Southward

第一章 人の章

「それは悪い夢で」

3-1

 それは悪い夢で、繰り返し訪れては癒えきらない傷を掻き毟る。何度同じ光景を見たか分からない。特に、ここ最近は。
 まず見えるのは広がる草地で、なだらかな斜面に沿って空と共に続いている。たまに風が吹き、枯れた草を空へと舞い上げていく。それを追うと、遠くに茶色の線が一本走っているのが目につく。それは世界の終わりを示すラインだ。見慣れた景色。生まれてからずっと見てきた風景。
 トーラー公爵領は、リーラスの西方、壁により近い場所に位置していた。実りをもたらす豊かな土が敷き詰められた穏やかな土地、恵まれた場所だ。
 時折、雨が降る。神の慈悲、魔を払う聖なる矢が天より放たれたのだ。世界は清められ、悪は死に絶えたはずだった。けれど、それは雨上がりの朝に起こった。神の無力を証明するかのように。
 誰かがやってくる。
 丘の向こうから。壁の方から。
 それは怪我をしている。滴った血で草原に赤い線が引かれる。それが魔を導く。壁の向こうから奴らを呼び寄せる。
 母親は頑固な人間だった。あまり体が強くないくせに、一度決めたことは翻さなかった。
 父親はそこにいなかった。
 自分はろくでもないほどに小さかった。
 助けが求められ、それは応えられた。やってきた奴らはこちらの法則に、しがらみに縛られてはいなかった。奴らにとって、目的の前の単なる障害物。それだけでしかなかった。
 そして、母親は永遠に失われた。
 それだけじゃないでしょう?
 誰かが耳元で囁く。女の声だ。……きっと、母親の声だ。
 それだけで終わらないでしょう、シード?
 足元から芽吹きが始まる。それは瞬きの間に成長し、昏い森へと茂る。アネキウスの光が遮られるその場所は、しかし涼しくて気持ちの良い場所だ。場所だった。
 ぶつん、とそこで何もかもが途切れ、消え失せた。
 夢は終わった。いつもの箇所で。
 ベッドに起き上がったシードは小さく舌打ちをして、傍らに置いてある革水筒から喉が焼ける酒を一口呷った。

3-2

 巡礼は廃れていても、道は日々の行き交いによって保たれている。物流の要点が近いともなれば尚更だ。最初はすれ違うことが珍しかった他の通行人も、ここに来て見かけない日はなくなっていた。
「三日後くらいにはタイナーに着けそうね」
 旅は大きな揉め事もなく続いていた。小さな揉め事はたくさんありすぎて数える気も起こらなかったが。
 揉め事の主たちは現在、先頭としんがりに分かれて進んでいる。お互いを無視している状態なので、しばらくはぶつかることもないだろう。
「タイナーって結構大きいんだよね。楽しみだなあ。ニッカは行ったことある?」
 自然と緩衝地帯を歩くことになりがちなミュアだったが、いい加減この状況に慣れてきてもう気を揉むこともなくなってきた。結局なるようにしかならない。
「ないですよ。リーラスになら一度行ったことはありますけど」
「そうか。私、王都は行ったことないんだよね。シードんちは王都にもあるんだよね。トーラーのお屋敷は見たことあるけど。やっぱり大きい?」
「どーでもいいだろ」
「王宮よりは大きくないよね」
「うるっさいな、お前」
「答えてくれないからでしょ」
 そして、前列の三人から少し離れて三足族の二人は歩を進めている。こちらは前と違って、声を潜めての会話をしていた。
 昨夜のことを、セピアが話していたのである。アピアは聞いてまず眉をしかめる。
「嘘つかれたとかはない?」
「分かんない、けど……」
 こちらを睨む目は据わっていて、とても冗談を言っているようには思えなかった。戸惑ったセピアの様子に、アピアは話の方向を変えて問いかけた。
「覚えてるよね、壁越えた時のこと」
 途端、二人の背中を悪寒が走り抜ける。あの時の感覚は、それだけの言葉のきっかけであっさりと蘇った。まるで体の芯に食い込んでいるかのように、内から冷たさが沁みこんでくる。
 雨が降っていた。
 ずぶ濡れになった時のあのみじめな気持ちを思い出したくなかったが、そんな贅沢を言っている場合ではなく、壁に取りつく。その間にも何度も背後から足音を聞いた気がして振り向いた。けれど、そこには誰の姿も見えずに、神経だけが擦り減る。幸いなことに追っ手に見つからないまま穴は発見されたので、隠れていたセピアと共にアピアはそこをくぐった。
 瞬間、総毛立つ。境界に踏み入れた足に、壁の影から何かが染み出てきて絡みつくような心地に陥る。今来た道へと引きずり倒されそうで、アピアはセピアを抱えるようにして慌ててそこから転がり出た。知らない世界へ入り込むためらいなど感じる暇もない。
「……誰か、いるよ……」
 腕の中のセピアが弱々しい声で呟き、アピアも背後からの嫌な気配に気づく。
 見ている。
 貫くような視線を感じて辺りを見回しても、やはりそこには誰の影もない。でも分かる。その視線は明らかに自分たちを責めている。逃げ出す自分たちを連れ戻そうとしている。
 アピアはセピアの手を取って、がむしゃらに走り出した。心がくじけそうで、後ろを振り向くことはもう出来ない。
 壁から遠く離れて、ようやく悪寒は消えてくれた。
 今となっては悪い夢の中のような気もするが、あれは現実だった。壁を越える前にも、越えた後にも多くの悪意にさらされていたはずなのに、最も鮮烈に思い出すのだ。
 あれが、自分たちだけが感じた幻ではないとしたら。壁を越えようとした者に与えられる罰なのだとしたら。
「あんなの、よほどのことがない限り越えたいと思わないだろうね」
 事実、抜けることはあんなに容易なのに、リタントに有羽族や生耳族が出現したという話は聞いたことがない。
「だから、シードの言ったことが本当なんだとしたら……」
 その先をアピアは口にしなかった。ただ、胸の前で手を握り締めたまま、しばらく考え込んでいた。しかし、最後には首を横に振ってこう結論づける。
「やっぱりそんなことはない。嘘だよ、セピア。あいつに似つかわしい、意地の悪い嘘さ」
 そして、改めて一人の時にシードに近づかないように忠告する。セピアはそれを困ったような顔で聞いていた。

