Southward

第一章 人の章

「森の底に棲み」

18-1

 その森の深さは、呼吸するのさえ苦しく感じられるほどだった。
 みっしりと茂った葉に遮られ空は見えず、昼だというのに薄暗く冷気すら漂っている。視界は白く霞みがちで、気を抜くとどこを歩いているのか分からなくなりそうだ。
 セピアは一人その中を進んでいる。
 北へ。
 今までと反対の方向へ。
 濃い空気の中で、ともすれば忘れてしまいそうなその目的。
 壁を越えるために。
 ただ、北へ。
 そして、彼の前にその男は現れ出た。
 茂る木々の隙間から、男はゆらりと姿を見せる。驚いて立ち止まるセピアが最初に思ったのは、白い、ということだった。それは長い髪や肌の色のせいでもあったろうし、着ている服のせいでもあっただろうが、それ以上に彼のまとう掴み所のない雰囲気のせいだった。色彩に欠けた全体像を持つ男は、セピアへと目を向ける。
 違う。
 途端、それだけがびりびりと伝わってきた。
 出会った場所が場所だからかもしれない。怯えを大げさに捉えているだけかもしれない。
 そんな理性的であるはずの考えは、圧倒的な感情によって追いやられる。
 違う。これは、違う。
「貴方は、何?」
 問いは問いで返された。男は澄んで穏やかな声をしていた。
「貴方がたの目から、私は何に見えますか?」
 かつて交わした会話が、セピアの頭の中に蘇る。
(本当に奥には魔物っているのかな)
(いるかもしれないね。魔法使いもいるのかも)
「ひょっとして、魔法使い……とか?」
 セピアの答えに、男は柔らかく笑った。
「貴方がそう思うのなら、そう呼んでもらって構いません」
 否定しないということは、ほとんど肯定といってもよかった。このグラドネーラで魔法使いと名乗ることがどれだけ危険か、知らない人間はいないだろうから。
 次にどう切り出してよいか迷うセピアから目を外し、男は独り呟く。
「ついに来たのですね、その時が」
「魔法使いさんは、どうしてこんなところに?」
 大森林の真ん中。魔の草原ほどではないにしろ、踏み込むにためらわれる禁断の地。
 だから、シードがそう言い出した当初、賛成する者はいなかった。
「どうしてそうも無茶苦茶ばっかり言うのよ!」
 ミュアなど、顔を真っ赤にして怒る。
「貴方は寝てなきゃいけない怪我人で、森を縦断する道なんてなくて、壁を越えられたとしてもその後どうするつもりなの!」
「うるさい」
 対して、シードは彼女を一瞥して唸る。
「俺は死なない。森がどうした。その後? 奴をぶっ殺す」
 並べられた言葉は、説得なんて微塵も考えていないことが明らかで、ミュアの頭を抱えさせるのに充分な威力を有していた。
「やーめーてーよー。何? 私の平穏無事だった十三年間はどこへいったの?」
「すでにシードと面識があった時点で、元々平穏じゃなかった気がしますけど」
「冷静な突っ込みなんて必要としてないわよ。あっちにしてやって」
「あれはあれで冷静なつもりなので無理です」
 そして、ニッカの言う通りに、どだいシードを押し止めることなど無理なのだ。
 結局四人は森を横断する試みを行い、そして見事にはぐれていた。方向さえ掴めなくなり、さ迷い歩いていたセピアの前に現れたのがこの白い男だった。
「私は、そうですね、まあ単純に隠れていただけです」
「逃げてきた?」
「そんなところでしょうか」
 わずかに男の笑みが陰り、セピアはそれ以上尋ねるのをためらった。それに詳しい事情は知らない方が良いのかもしれない。重要なのは、彼が自分をどう扱うかだ。
「僕を、どうするの?」
 だから、直接的に聞いてみる。
「……歓迎はしませんが、追い払いもしませんよ。どうぞこちらへ」
 男は身を翻し、霞む木々の間へと姿を消した。セピアはついていくかどうか一瞬迷ったものの、ここで立ち往生していても仕方がないことは確かなので、その背を追うことにした。

