Southward

第一章 人の章

「海へ至る道」

8-1

「己の進む道を良く見るがいい」
 アネキウスは剣持て進む少年にそう告げた。
「それは海へ至る道である。全てを呑み、全てを無に還す処へ通じる道である」
(救世の書 討滅の章 六節二十八)

 受け取った剣は拍子抜けするほど軽かった。
 なるほど手加減用なのだろう。彼が力まかせに扱えばすぐにでも壊れてしまうのが予想できる。
 だが、自分にはちょうど良い。試しに二、三度振るってみて刃のバランスを確かめる。問題なく使えそうだ。
「セピア、よろしくね」
 剣を再び鞘にしまい、アピアは傍に控えていたセピアに明るく声をかけた。しかし、セピアは不満げな表情を崩さない。
「本当にやるの?」
「そんな顔しなくても平気だよ。試合だし、相手はまともなんだから。いつもやってたことじゃないか」
 ちらりと相手方に目をやると、リームはすでに準備を終えている様子だった。自分の剣を持っているので早いのは当然だ。
「まさかわざと負ける訳じゃないよね?」
「もうちょっと前なら喜んで一緒に帰ってもらったんだけどね……」
 セピアの素直な質問に、アピアは苦笑いで答える。本当は諦めてもらうための無茶な条件だったはずなのに、何故か呑まれてしまったのでやらざるを得なくなったのだ。
 この試合が終われば、勝敗に関係なくリームは一行から離れ王都へと帰る。勝敗に関係するのは、それにシードを伴うかどうかだ。
 本当に、もう少し早くこの状況が訪れればよかったのに。
 アピアは、離れた場所でミュアとニッカ相手にぶつくさ文句を言っているらしき当の本人の姿を認め、心の中でため息を吐いた。衛士相手に勝つのは容易ではないことが明らかなのに、努力しなければいけないとは気が重い。
 しつこく勝負を挑んでくる以外は、彼自体にはさほど害がないのは今や分かっている。問題は、彼が王都に戻った際に、無自覚のうちに引き起こすかもしれない事態だ。三足族が侵入しているという話だけでも大騒ぎになりかねないのに、彼の握っている情報はそれだけではない。
 となると、自分たちの安全が確保されるまで、むしろ目の届く場所にいてもらった方が無難なのだ。
「そろそろ宜しいですか?」
 リームが近づいてきて、そう促してくる。物腰は柔らかかったが、こんな試合を挑んでくる以上、何らかの思惑、それもあまり歓迎すべきではない意図があるのは確かだった。
「いつでもどうぞ」
 アピアの返事で、セピアが二人の間に位置を取る。彼は審判役だ。ミュアやニッカはこういう試合を経験していないし、シードにやらせると乱入してきそうなので自然とこうなった。
「二人とも剣を」
 二人はセピアの指示に従って剣を抜き放ち、鞘を地面に置く。
「相手が降参した時、相手の武器を落とした時、相手の動きを封じた時を決着とします。お互い、天に恥じない勝負を心がけるように」
 口上の間にアピアは額に剣身を当て、いつものように小さく祈りの言葉を囁いた。途端、妙な気分が胸を襲う。
 周りに広がるのどかな丘陵の景色のせいだ。
 ここは剣を振るう場所じゃない。
「では、始めてください!」
 しかし一瞬の郷愁は、開始の掛け声に吹き飛ばされた。