3-3

 その宿はやけに丁寧な物腰の主人が迎えてくれた。
「巡礼のお客様、ええ、歓迎でございますよ」
 子供ばかりの一行、しかも目的が巡礼ともなると、最初から馬鹿にした態度で扱われることも少なくない。宿の主人にとっても、さほど儲けも見込まれない迷惑な客なのだ。今までのように旅人の少ない場所なら選り好みはできないから断られることはなかったが、この辺りともなると門前払いを食らわされることも珍しくない。実際、ここは三軒目だった。
「さっきのとこでいいだろ。金なら出すぞ」
 立て続けに断られて、シードがそう言い出したのを辞退して、ようやくここに行き当たったのだ。
 生耳族の主人はぺこぺこと頭を下げて、ミュアに話しかけた。小柄な上にこの態度なので、いっそうかしこまっているように見える。
「ただ、小さな宿屋でお部屋が少のうございまして、二つしかございませんが」
「……別にいいよね?」
「ミュアがいいならいいんじゃないですか」
 二部屋となると、部屋割りは実質的に決定している。シードとアピアを同じ部屋にするという暴挙を試してみる気にはさすがになれないからだ。
 これで万事丸く収まるはずだったが、何故かシードは不満そうな顔をしている。
「金なら出すって言ってんだろ」
 夕食の際も、食堂でまだぼやいている有様だ。いつものようにミュアがたしなめる。
「あのね。私たちはあなたの従者じゃないんだから、出してもらう謂れはないの。というか、どうしてここ気に入らないのよ」
「頭を簡単に下げる奴は嫌いなんだよ」
 あなたなんて頭下げられっぱなしの人生じゃない、とミュアは思ったが、言わずにおいた。それはそれなりに思うところがあるのだろう、たぶん。
「へえ、皆様、お飲み物をお持ちさせていただきました」
 当の主人は理不尽に嫌われていることなど知らず、相変わらずへこへこと給仕している。
「この辺りで採れる果物のジュースでございます。多少すっぱいですが、体によろしいそうで」
 鮮やかな赤色のグラスを彼はそれぞれの前に置き、最後に残った濃い茶のグラスをシードの前に置いた。
「お客様はこちらのご注文で」
 そして、深々と頭を下げて戻っていく。シードの前に置かれたグラスの正体は聞かずとも皆が分かった。はっきりとしたアルコールの匂いが漂っていたからである。
「シード……」
 ミュアが呆れた声を出して睨みつけた。
「何だ」
「あのね、言いたいことは分かるでしょ」
「何が悪いって?」
「巡礼してる中に酔っ払いがふらふら紛れてたら、どうかと思うわよ」
「酔うかよ」
 シードはミュアの言い分をあっさりと切り捨て、平気な顔をしてぐいぐい空ける。最初こそどうも隠れて呑んでいたようだが、今や堂々と呑むようになっている。その呑みっぷりからして、明らかに常習犯だ。
「いつから呑んでるの?」
「さあ。五年くらい前にはもう呑んでたかな」
 水の豊富なグラドネーラでは、基本的にお酒は特別の飲み物で、成人になって初めて呑む権利が認められる。罪というほど大げさな行為ではないが、好ましくないことは間違いない。
「もう一杯くれ」
 また注文するシードをミュアは押し留めた。
「いくら何でもそれ以上はダメ!」
「何でだよ」
「何ででも!」
「説得力ないぞ」
 ミュアとシードの押し問答は、椅子を引く音で中断される。見れば、アピアが飲み終わったグラスをテーブルに置いて立ち上がっていた。
「僕、先に部屋へ戻ってるから」
 それだけ言うと、シードの方に顔も向けないまま、ふいと食堂を出ていく。
 そして、また喧嘩になるんじゃないかとアピアの姿を目で追ったミュアの隙をつき、シードはお替りを受け取っていた。