18-2

 待つのに飽きる時間も経たないうちに、再び扉は開いた。
 戸口には、あの男とミュアの姿がある。ミュアはセピアを認めると、ほっとした顔を見せた。
「では、もうしばらくお待ちいただけますか」
 ミュアを中へ導き入れ、男はまた外へと出ていく。
「良かった。ついていっていいのかどうか、かなり迷ったのよ」
 案内されたのは、男の住居らしき場所だった。かなり古い建物のようで、飾り気もほとんどないが造りはしっかりしていて、使い込まれた感じがある。ただ、あまり人の住んでいる気配もしなかった。
 ミュアはセピアの横の椅子に座り、テーブルに肘をつく。
「シードとニッカを探しにいったのかな」
「そうだと思うけど。……ね、あの人、何?」
 ミュアもまた、自分と同じ違和感を抱いているようだと、その問い方からセピアは察した。
「魔法使いって呼んでいいって言われた」
「うん、魔法使いね……確かにこんな森の奥に隠れ住むなんて、それが一番ぴったりするけど」
 ミュアはしばらく言葉を選んでいたが、ちょうど良いのが見つからなかったらしく、歯切れの悪い言葉で言い継ぐ。
「どう言ったらいいのかな、ぴったりしすぎてるっていうか」
 その座りの悪さはセピアにも良く分かる。状況がはまりすぎていて、逆に気持ち悪いのだ。
「……何か、背中がびりびりする」
 言われて覗くと、ミュアの背中の肌がはっきりと毛羽立っていた。
「鳥肌立ってるよ」
「悪い人には見えないけど、何だろう、良い感じがしないの」
 自らの腕をかき抱き、テーブルに頬をつけるように突っ伏してミュアは呻く。
「うー、頭も痛くなってきた」
「大丈夫?」
「そういえばあの人に、何か話した?」
「大したことは……。事情があって、森の北に抜けようとしたってことぐらい」
「私はほとんど話してない。人数は言った?」
「あ、同行者がいるとは言ったけど……何人かは言ってない」
「私もよ。でもね」
 ここでミュアは一旦言葉を止めて、戸口を睨む。
「あの人、あと二人だって知ってた」
 そして、素性を問うことなくミュアをセピアの元へと導いた。
「どうやって、私たちを見つけてるのかな」
「……魔法?」
「なのかな……」
 魔法としてしまうと、話はそこで終わってしまう。当然ながら二人とも、魔法使いに関してはお話の中に出てくる悪い奴のイメージしか持っていないし、魔法は神に逆らう魔物の業だとしか知っていない。
 妙な沈黙が部屋を満たした時、突然扉が開き、ミュアは飛び跳ねるようにして起き上がる。
 戸口にはあの男と、ニッカの姿があった。