8-2

 ついに大森林を出たことが、きっかけとなったことは確かだろう。
 その先にあるのは丘陵地帯だ。視線を遮るものが乏しく、どちらを見ても遥か彼方まで見渡せる広々とした土地は、特にミュアには感銘を与えたようだった。対してトーラーの景色と似ているため、シードはいささかうんざりした顔をしていた。
「お前んとこだって、葡萄畑はこんなもんだったろ」
「でも周りに木は多かったし、後ろは森だったもの」
「何だか落ち着かないことは確かですね」
 同じく森育ちのニッカもさほど表情を変えないながらも、ミュアに同意する。風通しが良すぎるのだ。
「こういうとこの方が、敵を見つけやすんだよ」
「敵ってね……」
 そんなの何処にいるのよ、と突っ込もうとして、トーラーから見えるものに思い当たったミュアは言葉を呑み込む。しかし、リームがその先を引き受けてしまった。
「トーラー公爵領は、本来は壁の監視のための土地ですからね。アネキウスのお力で守られているといっても、油断は禁物ですよ」
 知らないからこその悪意のない見解ではあるが、聞いている方としては冷や冷やしてしまう。アピアとセピアは聞こえない様子をしているも、まず振りだろう。輪を掛けるかのごとくリームはその二人へ話しかけてしまう。
「そういえば、お二人はどちらの出身ですか?」
 問われたアピアは自然と表情を硬くし、用意してある答えを返した。
「川沿いの小さな村です」
 会話の流れからすればさほど不自然なものではないのかもしれないし、リームの態度はあくまでにこやかなものであるが、アピアとしてはどうしてもそこに何らかの含みを感じてしまう。最近、彼からの視線を頻繁に感じるのもそれに拍車を掛けている。怪しまれていると考えて間違いはない。
「北森川ですか? 私は北方山脈の東側なので近いかもしれませんね。名前を聞けば分かるかもしれませんよ」
「いえ、たぶんご存知ないかと。ナレイ村と言うのですけど」
 名前は出鱈目である。実在する村や町の名前を使い、調べられた時の方が厄介だと考えたからだ。不出来子は目立つ。大きな町でない限りごまかすのは難しく、北方で大きな町といえばリーラスやタイナーなので、リーム相手に騙るのは難しい。
「聞いたことないですね、残念です。どちらの領なんですか?」
 さらに突っ込んでくるリームに、アピアの警戒心はますます強まった。一通り設定はミュアやニッカに相談して作ってあるものの、食い下がられるとぼろを出しかねない。
 その窮地を救ってくれたのは、ミュアだった。
「あの……何かシード走ってってますけど」
 遠慮がちに掛けられたその声で、リームは本来の監視相手のことを思い出す。ミュアの指差す方向を見ると、彼は何故か来た方向に駆け戻っていた。
「あ、こら、どこ行くんだ!」
 慌てて追いかけるリームの背を、アピアとミュアは見送る。
「ミュア、ありがとう」
「礼はシードに言ってあげて、と言いたいところだけど、分かってやってないわよね、あれ……」
 一目散に駆けるシードの姿には、そんな心遣いなど微塵も感じられない。助ける理由もないし、気を引くものでも見つけただけだろう。
 ぼんやりと追いかけっこの様子を眺めながら、アピアは考える。
 今はごまかせた。けれど、このままでは遠くないうちに真相を悟られるだろう。
 たぶん、そろそろ潮時なのだ。