3-4

 客室の扉はゆっくり押し開けられた。わずかに出来た隙間から、ぬっと蝋燭が差し出される。揺れる炎が辺りを照らし出すが、部屋の中は静かなままだった。
 すると、続いて小さな影が滑り込んでくる。蝋燭を持ったその男はまず部屋を一周し、まったく動きがないことを確かめてから、ベッドの脇机に灯りを置いた。そして、おもむろに床に置いてある袋の紐をほどく。しばらく探り、幾つか中からつまみ上げると、また紐を元のように縛った。
「やっぱり懐ですか……」
 慎重さを重視して諦めることもあるが、今回は実入りを考えるとそうはいかない。男は覚悟を決め、不機嫌そうな表情で眠っている少年の顔を覗き込む。起きる気配はない。先ほども問題なく出来たし、大丈夫だろう。
「失礼いたしますよ」
 聞こえてはいるはずもないが、何となく断ってから服の中へ手を突っ込む。やがて指は金入れらしき堅い感触を探り当てた。含み笑いをしながら、男はそれを引きずり出す。
「では、ありがたく頂戴いたしまして」
 しかし、その動きは途中で凍りついた。
「何だお前」
 至近距離で黒い瞳とがっちり目が合ってしまったのである。
「……んわっ!!」
 声にならない悲鳴を上げて後ろへと飛び退ろうとした彼は、それが最早出来ないことを知った。突っ込んだ手首はすでに少年によって握られていた。
「気持ちわりーな。何の用だよ、宿屋さんよ」
 ちらちらと踊る光に照らされて、宿屋の主人は引きつった笑顔をシードに向けた。
「お、お客さん、寝てらしたのでは……」
「ああ? 寝てたけど?」
「そうでございますよね。あの、実はお知らせしたいことがありましてですね、ちょっと入らせていただいたのですが、よくお休みになっておられましたのでついつい……でもよく考えましたら夜が明けた後でもようございますね。それでは私めはこれにて……」
 まくし立てて逃げようとした主人だが、握られた手首は離されなかった。
「ちょっと待て」
 これだけ大声で話していても、身動きもしないニッカのベッドを見て、シードはうっすら状況を理解する。
「……毒か?」
「な、何のお話で?」
「毒か?」
 重ねて問いかけ、手首をひねり上げる。あっさりと主人は音を上げた。
「め、めめめ滅相もございません! お疲れの皆様にゆっくり休んでいただこうと、ただそれだけで、はい」
 となると、眠り薬程度かとシードは見当をつける。まあさすがに物盗りのために村の中で何人も殺すのはまずいだろう。
「朝には起きるか?」
「起きます、起きます、それは間違いなく。しかしながらお客様、お客様も確かにお飲みになられたはずでは」
 とぼけきるべきだったのかもしれないが、ついつい不思議で主人はそう聞いてしまった。飲む場面はしっかりと注意して見ていたし、シードのグラスにだけ薬を入れ忘れたということは絶対にない。酒に混ぜても効くはずだ。それに対するシードの返答は、主人の疑問をまったく解決してくれないものだった。
「そんなもん、俺に効く訳ないだろ」
 さらにひねり上げると、主人は苦痛の呻きを上げた。もちろんその程度で勘弁してやるつもりはない。
「だから嫌いなんだよ。気もない癖にとりあえずぺこぺこしてる奴ってな」
 それはそれとして、これからどうしようとシードは迷う。突き出すにも今は眠くて面倒くさいし、適当にふんじばって朝まで置いておき、ミュアにでも処分を決めてもらおうか。
 そう考えている時、一瞬気が逸れた。途端、鋭い痛みがシードの手の甲に走り、力が緩む。主人は左手に持った蝋燭を、さらにシードの顔目掛けて投げつけてきた。
「……野郎!」
 さらに主人のとった行動は、シードの裏をかいた。彼は扉へと逃げたのではなく、窓へと突進したのである。そして、素早い動きで窓を開けると、外へと飛び出した。二階ではあったがそこは生耳族のこと、よろけかけたがどうにか着地してすぐさま走り出す。
「逃がすかボケ!!」
 シードもまた窓枠を踏み切り、夜の村へと飛び出していった。