18-3

 男はすぐにまた出て行き、三人は家の中に取り残された。一通りの話を聞いたニッカは、二人のようにおとなしく居間で待っていようとはしなかった。
「ここから動いちゃいけないとは言われてないんですよね?」
「待っていろとは言われたけど」
「禁止はされていない、と」
 確認をすると、早速家の中を探り始める。
「お行儀悪いわね」
 台所を覗くニッカに、呆れたようにミュアは話しかけた。
「お行儀とか言っている場合じゃないと思いますけどね。彼がどうして僕らを引き合わせてくれるのかすら、分からない訳で」
「で、ニッカ先生のご結論は」
「この居間だけを見ても明らかなように、この家は一人隠れ住んでいる魔法使いのための家ではありえませんよ」
 大きめのテーブルに、六脚ほど並べられた丸木の椅子。部屋の隅にしつらえられた大きな、すべてが空の棚。一人で住むには大きすぎ、何もなさすぎる。
「台所を見てもらえば、もっと良く分かるんですけどね」
 遠まわしな要請に、ミュアとセピアも立ち上がって、台所の扉を開けてみる。そこは使われている形跡がなく、食料らしきものも何も見当たらなかった。
「少なくとも、あの人はここに住んでないってことね」
「安心要素か不安要素かは判断つきませんけど」
 自らの居住領域に入れなかったということは警戒しているとも言えるが、この状況ではお互い警戒し合うのが普通である。下手に手の内を見せてきたら、それは生かして帰す気がないという意味にもなりかねない。
「たぶん……大丈夫じゃないかな」
 呟いたセピアは、ニッカとミュアの視線を受けて慌てて言葉を継いだ。
「あの、単なる勘でしかないけど。それに何かしようとするなら、ばらばらの時にすると思う」
 口封じに始末しようと考えているとしたら、わざわざ全員を集める意味はない。
「僕もまあ、現時点ではその意見に基本的賛成です」
「そうね。大体、あの人が本当に魔法使いで、大丈夫じゃないとしたら、どう頑張っても無駄な気もするし。魔法で皆殺されちゃうわ」
 テーブルに突っ伏しながら悲観的な見解を述べるミュアに、ニッカは肩をすくめてみせた。
「すっかり変な方向に開き直ってしまって」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「シードですね」
 いない人間にあっさりと責任をなすりつけつつ、ニッカは戸口を見やる。
「ところで絶対もめると思うんですけど、一緒に行かなくてよかったんですかね」
「そういえば、ちょっと遅いかも……」
 セピアもまた扉を見やり、表情を曇らせた。ミュアもニッカも間髪入れずと言っていいほどすぐに連れられてきたが、いまだに男の訪れはない。シードの性格からしても、いきなり現れた男についてこいと言われて、おとなしくついてくる訳がなかった。
「もめてるわね、これは」
「この場合、どっちが勝つんでしょう」
「どっちに勝たれても困るような」
 つい忘れがちだが、シードは怪我人である。しかもかなり重傷の。歩いているだけでも痛いだろうに、そんな様子はない。
「何というか、厄介な丈夫さよね」
 普通に寝込んでいれば、森を越えるとも言い出さなかったろう。
「……セピア、ごめん。良いんだよね?」
 ミュアの確認に、セピアは頷いて答えを返す。
「あんなの、もう嫌だから……」
「ん」
 ミュアが頷き返した時だった。扉が軋み、三人ともが反射的に口をつぐむ。そこにあったのはやはり男の姿だったが、後ろにシードのそれは見当たらない。男は三人の視線を受け、困ったように笑った。
「すみません、少し眠っていただいてますので、どなたか起こしていただけませんか?」
 その言葉に彼の足元を見れば、見覚えのある髪の毛が目に入る。
「私が起こすと、またややこしいことになりそうなので」
 説明はなくとも何が起こったのか推し量るのは容易で、予想通りの展開にミュアは小さくため息をついた。