8-3

「何か変なのがこっち見てたんだよ」
 案の定、シードの理由説明は適当である。
「変なのって、人間ですか? 動物ですか?」
「知らね。目の高さは俺より高かったな」
「そんな大きな動物がいたら、僕らも気づきますよ。人間ですかね」
 丘の上に生える木の後ろに人影を見つけた、という状況を確認するだけでこれだけのやり取りが必要であり、その後すぐに見失ったということを知るのにはもう少し時間が必要だった。結局正体は分からずじまいらしい。
「見間違いじゃないの?」
「通りがかった人が追いかけられて慌てて逃げたとか」
 丘の反対側の斜面へ下りれば視界から隠れてしまう地形だから、シードとは関係なく姿を消した可能性だって低くない。ミュアとニッカが不毛な推測をしているうちに、シードはさっさと夕食をかき込んで立ち上がる。
「じゃ、俺、散歩してくるわ」
 そしてそう告げると、リームが止める間もなく野営地を離れていってしまった。いつもの事なので皆気にしないが、唯一アピアのみが眉をひそめる。
「確かに好きな時に受けるって言った。でも、毎日毎日は止めてほしいんだけど」
「うるせー」
 しばらくの後に彼を追ったアピアの抗議は一蹴された。シードはあの日以来、雨でも降らない限りはしつこく勝負を挑んでくるのである。ミュアやリームがうるさいので睨みなどで知らせてくるのがこの上なく鬱陶しい。
「いつまで続けるつもり?」
「お前をぶっ殺すまでだ」
「はいはい」
 墓穴を掘ったのは自分なので、仕方なくアピアは構えを取る。そこへ打ち込まれたシードの拳を横合いから弾いて躱し、その勢いのままに膝を彼の腿に叩き込んで、また間合いを取った。相変わらずシードは雑な動きをする。
「あのさ、まず家庭教師の人にちゃんと教えてもらってからの方がいいんじゃない? 教えてくれるんでしょ、もちろん」
 矛先があちらに向かないかと期待しつつ、アピアはそう忠告した。今までだって教えてもらう機会はいくらでもあっただろうに、何をしていたのだろうか。
「手加減の仕方なんて教えてもらいたくないね」
 その忠告に対して、シードは鼻を鳴らす。
「やってられるかよ」
 言い振りからすると、まず力を制御することを教師たちは教えようとしたらしい。アピアの目からも、それは非常にまっとうなやり方に思える。シードは自らの力に振り回されすぎだ。
「馬鹿力だけで通用すると思ってる訳?」
「じゃああんなお遊び剣術が通用するのか?」
「君はそれ以前の問題だと思うけど。大体お遊びって、実戦なんてする機会は……」
「だから魔物退治するんだよ。お前分かってないな」
 分かってないのはどっちだ。
 怒鳴りつけてやりたい気持ちを、アピアは無理やり押さえつけた。そのせいで腹立ちは一層強くなる。近頃見直すところもあったとはいえ、こういう部分はやはり気に障って仕方がない。
 ならば、いつものようにそのお遊びで叩きのめしてやろう。
 アピアはシードから間合いをとって構え直し、突きでは届きにくく、少し踏み込めば蹴りが届く距離を保ちながらちくちく攻める。お互い体型は似たようなものなので、シードにとっても条件は同じだった。当然彼も蹴ってこようとする。それがアピアの狙いどころだ。
 蹴りを繰り出した瞬間、シードは軸足を弾かれて地面に転がされていた。訓練が甘いシードの蹴りは隙が大きくバランスも崩しやすい。付け入るのは簡単だ。
「今回も僕の勝ちだね」
 そこまでする必要はなかったが、さっきの腹いせを兼ねて、倒れたシードの胸の上を踏みつけてやる。
「いい加減に諦めたら?」
「どっちがだ?」
 しかし、勧告に返ってきたのは不敵な言葉だった。アピアがその意味を悟ったのは、足首に強い力が食い込んだのと同時だった。一瞬にしてアピアは青ざめる。
 掴まれた。
 組み敷かれた時点で、自分の負けは確定すると分かっていたはずなのに、油断した。慌てて振り払おうとするが、もう間に合わない。
「だからお遊びだって言ってんだよ!」
 シードの威勢の良い掛け声と共に、引きずり倒されることをアピアは覚悟する。実際、そこに制止がなされなかったらそうなっていただろう。
「……お前ら、何してるんだ!」
 振り向くと、すぐ傍にリームが険しい表情で立っていた。