3-5

 追跡劇はあっさりと終了した。逃げ出した宿屋の主人が飛び込んだのは、隣に建つ小さな小屋だったのである。シードも後を追って小屋の扉に手を掛けるが、鍵を閉められたらしく開かない。そこでシードは一瞬考え、続いて思いきり扉を蹴っ飛ばす。途端、めきっと何かが壊れる音がして、扉は内側へ倒れていった。
 中にいた男たちが、ぽかんとした顔で戸口に立つ少年を見る。
「……んで?」
 彼らはどうやら出迎える準備をしていたらしく、手に武器を持っている者と持っていない者がいた。人数は主人を入れて四人。結構な強面で、例えば朝になって金品がなくなったと訴え出たお客様にお帰りいただくのが普段の業務といったところだ。今回のような乱入は想定外だったに違いない。
「こ、こいつ、こいつを!」
 主人が指差して騒ぐのを無視して、シードは中へとずかずか入っていく。そしてまだ臨戦態勢になっていない男たちの一人の襟首をさりげなく掴む。まさか当の男も、明らかに体格に劣るシードに自分が軽々と持ち上げられるとは思わなかっただろう。
「うえ?」
 男が自分の状態をやっと理解して奇声を上げた途端、シードはそれを遠くにいるもう一人に向かってぶん投げた。不意打ちを避けられるはずもなく、男二人はそのまま壁に叩きつけられて動かなくなる。
「あー、剣忘れたから、手加減がめんどくせー」
 シードがぼやき、主人と強面の最後の一人が唖然とする。
「降参するなら、終わりにすっけど?」
 ここでシードの挑発に引き下がる訳にはさすがにいかなかったらしい。気を取り直したらしき男は主人を押しのけ前に出て、シードと対峙した。
「ガキだと思って手加減してりゃあ、いい気に……」
「いや、いつしたんだよ、手加減」
 当然、男の威圧に怯むシードではない。そう冷静に突っ込むと、男は吠えながら殴りかかってきた。
「うるっせぇよ!!」
 体格差を生かした、上から振り降ろすような攻撃がシードに迫る。しかし、シードはそれを避ける素振りを見せず、ただ睨みつけたまま動かない。男の拳がシードの顔面に突き刺さる。
 と男が思った瞬間、少年の姿はかき消え、拳は空振りしていた。それを不思議に思う間もなく、男の腹に痛烈な打撃が与えられた。
「ち……あん時やられたのはこれか、畜生」
 男の懐でシードは呟く。ぎりぎりで躱し、盲点へと踏み込んだのだ。数日前に自分が喰らった反撃だった。
 泡を吹いて倒れる男の向こうに、主人の姿がある。手前の床に財布や金品を置き、深々と土下座している。
「お連れ様のものはお返しいたしますので、どうぞご勘弁を!」
「はあ」
 ミュアたちの方が先に盗られていたらしい。別に取り返しにきた訳ではなかったが、一応検分するようにその内訳を確かめてみる。その指が、妙なものに引っかかった。
 普段なら、気にもとめない代物である。金の鎖の先に小さな石がついた首飾りに興味などない。けれど透明の石の中でちらちらと踊る七色の光を見ていると、焦りにも似た変に落ち着かない気分になってくる。
「おい、お前」
「な、何でございましょうか」
「朝までこいつらとここにいろよ。逃げたらどうなるか、分かってるだろうな」
 シードは荷物を掴むと、男たちを拘束もせずに小屋を転がり出る。何に自分が追い立てられているのか、分からないままに。