18-4

 眠りこけていたシードは、ゆすっただけですぐに目を覚ました。
「何だてめえはっ!」
 起きた途端に彼はそう怒鳴り、驚いて目を丸くしているセピアに気づいて眉をひそめる。
「あ? あの白い奴はどこいった?」
「後ろにいますね」
 ニッカの指摘に慌てて振り向いたシードに、男は小さく両手を挙げてみせた。
「もう一度申し上げますけれど、敵ではありませんよ」
「じゃあ何だ。味方か?」
「味方でもないでしょうね」
 やんわりと、しかしためらいなく男は否定する。シードはますます不審な目で男を見やった。
「何だこいつ」
 そして、セピアに問いを向ける。
「あの、魔法使いさんだって」
「は。魔法使いだと? じゃあいきなり場所が変わったのは魔法で移動させられたっていうのか?」
「貴方、寝てたのよ」
 まだ自分の状況を良く把握していなかったらしいシードに、ミュアが突っ込んだ。
「何で俺が寝てたんだ」
「いやだから、魔法でやられたんじゃないの?」
 シードは何やら思い返す様子を見せたが、再び男へと尋ねる。
「そうなのか?」
「そうですね、魔法と呼んでいただいて良いですよ」
 変わらず曖昧な言い回しで、男は肯定した。シードはいまいち納得していないようで、ただ鼻を鳴らす。
「突然眠くなったんですか? 今の気分は?」
「びかびかっとか光った?」
「覚えてねーよ、んなの」
 興味津々で近寄って聞いてくるニッカとミュアを追い払い、シードは男を正面から睨みつける。
「魔法使い、お前は人を眠らす以外に何が出来るっていうんだ」
 相変わらず、無駄に偉そうな態度で尋ねる彼だったが、対する男は臆する様子も気分を害する様子も見せず、ただ淡々と答えた。
「貴方たちをここから出さないことが出来る……と言ったら?」
 彼は四人へと目を向ける。色彩に欠ける彼の容貌の中で、唯一深い紫の色を持つ彼の瞳は、睨むというより見据える視線で四人を正面から刺す。
「貴方たちは永遠にここでさ迷い続ける。貴方たちは侵入者。後からやってきた者。静寂をかき回した者。だから私はそうする。私の司るものは迷妄」
 部屋の温度が不意に下がった気がして、セピアは身を震わせた。見れば、隣のミュアはまた背中にはっきりと鳥肌を立てている。
「私にはそれが出来る」
 しばらくの沈黙。シードすら、それを破らなかった。ちりちりとした緊張が辺り一面を満たしていた。ゼナンのものとは異なる、でも嫌な気配。
 彼は確かにそれが出来る。
 セピアにははっきりと分かった。
 彼は、違うから。
 再びその言葉がセピアの頭の中で響き渡った。
 けれど、何と違うのか?
「つまり、お前は敵か」
 一行の中で最初に敵意を露にしたのは、やはりシードだった。彼は拳を手のひらに打ちつけて見せ、返答次第では殴りかかる気であるのが明らかであった。
「答えろ。お前は、俺の敵なんだな?」
 ゼナンの時のあの光景がまざまざとセピアの脳裏に蘇る。
 止めなくては。そのために、この森を渡ることを了承したのに。
 しかし、セピアが動く前にその衝突は回避された。
「……冗談ですよ」
 柔らかい笑みを浮かべて、男がシードの問いを受け流したからである。
「私が貴方たちに出来ることも、するつもりもありません」
 シードとは違う意味で、この男もとことん自分のペースを崩さないつもりらしい。彼はふと顎に手を当て、こう洩らす。
「そう……でも、助言はできますか」
 そして、彼は言い放った。
「すぐに壁を越えなさい」
 シードを除く三人は、思わずお互いを見交わす。
 もちろん聞かなくても分かる。そんなことをこの男に話すはずがない。話す理由も意味もない。シードが何の気なしに言ったのか、それともかまをかけられたのか。ともかく引っ掛けだったとしても、その反応が肯定したも同じだった。
 男は唇に小さく笑いを浮かべたまま、分からないことを言う。
「貴方たちの迷いがそちらへ向かっているからですよ」
「迷ってなんかいねーし、そのためにここ通ってるんだろうが」
「穴など必要ないでしょう。ただ越えれば済む話です」
 彼はあくまで穏やかに、しかしはっきりと告げる。
「それは貴方がたが作った、ただの石垣にすぎないのですから」