8-4

 この丘陵地帯は起伏が激しいとはいえ、遮蔽物の密度は大森林とは比べ物にならない。今までのように少し離れれば探してもなかなか見つからないような状況ではないのだ。
 その後、二人は野営地まで連れてこられてお説教を受ける。
 アピアとしてはいい迷惑のような、助かったような微妙な気持ちだし、シードはせっかく勝てそうなところを邪魔されて盛大にむくれていた。見守る方も、セピアなどは心配顔だが、ミュアやニッカは気の毒な感じと何かを期待している感じを醸し出して待機中だ。
「どっちから手を出したんだ」
「俺」
 ごまかす気持ちがないのか、悪いと思っていないのか、シードはこういう場面では潔い。
「原因は?」
「それはこいつが……」
「訓練です」
 シードの言葉を無理やり遮って、アピアはそう言い継ぐ。不自然だろうが何だろうが、ここで知られる訳にはいかない。
「頼まれたんです、教えてくれって」
 ついでにシードに責任をなすりつけてみた。もくろみは上手くいって、リームはシードへと追求を強める。
「お前な……そういうことは、まず俺に言うべきだと思わないのか?」
「あんなおもちゃみたいな剣振るってられっか」
 すると案の定シードは言わなくていい発言をしてしまうので、話は際限なく逸れていく。
「あれは本物だぞ」
「全然合ってないだろ。すぐ壊れるし」
「それは扱いが悪いからだ。大体、合う合わないの前に覚えることはいくらでもある」
「いんちき試合のやり方覚えたからって何になるんだよ。それ以前に出れねーし」
「お前がむちゃくちゃやったから、出入り禁止にされたんだろうが」
「あんな腰抜け共、こっちから願い下げだ」
 シードのやらかしたことが、会話の端々から窺えるのが興味深い。このままうやむやになりそうだと、安心して言い争いの見物側に回っていたアピアだったが、不意にシードが発した言葉によって再びそこに引きずり戻される羽目になる。
 それはこの一言だった。
「つーか、リーム先生よりこいつの方が強そうだからいいや」
 シードの怖いところは、これを仕返しという訳でなく自然体で言い放つところですね、と後にニッカが評したものだ。
「なるほど」
 そして、衛士がそんなことを言われて黙って引き下がるはずがないのだ。剣呑な光を帯びた視線を向けられ、アピアは嫌な予感を覚えずにはいられない。
「先ほどのやり取り、途中からですが拝見させていただきました。シード様の言うことも尤もかもしれませんね」
「いえ、そんなこと……」
「どうでしょう。一度お手合わせいただけませんか?」
 申し出は丁重に、けれど断るのをためらわせる気迫を込めて行われた。ここで呑まれて受けてしまえば泥沼だ。同じく丁重に、アピアは断りを入れる。
「いくらなんでも、衛士の方に敵うとは思っていません。試すまでもないことです」
「おい、逃げるな」
 シードがいらぬ茶々を挟んでくるのが腹立たしい。
「そう言わずに是非お願いします」
 リームも退く様子はない。シードとやり合っているところを見られた以上、武芸は苦手とか人前でやる自信がないなどの言い訳も効かないし、困ってしまう。
 そこでアピアはこう切り出すことにした。
「ならば、一つ条件を出せさていただきます。勝とうが負けようが、貴方が王都へ帰るならば、その試合受けても構いません」
 相手方から退かせるための申し立てだった。公爵から命令を受けてシードを連れ戻しにきているだろう彼にとって、この条件は呑めないはずである。余計怪しまれるだろうが、もう知ったことかという気分だ。どちらにしろ、断り続けようが怪しまれるのだ。
 しかし、アピアの思惑は外れる。リームは答える前にこう話を振ったからだ。
「シード様、先ほどのお言葉は私が弱いから任せられないということでしたね」
 確かにリームからすればそういう意味にしかとれない。
「私が勝った時には、一緒に王都へ戻ってもらいましょうか」
「勝ったらな」
 シードもまたあっさりと承諾するのだ。迷いとか葛藤といった感情はないのだろうか。そして、その約束を取り付けたリームが断るはずもない。
「では、その条件でお受けいたします。本日はもう暗いので、明朝、出発前に。宜しいですね?」
 こうして、アピアは不本意な試合を受けるしかなくなったのである。

