが取り柄だよね。それじゃ僕には勝てないって何度教えれば分かってくれるんだか」
「ほざけ。そんなもんいくら食らっても、降参なんてしねえからな」
「だろうね」
 そして、同意することでシードの挑発を軽くいなすと、目を細める。
「でも、意識を飛ばせば降参と一緒だ。一番最初の無様な姿、忘れた訳じゃないだろう。正義の味方ぶったくせに、一撃でのされてさ」
 お返しの挑発を、珍しくシードは笑い飛ばした。
「馬鹿かお前、そんな見え見えなもんに乗ると思ってんのか」
「あっそう」
 言うなり、アピアは地面を踏み込んで、一気にシードとの距離を詰める。いきなり懐に飛び込まれたシードは慌てて数歩下がったが、勢いをつけて攻めてきたアピアをそれで振り切れるはずもない。追いつかれて数発鳩尾に食らいながらも、怯まず殴りかかる。
 一旦後ろに跳んでそれを空振らせ、しかし間髪入れずにアピアは再び襲い掛かった。途端、何かがぶつかるような音と共に、土ぼこりが舞い上がって、見ているミュアたちの視界が一瞬遮られる。
 そして、それが晴れた時にはもう決着がついていた。
 土をつけられているのはアピアだった。
 シードがアピアを石床へと引き倒し、のしかかっていた。

24-9

 意外な結果を前に、ミュアは驚きの声を上げる。
「え、どうなってこうなってるの? ニッカ、見えた?」
「アピアが足元に蹴り込んでいって、シードがそれを跳んで躱したところまでは」
 これまでによくそうしてきたように、アピアはシードを転ばせて、動きを封じるつもりだったのだろう。先程の挑発は、顎と足と、どちらに来るのか迷わせるためだと思われる。躱されたということは、読まれたということだが。
「うん、でも最初の蹴りは牽制」
 二人の会話に、結局最初の開始宣言しか仕事がなかったセピアが割り込んでくる。
 躱させるための踏み込みだった。シードが跳んだのは狙い通りだったのだ。蹴ると思わせた足を地について軸とし、アピアは逆の足を叩き込む。
「次の蹴りがシードの着地に合わせて入った。普通なら躱せるはずがない。でも……」
「あ、分かった!」
 おもむろにミュアが手を打つ。
「シードは着地しなかったんだ」
 セピアは頷いた。
 飛べるということは当然頭に入っている。けれど、体がすぐその認識についていける訳ではない。ましてや、今までシードは勝負の時にその力を使ってこなかったのだ。意図してではなく、単に本人も思いつかなかっただけだろうが。
 そして、思わぬ成り行きに姿勢を崩したアピアの肩口をシードは掴む。後は力任せに引きずり倒すだけだった。
 どこかほっとした顔で、セピアは呟く。
「だから、今回はシードの……」
「……君の勝ちだ」
 まるで弟の言葉を引き受けたかのように、その時アピアは宣言した。それを受けたシードは会心の笑みを洩らす。
「どうだ、ざまあ見ろ。これで」
「これでもう良いだろう。僕が行かなきゃならない理由はなくなったはずだ」
 何を言われたのか、たぶんすぐに呑み込めなかったのだろう。笑みが強張るまでには少しの間があった。
「って、お前、俺が勝ったんだから一緒に……」
「そんな取り決めはしていない」
 アピアの言い様に、シードは咄嗟に反論が出てこないらしく、ただ口をぱくぱくさせた。顔色は怒りで赤く染まりつつある。確かに取り決めはされていなかったが、話の流れからして勝てば言い分が通るとシードが判断するのは無理もないことだ。
「これはアピアが悪いって」
 今から起こるだろう揉め様を想像して、ミュアは額を押さえた。
「てめ……さては、手ぇ抜いて……」
「わざと負けてなんかいない。それは相手をした君が良く分かってるだろう」
 憤りで言葉を詰まらせているシードに対し、飽くまでアピアは淡々と答える。それが一層シードの憤慨を煽るようだ。
「まあ、勝った時は『勝ったから行かない』でいいですし」
「うわ、ずるい」
「最初にちゃんと条件を詰めておくべきだという教訓ですね。ずるいですが、戦う前からシードの負けです」
 しかし、アピアが勝っていればもっと話は簡単だった。結局ごねるだろうけれど、最終的には引かざるをえなかったはずだ。
 これでは納得するはずがない。納得するはずもないが、反論の言葉もまた出てこないようだった。シードは何か言いたげな顔のまま固まってしまい、やがてぶるぶる震えだしたかと思うと、いきなりアピアを放り出して、訓練場の出口へと駆け去っていってしまう。見物の三人が口出しする隙もなかった。
「え……ちょっと、見た?」
「……見ました。追いかけますね」
「お願い」
 ニッカにそちらは頼むことにし、ミュアはアピアへと近づく。アピアはまだ寝転んだままで、放心した様子だった。やはり意外だったのだろう。
 まさか半泣きのシードなんて代物を目の当たりにしようとは思わなかった。
「大丈夫?」
 ミュアはアピアを起き上がらせ、背中や髪についた土ぼこりを払ってやる。
「アピア……一緒に行けないのは仕方ないと思う。でも明日、フォローくらいはしてやってよ。いくら何でも可哀相すぎるって」
「ん……」
 汚れたのか、片頬を手の甲でこすりながら、アピアははっきりとしない返事をするだけだった。