18-5

「……本当に、何もしてないんだろうな」
 シードはいまだ疑っている様子を隠さなかった。気持ちは分かる。男の得体の知れなさは、会話の後もまったく薄まりはしなかったのだから。
「してませんよ」
 戸口で見送る彼は、少しの躊躇もなくそう返してくる。
「壁はあっちに行けば着くんだな」
「ええ」
 シードの再びの問いにも、あっさりと頷く。その意図はまったく読めない。シードは鼻を鳴らすと、男に背を向けた。
「そうか。じゃあな」
「シード、勝手に行かないでよ……もう」
 相変わらず人を待たずに突き進んでいくシードにため息をつきつつ、ミュアたちも彼の後を追うことにする。またはぐれたら困ってしまうからだ。
 ほとんど話をする隙を与えられなかったニッカは、後ろ髪引かれる思いらしかった。
「貴方に聞きたいことはたくさんあったんですけど。例えば……正体とか」
「正体と言われましても」
 最後の抵抗らしき質問をするが、それもゆるやかに躱されてしまう。
「貴方たちの感じた通りの者としか」
 そこへ、セピアが質問を重ねた。
「……貴方の、名前は?」
 そういえば、聞いていないし名乗ってもいない。そんなまっとうな手続きを思いつく状態じゃなかったせいだ。
「お互い名乗らないでおきましょう。今はその方が良いでしょうから」
「今は?」
 繰り返すセピアに、男は微笑んでみせる。
「貴方たちは、いずれ本当の壁の前にたどり着く」
 そしてまた、あの不可解な言葉を紡ぎ出しはじめた。
「それを越えた後に、またお会いできると思います」
 その意味を問い質したかったが、そろそろ行かなくては、シードの姿を見失ってしまう。そして、たぶん聞いても理解できる答えは返ってきそうになかった。
「では、お元気で」
 男に見送られ、三人は森の奥へと踏み込んでいく。
「あの人、どうやってシードを運んできたんでしょうね」
 小屋の姿が見えなくなった時、ニッカはそう洩らした。
「どう見ても力持ちには見えないし、揺すればすぐに起きるような状態で、引きずったような跡もなし」
「……魔法じゃないの?」
「そう結論づけてしまうと、全て終わってしまいますね」
「考えても仕方のないことって、あると思うの」
「それはそうなんですが……」
「我らが守護手、偉大なるアネキウスは、いついかなる時も我らを見守りたり!」
 突然聖書の一節を口にしたミュアに、考え込んでいたニッカが突っ込む。
「何をいきなり唱えてるんですか」
「そんな気分だった」
「そうですか」
 分からなくもなかったので、ニッカはとりあえず頷くだけに留めておいた。

18-6

 そして男は一人、小屋の前に佇んだままでいた。先ほどまでいた四人の姿は木々の間にまぎれてもはや見えない。不穏な風が木立を下り、彼の長い髪を揺らす。
「……見逃していただきたいのですが」
 彼の呟きは、無人であるはずの場所へと向けられていた。
「見ての通り、何もしませんでしたよ。もっとも、下手なことをすれば危ういのはこちらですけれど」
 己を笑う顔でそう洩らした後、男はその表情を消した。眼差しは変わらず地に落ちていたが、鋭く突き刺すようなものに変わっていた。
「彼らならともかく、貴方一人ならこちらもどうにかしようと考えなくもありません」
 ざわざわと、彼の足元から冷気が立ち昇る。それはやがて白く染まり、男を守るかのように蠢く。
 しばらく、静寂のみが辺りを支配した。
「……行きましたか」
 気配が完全に消えたのを確認し、ようやく男は息をつく。それは深い深い安堵の息で、長い間続いた緊張から解き放たれたためであった。
「何とか、命拾いですか」
 引いてくれて助かった。示威行為はどうも性に合わない。負けるとも思ってはいなかったが。
 自分が逃げたのは、戦いへの恐れからではない。
「……様」
 男はその名を小さく唱え、遥か南へとそのこうべを巡らせた。
 目覚めが来る。
 恐れていたその時、彼女の終わりが。
「私は、貴女の言葉に従います」
 けれど、いまだ分からない。
 共に暮らしすらし、それは確かに楽しい時であったが、彼女が彼らに求めたものが何だったのか、掴めはしなかった。
 人間の王。
 そう呼ぶ彼女を思い出す。
 もう時間がない。いっそ彼女と同じことを試してみるべきなのか?
 結論は簡単に出そうになかった。男は首を横に振り、また小さく呟く。
「貴女の苦しみが早く終わりますように……」
 彼は小屋より離れ、歩き出した。そして珍しく人の訪れに沸いた森は、また迷いの中へとゆっくり沈んでいった。