8-5

 相手が力量を判断できないうちに畳み掛けるか、相手の出方や癖などを見てから仕掛けるかは性格であるが、アピアは基本的に後者寄りだ。リームも同じようで、開始の合図の後に両者はしばらく睨み合う。さっさとやれー、とかシードが野次を飛ばしてくるが無視する。
 先に動いたのはリームだ。
 上段より正面へと振り下ろすその剣筋には、当てる気は感じられない。飽くまで相手の出方を見るためだけの初撃だ。アピアはわざと同じように振り下ろして刃を打ち合わせてみた。予想通り重い感触が握り手を震わせたので、競り合いには持ち込まずに後ろへと下がる。シードのような常識外の力よりも、こういったまっとうに鍛えられた力の方が怖い。成人男性に力で対抗しようとしても押し負けるだけだ。
 リームが提案した長剣での試合を呑んだのは、妥当だと考えたからだ。剣術ならば型は大体決まっているし、勝敗も明確に判定しやすい。そういったところがシードの嫌いな部分なのだろうが、体格も筋力もまったく違う衛士相手に殴り合いを挑むほどアピアは無謀ではなかった。
 結局のところ、アピアに勝機があるのは相手の構えを崩し、不意を突くやり方だけだ。それはリームも承知の上で、だからこそ攻め方が難しい。試しに低い体勢から足元を狙って打ち込むが、簡単に捌かれる。
「おー、激しくなってきたね。すごいすごい」
 一方、見物組は呑気なもので、離れた場所に腰掛けてその様子を眺めていた。
「あれって型通りだろ。何が面白いんだか分かんねーよ」
「そうなの? そんな感じには見えないけどな」
「たぶん動きがきちんとしているからですよ。僕らのような素人目にも、つなげ方が綺麗でしょう?」
「なるほどね。シードとは違うんだ」
「違うんですね」
「お前らな」
 さりげなく腐されたシードは憤慨の意を示して鼻から息を吐き、反撃する。
「あんなの、お前らみたいに脇で見て騒ぐためだけにやるもんだ。相手の剣を叩き折っただけで終わりだぞ」
「折れるの、あれ……?」
「おう、折れる折れる。ちょっと力入れただけで曲がるしな」
 鉄はその頑丈さと採れる場所が限られている故に高価であり、それで作られた剣がそんなにやわなはずもない。シードのちょっとは推して知るべしといったところかとミュアは思う。
 そうしている間にもリームとアピアの攻防は続いていた。安定して繰り出されるリームの斬撃を、アピアが躱しながらたまに打ち込むような局面がずっと続いている。
「ところで、アピアが押され気味のように見えますけど、勝てるんですよね?」
「勝てるだろ」
「いくらアピアが強いって言っても、やっぱり衛士相手じゃ無理なんじゃないの?」
「あいつさ、間合いの取り方が気持ち悪いぐらいうまいんだよ。当たると思っても当たらねーし、当たらないと思ってたら当たるし」
 そんなものなのかと感心して聞くミュアだったが、次にシードが洩らした感想に仰天する。
「それにしてもリーム先生も結構強いんだな」
「……ちょっと待って。すっごく他人事みたいに聞こえるんだけど」
「俺、ほとんどリーム先生と打ち合ったことないしな。あー、一回もないか? いや、あれ入れれば一回か。あるある」
 何やら思い返しているらしく、シードは一人でぶつぶつ言っていたが、問題はそこではない。
「つまり、あの台詞は単なる思いつきの産物で、ほとんど根拠はないってことですね」
 ニッカがそう断定した時、セピアの短い悲鳴が三人のところまで届く。
 見れば、両手を提げて立つアピアの喉元に、鈍く光る切っ先が突きつけられていた。