24-10

 そして、朝は来る。
 アネキウスの恵みはいつもと変わらず大地を照らし出し、魔を追い払う。しかし、人の背に負われた鬱々とした暗雲までは払ってくれそうにない。
 出発を延ばすことも考えたが、そうしたところで事態が好転するとは思えなかった。大体、本人が留まることを望んでいなかった。昨夜、そのまま飛び出していこうとするのを止めるのに散々苦労したと、ニッカが語るくらいに。
 今日も、とりあえず一緒にはいるものの、四六時中あらぬ方を向いたままで黙り込んでいる。最後の謁見でもその調子で冷や冷やしたが、アピアたちがあらかじめ取り成してくれていたのか、咎められることはなかった。下手に声を掛けると、たちまち噛みつかれそうな雰囲気に負うところも大きいだろうが。
「ありがとう。どんなに言葉を尽くしても言い切れないほど、皆には感謝してる」
 シードの憔悴とは比べるべくもないが、正門前の最後の見送りでそう述べるアピアも心なしか疲れた様子だった。シードの方を見ないようにしている感じもある。対照的に、アピアの横に立つセピアは、何かを訴える目でシードをじっと見つめていた。
「皆と共に過ごせて、とても楽しかった」
「それは私たちも同じだけど……もう、こら、シード、仕方ないでしょ、最後くらい挨拶しなさい!」
 何とか丸く収まらないかと叱咤してみるも、応える様子はない。それどころかふてくされたように正門に向かって進み出してしまう。一度殴ってやろうかと拳を固めるミュアの手を、アピアはそっと押し留めて声を上げる。
「シード」
 最初の呼びかけは無視されたが、肩が反応したことで、耳に届いていることは分かる。アピアは構わず続けた。
「シード、約束する」
 ついに足を止めたシードへ、約束を投げる。
「今は行けない。でも、君がもう一度ここを訪れたのなら……その時は必ず一緒に行くよ」
 その後に開いた少しの間は、たぶん気持ちを処理するために必要だったのだろう。
 ようやく振り向いたシードは、目つきも悪く唸るように確認する。
「本当だな」
「アネキウスに誓って」
「アネキウスなんかどうでもいいがな。よし、その言葉忘れるなよ」
「忘れないよ」
 途端、別れの言葉もなく踵を返し、のしのしと歩き始めたシードの背を見て、アピアは嫌な予感に駆られた。
「言っておくけど、一旦外に出て、すぐに戻ってきても駄目だからね」
 念のため釘を刺すと、シードは不意に立ち止まり、大きく舌打ちをする。どうもそうする気満々だったらしい。ろくでもない悪知恵だけはよく回る。
「いいか、覚えとけよ。破りやがったら承知しねーぞ」
 そして、三下がすごむ時のような、情緒もへったくれもない台詞を突きつけると、再びずんずん歩き出した。その背中にアピアも別れの言葉を投げかける。
「……元気で」
「もうちょっとまともな挨拶ってもんがあるんじゃないの、本当、馬鹿」
 もはや止める気もないらしく、ミュアは腰に両手を当てて呆れた息を吐く。国境までの案内係についた衛士が困っていたので、シードを追いかけてもらう。
「いいの? あれ、そういうところだけは執念深いから、絶対来ると思うよ」
 しかも、開国とか関係なしに、自分が思い立った時に壁を壊してでも入ってくるだろう。まず間違いなく。
 アピアが困った笑いで答えている間にも、シードの姿はどんどん小さくなっていく。
「うわ、ほんと行っちゃう。アピア、セピア、絶対また会おうね。絶対会えるから。そんな気がする」
「壁が開く日を楽しみにしてますよ。またお邪魔させてもらいますから」
 ミュアは二人に抱きつき、ニッカは握手をして、それぞれに別れを惜しむ。そして、先に行くシードを見失わないように、小走りで橋を駆け出した。
 手を振りながら去っていく彼らを見送るアピアは、不意に袖を引かれてそちらへ視線を落とした。セピアの思い詰めた顔とぶつかる。
「まだ間に合うよ。まだ追いつける」
「セピア」
 彼は知っている。さっきの約束が、自分の今の言葉が、どういう意味を持つのかを。だから、こんなにぎりぎりになるまで、何も言えずにいた。
 アピアは弟にかぶりを振ってみせる。
「僕は、ここにいたい。父上や母上、セピアと一緒にいたいんだ。だから行かない。行かないよ」
 優しくそう言い聞かせ、頭を撫でると、彼の目から涙がこぼれ落ちた。
「僕は、本当にいつも……」
 その先は言葉にならなかった。セピアの頭に手を置いたまま、アピアは橋の向こうを仰ぎ見る。南からきた風が、立つ彼らの髪や服をなぶり、吹き抜けていった。

 その後に起こった大きな騒動に紛れてしまったためか、この年の王城事変について、後の世の歴史書はほとんど触れることはない。
 しかしながら、リタント十二代国王ティセドの即位によって、壁の存在が有名無実と化すに至る一連の流れの、これが発端であった。