3-6

 宿屋は変わらず静まり返っていた。自分が通り抜けた窓が開きっぱなしでぎいぎいと揺れているだけで、慌てて帰ってきたシードは拍子抜けする。あの奇妙な焦燥は何だったのだろう。
 やれやれと息をつきベッドに腰掛けると、手からこぼれた財布が甲高い音を立てて転がる。そういえば、返しておかないと朝になって自分が盗ったと思われては面倒だ。どれが誰のやら分からないが、適当に脇机にでもまとめて置いておけばいいだろう。
「入るぞー」
 聞いてはいないだろうが、一応そう声をかけてから隣の部屋の扉を開く。主人が鍵を開けたままにしておいたらしく、シードは問題なく中へとずかずか入り込んだ。
 その声に気づいたのは、脇机に荷物を積み上げ、帰ろうとした時だ。
 最初、森ででも獣が唸っているのかと思った。しかしよく聞き直すと、それは部屋の中のもので、獣ではなく人間の呻きだと分かった。
「何だ?」
 生耳族ならもう少し見えるのだろうが、有羽族のシードにとっては部屋は闇に沈んでいたので、まず窓を開けてみる。月明かりが差し込んできて、ぼんやりと世界が浮かび始める。片方のベッドがもぞもぞと動いていた。
「何やってんだ」
 シードはためらわずシーツを剥ぐも、中の有様を見てうろたえた。
「おい、どうしたよ、おい!」
 明らかに様子がおかしかった。アピアはベッドの上で体を折り曲げ、震えていた。その口からは苦しそうな喘ぎが洩れてくる。触れた頬は冷たく、汗でぐっしょりと濡れていた。
「起きろ馬鹿、こら!」
 いくら叩いても、まったく反応がない。時折、痙攣と共に呻きが吐き出され、どう見てもやばそうな状態だった。
「チビ、起きろ、こらチビ!」
 そこでシードは標的を変えることにした。同じベッドで眠っているセピアを叩き始めたのである。最初は反応がなかったが、しつこく叩き続けるとゆるゆる重い瞼を開く。まだ意識がはっきりしていないらしい彼に、シードは話しかける。
「お前の兄貴、何か変だぞ」
 途端、薬の影響が切れたのか、すばやい動きでセピアは起き上がった。そして、横でくの字になっているアピアを覗き込み、その胸元に手を入れる。彼の横顔が引きつるのをシードは見た。
「首飾り!」
 セピアは振り返って叫ぶ。
「知らない、石のついた奴!」
「ああ……あそこ」
 噛みつかんばかりのセピアの剣幕に圧され、シードは素直に脇机を指す。すると、セピアはそこへ飛びつき、あの首飾りを探り当てた。それを持ってベッドへと戻り、アピアの手に握らせる。効果はてき面だった。時間が経つにつれて、アピアの呼吸は穏やかになっていく。セピアはベッドに手をつき、大きく安堵の息を吐いた。
 それから振り返ると、シードの疑問の視線が注がれているのに気づく。
「何だそりゃ?」
「何であんなところに?」
 お互いの問いは同時になされ、再び二人は不可解だという表情を向け合った。