8-6

 別にそれでもいいか、と思ったはずだった。
 負けるのは当然だし、負けても自分に不利益はない。シードが絶対に王都で自分のことを洩らすとも限らないのだし。
 こんな体勢になった以上、剣を落として、降参、と言うしかない。これはシードの言う通りにただのお遊びだ。
 だから、どうして体が動いたのか分からない。
 アピアは後ろに僅かに背を逸らし、顎を上げる。突きつけられた切っ先がそれに反応して少しだけ揺れるが、勝ちをほぼ確信していたためだろうか、リームはそれ以上攻めてはこなかった。
 瞬間、鋭い金属音が辺りに響き渡った。不意に右手に伝わってきた衝撃と目の前に散った赤い色彩にリームは思わず驚き怯んでしまう。間を空けず、彼の右手の指に痛みが走る。痺れを覚える暇もないまま、二撃目が同じ場所へと加えられた。握る力が緩んだのは仕方のないことだろう。三撃目に至ってようやく、彼は自分を殴りつけているものが何かを知る。
 剣の柄頭だ。振り上げられたそれは、ほとんど同じ場所にまた当てられた。そして、緩んでいた握り手から滑り落ちた剣は、地面に当たってゴトンという音を立てる。
 それからしばらく誰も動かず、場は沈黙が支配した。やがて、おずおずとセピアが判定を言い渡す。
「あの……アピアの、勝ち?」
「ああ、降参だ」
 リームは認め、落ちた剣には目もくれずに立ち尽くすアピアに近づく。彼の首から胸元に掛けて、赤い筋が伝っていた。
「傷を見せてくれ」
 そう促し顎を上げさせると、首の半ばから顎の裏に掛けて引っかくように切れているのが分かる。傷は浅く大したことはないが、場所が場所だけにもう少し深ければどうなっていたか分からない。
 何でこんな危ない真似を、とリームは複雑な心持になる。
 アピアは突きつけられた剣を下からの不意打ちで跳ね逸らしたのだ。そんなやり方で当てられた剣先を完全に避けきれる訳がなく、これで済んだのは幸運でしかない。実際、顎先の方は軽くではあるが肉までえぐられている。
「大丈夫?」
 リームは慌てて駆け寄ってきたミュアから手当て用の布を受け取り、シードにも声を掛けた。
「おい、シード。お前どうせ酒持ってるだろう。出せ」
 渋々差し出された水筒で布を浸すと、傷口を洗う。さすがに沁みるようでアピアは顔を歪めたが、自業自得と分かっているらしく声などは上げなかった。
「しばらく押さえておけば止まる」
 固定するのが難しい部位なので自分で布を押さえさせ、止血をさせる。
「ありがとうございます」
「どうして続けた」
 礼を言うアピアに、リームはそう問い質した。
「……分かりません。体が自然に動いたんです」
「最悪、死んでたんだぞ」
「すみません」
 素直に謝られると、リームにはそれ以上諭せる言葉がない。確かめたいことがあったとはいえ、大人気ない勝負を吹っかけたあげく、怪我を負わせてしまったのは自分の方だ。故に、リームもまた頭を下げる。
「こちらこそ、申し訳なかった。最初の取り決め通り、俺は都へと戻ろう。……シード、ちょっと来い。話がある」
 シードの襟首を掴んで少し離れた場所へ行くリームを見送り、ミュアは腕を組んで唸った。
「うーん、やっぱりリームさん戻っちゃうのか。せめてサレッタまでついてきてほしかった気もするけど」
「アピアたちのことを考えると、仕方なしですよ」
「ま、そだね。シードも帰らない訳だし、良しとするか」
「あれ、シードがいない方が厄介事が減って良いんじゃないですか?」
「それは正しいんだけど、ここまで一緒に来た訳だからこの顔ぶれにも愛着ってものがねー」
 問題点は多すぎるが、それなりにうまくやっていけている感じじゃないだろうか、とミュアは思う。少なくともミュアは皆が好きだし、別れるとなったら寂しいだろう。
「アピア、大丈夫? 血、止まった?」
 まだ濡れた布を押さえているアピアに声を掛け、ミュアはどことなく違和感を覚える。何かが足りない。それがこういう時真っ先にまとわりつくはずの彼の弟だと気づき、辺りを見回すと近くにその姿はある。
 しかしセピアは何故か硬い表情をして、アピアを見つめているだけだった。