18-7

 壁がある。
 呆然と立つ四人の前で、壁は確かに反り立っている。
 古く、色あせていて、表面は細かに剥げ落ち、ひびすら入っているところもあったが、しかしそれは圧倒的だった。
 あちらとこちらを分けるもの。
 今までだって一度すら、越えたいだなんて思ったことはない。
 ミュアは知らず知らずのうちに、唾を呑み込んでいた。ただの石垣、造りはそうに違いない。けれどこれは、ほとんどの者にとって、海と同じく世界の終わりを意味するラインなのだ。
「……よし、行くぞ」
 シードにしては珍しく、少しの躊躇をにじませて、その掛け声がなされた。そして壁へと近づこうとする彼を、ミュアは呼び止める。
「シード、行ってはだめ」
「何でだ」
「私たちは、壁は越えない」
 立ち止まり目を剥くシードに対し、残りの三人は立ち止まったまま彼を見返した。
「越えるつもりなんてないの、最初っから」
 こうなっては仕方なく、ミュアはシードに全てをはっきりと告げることにする。
「貴方を越えさせないために、森を抜けるのを私たちは了承したのよ」
「どういうことだ」
「貴方は家に戻って傷を治す。セピアはトーラー公爵家、ひいてはホリーラ王家の協力を得て、聖山まで送り届けてもらう。そういうこと」
 シードに無茶をさせる訳にはいかない。かといって、シードを欠いて聖山まで無事にたどり着ける保障はない。選択肢はさほど多くなかった。シードの反応が分かりきっていたとしても。
「っざけんなよ、てめえっ!」
 たちまち彼は激昂し、胸倉を掴んできた。ミュアは怯まず、正面から睨みつけて言い返す。
「何ができるつもりでいるの、その体で、たった四人きりで!」
「奴をぶっ殺しに行くって言ってるだろうが!」
「その相手にあっさり殺されかけたくせに!」
 掴むシードの拳は力を強め、罵り合いはますます激しくなる。決着が着かない二人の言い争いを止めたのは、シードの腰に後ろから抱きついたセピアだった。
「やめてやめてやめてっ!」
 彼はシードを止めようと、引っ張りながら訴える。
「僕が頼んだんだ。そうしてくれるようにって。皆をあんな危険にさらしたくないから、だから……!」
 前も後ろも殴り倒せない相手に挟まれたせいか、シードは凶悪な顔をしながらもミュアの胸倉から手を離す。
 そして、予想通りながらも、唸るようにこう言い出した。
「じゃあ、お前らそうしろ。俺は行く」
「一人で行って余計どうするのよ!」
 シードが聞く耳など持つはずがない。
「……ミュア、諦めましょう」
 ついにニッカが肩を落としてこう言い出す。
「いくら手負いとはいえ、僕らでシードをここから森の外まで引きずり出すのは不可能です」
 だからどうにか言い含めて、トーラー領まで連れていくつもりだったのだ。こんな森の真ん中で壁を越えようとは思わなかった。あの魔法使いを名乗る男は、実に厄介な展開を導いてくれた。
「行かせるか、一緒に行くかですね」
 そしてまた、ミュアたちには少ない選択肢しか与えられていない様子だった。