3-7

「いや、そりゃ逃げるでしょ。逃げるわよ、絶対」
 空っぽの小屋を見て、ミュアは呆れた声で繰り返す。それに対して、シードは大あくびをして答える。
「もうどうでもいいだろ、あんなの」
「んー。どうでもよくはないような」
 目覚めて人気のない宿屋を不審に思った一行は、暢気に寝ていたシードから話を聞いて事情を知ったのである。そこで小屋を覗いてみると、残っているのは破壊の跡だけで、昨夜シードがのした男たちの姿はどこにも見当たらなかった。
「まあ、一応詰め所なり神殿なりにでも通報しておけばいいんじゃないですか」
「それしかないか」
 別に自分たちは自警団じゃないし、もうこの村を経つのだから、追って捕まえるなんてことは出来ない。それに、ミュアやニッカにとっては知らないうちに始まって知らないうちに終わった事件だったので、腹が立つとか悔しいとか、そういった感情も湧きようがない。当のシードが本当にどうでも良さげなのも拍車を掛けていた。
「でも、どうして放置して戻ったんです?」
「眠かったからな」
 ニッカの素朴な疑問への答えも素っ気ない。そのやり取りを少し離れた場所から聞いていたアピアが嘆息する。
「中途半端っていうか、いい加減っていうか」
「でも、シードがいないとお金盗られてたんだよ。僕たちは気づかなかったんだし」
「……まあ、そうかな」
 しかし、傍らのセピアにそう諭されて、渋々ながらそれを認めた。薬を盛られるなんて迂闊さは反省すべきだ。今のところうまく逃げているとはいえ、油断は否めない。こんなことではこの先乗り切れない。
「あの、だから、お礼とか言った方がいいんじゃないかなって……」
 自己反省をしていたアピアだが、セピアに考えもしなかったことを言われ、思わずぎょっとする。
「お礼?」
「うん」
「……あれに?」
「うん」
「いや、でもさ……」
 気の乗らない雰囲気のアピアに、セピアは言い募る。
「父上も母上もアピアも、何かしてもらったらちゃんとお礼を言いなさいって」
「うん、分かってる。分かってるけど、ちょっとそれは」
 アピアは難しい顔をしたまま、考え込んでしまった。セピアにしてみれば、いくら仲が悪いからといってここまでためらうアピアを初めて見た。むしろ仲が悪ければ悪いほど、完璧に振舞う方をアピアは今まで選んできたと思う。よほど相性が悪いのか、この様子だとお礼は言ってもらえそうになく、シードに申し訳ない。
 昨晩、状況を説明してもらったセピアは、シードに頭を下げた。
「ありがとうございます」
 その直接的な表現に面食らったのか、だからぺこぺこする奴は、などとシードはもごもご口の中で言っていたが、やがて問いただす視線でセピアを見る。次はセピアが話す番のはずだが、彼は変わらずまっすぐにシードを見たまま、首を小さく横に振った。
「申し訳ないのですが、僕からお話しできることは何もないんです」
 もちろんシードが納得する訳もなく、鼻を鳴らすことで不満を表明する。それでもセピアは引き下がらず、重ねて加えてきた。
「ただ、一つお願いがあります」
 こう言われると、逆にその内容が聞きたくなり、シードは憮然としながらも促す。
「言ってみろよ」
「さっきのこと、忘れてください。アピアに聞いたり、調べたりしないでください」
 随分と虫の良い話だった。聞くだけ聞いておいて、自分は話したくない、忘れてくれ、と言われているのだ。普段のシードだったら、脅してでも聞き出そうとしたかもしれない。
 ただ、相手がセピアであること、今は叩き起こされて眠かったのこと、その時に見ていた悪い夢の名残りが心の片隅に引っ掛かっていたことが食い下がる気持ちを萎えさせた。
「お願いします」
 再び頭を下げたセピアに、シードは投げやりになって言い放つ。
「あー、分かった分かった。別に三足族のことなんて知りたくもねーよ」
「取ったりとか……」
「しない」
 その約束のために、シードはミュアたちに前半部分しか話さなかった。まあ話したところで、男たちを放り出して帰った理由が一応つくだけであり、その理由にしても嫌な予感とかそういう曖昧な落としどころだ。
 だから、どうでも良い。
「通報するなら、まだ出発じゃないよな。俺もうちょっと寝るわ。出る時に起こしてくれ」
 また欠伸をして、シードは宿屋へと戻っていった。その後姿を見送るニッカがぽつりと洩らす。
「別に疑っている訳ではないですけど、眠り薬が効かなかったっていうのは、どうなんでしょう」
 その辺りの話は何となく流されてしまったが、犯人たちを拘束しなかったことの次に引っ掛かるのがその部分だ。どうもシードの説明は主観が強くて分かりにくい。
「ああ、うん。それはいいの」
 しかし、ニッカのその疑問をミュアもまた流した。
「シードはそうだから。だからいいのよ」
 赤い実と黒い実。
 ミュアは思い出している。
 シードが村にやって来た時のことを。