8-7

 結局色々と手間取っていたら、リームと別れた時には昼を回る頃に近くなっていた。今から道を進むか、このままもう一日ここで過ごすかを迷った後、作ったかまどをまだ片付けていなかったことが決め手となり、滞留することになる。
「アピアとシード見なかった?」
 ミュアに尋ねられ、木にもたれかかって何やら書きつけていたニッカは顔を上げる。
「見てませんが、どうしたんです?」
「リームさんにね、これから今いる場所だけでも報告してほしいって、お金押し付けられちゃって。しょうがないからやるのはいいとして、少なくとも二人には許可もらっておかないと。ニッカは構わないでしょう?」
「何の問題も」
「どっちかに嫌だって言われたら、お金はシードに渡せばいいよね」
「鳥文代ですか」
「それより多いと思うんだけど……」
「やらない時でももらっておいて良いような気がしますけどね。あちらもそれは折り込み済みでしょう」
「そうはいかないわよ」
 腰に手を当てて憤慨したポーズを作り、ミュアは周囲に首を廻らせる。どこかの丘の陰にいるのか茂みの裏にいるのか、やはり二人共姿は見当たらなかった。
「懲りずに喧嘩してるんじゃないでしょうね。ちょっと上から見てみるわ」
 ミュアは一言断ってから、羽を開いた。飛ぶのは結構得意だが、用心のために幹沿いに進んで木の上に顔を出す。拡がった視界の中に動く影を見つけ、彼女はそれを注視した。
「違うか」
 その人々は結構遠くて容姿がはっきりとしないうえに、三人組だったので無関係な人だと判断して、別の場所を探す。すると、一つ向こうの丘にある藪の向こうにアピアらしき姿が横切っていったような気がした。ミュアは急いで地面に下りて、ニッカに追う旨を告げる。
「お気をつけて」
 ひらひらと振られるニッカの手に見送られ、彼女は急ぎ足で見た場所へと進んだ。聞くのは夜などでも良かったのだけれど、やる事も特にないし、さっきがさっきなのでシードとの喧嘩を始めるようだったらさすがに止めておいた方がいいだろう。
「いらねーから、お前がもう持っとけよ」
 はたして藪に近づくと、シードの声が聞こえる。用事は一度で済みそうだとミュアは二人に声を掛けようとしたが、ちょうどそのタイミングで発せられたアピアの刺々しい返答に思わず言葉を呑み込んでしまう。
「まだ遊びだと言いたいのか」
 彼女はとりあえず頭を沈めて、茂る葉の隙間から様子を窺うことにした。下手な頃合に顔を出すと場を煽りかねない。まあ、ちょっとした覗き根性があったことも否めないが。
 どうやらシードがこの藪を背にしていて、アピアがそれに対峙しているようだ。長剣を手に、こちらを睨んでいるアピアの姿が見える。血はもう止まったようだが、首元から顎にかけてまだ皮膚が腫れたように赤く染まっていた。不穏な空気を増しているのは、変に目が座っているためだろうか。何が原因か、ひどく不機嫌な様子だ。
「余裕だな、シード=シンス=トーラー」
「わざわざ全部呼ぶなよ」
「君は何も自覚してない」
 吐き捨てるようにして、アピアは言葉を重ねていく。
「こんなところで何をしている? 君は一緒に帰るべきだった。君にはいるべき場所がある。果たすべき責任がある」
「……お前、何が言いたいのか良く分からん」
 ミュアは身も蓋もないシードの突っ込みに脱力しながらも、アピアもシードにそんなことを言っても無駄だろうに、と思わずにはいられない。それにアピアからこんな風に突っかかることがあるなんて意外でもあった。シードが喧嘩を売るので、アピアは渋々受けているだけだと思っていたのだ。そして、アピアが続けた言葉に、ミュアはぎょっとする。
「こうしている間にも、トーラー領は壁の向こうから攻められているかもしれない」
 それはシードも同様だったようで、ミュアからは表情は見えないものの、返答には戸惑いが含まれていた。
「何だそりゃ。吹っかけるならもうちょっと現実味のあることで……」
「今まで起こらなかったことは絶対にこれからも起こらないとでも思ってるのか。僕がここにいるのに。三足族は壁を越えられる。それは君が一番良く分かっていることじゃないのか、シード=シンス=トーラー!」
「てめえ……!」
 畳み掛けるように挑発されてシードが平静でいられるはずもなく、彼はアピアの胸倉を掴み上げる。ミュアは慌てて出て止めようと思ったが、黙って聞いていたという負い目があって少し躊躇した。しかもその時、突然反対側の藪からばらばらと人影が三つ飛び出してくる。
「アピア……さん、ですね?」
 彼らは中年から青年といった頃合いの男性で、その頭に獣の耳はない。どこかで見たような気がするな、とミュアは考え、それがさっき木の上から見つけた三人組であると思い当たる。印象に残っていたのは、一様にマントを羽織っていたからだ。
「弟さんと一緒に来てもらいましょうか」
 彼らはアピアに向けて、そう言い放った。