18-8

 これみよがしに大きく息を吐いた後、ミュアはシードへと話しかける。
「シード。幾つか確認をさせてほしいんだけど」
 まともな答えが返ってくるとは思っていないが。
「まず、どこへ行けばいいのか分かってるの?」
「城とやらだろ」
「それがどこにあるのか分かってるの?」
「行けば分かるだろ」
 やっぱり話にならなかった。
「何より、リタントに入って、どうやってその羽を隠すつもり? 三足族がこちらへ来るのとは訳が違うわ」
 足りないのはごまかしようがある。しかし、その逆は無理だ。見つかれば化け物扱いは免れないだろう。
 服で隠す程度の答えを予想していたミュアは、まだシードの馬鹿さ加減を甘く見積もっていたことを実感させられることになる。
「それがどうしたよ」
 シードはこう吐き捨てた途端、突然の行動に出たのだ。
 そこには少しのためらいも見られなかった。彼はおもむろに自分の羽を引っ掴み、制止する暇もなく引きちぎった。そして、無造作にそれを辺りの茂みにぽいと放る。
「これで問題はないってことだな」
 得意げに胸を張る少年に、呆然と彼を見やる三人。当然、彼に最初に掛けられた言葉は、賞賛ではなく罵倒であった。
「ば、ば、ば、ば、馬鹿! 馬鹿! 馬鹿っ!」
 頭に血が昇ってしまったらしいミュアは、とにかく同じ言葉をぶつけまくり、対してシードはしれっと言い放つ。
「そのうち生えてくるだろ」
「生え……生えるかもしれないけど、そりゃ」
 そういう問題ではない。
「僕の耳は勘弁してください。たぶん生えないので」
 すかさずニッカは耳を押さえて、シードからの距離を軽やかに取った。
「まあ、でも、この状況では幸いなことに、僕、尻尾ないですから。隠すのは簡単ではありますね」
 頭さえ覆えばどうにかごまかせるということだ。不自然さも低い。
 という流れになると自然、目線はミュアへと集められる。不穏な空気を嗅ぎ取って、ミュアは己の羽を庇うように、背を木の幹へと押しつけた。
「ち、ちぎったりしないからね! 服で隠す、それで大丈夫よ!」
「気をつければ大丈夫だと僕も思いますよ。シードは短慮すぎです」
「お前らがいちいちうるさいからじゃねーか」
 ふと気づけば、すっかり一緒に行くような会話になっている。結局そうなるのか、とミュアはとうとう諦めた。このまま一人で行かせたりしたら、何をやらかすのか気が気じゃなくなるのは明らかだ。
 今度は自分たちがアピアとセピアの立場になるのか。見知らぬ国で、見知らぬ人々の間で、異種族だということがばれないように。
 そう考えた時、彼女はそのことに思い当たって呟く。
「ちょっと……ちょっと待って。じゃあ、あの人は何?」
 耳はなかった。尾はなかった。髪に隠れていただけなのかもしれないが、羽も見当たらなかった。
 他が怪しすぎたためか、ここ最近見慣れすぎたせいか、あまりにも不自然なのにうっかり見過ごしてしまった。
 三足族の魔術師が、ホリーラの森の中で何をしていた?
 その疑念は、突き詰める時間を与えられなかった。ミュアが木に張りついて思いを巡らせている間に、シードたちの会話はろくでもないところへと差し掛かりつつあったからだ。
「だから、越え方なんてどうとでもなるだろうが。穴なんて作りゃいいんだ」
 突如意識へ飛び込んできた言葉にぎょっと顔を上げると、シードはすたすたと壁へ歩み寄っている。止めるのが間に合うはずもない。
 拳の一撃。
 それは確かに、ただの石垣にしかすぎなかった。ただそれだけのことで、がらがらと音を立て、崩れ落ちる。
「ほら見ろ、出来たぞ」
 土煙が収まった後にあったのは、もはや行く手を塞ぐこともない、一部が残骸と化した壁の姿。その向こうにあるのは、初めて目にするリタント、三足族の国。
 けれどそこから見えるのは、見分けがつかないほどに今いる場所とまったく同じ、木々が茂り立つ森の風景だった。