8-8

 そんな状況になってますます出て行きにくくなったミュアは、再び藪の裏で体を縮めて一旦様子を窺い直すことにする。うまい具合に誰も気づいていないようで、三人組とシードとアピアはそれぞれに睨みあっている。
「何だ?」
 予想外の展開に緩んだシードの手を振り払い、アピアは彼らに答える。
「ずいぶん遅い登場だね」
 声に含まれる棘はさっきよりその鋭さを増していて、どう見ても歓迎していない様子だ。それも当たり前で、壁すら越えてきたアピアたちは普通に考えれば何かから逃げてきたのだ。その何かがあの三人組なのだろうか。
「大人しく来れば悪いようにはしない、と申しつかっています」
 先ほどから話しかけてきているのは、リーダーらしき一番年長の男だ。皺が目立ちはじめているその容貌は、穏やかな性格にも見える。脇に控えている残りの二人が凄みをきかせているのを除けば、特に悪い人物には見えない。
「悪いようにはしない、か。そりゃそうだ、奴らの良いようにされるだけだものね」
 しかし、皮肉たっぷりのアピアの態度からしても、彼の敵に間違いはないようだ。三人組の要求など呑む気はさらさらないのが分かる。相手もそれは承知のようで、力ずくを示唆するように脇の二人がじりじりと外に開いて包囲網を形成しようとしていた。アピアはミュアのいる藪を背にしてそれを迎え討つために構えを取る。このまま隠れているのも結構やばいかもしれないが、とても出ていけない雰囲気だ。そんな風に悩むミュアの頭上から、素っ頓狂な声が降ってきたのはその時だった。
「ひょっとして、こいつら三足族か!?」
 シード、気づくのが遅すぎる、とミュアは心の中で突っ込む。そして彼が気づいた以上、一層ややこしい展開になるのは保証されたようなものだ。案の定、シードはいきなり張り切りだした。
「おい、お前ら、人ん国に勝手に入ってくるんじゃねーよ」
 指差して糾弾するも、相手は不審顔だ。
「どなたですか、この人は」
「関係ない人」
 アピアの返答も大変素っ気ない。
「関係ないのなら、ちょっと向こう行っててもらいましょうか」
 リーダーの指示で、部下二人の標的はシードに一時変更されたようだった。シードはもちろん戦う気満々で、三対二なら何とかなりそうだから大丈夫かな、とミュアは安心した。自分が見つかって人質になるとかいう、物語めいた状況だけは避けたい。
「さっさとかかって来いよ!」
 むしろ浮き浮きとした声音で、シードがそう挑発した時だった。
 突然、藪を何かが突き破り、ミュアの足元に転がった。
「きゃっ!」
 反射的に彼女は悲鳴を上げてしまう。急いで口を塞いだのに、続けて大きな悲鳴が辺りに響いた。見つかったと覚悟してミュアは立ち上がり、そこで後に聞こえた悲鳴が自分のものではないと悟った。
 銀色のきらめきが横切るのに遅れて、赤い色が目の前に跳ね上がる。呻きが上がる。再び銀色の帯が宙を渡り、鈍い衝撃音が鳴り渡る。
 認識は遅れてやってきた。鉄の匂い。肩を、脇腹を抑えて唸っている二人。足元に落ちている鞘。
 アピアが剣を小さく振るい、その刀身についた血を払っていた。彼の頬や衣服には返り血で鮮やかな模様がところどころに作られている。
「僕らは君たちに従うつもりはない」
 シードへと二人の注意が逸れた瞬間、アピアは鞘を抜き捨てて、横合いから男たちに斬りかかっていったのである。
「さっさと消えろ。それでは力ずくという訳にもいかないだろう?」
 控えていた中年の男は無傷だし、二人も致命傷ではないが、既に臨戦態勢の相手にここから巻き返しを図るのは確かに難しいだろう。中年の男も特に腕に覚えがある訳でもないらしく、明らかに怯んでいる。
「も、戻りましょう!」
 踵を返した彼の号令で、傷を負った二人も呻きながらも藪の向こうへと消えていく。アピアは彼らを追おうとはしなかった。滴る血の跡が道を作っている。
「お前、何してんだよ!」
 男たちの姿が消えた後、シードが我に返ったように不意にそう問い詰めた。
「何って、見ていれば分かるだろう」
「あれは俺の相手だろうが! それに横から斬りつけるってのは……」
「遊びはくだらないんじゃなかったのか?」
 シードの無駄な勢いを、アピアは冷たい声音でねじ伏せる。彼はまだ刃にこびりついている血を裾で拭い、呟いた。
「多勢を相手にして、君のような力がない人間は何に頼ればいい? 剣は便利だ、あいつらを追い払うには」
 その声は、シードに聞かせるにしては小さいものだった。
「遊びなんて、もうとうに終わってる」